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江戸の庶民の思いやり ~ 磯田道史『無私の日本人』から

2024年07月14日 | 日本
無私の志が江戸時代の庶民の間に深く根付いていた。

(心洗われる登場人物たちの無私の志)
「江戸時代のわが国には、こんなにたくさんの無私の人々がいたのか」と、『殿、利息でござる!』という映画を飛行機の中で見て思った。題名からコメディタッチの時代劇かと思って見始めたら、とんでもない。

明和3(1766)年の仙台藩領内の宿場町・吉岡宿は藩から「伝馬役」、すなわち宿場間の物資の運搬作業を課されて困窮し、夜逃げが相次ぐ状況だった。吉岡宿は藩の直轄領ではなかったために、他の宿場のように「伝馬役」の助成金が支給されていなかったからだ。

この窮状から宿場を救おうと、吉岡宿の有力者たちは金を出し合ってなんとか大金を作り、それを藩に貸した利息で伝馬役に使おうという奇想天外な企てを始める。登場人物たちの宿場を救おうという無私の志に、心を洗われる思いがした。これが観客動員100万人を超えるヒット作となった理由だろう。

まだ観ていない人は、インターネットTVなどでぜひ観ていただきたい。あるいは、原作を読んでいただきたい。本稿では、その呼び水として、導入部だけをご紹介する。我が先人たちの持っていた清冽な無私の心に触れていただきたいからである。
 
(「このままでは吉岡は滅ぶ。なんとかできぬか」)
吉岡宿の造り酒屋・穀田屋(こくだや)十三郎は「このままでは吉岡は滅ぶ。なんとかできぬか」と思っていた。そこに一人の男の名が浮かんだ。菅原屋(すがわらや)篤平治(とくへいじ)、吉岡宿きっての知恵者と言われている男である。茶師として、北国なのに宇治にも劣らぬ銘茶を作り出し、さらには京の九条関白家に献上して、権威づけをしようとまで考えている。

十三郎は篤平治に「茶を飲みに来い」と誘われたのを機会に、それとなく吉岡宿の廃(すた)れようを嘆き、「貴殿はいかにして、こうなったと思われるか」と問い掛けた。用心深い篤平治は「なるほど、私もそのように思うが、そういうからには、まずは穀田屋さんのお考えから聞かせていただけまいか」と逆に水を向けてきた。

お上の御政道に関わることを、自分から不用意に喋り、後で密告などされては困ると思ったようだ。ならばこちらから踏み込むしかない、と十三郎は思いきって話し始めた。

(「貴殿にたずねられて、わしも覚悟をきめた」)
話し始めると、吉岡宿の衰退の原因が伝馬役にあることは明らかであった。「では、どうすれば、よかろう」と十三郎が尋ねると、篤平治は言い切った。
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それについては、私は、心中に、身分不相応の大願がござる。それをやれば、この宿は救われる。しかし、何をいっても、それには先立つものがいる。つまりは金銭じゃ。それで力およばず、心中黙止しているところじゃ。
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十三郎は身を乗り出して「いくら、あれば、この宿を救えるのじゃ」と聞くと、「千四、五百両」と篤平治は、ぽつりといった。

この千四、五百両をお上に貸して、相場の利息1割をいただく。これを宿場の伝馬役を務める家ごとに配分すれば永久に宿場の御用もつとめることができる。

__________
思いきって、いまこれをやっておかねば、この末、どうにもお上の役に耐えられないものがでて、家業がつぶれてしまう。これ以上宿場の戸数が減ってしまえば、残ったものは課役の地獄に突き落とされるのは、目にみえておる・・・

正直にいうが、この心願は、一朝一夕のことではない。ずっとまえから、頭にはあったのだけれども、だいそれたことではあり、いま話したとおり、なにぶん、金の先立つことゆえ、とても自分の力では及びがたい、と、悔しい思いをしながら、今日まで、いたずらに年月をすごしてきたというてよい。

しかし、・・・貴殿にたずねられて、わしも覚悟をきめた。吉岡宿を救うというこの手立て、一生涯のうちに成りかねれば、生を変えてでも、この心願を成就させたいと思う。
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十三郎は普段穏やかな篤平治が、鬼気迫る形相で語るのを見て、全身が総毛だった。

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「まさに、そうじゃ! 菅原屋さん。あなたに、それほどの心願があったとは驚き入りました。・・・しからば、あなたと私。二人の願いが一致しているうえは、たがいに心をはげましあいませぬか。
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こうして二人は力を合わせて、この策で吉岡宿を救おうと決心した。

(大肝煎の涙)
二人が楽しみしていた銭湯に行くのもやめて朝晩、水垢離(まずごり)をとり、その間には飲食も断って何事かを祈願していると、「何を願っているのか」と宿場中の人間が不審に思い始めた。

「企てが脇から漏れてはまずい。いっそのこと千坂さまに相談した方がよかろう」と篤平治が言い出した。千坂様とは吉岡宿のある黒川郡の大肝煎(おおきもいり)、他藩でいうところの大庄屋で、百姓の中から選ばれる村役人としては最高の役職であった。千坂家は代々、大肝煎を世襲し、現在は千坂仲内(ちゅうない)という30歳ほどの青年が当主だった。

当地では「千坂家の薬買い」という言い伝えが残っていた。千坂の父は若いころ、酒を浴びるように呑んでいたが、母親から「貧乏人には酒も買えないものがいる。お前は酒ばかり呑んで」と叱られると、ぱったりと酒をやめて、貧乏人に薬を配り始めた。葬式代が出せない者には葬式を出し、金がなくて結婚できないものにも、金をだした。

ついには日照りに苦しむ村のために、私財をはたいて用水を掘り、それがもとで千坂家が貧乏になって、大肝煎の役を解かれそうになった。ところが、今度は村人たちが「千坂さまが大肝煎でなくなっては困る」と金を出し合い、千坂家の借財を整理した。いまは、その子の時代になっているが、地元では篤い尊敬を受けている。

そんな千坂家だからこそ、二人は「話してみようか」という気になったのである。二人は人目を避けて、ある夜、千坂家を訪れ、吉岡宿救済の企てを打ち明けた。

しかし、大事を打ち明けられた千坂仲内は一言も発しない。「しまった」と二人が一瞬思ったとき、見れば仲内の両眼から涙がこぼれている。

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この時節、わたしのところに、こっそりと頼みごとにくる人は多いのです。しかし、それは、みんな、自分の利益のためにやってくる人たちばかりでした。大金をお上に差し上げたい、という人は、たいてい、そのかわり武士に取り立ててもらいたい。知行や扶持方をもらって、身分を取り立ててもらいたい、というのです。

あなたがたも、お上に大金を上納するというから、わたしは、てっきりそんな話かと思ったのですが、きいてみれば、その志は雲泥万里の違いだ。吉岡町内で暮らしがたちゆかぬ者たちを、どうにかしたい。ずっと、そのお気持ちをあたためておられ、思いあまって、今日、ここにおいでになったのですな。お二人のおこころざし、この千坂仲内、よくわかりわかりました。

こんな善事がほかにありましょうや。そこで、お願いがあります。ぜひ、今夜から、わたしもこの企ての同志の人数に加えていただけますまいか。
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こうして吉岡宿を救う企ての同志は三人になった。

(「実は、おまえさまに、ずっと黙っておったことがござる」)
十三郎は養子で、実家は浅野屋という吉岡宿でも一番の商家であった。この実家が企てに加わってくれると、金策も一気に進む。しかし、今まで浅野屋に話さなかったのは、事情があった。まず現在の浅野屋を継いでいるのは弟の陣内で、幼い頃に長男であるにも関わらず、養子に出された身としては頼みにくかった。

しかし、実父の命日に菅原屋篤平治とともに、実家に乗り込んで、吉岡宿を救うための企てを打ち明け、助力を頼むことにした。「このたび、拙者は、、、」と懸命に語り始めたが、話せば話すほど、実家の家族は、黙り込んでいく。最後に「浅野屋様からも、相応のお金をいただきたいのですが・・・」と言うと、沈黙が続いた。

沈黙を破って声が聞こえた。「ほんに、こんなことになるとは。十三郎兄さまは、父親に、そっくりじゃのう」 弟の甚内だった。

__________
十三郎殿。実は、おまえさまに、ずっと黙っておったことがござる。兄上は、穀田屋の高平へ養子にやられてしまったから、これは浅野屋の大事として洩らさなかったことじゃ。もう、秘しておく必要もなくなったから話す。

実は、先代の甚内が、臨終の床で、言い遺したことがある。おまえさまの父は、いまわのきわに、枕元に、みなを呼び集め、こういうたのじゃ。

『わしには中年のころより、一つだけ大願があった。なんとかして、お上からこの吉岡宿に御救いをもらいたかったが、お迎えの時機がくるのと、寿命には限りがあるのは、どうにもできない。残念であった。どうかたのむ。

ここに年来、ためてきた浅野屋の銭は、ほかのことには使わないでほしい。おれがだめなら、息子のおまえ、おまえがだめなら、孫の周右衛門と、何代かかってもよいから、この志をすてぬよう。どうか、吉岡の宿がたちゆくよう、この金をつかって動いてほしい』。

そのとき、わしは一生懸命にいうた。『末期の遺言たしかに承りました。わたくしも年々銭をたくわえ、時機を待ちます。それでも無理ならば、息子の周右衛門にいいきかせて、かならずや、御志をとげさせます』。そういうと、父上は、ただ、だまって、うなずかれるだけ。すこし、微笑まれて逝かれたのじゃ。
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「そんなことは、ひとことも、きいておらなんだ!」 十三郎は泣きながら叫んだ。

(「親子というのは、似るものよのう」)
実父が自分と同じように、吉岡宿を救うことを考えていたとは、思いもよらなかった。そのあとに、続けた弟の言葉は、さらに十三郎を驚かせた。

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この話を聞いたあと、わしは母と相談して、お前さんには、だまっておくことにしたのじゃ。そのほうが、いいと思った。なぜなら、どのみち、この浅野屋の身代はあやうくなる。お前さんまで、巻き添えにはしたくなかったのだ。わしも、母も、おやじと同じ気持ちであった。吉岡宿のために家財のほとんどを吐き出す覚悟を決めていた。

ところが、親子というのは、似るものよのう。何も知らないはずの、お前さんのほうが、かえって、吉岡宿救済に奔走して、穀田屋を潰すいきおいじゃ。もうこうなっては、いたし方ない。考えてみれば、こんな嬉しい話があろうか。
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その場にいた誰もが、泣いていた。甚内が「いくら、ご助力すればよろしいでしょうか」と聞くと、十三郎は「とりあえず、五百貫文の加代(かだい)証文をお願いいたします」

陣内が母に相談しようとすると、老母はすぐにでてきて「そんな吟味なんぞ、いらん。早く、御両人に、その加代状とやらを書いて渡しなさい!」

こうして、十三郎自身の父親の存念に助けられて、金策も大きく進んだのである。

(日本を築いた無私の志)
このドラマはまだまだ山あり谷ありで続いていく。続きは映画か、その原作でぜひ味わっていただきたい。

その結末はどうあれ、驚くべきはこれら無私の人々によるドラマが、実話だったということである。そしてごく一部の人々を除いて、登場人物のほとんどが、このような純粋な無私の志で吉岡宿を救おうとした。

原作の藤原正彦氏による解説は、次のような原作者・磯田道史氏の言葉を引用している。

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江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。江戸期の庶民は、親切、やさしさ、ということでは、この地球上のあらゆる文明が経験したことがないほどの美しさをみせた。倫理道徳において、一般人が、これほどまでに、端然としていた時代も珍しい。
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拙著『世界が賞賛する 日本の経営』では、明治以降の日本の急速な近代化や、戦後の復興を導いた経営者たちの生き様を描いたが、それらの人々を動かしたのは、このドラマの登場人物たちのように、祖国日本と同胞日本人をなんとか救いたいという無私の志であった。

 この磯田道史氏の『無私の日本人』は、そのような無私の志が江戸時代の、しかも庶民の間にも深く根付いていたことを、いきいきと示している。そして、多くの庶民の間に無私の心を植え付けたのは、江戸から明治・大正にいたる『世界が称賛する 日本の教育』の力であろう。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
 
---owari---
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