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大村智教授、一期一会のノーベル賞

2024年07月12日 | 日本
「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志が、多くの人々の助言、助力を呼び寄せた。

(「自分も学び直そう」)
大村智(さとし)が東京・墨田区の夜間高校で物理と化学の試験を監督している際、ふと目にしたのは、一人の生徒が鉛筆を握っている手の指に油がこびりついている事だった。

改めて生徒たちの姿を見ると、洋服の所々に油をにじませている生徒もいる。昼間は働き、夜はこうして勉学のために登校してくる。大村は改めて、その姿に感動した。

大村は自分の高校生時代の生活を思い出した。裕福な農家の長男として生まれ、何一つ不自由なく過ごした高校時代は、勉強などしないでスキーや卓球に明け暮れていた。高3の2学期からは受験勉強をしたが、大学に入ってからも、勉強に打ち込んだ覚えはない。

昼は油にまみれて働き、夜はこうして必死に勉強に取り組んでいる夜間高校の生徒たちを見て、自分はもっと何かをしなければ済まないという気になった。大村は胸の奥から湧き上がるようなエネルギーを感じた。「自分も学び直そう」。

 
(信条は「一期一会」)
今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智・北里大特別栄誉教授が研究者への道を歩み出したのは、この瞬間だった。

大村は、12月7日、ストックホルムでの受賞記念講演で、信条としてきたのは「一期一会(いちごいちえ)」だと語った。茶会に臨む際に「一生(一期)に一度の出会い(一会)と考えて、真心を尽くせ」という茶道の心得である。

この夜間高校での生徒たちとの一期一会の出会いで、「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志を抱いた事が大村が研究人生を踏み出すきっかけとなった。この時に「生徒たちも頑張っているな」という程度の思いで終わっていたら、今回のノーベル賞もなかっただろう。

その後の大村の研究人生も、この初志を遂げるために様々な人々との出会いを大切にし、それらの人々に導かれ、助けられて、ついにはノーベル賞に至ったのである。

(出会った人々の助言助力で研究者の道に)
夜間高校の教師から研究者への転身の過程でも、大村は出会った様々な人々に導かれた。
教師となった2年目の春、山梨の実家に帰った時、大学時代の恩師を訪ね、学び直したいという決意を伝えると、学者仲間の東京教育大学教授の小原哲二朗を紹介してくれた。小原への紹介状を得て、その講義を聴講するようになった。

小原の研究室に出入りしているうちに、大村が夜間高校の教師をしながらも、本格的に化学の研究をしたいという希望を持っていることから、有機化学の分野では世界的に知られている東京理科大学の都築洋二郎の研究室に大学院生として入るのがいいのではないか、と勧められた。

その勧めに従って、ドイツ語などを猛勉強し、東京理科大学の大学院修士課程に入学したのは、昭和35(1960)年4月だった。昼は大学院で勉強、夜は高校の教師、週一日の高校の研究日を金曜日として、金土日の3日間は大学で実験をする、という生活が始まった。

都築の研究室では、核磁気共鳴(NMR)を応用して有機化合物の構造を調べるという、当時の最新技術を研究する幸運に恵まれた。ただし、NMR装置は当時、東京工業試験所に1台あるだけだった。人づてで、この装置を夜間だけ使わせて貰う、という許可を得て、徹夜の実験を繰り返した。

研究室では、細かな指導は講師の森信雄から受けた。森は大村を弟分として可愛がり、実験のやり方から論文の構成まで面倒を見た。徹夜でNMR装置を使って集めたデータをもとに、森の指導を受けながら、最初の研究論文をまとめた。

都築は「日本語で論文を書いても外国人は読めないから実績として認めないし、研究成果も正当に評価してもらえない。論文は必ず英語で書きなさい」と指導していた。それで論文は英語で書いて、学会の欧文誌に投稿しようということになった。都築の教えを守って、大村はその後に発表した11百編近くの論文の95%を英語で書いた。

こうして大村は研究者の道を歩み始めた。その過程で、出会った人びとは大村のために助言・助力を惜しまなかった。大村の「自分はもっと何かをしなければ済まない」という真剣な志が伝わったからだろう。

(「だったら世界を目指せばいいじゃないか」)
大学院修了の目処がついた頃、山梨大学の助手としての採用も内定した。父親は大村が地元に帰ってくることには喜んだが、秘かに将来を心配し、山梨でも学識のある偉い先生に相談にいった。

大村の経歴を見た先生は「この経歴だったらあまり将来性がない。せいぜいよくても大学の講師どまりだろう。このまま高校教師を続けて、将来は校長にでもなればいいのではないか」と言った。

父親は大村にその意見を正直に伝えた。大村は思った。「日本では講師どまりかもしれない。だったら世界を目指せばいいじゃないか。その方がやりがいがある」。

昭和38(1963)年4月、大村は山梨大学工学部発酵生産学科の助手として赴任した。しかし東京で最先端の研究をしていた大村にとっては、ここでの研究は手応えがなかった。そこに東京の北里大学樂学部で化学の研究員を一人募集しているのが、どうか、という話が持ち込まれた。

条件は大学新卒者と同じということだったが、大村は「やります」ときっぱり返事をした。

 (北里柴三郎の「大医は国を治(ち)す」)
昭和40(1965)年4月から、大村は北里研究所での勤務を始めた。この研究所は、近代日本が生んだ傑出した医学者・北里柴三郎が創設したものである。大村は北里柴三郎の業績を調べてみて驚いた。各種の資料を読めば読むほどその偉大さに敬服し、深く傾倒していった。

北里柴三郎は明治18(1885)年、ベルリン大学の主任教授ロベルト・コッホのもとに派遣され、研究に打ち込んだ。日本が開国して間がないので、祖国の名を欧米に高めようと、「世界的な学者になるつもりで勉強している」と語っている。

やがて世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発した。共同研究者のベーリングは第1回のノーベル生理医学賞を受賞したが、北里は惜しくも逃した。

北里の名声は欧米に広まり、いくつもの有名大学から誘いを受けたが、断固として断り、帰国した。明治天皇から「帰朝の上、我が帝国臣民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」とその理由を述べている。

 帰国後は北里研究所を創設して、ペスト、赤痢の病原菌の発見など世界医学史上に残る研究業績を上げつつ、伝染病患者の治療、各県の衛生担当者の教育、免疫血清の製造と、大車輪の活躍をした。「大医は国を治(ち)す」が北里の若い頃からの志だったが、それを見事に実現した一生だった。

大村のその後の歩みはまさに北里の足跡とよく似ている。北里との出会いが大村に指針を与えたのだろう。

(ティシュラー教授の誠意に打たれて)
大村は北里研究所で次々と成果をあげていった。他大学や企業からも誘いの声が掛かるようになったが、化学、薬学、医学、細菌学などにまたがる学際的な研究のできる環境に満足していたので、誘いはすべて断った。

安月給で、研究用の材料を自腹で買ったり、部品は自分で手作りするなど、待遇は不十分だったが、研究のやり甲斐を感じていた。

東京大学から薬学博士号も授与され、昭和44(1969)年、34歳にして助教授に昇進した。周囲からアメリカへの研究留学を勧められ、大村は自分を売り込む手紙を5つの大学に送った。

驚いたことに、すぐに電報で週給7千ドルで客員教授として迎えたいという返事が、東部の名門ウェスヤーレン大学のマックス・ティシュラー教授から来た。英文で多くの論文を発表していた大村の名前はアメリカでも広まっていて、他の大学からも手紙で返事が来た。なかには週給1万5千ドルなどという誘いもあった。

しかし、ティシュラー教授の誠意に打たれて、週給では最低だったが、ウェスヤーレン大学を選んだ。ここからノーベル賞への道が開けていく。

大村がウェスヤーレン大学に着任した時、ティシュラー教授はすでに化学界のボス的存在で、大物研究者が次々と訪れてくるのに、大村は驚くばかりだった。しかもティシュラー教授は彼らに大村を自分の同僚として紹介した。

そんな形で紹介された研究者の一人が、大村をさらにハーバード大学のコンラッド・ブロック教授に紹介してくれた。ノーベル生理医学賞を受賞した権威である。大村が当時、勧めていた研究を説明すると、ブロック教授は身を乗り出さんばかりの興味を示し、共同研究を進めよう、ということになった。

ブロックはハーバード大学でも大村のためのデスクを準備し、大村も積極的に訪問するようにした。この積極性でアメリカでも一期一会の縁を生かしていった。

(「泥をかぶる研究」をチームで)
2年間のアメリカでの研究留学を終えるのに際し、大村は北里研究所から頼まれていた約束を果たした。アメリカの企業から研究資金を得る、という依頼である。

ティシュラー教授が、かつて務めていた世界第2位の医薬品企業メルク社に口利きをしてくれたので、提携交渉も順調にいった。年間8万ドル(当時の円換算で2千4百万円)の研究費を出してくれ、共同研究で得られた特許はメルク社が保持するが、北里研究所にロイヤリティを払う、という内容である。

大村の考案した研究アプローチは、微生物が生み出す化学物質の中から人間に有用なものを見つけるというものであった。日本では伝統的に味噌、醤油、酒など、微生物を活用した発酵食品が発達しているが、その延長線上にあるアプローチである。

1グラムの土壌の中には1億個もの微生物がおり、そこから特定の微生物を取り出しては、その化合物を調べる、という、大村自身が言う「泥をかぶる研究」を進めていった。特定の微生物を分離する人、その化合物の構造を調べる人、化合物の働きを評価する人など、それぞれの人が縁の下の力持ちとなって、共同研究を行う。

大村はこうした共同研究体制は日本人の方が向いていると考えていたが、さらに一人ひとりの研究員によく配慮することで、チームを引っ張っていった。

こうして、ある微生物が産出する物質で、寄生虫退治に劇的な効果を持つものが発見された。エバーメクチンと命名されたその物質は、皮膚にダニが棲みついた牛にごく微量を投与するだけで、きれいに治ってしまった。

この薬は動物薬としてメルク社から販売されると、その後、20年間も動物薬の売上げトップを続け、そのロイヤリティで北里研究所には200億円以上もの研究費がもたらされた。

(「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」)
動物の寄生虫退治に劇的な効果をもつエバーメクチンを人間の疾病にも使ってみよう、という事から、オンコセルカ症の治療薬として「メクチザン」が開発された。

オンコセルカ症はアフリカの熱帯地域に広まっている感染症で、小さなブヨが人体を刺して吸血する際に、寄生虫を移す。その寄生虫が眼の中に入って患者を失明させる。世界で年間数千万人がオンコセルカ症に感染し、失明や重度の眼病にかかる人は数百万人と推定されていた。

それが年に1回、メクチザンの錠剤を飲むだけで、寄生虫の幼虫はきれいに死滅してしまう。メルク社はこのメクチザンを世界に無償提供することとし、大村もロイヤリティを返上した。

メクチザンは1987年から使用されはじめ、現在では年間2億人ほどの人々が服用している。WHO(世界保健機構)の発表では、西アフリカ諸国でメクチザンによるオンコセルカ症制圧に乗りだし、それによって約4千万人が感染から逃れ、60万人が失明から救われたとしている。

このプログラムにより、2020年にはアフリカ全土でオンコルセンカ症は制圧できる、という見通しが立った。

この業績に、2001年のノーベル化学賞受賞者・野依良治氏は「大村先生は多くの人を感染症から救った。医学生理学賞を超えて平和賞がふさわしい」と語っている。

大村教授はノーベル賞受賞式に旅立つ前に、大学院時代を過ごした東京理科大で講演し、成功の秘訣を「出会いを大事にすることだ。つきあいを大事にする人としない人では大きな差が出る」、「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」と述べた。

大村の偉業は、多くの人々に導かれ、助けられ、支えられて、成し遂げられた。まさに「一期一会」の精神で、多くの人々との出会いを大切にしてきたからだろうが、その姿勢も「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志に支えられていたのだろう。

そういう志を持っていればこそ「袖触れ合う縁」を生かせる。そして、そういう人には世間も助力を惜しまないし、天も必要な時に必要な人に出会わせてくれるのだろう。
 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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