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日本という名前が生まれた理由(後編)

2023年05月14日 | 日本
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古代の歴代天皇の妃を見ると、日向国の出身者が多く登場します。古事記の名前を採用すると、景行天皇は日向の美波迦斯毘売(みはかし姫)を妃にして豊国別王を産んでいます。豊国は豊前、豊後の豊国であることを考えると、日向地域の豪族と天皇家は古くから強力な結びつきがあったんだろうことが推測できます。

応神天皇は、日向泉長比売(ひむかのいずみのなが姫)を妃にしましたし、仁徳天皇は日向諸県君髪長姫(ひむかのもろかたのきみかみなが姫)を妃にしています。履中天皇や安康天皇、そして雄略天皇はこの日向出身の妃が産んだ娘を妃にしていることを考えると、大伴氏や、蘇我氏と同じように、倭の五王の時代の天皇には日向氏が天皇家の外戚として非常に深く入り込んでいたのがわかります。

これは、倭の五王による河内王朝が、どこからやってきた人々によって打ち立てられたかを示す大きなヒントではないかと私は考えています。
勿論、逆のケースも考えられます。日向は熊襲の国でした。和平条約を結ぶにあたり、婚姻という手段を選んだのかもしれません。邪馬台国を攻撃したのは、南にある狗奴国でした。もしかすると、熊襲の日向の人々であり、この時何らかの和平交渉が持たれて日向の姫を妃に迎えることにしたのかもしれません。

日向以外に、頻出する言葉に「日下」という言葉があります。古事記の中で日向は11回登場しますが、日下は22回と日向の倍も登場する言葉なのです。
神武天皇の東遷の出発地は日向でした。そして、最初、ヤマトに入るために「浪速の渡りを経て、青雲の白肩津」に泊まるのですが、ナガスネヒコが待ち構えていて戦になります。その場所を「楯津(たてつ)」と言い、「今に(古事記編纂時に)日下(くさか)の蓼津(たてつ)と云う」と記載されています。

ここで、神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢で射られて傷を負います。「吾は日神の御子として、日に向いて戦うこと良からず」と言って敗因を分析します。太陽のご加護を受けるためには、太陽を背にして戦わなければならないという信仰の教えがあったのかもしれません。

垂仁天皇の時には、日下の高津池を築造したという記録があります。日向に関しては、日本書紀も古事記も日向ですが、日下に関しては、古事記は「日下」で、日本書紀では「草香」と書かれて射ます。古事記はその序文にて、この日下の字を説明しています。「姓おきて日下を玖沙訶(クサカ)といひ、名におきて帯の字を多羅斯(タラシ)といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。」として、漢字とその音が一致しないものの例として、日下の説明があります。

ここでは、姓として取り上げられていますが、日下という字と読みが、古代から存在していたことがよくわかります。この地は、日向国の出先であったのでしょうか。
日下をクサカと呼ぶこと自体非常に不思議で、どう考えても日をクサとは読むことができません。しかし、古代からの地名の名は、例えば、飛鳥にしても、どうやってもアスカなどとは読むことができないものです。春日もカスガですが、これも漢字の音でも訓でも読むことができません。そういう地名は非常に多いのですが、これらは同じルールにより言葉に読みがついたのだと考えられています。

つまり、枕詞が転化して、枕自体にその修飾するべき語の音がかぶったものです。飛ぶ鳥の明日香、春の日の滓鹿、そして、日の下の草香であったのだと考えられます。日の下の草香に、夏の強い日差しの下で草いきれ(夏、強い日光に照らされて、草の茂みから生ずる、むっとした熱気)のするような草原を思い浮かべるのは私だけでしょうか。

日下は、元来、天下と同じことを意味したのだと考えられますから、非常に良い字であるとともに、国号の候補にも上がっていたのではないかとも考えます。しかし、日本は日の昇る場所ですが、日下になると太陽の当たる土地となり全世界を意味するようになります。ここでも、中国への配慮があり、その辺りに使われなかった理由があったのかもしれません。

仁徳天皇の子供には、大日下王と若日下王という名前の兄妹がいました。この母親は日向諸県君牛諸(ひむかもろかたのきみうしもろ)の娘の髪長比売です。
この兄妹は悲劇の主人公として描かれています。安康天皇は弟(雄略天皇)の妃として若日下王を迎えようと考えます。兄の大日下王は結婚の受託の証として、押木の玉鬘(たまかずら)(この場合の玉鬘は髪飾りのことかと思われます。)を奉献しようとしますが、そのあまりの見事さに、使者が大日下王は結婚を拒否しましたと嘘の報告をして、その玉鬘を横取りしてしまいます。

そうとは知らない安康天皇は、その回答に怒り大日下王を殺害してしまうとともに、彼の妻を皇后に迎えます。そして、大日下王の子目弱王が、今度は、安康天皇を殺害してしまうのです。目弱王をかくまった葛城氏は、弟の雄略天皇により討たれてしまいます。そして、雄略天皇は若日下王を妃に迎えるとともに、殺害した葛城氏の娘韓姫を妃に迎えるのです。

日向からはなぜか、成功者が出ないのです。蘇我氏と同様に、一時期を支えた一族であったのでしょうが、力をつけてくると、討ち取られて天下を支配する芽を摘まれてしまっているのです。

しかし、きっと天皇家の太陽信仰は、日向との関係から始まったように私は思うのです。そして、その信仰が、天武天皇の時、伊勢にいた神と一つになり、皇祖神としての天照大神が出来あがったのだと思います。宮崎も伊勢も東は太平洋の大海原です。海から登る日を見つめることのできる場所には、太陽信仰があったようです。対馬のアマテルもそうでした。

太陽の神を拝む中で、天照大神が女神となったのは持統天皇のイメージをつけるためであったのだろうと推測するのです。そして、日の国は、中国を配慮して「日本」となったのだと考えるのです。

---owari---
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