このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

英雄 織田信長を記録した『信長公記』の作者、家来の太田牛一

2016年03月07日 | 歴史

『信長公記(しんちょうこうき)』は信長の側近だった一人の侍が自らの日記を基に書いた、全15巻に及ぶ英雄の一大記です。

 

『信長公記』は信長の伝記の中では最も信頼できるものと言われています。それは書物の中に牛一本人が、「私の書くものに作り話は一切ない、もし一つでも偽りを書けば天の怒りを買うであろう」と記しているからです。

 

織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との間で勃発した長篠の合戦では、その合戦を詳細に描いた屏風絵が残されている事でも知られています。実際の布陣に基づいて忠実に描かれた両軍の部隊、更に騎馬武者の突撃を防ぐ柵や千丁を超える鉄砲隊の存在など細かな情報が書き込まれています。

 

どうしてここまで正確に戦場を再現する事が出来たのでしょうか。実は牛一が残した詳細な合戦の記録が基になっていたからです。

 

また、牛一は数々のスクープを残しています。

天正10年6月2日、大事件であった「本能寺の変」では、あまりに突然の事で牛一はどうしようもなかったと当時、手紙に書いているのですが、信長の死から数年後に、牛一は本能寺の真実を調べ始めました。

 

そしてついに真相を知る人物にたどり着きます。それは信長の侍女たちです。信長が死ぬ直前まで側にいた数少ない生存者です。侍女たちは信長の最後を語り始めました。

 

上様は、謀反人が明智光秀と聞かれても「是非に及ばず(是非を問う必要はない)」とのみ仰せになり敵に向かわれました。しかしながら多勢に無勢、肘に手傷を負われました。

 

そして、私たち女どもに「わしに構わず逃げよ」とお声をかけ下さり奥の部屋に入っていかれました。危機が迫る中、信長が最後に見せたのは、侍女たちを思う優しさでした。

 

また、牛一は明智光秀が最期、農民の落ち武者狩りによって討ちとられたことを突きとめますが、これも牛一のスクープだったのです。

 

牛一は後世に残る戦国時代の従軍記者として、合戦における信長の素顔や日常における信長の生き方など、天才・信長の貴重な15年間の記録を私たちに残してくれたのです。

 

そして、私が言いたかったことは、歴史的英雄である織田信長の行跡を後世の日本に正確に残すため、戦国一のメモ魔だった太田牛一をこの時代に輩出させた天の演出にあっぱれと言いたいのです。

 

実はそのことは、この世に出てくる前、二人があの世にいた時に、信長と牛一がすでに約束していたのかも知れません。英雄・信長の行跡を後世に残した牛一の活躍は、賞賛されるべきものだと思っています。

 

日本の歴史で、戦国時代が一番人気があるのも、この牛一の働きがあったからではないでしょうか。この功績を大いに感謝したいと思います。信長の専属記者であった太田牛一殿にお礼申し上げます。

 

---owari---

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 離婚率3組に1組はメディアの... | トップ | なぜ日本をジャパンと呼ぶのか? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事