今日は「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣さんの著書「世界が称賛する日本人が知らない日本」から転載します。
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私が留学していた1980年代は、日本の家電製品や自動車が米国市場に一大旋風(せんぷう)を巻き起こしていた時期で、私の出会ったアメリカ人たちもよくこのことを話題にしました。
一般大衆のなかには「ホンダを買ったけどグレートな車だ」などと、手放しで褒(ほ)めてくれる人がいました。ただ、大学教授などのインテリ層はそう単純ではなく、「自動車はアメリカ人が発明したのに、日本人のほうが良い車を作れると認めることは苦痛だった」などと、正直に語ってくれた先生もいました。
学校でのマーケティングの授業でも、「品質の良い物を高く売る戦略と、良くない物を安く売る戦略がある」と先生が言ったら、一人の学生が「いや、良い物を安く売る戦略もありますよ。メイド・イン・ジャパンのように」などと大まじめに発言したので、私は思わず苦笑してしまいました。
ある授業では、何度も日本製品や日本的経営の優秀さ論じられたので、インドネシアからの留学生が「授業でも、ジャパン、ジャパン、ジャパンだ。日本はすごいな」などと羨(うらや)ましがっていました。
確かに他国からの留学生にとってみれば、これほど持ち上げられる日本を母国とする日本人留学生は羨ましい限りだったのでしょう。私自身、それは確かに嬉(うれ)しいことではありました。
しかし、その反面、経済ばかりが持ち上げられても、単純に満足はできない、という気もしていました。それは自動車にしろ家電製品にしろ、もともとは欧米文明の所産です。彼らのつくった土俵に割り込んで、彼らの技術に多少の工夫を加えて、部分的に良い成績を上げた、ということに過ぎないのです。
たとえて言えば、仙台の中心部には、「小東京」と呼ばれるほど高層ビルが建ち並んだ一帯がありますが、東京の人間から「仙台はすごいね。東京みたいだ」と褒(ほ)められたようなものです。それで素直に喜べるでしょうか?
それよりも「東北大学のあたりは仰(あお)ぎ見るようなアケボノスギの巨木が立ち並んでいて、まさに杜(もり)の都だね」などと言ってもらった方が、はるかに嬉しいのではないでしょうか。
自動車生産とか国民総生産のように共通尺度で優劣を競うようなお国自慢では、お互いの国に対する理解を深めるような会話は成り立ちませんし、また、自分自身にとっても虚栄心を満足させるだけのことで、深いところで自分を支える自信や誇りにはつながりません。
そうではなく、固有の歴史や文化、国柄など、自分の先祖が営々と築いてきたものに関する愛着の籠(こ)もったお国自慢でなければ、我々を心の底で支えてくれる「根っこ」にはならないのです。
---owari---
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