⑧今回のシリーズは、千利休についてお伝えします。
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利休はやがて、
「市民という言葉は、そのままでは日本に馴染まない。もっと和風の言葉をつくりだすべきだ」
そう考えて、ついに、
「まちびと」
という言葉をつくりだしたのである。
利休が自分の茶室を、
「市中の山居(さんきょ)」
と言うのにも、その辺の意味が込められている。
山居という以上、もちろん茶を学んだ師の北向道陳(きたむきどうちん)(千利休の最初の師)や
武野紹鴎(たけのじょうおう)(商人・茶人)の言う、
「隠遁(いんとん)の精神」
と無縁ではないことは確かだ。
しかしそれは、
「逃げるための基地」
としての山居ではない。
「前に出るための基地」
としての山居である。つまり、山居に隠遁しても、それは一切の世事から脱走し、
自分だけの閑寂(かんじゃく)に浸るということではない。現実に起こった問題に、
「どう対処すべきか」
ということを、静かに考え抜く場のはずだ。
千利休が生涯を通じて、
「非常に頑迷であり、また戦闘的であった」
といわれるゆえんは、この、
「戦う精神」
にある。
考えてみれば、最後の最後まで日本の最高権力者である豊臣秀吉に対し、己を保ち続けたというのは、秀吉から見れば、
「町人風情の最大の反乱」
であったに違いない。しかもそれは、千利休という存在の、
「たった一人の反乱」
であった。
しかし秀吉は、その"たった一人の反乱"に手を焼き通した。秀吉は、例の得意な人心管理方法であるニコポンや、金品のばら撒きなどをもって、利休を懐柔しようとした。しかし利休はその手に乗らなかった。最後まで己を保った。それは、かれの独創である、
「まちびとの精神」
を、貫き通したからである。
その意味でいえば、いま利休は、かつて親しくした博多の商人・島井宗室(しまい そうしつ)にも、その"まちびとの精神"があったような気がする。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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