ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

しつけか虐待か

2016-06-07 15:16:27 | 日記
北海道の大和くんに登場してもらおう。それから、大和くんの
お父さんにも。

お父さんは数日前、大和くんを人里離れた山の中に置き去りに
した。これは「しつけ」のためだった、とお父さんは説明した
が、ホントは虐待だったのではないか、との疑問が出されてい
る。この疑問は、海外のメディアに根強い見方であるようだ。
北海道警の函館中央署も、「心理的虐待の疑いがある」とし
て、大和くんの両親を函館児童相談所に通告したという。「こ
れでは大和くんが可哀想だ。何もそこまでしなくてもいいのに
」と感じる人は多い。そういう人が「これは虐待だ」と思うの
だろう。

だが、これは虐待には当たらない、と私は思う。虐待とは何
か。それは、苦痛を与えることが目的で、児童に苦痛を与える
ことである。苦痛を与える。これが虐待の目的であり、それ以
外の何ものでもない。

大和くんのお父さんの場合は、大和くんに苦痛を与えるのが目
的で彼を山中に置き去りにしたわけではない。苦痛を与えたの
は、あくまでも(やんちゃな性格を直そうという)矯正のため
の手段としてだった。だから、息子に対するこのお父さんの行
為を「虐待」だと言うのは適切ではない。

「体罰」という言葉があるが、それではお父さんの行為は、こ
の「体罰」と見なせるだろうか。体罰は、教育的な指導が目的
で、身体的な制裁を加えることである。体罰の場合、問題なの
は、この身体的制裁、つまり暴力の行使が、これを行使する者
にとって、優位に立つ快感となり、サディスティックな支配の
愉悦となり、それ自体が目的と化してしまうことである。「こ
れは教育のためだ。オレは正しい」と繰り返しつぶやきながら、
生徒の頬にビンタを張り続けることがいつか快感になり、その
うち、自分が何のために生徒の頬にビンタを張っているのかが
分からなくなってくる。

私は中学生だった頃、軍隊帰りの体育教師から「教育のためだ」
と称して頬が腫れ上がるほどビンタを喰らった経験がある。あ
のときの、何かに酔ったような体育教師の暗い表情は、今でも
忘れられない。

そういう体罰は教育的効果もなく、生徒の人格形成に悪影響を
与えもすることから、今では非難の対象となって、あまり見ら
れなくなった。運動部のワンマン・コーチが強権的な指導を行
おうとして(ごくたまに)やらかし、それが(過大に問題視さ
れて)マスコミにとりあげられる、といった程度だろう。

さて大和くんのお父さんのケースであるが、これはそういう
「体罰」と同じものと見なすことはできない。お父さんが大和
くんに加えたのは身体的制裁ではなく、心理的制裁である。身
体的にせよ心理的にせよ、自分の息子に苦痛を与えることに快
感をおぼえる親などいるはずがない。自分の息子に苦痛を与え
ることが快感で、そのことを目的にしてしまう父親がいたとす
れば、そんな親は変態か、異常性格の持ち主だろう。
大和くんのお父さんのケースは、しつけ・教育(他人に向かっ
て石ころを投げないような子どもにすること)が目的であって、
山中に置き去りにすることで彼が息子に与えようとした心理的
苦痛は、この目的を達成するための手段だったと見なければな
らない。

ただ、この手段が目的を達成するのための効果的な手段として
適切なものであったかどうかは、虐待云々の問題とは別の、教
育の方法論として考えなければならない問題である。

それよりも、もう一つ問題があるなあ、と、きょうになって私
は考えさせられた。ネットの報道によれば、大和くんは「『お
父さんが優しいから、許すよ』と言った」とか。しかし、大和
くんが言ったとされるこの言葉は、どう見ても小学二年生が
しゃべる言葉ではない。小学二年生の言葉にしては不自然な、
大人の言葉だ。お父さんが創ったのか、それとも、大和くんに
言わせたのか、あるいは、別のだれかが?(お母さん?)・・・・・・。
よくわからないけど、この言葉、虐待云々の非難に対応するた
めの言葉であるように思えて仕方がないんだよね。
コメント
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