老子が学問による知識の習得の、その対極におくのは、
目や耳でとらえられぬものを見ること、
つまり「道」を見ることである。
学問の習得によって得られる知識が
有についての知識であるとすれば、
「道」の体得が与えるのは、
有を突きぬけ、
有についての知識をそぎ落とすことで得られる知識、
「無」についての知識である。
「道」とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、
もともと名づけようがないものだ、
とする老子にとって、
「道」についての知識は
「不言の教え」とならざるを得ないが、
言葉を用いないこの教えは、
靜観という「無為」を実践することで
眼差しをそのまま世界の内奥へと導くことにほかならない。
この無為の実践は決して無益なことではない、と老子は言い、
「道」の体得の有用性を強調する(43章)。
老子がなぜ有用性にこだわるのか、その理由は判然としないが、
老子がそのことを疑わないとすれば、それは、
世界の内奥にある「道」が「万物を生み育て、
万物にエネルギーを与えている」とする信仰が、
ここにもまた貫かれているからである。
目や耳でとらえられぬものを見ること、
つまり「道」を見ることである。
学問の習得によって得られる知識が
有についての知識であるとすれば、
「道」の体得が与えるのは、
有を突きぬけ、
有についての知識をそぎ落とすことで得られる知識、
「無」についての知識である。
「道」とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、
もともと名づけようがないものだ、
とする老子にとって、
「道」についての知識は
「不言の教え」とならざるを得ないが、
言葉を用いないこの教えは、
靜観という「無為」を実践することで
眼差しをそのまま世界の内奥へと導くことにほかならない。
この無為の実践は決して無益なことではない、と老子は言い、
「道」の体得の有用性を強調する(43章)。
老子がなぜ有用性にこだわるのか、その理由は判然としないが、
老子がそのことを疑わないとすれば、それは、
世界の内奥にある「道」が「万物を生み育て、
万物にエネルギーを与えている」とする信仰が、
ここにもまた貫かれているからである。