伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良そて聴くダメオヤジの金ちゃんです。

証拠の阿弥陀の大原問答から伝わる勝林院の声明から学ぶ、自筆譜版をもとにバッハ:『フーガの技法』を完成された作品として演奏を考察。

2020年08月25日 | 日本史の考察

先日NHK放送した京都千年蔵の放映を見る、大原・勝林院の声明の歴史から学ぶ声の自然な音霊感銘した番組であった。特に日本国は海外との交流が少なく他所の文明との交わりは少なく、国内での由緒正しいお寺等まだ知られてない古文書、巻物も今後多く発見、今後日本史に新しい発見と共に歴史が紐解かれる事は今後希望出来る新しい歴史発見が期待される。

阿弥陀如来像は勝林院の本尊で、見上げるほどに大きく本堂に安置されています。大原問答が行われた際、光を放って法然の正しさを証明したという逸話から「証拠の阿弥陀という別名が付けられました。阿弥陀如来蔵の中よりお宝が出土する又阿弥陀の仏像内部から見える耳の穴と目玉は後ろから入れ漆で固めてあり、人々の祈りを聞いていたとされる作りは流石てある。証拠の阿弥陀の大原問答から伝わる勝林院のご本尊 木造釈迦如来坐像が座る。

像高50.5cmの木造で、頭上に肉髻(にっけい)を造り、螺髪(らほつ)を付け、体には衲衣(のうえ)と裳(も)を着けて、左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)しておられます。右手は上に上げた「施無畏印(せむいいん)」、左手は膝の上に置いた「与願印(よがんいん)」と呼ばれる印相を結んでおられます。これらは、お釈迦様の通例のお姿です。




特に声明の譜面は興味深い、枯葉の散る様を人の声で解らせる事はもしや、日本的声楽を聴くような感じに聴こえる。正に言霊のようだ。正に声明の譜面は日本の音楽の教えかも知れない、日本独自の音程「ハニホヘトイロハ」の解明の部分か?二千年以上続く日本の音、いや音楽のルーツも知りたい、雅楽以外の音楽、いや日本民衆の音楽も一度探って見たいと思いませんか?経典など見れば返り点のように文字の横に譜面の様な印が付く、日本人は此の譜面を何処で学んでいたのであろうか、実に興味深い。

宗派による経典も一種の民衆の音楽と考えれば、キリスト教との音楽との関わり合いも興味深いと思いませんか?宝物の中の壮大な涅槃の巻物、日本は昔から伝わる伝書か?横たわる涅槃像の周りに見える他のお迎えが見える貴重な絵巻。今回放映の謎解きは大変興味深い。
謎は大原、勝林院との三代将軍足利義満のかかわり合いです、出家後の肖像画随分綺麗である。古文書から天皇家の法要を武家筋の義満が声明を唱えリードヴォーガルを執り行い武家では初めての事だった。今まで皇族関係者しか出来なかった法要を見事に武家筋で行った事でした。



古文書の中より歴史的発見となるのか?以前も明智光秀の織田家に士官する前は謎の部分が大変多く、今年古文書から薬剤師をして生計を立てていた事が分かる刀傷に効く薬の文書が見つかる、大原での仕事ぶりの書の発見と浅井長政の安堵状が見つかる、後日鑑定の結果、書状は間違いなく本物で実効支配は浅井長政であった。交通の起点であった大原は浅井方が支配。
織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちは切羽詰まった、追い詰められた信長の唯一の生きる道であった。この大原は京都への交通手段(陸・海/琵琶湖)の基地の拠点で歴史は徐々に採掘から解明され紐解かれる思いがする。

今後の信長関係の小説にも新しい展開が記されて行くだろう。日本史変遷で教科書は変更し真実に基づく教育が必要に思う。特に日本を悪者に米国が潰した戦前からの正しい紹介はしてない、近代史は教科書も含め改定が必至である。

人間は最後にあの世からのお迎えが来ると言われたようにやはり、これは日本独自の平和な宗教かも知れない。そのお迎えはあの世に行く人しか見えない徳とされ、いかにも万物を敬い尊さを感じる日本人の素晴らしい物の考え方の基本ではなかろうか、などを思考した。何やら真っ黒な巻物があり、紫外線カメラで解る、あまりにも有難い、神々しい来訪図があり正しいお迎えの図で尊顔できたのであったのです。

基本は徳を積まなければ、「お迎え」は来ないと言われる、そのため世の為に人の為に徳を積み、お迎えを待つのだ。そして皆仏となる。
太平洋戦争時代皆口にした「靖国で会おう」の合言葉も日本人らしい考え方かもしれない。基本的には平和主義で自然を敬う人種のように思う。



本尊 木造釈迦如来坐像は勝林寺のご本尊 木造釈迦如来坐像は、関東でも一番古いと言われる、平安前期9世紀のもので、豊島区の重要文化財に指定されております。像高50.5cmの木造で、頭上に肉髻(にっけい)を造り、螺髪(らほつ)を付け、体には衲衣(のうえ)と裳(も)を着けて、左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)しておられます。右手は上に上げた「施無畏印(せむいいん)」、左手は膝の上に置いた「与願印(よがんいん)」と呼ばれる印相を結んでおられます。これらは、お釈迦様の通例のお姿です。

日本の音楽のことも多少は今回少し理解できる入り口を見つけたかも知れない。バッハの音楽も圧倒的に教育用の音楽が多く、常に新しい練習曲を考え作ったりと思えば・・・これこそ徳を積んだ行(ぎょう)かも知れない。



筆者のオーディオシステムは現在ハイレゾのオーディオインターフェイスをMacPro2008で駆動しソフト供給、後はCD、レコードで楽しんでいますが、今回はLINN LK-100パワーアンプに「ho's systemのLS3/5a」を繋試聴するが、当然ビオラ・ダ・ガンバの音はGOODMANS AXIOM 80のA.R.U付きの箱に10吋同軸型2ウェイユニットであるHPD295のTANNOYと真空管300Bシングルが楽しめるが、しかし3/5aを使いこなしたく、此れほどアンプの特徴をさらけ出すエンクロージャーも面白い、音質は少し渋みな音だが特に癖も少ない事が3/5aの特徴であろう。アンプの持つ癖は出しやい事が特徴と言えるが・・・

改めて「ho's systemのLS3/5a」のスピーカーを眺めると此のような小さな箱から意外と良い音が流れる、勿論それなりの思い、弦の音も、特筆は合唱の歌声(お経)もそれらしく聴こえ誠に良いスピーカーと思う。



そのような事を考えながら筆者の好きな曲にフーガの技法がある、タイトルの原題「Die Kunst der Fuga」は、最後のフーガだけをラテン語またはイタリア語にしている(ドイツ語ならばFuge)のだが、これはタイトルから158という数字を導き出すためである。アルファベットのaを1とし、zを24とし(iとj、uとvは同じとされてきた)、タイトルのアルファベットを数字化し、すべて足すと158になる。これは、JOHAN SEBASTIAN BACHを同様の手法で数字化し、合計した数と一致する。さらに、158を1+5+8=14とするとBACHの綴りのその数2+1+3+8=14と一致する。ある意味バッハは数学者かも知れない。

これを単なる数字遊びとしてしまえばそれまでだが、バッハはファミリーナンバーとも言える14を大事にしていたことは疑いようのない事実であるし、フーガの技法という自らこだわってきた対位法研究の集大成のような曲集にはふさわしいものだと言えるだろう。こんな数字の魔術がベルリン自筆稿には他にもたくさん隠されているのである。オルガン奏者としてこの録音に参加しているルカ・グリエルミによる詳細な解説(英語)がブックレットには記載されており、実にエキサイティングで示唆に富んだ内容である。今回はアルベルト・ラージ(指揮、トレブル・ヴィオール)の演奏のフーガの技法を聴く、どうも勝林寺の声明からフーガの技法の共通性を感じた。


自筆譜の曲順と曲種を読み解くと、バッハがそこに「数の象徴」を盛り込んでいたことが分かりました。BACH をアルファベット順に数字に変換すると2-1-3-8 となり、バッハはその合計数 14 を象徴的に作品に潜り込ませていたことが知られています。


自筆譜の『フーガの技法』は基本となるフーガがまず 2 曲、次に半終止(ラ、A の音!)で終わるフーガが 1 曲、そして反行形や対主題を伴うフーガが 3 曲、最後に複雑さを極めていく8 曲というように構成されています。8 曲のセクションは 2-1-2-1-2 と細分化でき、拡大・縮小を伴うフーガ、カノン、多重フーガ、カノン、鏡像フーガ(正立 + 倒立で1 曲とする)と書法が発展していきます。このアルバムではアンサンブルでの演奏が採用されています。スコアの音域に即した楽器が選択され、各種ヴィオールが美しく響き、机上の空論的な楽曲と思われがちな『フーガの技法』から驚くほど音楽的な対話が生まれています。

オルガンは通奏低音として入ったり時にソロで弾いたりとアレンジも面白く考え抜かれていて、最後に未完フーガを添えているのも嬉しいところです。アッカデミア・ストゥルメンターレ・イタリアーナはこれまで Stradivariusや DIVOX に録音があり、今作が Challenge Classics での初作品。リーダーのアルベルト・ラージ(Alberto Rasi)指揮はサヴァールに学んだヴィオール奏者です。


自筆譜版をもとに、『フーガの技法』を完成された作品として演奏!
数の象徴がもたらす神秘的な美しさ、名手たちの至高のアンサンブル
アーティスト:アルベルト・ラージ、アッカデミア・ストゥルメンターレ・イタリアーナ
レーベル:CHARENGE CLASSICS
ジャンル:クラシック音楽史/古楽
J.S.バッハ:フーガの技法 BWV1080(ベルリン自筆譜版)
  [1] 基本形による単純フーガ(コントラプンクトゥスI)
  [2] 反行形による単純フーガ(コントラプンクトゥスIII)
  [3] 基本形による単純フーガ(コントラプンクトゥスII)
  [4] 反行形を伴うフーガ(コントラプンクトゥスV)
  [5] 12 度対位法による対主題と基本形によるフーガ(コントラプンクトゥスIX)
  [6] 10 度対位法による2 つの対主題と反行形によるフーガ(コントラプンクトゥスX)
  [7] 反行、縮小を伴うフランス様式によるフーガ(コントラプンクトゥスVI)
  [8] 反行、拡大と縮小を伴うフーガ(コントラプンクトゥスVII)
  [9] 8 度のカノン
  [10] 3 声の 3 つの主題によるフーガ(コントラプンクトゥスVIII)
  [11] 4 声の 4 つの主題によるフーガ(コントラプンクトゥスXI)
  [12] 反行と拡大によるカノン
  [13] 4 声の鏡像フーガ・正立(コントラプンクトゥスXIIa)
  [14] 4 声の鏡像フーガ・倒立(コントラプンクトゥスXIIb)
  [15] 3 声の反行形を伴う鏡像フーガ・正立(コントラプンクトゥスXIIIb)
  [16] 3 声の反行形を伴う鏡像フーガ・倒立(コントラプンクトゥスXIIIa)
  [17] 3 つの主題によるフーガ(未完)

  アッカデミア・ストゥルメンターレ・イタリアーナ
  [ロゼッラ・クローチェ(ヴァイオリン)、
  アルベルト・ラージ(指揮、トレブル・ヴィオール)、
  クラウディア・パセット(テノール・ヴィオール)、
  パオロ・ビオルディ(バス・ヴィオール)、
  ミケーレ・ツェオーリ(ヴィオローネ)、
  ルカ・グリエルミ(オルガン)]
録音:2019年 9月10-13日/イタリア、ヴェローナ、ナザレス教会



日本での発売は9月であるが、ハイレゾのiTunesでは勿論配信して全曲楽しめるが、CDは注文した。じっくり聴くとフーガの技法の演奏は何故か声明を聴いている感じになって来るように感じるのは筆者だけなのか?

後日パワーアンプを真空管EL34の球で駆動する半世紀前のLUX KIT A3500を仕入れ、変更して聴くと真空管の深い響きを感じる、確かに3/5aのエンクロージャーは素晴らしいと再認識した。原音はこの演奏は教会での演奏を録音したものですがLINNのアンプで聴いていた時ホール感は感じたが、真空管ではそのホール感がすごくリアルに感じ球で聴くと石のアンプには戻れないように思った。ただし真空管の寿命は300時間程と明記されている、使用している松下製の球も現在の販売はヴィンテージ物となり中古品しか入手出来ない。



バッハの『フーガの技法』は対位法芸術の最高峰であり、バッハ書法の究極とも言うべき作品です。しかし演奏にあたっては、鍵盤楽器で弾けるように書かれていながら楽器指定がなく、また曲順をどうするか、未完フーガを含めるか否かという問題がつきまとう謎に満ちた作品でもあります。楽譜は出版譜の他にいわゆる「ベルリン自筆譜」(Mus. ms. Bach P 200)が残されていて、曲数や曲順、譜面の各所に違いがあります。このアルバムでは自筆譜を採用し、「完成した作品」として演奏することが試みられています。

これぞバッハなる所以の曲である。ブラボー!

50年代のNorthern Electric18GAシングルスズメッキの単線交換で試聴する、Dinah Washington (ダイナ・ワシントン) のヴォーカルを聴く。

2020年08月19日 | JAZZ・ボサノヴァ


今から2年程前に此のWEの黒色の動線に錫メッキ単線ケーブルをY氏より教わり早速購入したが、それまで使用した撚り線の音と比べ音の纏りが随分向上した記憶が残る。その後すっかり単線ファンとなってしまった、他社の撚り線も勿論ベルデンの撚り線・単線も使ったが我がシステムにはWEが断然勝る。

現在使用のスピカーケーブルはWesternElectric 18GA単線シングルビンテージケーブル単線シングルスズメッキの入手してメインに聴いているが、GOODMANS AXIOM 80のA.R.U付きの箱に10吋同軸型2ウェイユニットであるHPD295のTANNOYのユニットを入れたエンクロージャーと真空管アンプ300Bの組合せ聴く音がお気に入りである、ⅢLZのオリジナルの箱と比べ低域の伸びが加わり断然迫力のある音場の広がる演奏が響き渡る流石WE製のスズメッキ線が違う。



何気なくWEの商材を覗くとレアな50年代と思われるWestern Electric ,Northern Electric,ウエスタンエレクトリック、ノーザンエレクトリック、ヴィンテージ、ワイヤー、ケーブルでスズメッキされた銅線にクロス18GA単線です。現在被覆の黒色をWEは使用中だがいい音で鳴っている、色々試したがヴィンテージTANNOYとの相性と頗る良い結果が得られる。Northern Electricは1800年代の後半に、カナダでの電話ビジネスを拡大する為に、ウェスタンエレクトリック社とベル社が出資して作られたノーザンエレクトリック。電話インフラの普及拡大と共に、純度が高く、錆びにくく、耐久性の高いケーブル(ワイヤー)が様々な会社にて開発されていきました。WEと音質はよく似た音がする、被覆が違うだけなのか今ではWEの商品は大変貴重品と聞く?

一応予備と思い注文したが、特にWEのケーブルは見つけたら直ぐに購入しなければ在庫がなくなると聞くが、全くその通りで今回出来れば20m欲しかったが、気がつくのが遅く残り10mしか無く、最後の残り10mを購入した。



昨日到着し早速封を開封し10mの単線ケーブル到着します、なんとなく古いケーブルの匂いが鼻を擽る、白っぽい被覆には少し薄汚れた箇所もある。考えれば70年前の商品なんですネ・・・・以前のWEのケーブルと比べ若干太く感じるが被覆の色のせいである白は膨張色です。最近思うはこのオーディオ機器用品は随分長持ちする商品である、オーディオ製品の中の回転系はモーターの限度もあり、又真空管は消耗品とすれば骨董品のアンプはコンデンサーの交換程度で随分長持ちする。筆者の数々のアンプも20年前以上の骨董品のオンパレードであるが、試聴すればまだ立派な現役です昔からの銘器は未だに高値の華である。

勿論スピーカー等もエッジのゴム部分が経時変化により定期的に交換すれば長持ちする、勿論筆者の聴くTANNOYのHPD295も50年前の代物である。確かに昔五味先生がおっしゃった購入は一生の物、是非本物をといった言葉を思い出す。

特にオーディオケーブル等は一般には真空管が有名なWE製品等は今も現役製品が圧倒的に多く、年々高額になっているように思う。Northern Electricのケーブルを2.5m4本にカットし勿論無水アルコールで清掃し接点回復剤を塗布し結線し音出しをする。使用上、注意点はスズメッキ部分を削らずに良く清掃して使用する事が肝心のようです。但し超高額(m/●万円)なケーブルもあるようだが未だ試したことはなく、ケーブルも一般的な製品しかコメント出来ない。条件的には使用する機器がヴィンテージなら、WEのスズメッキの単線は是非オススメのスピーカーケーブルである。



暫く色々なジャンルを聴き何気なく選ぶが久しぶりにジャズヴォーガル、ダイナ・ワシントン(Dinah Washington)1924-1963を聴く。正しく此のNorthern Electricが発表された時期と重なる。

Jazzには「ho's systemのLS3/5a」で聴く事が多いが女性ヴォーガルを聴くには10吋同軸型2ウェイユニットであるHPD295のTANNOYが楽しめる、独特の女性ボーガルの色気の再生にはとても難しいが其のあたりの音質の表現が抜群に心地よく、声の艶、力強いダイナミックの音は勝る、勿論Northern Electricのスズメッキされた銅線の単線ケーブルとも相性抜群でスムースな繋がりの音が聴ける。



1924年8月29日、米国アラバマ州タスカルーサ生まれ。女性ジャズ・シンガー。15歳の時、アマチュア・コンテストで入賞してジョー・グレーザーに認められた。その歯切れの良い歌い方と完璧な言葉遣いは、エスター・フィリップスやナンシー・ウィルソン等、彼女の後に続くベスト・ジャズ・シンガーの多くに強い影響を与えた。“ブルースの女王”の称号を持ち、その短くも華々しいキャリア中、R&Bと、それからポップ・ヒットまでをもカヴァーした、極めて多才なダイナ・ワシントンだが、その専門分野はジャズだった。

43年にライオネル・ハンプトン楽団の専属となる。初アルバムは43年、キーノート・レコードに録音。46年には独立して、マーキュリー・レコードと契約、多くの録音を残した。“ブルースの女王”と呼称され、明快な歌詞と正確な音程で、ダイナミックなブルース唱法を得意とした。1963年12月14日、39歳の若さで他界した。



ダイナ・ワシントンの魅力といえばなんと言っても、揺れるようなあの歌声である。サフトだけでもない。勢いでもない、ゆったりとして心に染み音で来るのがダイナの歌の真骨頂だ。
小さいときから教会で歌い、安定した音程と独特のヴィブラートをかける彼女の歌声は、クリフォード・ブラウンとのセッションでの器楽的なアプローチにおいても、楽器にまったく引けを取らないばかりか」かえって彼女の天才を確認させた。まさに、歌にスキャットに持って生まれた才能に溢れた歌声がダイナ最大の魅力だ。


ダイナ・ワシントン(Dinah Washington)1924-1963
アラバマ州タスカルーサ出身のルース・ジョーンズは、ダイナ・ワシントンという名でよく知られるダイナミックなシンガーだ。その歯切れの良い歌い方と完璧な言葉遣いは、エスター・フィリップスやナンシー・ウィルソン等、彼女の後に続くベスト・ジャズ・シンガーの多くに強い影響を与えた。“ブルースの女王”の称号を持ち、その短くも華々しいキャリア中、R&Bと、それからポップ・ヒットまでをもカヴァーした、極めて多才なダイナ・ワシントンだが、その専門分野はジャズだった。


絶頂期のダイナ・ワシントン絶頂期のヴォーカルをパントンクインシー・ジョーンズのアレンジで豪華なメンバーがサポートする名盤でもあり、ブルースの女王ダイナ・ワシントンの数あるアルバムの中でも僕のお気に入りの一枚“FOR THOSE IN LOVE”。そのブルースの女王が歌うジャズ・アルバムでは“AFTER HOURS WITH MISS D/” やクリフォード・ブラウンとの共演盤“DINAH JAMS”ももちろん文句はないのですが、本アルバムもそれ等に劣らぬジャズ・アルバムとしての名盤。


For Those In Love(フォー・ザ・イン・ザ・ラヴ)
<演奏>
  ダイナ・ワシントン(vo)
  クインシー・ジョーンズ(arr)
  ジミー・クリーヴランド(tb)/バリー・ガルブレイス(g)
  ウイントン・ケリー(p)/ジミー・コブ(ds) 他
<曲目>
   1、君にこそ心ときめく
   2、青いガーディニア
   3、イージー・リヴィング
   4、ユー・ドント・ノウ・ホワット・ ラヴ・イズ
   5、ジス・キャント・ビー・ラヴ
   6、マイ・オールド・フレーム
   7、書き残したい私の恋
   8、メイク・ザ・マン・ラヴ・ミー
   9、イフ・アイ・ハッド・ユー*
    10、アスク・ア・ウーマン・フー・ノウズ*
 オリジナルレーベル:EmArcy Records
 制作:PAN AM Records
 録音:1955月4月15 ~ 17日
 規格:33rpm 180g LP Stereo

しかし考えて見れば解るが、録音は1955年東京オリンピックの10年前の録音で筆者の聴いたのは東京オリンピック以降だったので、夢中で聞いた頃には故人であった。勿論今聴いても古さは全く感じられず、此れ以上のシンガーも稀有である。


『フォー・ザ・イン・ザ・ラヴ』は、アメリカのジャズボーカリスト、ダイナ・ワシントン(vo)によるスタジオアルバムで、クインシージョーンズがアレンジしました。もともとは1955年6月にEmArcy Recordsによってリリースされ、その後1992年にヴァーヴ・レコードによって再発行された。
メンバーも最高、アレンジを良く、ヴォーガルも良く三拍子そろったアルバムって素晴らしいと思いませんか?
アレンジはクインシー・ジョーンズのアレンジで、この作品で彼の最高の仕事のひとつでもあります。バックの顔ぶれも見てください。トロンボーンJimmy Cleveland、ピアノWynton Kelly、ギターBarry Galbraith(天才)と素晴らしいバランス。

不良で全曲、ダイナ・ワシントンの声は左チャンネルからしか聞こえません。ジャズは何年にも渡り、魅力的で多種多様なタイプのヴォーカリスト男女を大量に産出している。彼等は皆それぞれに個性的であり、その多くは、セシル・マクロリン・サルヴァントやジャズメイヤ・ホーン等若手新人スター達によって現在も進化し続けるこの芸術の発展に大いに貢献した。この新人達もまた何年か後には、きっとこのようなリストにその名を連ねることになるだろう。



そしてもう一枚「縁は異なもの」ストリングスをバックにバラードを歌い上げた珠玉の名盤だが1曲目の冒頭で右チャンネルから音が出ないので、疑問に感じるがミキシングが不良?いや左側で歌っているようです、メインヴォーガルルは中央で歌ってほしいですね、内容はジャズ・ボーカルなどという狭いジャンルに囚われず、グッド・ミュージックです。此のレコードの録音後の翌年には亡くなりました。女性ジャズヴォーガルでは今もトップクラスです。


ダイナ・ワシントン(Dinah Washington 1924年~1963年)の歌は、飾り気のない、素のままの感じ。何かを訴えかけてくるような、歌です。生身の人間の、まっすぐな思いを感じます。マイクロフォンの性能が今ほどよくなかったせいか、この時代のシンガーは声が大きく、お腹の底から出しているような感じがします。バラードもそんな感じで歌うので、生身で切々と訴えかけてくる感じがします。ダイナ・ワシントンといえば、グラミー賞も受賞した、この曲が有名。



以前据え置き型のオーディオインシュレーターを自作して使っているが随分落ち着いた音も気に入っているが、此の下に石を曳いたのがより効果的か悩んでいる。以前と違い随分腰の座った音が出るようになった。

ダイナ・ワシントンはシャウトするような力強い歌い方、独特のビブラートが持ち味。「ブルースの女王」とも言われ、ダイナ・ワシントンの歌にはブルースの影響が濃くみられますが、ブルースシンガーというよりも、ジャズシンガーに位置付けられることが多いです。

ジャズにブルースを色濃く反映させた功労者といったところでしょうか。
ジャズヴォーガルの真髄を聴くにはGOODMANS AXIOM 80のA.R.U付きの箱に10吋同軸型2ウェイユニットであるHPD295のTANNOYのユニットを入れたエンクロージャーが堪能出来る。先日大島椿油を塗布し乾いた布でよく拭くと、かなりの艶が出た。定期的に磨いている。



今一番の問題は「ho's systemのLS3/5a」を上手く鳴らすアンプに一番悩んでいます、このLS3/5aはアンプの特性があまりにもストレートに鳴らす為現在LINN LK-100のアンプで聴くが、後少しのパワー不足が伺える、今後色々試しながらオーデイオを楽しむが、価格的にも限度があり双方満足するものが見つからなく頭を悩ませる此の様な事が一番の楽しみかも知れない。

1."I Get a Kick Out of You"の細やかなギターイントロを聴いた時、買ってよかったと思うでしょう。
7."I Could Write a Book"を聴いた時、なぜ今までこのアルバムを知らなかったのかと歯噛みするでしょう。
お酒(スコッチ)をちびちび飲みながら聴くと良い時間が過ごせますヨ、エマーシー時代のダイナは最高です。中でもこのアルバムは必携の一枚!彼女の絶頂期です。キュートで伸びやかで、

しかもピリリと辛口なダイナのボーカルを存分に堪能できます。ブラボー!

あの親中の池上 彰では解説はできない、正しい近代日本史を紐解く、見えて来た史実日本史の考察。

2020年08月16日 | 日本史の考察


最近の初めに、今回のブログは貼り付けたYouTubeをご覧いただきお読みください、またいつものブログと比べ長くなりますのでご容赦ください。より一層近代日本史の真実が解明できます。最近の池上 彰さんの解説かなりの疑問を感じる貴兄は是非一読ください、多分基本的には池上氏は親中派と考えると納得出来るとも思える。流石元NHK解説者です、皆さんは如何でしょうか・・・?

特に朝日新聞社、テレビ朝日などは中共から多くの広告費を頂き益々共産色を深めてまともなニュースも報道出来なくなっているようで、電通(代理店は構造不況産業と言われた)等も政府の広告以外の仕事で利益計上をし、新聞販売店等にも販売数は水増しマスコミの禁呪手を行い朝日放送「10」チャンネルも相当視聴率は悪くNHK共に中共風に言えば粛清しなくてはならない勿論NHKを筆頭にテレビ朝日・TBS初め大手もそれに続くマスゴミが。

日本の著名人、政治家、会社役員にも意外と親中派が多く驚く、この前の戦争以前の帝国政治の解釈を間違え親露派、親中派のレーニン・マルクス主義に賛同し共産主義賛成派になり、その後も民主主義の革を被った親露派、親中派たちが生き残る。戦後も教育は日教組と生き残り共産派は過激に生き残り、前の大戦を自虐する。勿論歴史教育も日教組の連中の間違いだらけの教育を受けて育った戦後教育だった。
ただし日本も共産国になれば大量殺戮が公然と行なわれるであろう。

今回の米中冷戦で見えて来た、戦前より生き残る、親露派、親中派が実に多い、安保反対事件等の生き残り共産派が沢山いる、当然ニュース解説者池上氏辺りも丁度安保反対事件影響を受けた世代で勿論筆者もその年代であるが。最初に結論が出ている事は、8月15日は日本では終戦記念日となっていますが、日本は何故戦争を行ったかの疑問は、国民が開戦の言葉を知らない日本人が大勢いることが恥であろう。(開戦全文)を紹介しよう。この機会に改めましょう。

               詔書
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。
中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。
皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

              御 名 御 

                     昭和十六年十二月八日

詳しい解説は下記の映像を御覧ください。


見事な開戦の言葉は現在も残り当時の日本人の気持ちを述べていることが理解出来る、アジアの植民地化を守るために起こした戦争である。

各国務大臣副書最近支那の国?が大変な暴走をしている、いや正確には支那の国の中国共産党が暴走している、此れは戦前から疑問視された案件で、勿論現在親中派の衆参議員の二階議員と今井はアメリカより親中派と名指しされ、最新の全50名二階派のリスト一覧読み上げます!【テロップ付き】というYouTubeを見ながら此のブログをカキコしています。今回は長い文章の掲載になりますが、あえて近代日本史を調べて見ることにしました。昔の教科書には書かれていなかった事実を申し述べる。


現在日本は民主国家でありながら、少し違う方向に行っている方も多いようにお見受けする、その筆頭にNHKを代表とする報道機関、朝日新聞社を初め新聞社、勿論民放放映局なども、疑問を疑う報道が多くなっていて親中派、親韓派も多く、長年それらの放映を見ていると事実がどこにあるのかも疑ってしまう。


現在朝鮮半島の国と雲行きが良く無くなっていますが、勿論今更言うことも無いが、此れも調べて見ると事実がわかりますが、朝鮮半島の歴史を見れば答えは明らかになる、詳しくは筆者の以前のブログに掲載しました。歴史家の宮脇淳子さんお中国・朝鮮の正体を見ていただければ理解いただけると思います。


以前にも掲載いたしましたが、科学的にも最近DNA鑑定でより解明した染色体の事実が発見されたようで、今までの日本人のルーツが解明の手がかりになるのではないか、と思う節もあり筆者も驚いたことでした。此処で解明できたことは、日本人は支那人、朝鮮人ともDNAが違う人種と証明されたことだ。「ヘブライ語から読み解く日本神話「あなにやし」「タカマガハラ」日本語とヘブライ語の共通点」も御覧ください。



そこで頷ける事は何故日本の皇族は男性系列重視かもこの遺伝子から紐解ける、遺伝細胞の男女の差はY染色体(♂)X染色体(♀)でありY染色体は交配してもY染色体は薄まらないが、X染色体は交配で薄まり、3世代後には1/3以下になる結果が判明した、Y染色体の男性染色体で続く皇族は世界的みても日本(日出ずる国)なのである。日本は島国でもあり現在日本人は1億2千万人ほどの人口で海外との交流は殆ど少なく、勿論皇族とも同じDNAであることが解る。これだけ長く続く日本の人種は日本人全員は兄弟と言うことも証明でき、縄文時代から続く歴史はDNAも殆ど変わりない事が特徴である。

第一次世界大戦後朝鮮半島には随分日本の国家予算以上の投資をして、半島の人々とも平等に国の平和に導くが受け入れられずに現代に至る、此処で日本が取った態度だ、当時は戦争敗戦後は奴隷化することを日本人は熟知し、人種差別を嫌った日本はアジア人との戦争は一部の共産主義の中国共産党としか戦ってはいない。又此のような逸話も多く聞く、日本人の家庭でのメイドは不要で、何れの家族も奥様方が全てメイドの仕事はこなすとこが当たり前の事だった。

そのため奴隷になることの辛さを理解し戦争で死んでいったと、と言う人もいます。他の国にはない玉砕が多いことも頷けます。現在の大手企業役員、日教組、議員先生がどれだけ此のことを理解しているのか疑問です。全く情けない国になってしまった話であります。是非教科書は正しい歴史に替えましょう。


今年は梅雨前線が長く日本列島に前線影響のため長雨、しかも豪雨のため日本中に莫大な被害をうけた、地球の磁場、地区は南アメリカ大陸付近に地場が影響しているという噂もあるというが?8月になり今年も終戦記念日が来る、今まで疑問に思っていた敗戦と言う重き荷物を背負い戦後が始まったが、此のあたりで本当の日本の歴史を考えて見たいと思い筆者なりに考えて調べました、最終的には何故日本に原爆投下したのか、どうやら答えは「ソ連共産主義」に対する見せしめも含めたともある、歴史とは新たな史実の発見とともに変化する正しい歴史から現在の世界が見えてくるのであろう。


まずここで思う何故ソ連は重大な違反したのか不思議な事件、此の事件を知れば誰もが旧ソ連、共産主義を憎むであろう、裏には日本陸軍官僚の関与の疑いが色濃い、事件は自決した真岡郵便局の女性たち 同僚を記憶映画化された「霧の火-樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち」昭和二十年(1945年)8月20日は、真岡郵便電信局事件が発生した日です。映画『樺太1945年夏 氷雪の門』やドラマ『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』などで扱われて多少知名度が上がりましたが、生存者への配慮等からいくらかの脚色がなされています。以下、より事実に近いと思われる内容を述べていきますが、生存者の方、ご遺族の方、並びに関係者の方への責任追及・誹謗中傷等の意図は全くございません。そのため、個人名を挙げることは控えさせていただきます。


先に、この事件において要点となる「電話交換手」という仕事についてお話しておきましょう。戦後間もない当時の電話は、直接相手の番号に書けることが出来ません。一度、電信局へかけてから「この人に繋いでください」と頼まなければなりませんでした。このとき必要に応じて「電話」の線を「交換」する仕事が電話交換手です。力が要らないことから女性の仕事として非常に人気が高く、憧れの職業でもありました。

しかし、14日にポツダム宣言の受諾が決まり、15日に玉音放送で正式に敗戦が決まった後も、ソ連軍の侵攻は止まりませんでした。16日に婦女子の引き揚げが決まり、郵便局の職員についても順次引き揚げるよう局長から命令が出ています。局長は「残ればどうなるか」、つまり略奪・殺害・性的暴行の可能性を説きました。が、彼女らは、電話交換手という自らの職務に絶対の責任を感じ、残留を志願するのです。

此れは間違いなく戦後の事件ですが12人中9人が青酸カリなどの自決で亡くなられた事は現在のロシアは最低の国であるがその前にこの事件の戦争前に戻り日本史の事実を知らなけrばなりません。以前司馬遼太郎の本を読んでいた時に司馬遼太郎もこのノモンハン事件は書けなかったという事件で日米戦争は此処で日本陸軍は十分学習しているはずだ。

司馬遼太郎の小説は好きで坂の上の雲等で日本陸軍上層部の事が上手く書けてない、その疑問を感じ歴史の史実を見てみると、最大の事件にたどり着く、ノモンハン事件(1939年5月11日~9月16日)は、当時の満州国とモンゴルの国境地帯で起きた地域紛争だ。


日本にとっては、日露戦争(1904~'05年)後、初めての本格的な近代戦争だった。日本・満州連合軍対ソ連・モンゴル連合軍の間で展開された戦闘であったが、実質的には日本軍とソ連軍の戦いだった。この戦いで日本軍は壊滅的な打撃を受けた。


この事件以前日露戦争以降猛烈な貧困国になった、戦争では勝利するが、生活は厳しく、そこで当時の上層な日本人たちが社会主義国家がパラダイスと思い一部エリート層がの社会主義者が軍部、官僚に紛れ込む、日本の間違いは此の頃から送っているようです、そして米軍と戦争させ敗戦革命を行った。ノモンハン事件(ハルハ河戦争)は、日ソ間の軍事衝突ではあるが、そもそもはモンゴル人民共和国と満洲国の間で発生した国境紛争から始まっている。
1939年に入ってから、たびたび国境をめぐって小競り合いが起こっていたのだが、満洲国の防衛にあたる関東軍が「国境侵犯」だと見なし、ついに堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。ところが、軍事衝突の原因となったノモンハンがどこにあるのか、軍関係者は誰も知らなかったという。現在でも、状況はそれほど変わらないだろう。高校の「地理」で使用する地図帳にノモンハンの地名が記載されているのは、そこがノモンハン事件の発端になったからであるに過ぎない。


変わらないだろう。高校の「地理」で使用する地図帳にノモンハンの地名が記載されているのは、そこがノモンハン事件の発端になったからであるに過ぎない。
「ノモンハン事件」は日本での呼び名であるが、交戦国のソ連(ロシア)とモンゴルでは「ハルヒンゴール(ハルハ河)戦争」と呼ばれている。ハルハ河が国境線だと主張する満洲国(および日本)と、国境線はハルハ河の右岸まで含まれるとしたモンゴル(およびソ連)との認識の違いが生み出し、ハルハ河の左右両岸で戦闘が行われたからだ。ノモンハンを勝利に導いたジューコフは、その翌年、大将の称号を与えられた。
スターリンにも謁見が許され、ジューコフは日本軍についてこう報告した。兵士や下士官はよく訓練され、優秀で、現場指揮官も責任感が強いが、幹部が無責任で紋切り型の思考しか出来ないというのは、日本陸軍が官僚化してしまったからだ。ノモンハン停戦から3日後の9月17日、ドイツに続いてソ連がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。

この戦争に備えるためにスターリンはノモンハン事件を終結させたかったのだが、日本はそのようなソ連の思惑に全く気付いていなかった。ノモンハン事件の悲劇は、戦いで敗れただけにとどまらない。捕虜になるなという日本軍の対応も太平洋戦争を先取りしていた。ソ連をはるかに凌ぐ経済力と技術力を持った米国と戦争することになれば、物量戦で日本が不利になることは明白だった。にもかかわらず、日本は精神力によって物量を補うことができると考え、ノモンハン事件の敗北から学習することを怠った日本陸軍が精神論だけの官僚化が敗因の一番の原因か?


日本帝国の官僚腐敗は見事に亀裂が入り、当時の陸、海軍上層軍部官僚にも腐敗者の多く増えたようです、勿論ハル・ノートを文中を探ると南雲中将は何故ハワイの軍事ドックと燃料タンクを第三次攻撃すれば違う結果となっていたかも知れない、当時世界初の機動部隊を操る日本軍は強かったと思うが兎に角、日露戦争以降の海軍は機動部隊から出撃する航空機350機を発艦させる事の技術等は連合軍など皆無で統制は取れなかったと言われる、多少の被害を受けようとも此のハワイ攻撃は日本の大失敗でした。そして此のガダルカナルの戦い以降は連敗に続く連敗です。あとは日本陸軍のお些末な部分が露呈する。


歴史的事実をたどれば、1939年9月に第2次世界大戦が勃発して以来、米英首脳はたびたび会談し、枢軸国(日独伊)に対する連合国の協力体制を固めつつあった。1943年11月末、テヘランにおいて、米英ソ三大国の首脳会談が初めて開かれた。

そのころはまだドイツ軍がヨーロッパ諸国に展開し、各地で抗戦しており、3国会談の議題は主として軍事面での作戦協力であった。テヘラン会談で3大国の協力がなり、西と東からドイツを攻撃する態勢ができた。44年6月6日、米英軍はノルマンディーに上陸した。6月23日、ソ連軍が総攻撃を開始した。ドイツ軍は一挙に劣勢に追い込まれた。1945年2月のヤルタ会談は、ドイツの敗北が動かしがたいものとなり、一方で、米軍機による日本本土空襲が本格化した時期に、ルーズベルト米大統領の再三にわたる提唱により、戦争を一日も早く終わらせるとともに、世界の恒久平和を確立することを願って開かれたものであった。



ロシア国防省は第二次大戦末期に行われた米英ソの三カ国首脳によるヤルタ会談に関連した機密史料を先月末から同省ウェブサイトで公開している。同会談は一九四五年二月、旧ソ連クリミア半島(現ウクライナ南部)のヤルタで開催。公開されたのはルーズベルト米大統領、チャーチル英首相を迎えた際の黒海艦隊の警備計画など各種指令書や地図計百点以上。当時はドイツ軍の活動が活発で、両首脳らの安全を確保するため、スターリン(当時首相)の率いるソ連が詳細なプランを練ったと強調する内容。ソ連が戦勝国として戦後秩序の構築を主導したと内外にPRする狙いとみられる。


同会談ではドイツ降伏後の戦後処理や国際連合設立のほかソ連の対日参戦など一連の秘密協定も結ばれた。今日、松岡洋右といえば、「国際連盟の脱退」を決め、その後「日独伊三国同盟」を進め、日本を国際的に孤立させた「軍国主義の象徴」のような“悪人”として、学校で教えられていますが、、、不思議におもいませんか?本当にそうだとしたら、なぜ松岡洋右の主張をありありと書いたこの本を、連合国は「没収した」のでしょうか?本当に松岡洋右が「日本に戦争をさせた悪人」なら堂々と公開して、その醜態を戦後の日本人に晒した方が良かったのではないでしょうか?最大の会談ヤルタ会談に至るまでです。1939年(昭和14)「満州国」とモンゴル(外蒙古(もうこ))の国境ノモンハン付近で起こった日ソ両軍の大規模な武力衝突。

ノモンハン付近の国境について、日本側はハルハ河を、ソ連側は北方ノモンハン付近をそれぞれ国境と主張し、かねてより係争中であったが、関東軍は1939年(昭和14)4月隷下(れいか)部隊に示した「満ソ国境紛争処理要綱」において、紛争に際してはソ連軍を徹底的に膺懲(ようちょう)せよとの方針を決定した。たまたま5月12日に、ノモンハン付近でハルハ河を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突する事件が起きた。ハイラルの第23師団長小松原道太郎中将は、関東軍の先の示達によりただちに部隊を出動させ外蒙軍を一時撃退したが、ソ連軍は外蒙軍に加わって反撃した。報告を受けた関東軍司令部はソ連軍撃破の強硬策を決定し、航空部隊による外蒙の後方基地爆撃に続いて、7月2日第23師団が攻撃を開始した。しかし日本軍はソ連軍の優勢な火力と戦車の反撃を受けて苦戦に陥った。



日中戦争の最中にあって、事件がさらに日ソ戦争に拡大することを恐れた大本営は不拡大方針を決め、政府も事件の平和的解決の方針を定めた。しかしこれを無視した関東軍は7月23日、攻勢を行い、これに失敗後もなお兵力の増強を図り、第三次攻勢を準備した。一方、ソ連軍は国境線回復のため8月20日から狙撃(そげき)・戦車両師団の大兵力を集中した総攻撃を開始し、日本軍は第23師団壊滅の大敗を喫した。おりから9月1日ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したため、大本営は攻撃の中止と兵力の後退を厳命し、モスクワにおける交渉妥結を急ぎ、9月15日モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)大使の間に停戦協定が調印された。軍中央は敗戦の責任により関東軍の植田謙吉(けんきち)司令官と磯谷廉介(いそがいれんすけ)参謀長を予備役に編入したが、参加部隊では責任をとって自決する部隊長が相次いだ。

事件の敗北は、陸軍の対ソ開戦の企図に重大な打撃を与えた。日本の官僚軍人の悪癖は近代戦争の事はこのノモンハン事件が象徴するように、近代兵器を大量に投入しないと勝てないことを日本軍は学ばなかったようである勿論航空機は日本軍が勝っていたが負けると解って起こした戦争のように思うが、日米戦争(太平洋戦争)に進んでしまう、日本国の帝国主義と共産主義の統一戦争と考えれば納得出来る、未だ議員の多くに此の流れに寄り添った人達が政界を牛耳っているかのようである。江戸時代前期の美しい平和な日本、嫌其れ以前のソフトに世界の良い文化をアレンジし収集しより良い国にする日本に戻ろうではないか、此のあたりで日本の屈折した時代を明らかにに日本史を次の時代に繋げるべきである。


「ヤルタ密約、ソ連の対日参戦」の極秘情報を得ていた小野寺信
ヤルタ密約は「極秘扱い」とされて公表されず、したがって日本の軍・政府は知る由もなく、1945年8月9日に始まるソ連軍の満洲侵攻は「寝耳に水だった」、と教科書では教えられてきました。しかし、東京の参謀本部にこの極秘情報を打電した情報将校がいたのです。
スウェーデンの首都ストックホルムの日本大使館に派遣された駐在武官、小野寺信(おのでら まこと)です。



小野寺は陸士卒業後、ロシア革命を妨害するためのシベリア出兵に従軍した際、ロシア人家庭に泊まり込んでロシア語を習得しました。参謀本部第二部(情報課)のロシア班に配属、ソ連情報を収集するため、バルト三国の駐ラトビア日本大使館の駐在武官として派遣されました。
ソ連がバルト三国を併合したため、小野寺はスウェーデンの日本大使館に移ります。 小野寺の元には、ソ連からの独立を求めるポーランドやバルト三国の情報将校たちが集まり、「小野寺機関」が活動を開始しました。その中心人物は、自称「亡命ロシア人のイワノフ」。
その男の正体はポーランド亡命政府(在ロンドン)の情報将校リビコフスキーでした。彼は配下に数十人の工作員を抱え、小野寺から得た枢軸国側の情報をロンドンに提供する一方、見返りとして連合国側の情報を小野寺に伝えていたのです。

現在は日本陸軍の腐ったリンゴ~エリート参謀、辻政信「悪魔の正体」と言われる



記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「軍の神様」と謳ったが、辻政信は、個人的な戦功をねらって自分が主導したノモンハン戦争が、おびただしい犠牲を出して大敗北に終わったことを、誰よりもよく知っていた。しかし卑劣にも、辻政信と関東軍の最高指導者たちは、おびただしい犠牲を出して大敗北した責任を、全て前線の指揮官たちになすりつけた。生き残った前線指揮官たちに自殺を強要した。停戦後、捕虜交換によって戻ってきた将校たち全員に自殺を強要した。関東軍の最高指導者たちは、勇敢に戦った前線指揮官たちと、激しい戦闘中に負傷して昏睡状況で、自分の意思に反して捕虜になった勇敢に戦った将校たちを、死刑にしたのである。

関東軍の最高指導者たちは、あまりにもの悲惨な大敗北の事実の隠ぺいと、自分たちの【擅権(せんけん)の罪)】を免れるために前線指揮官たちと捕虜になった将校たちを死刑にしたのである。

マレー作戦とシンガポール華僑粛清事件、フィリピンとバターンの偽命令による虐殺、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦い、中支戦線、ビルマ戦線等の作戦の参戦して連合艦隊司令長官山本五十六大将を訪ねたとき、物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て不快に思い「海軍はゼイタクですね」と皮肉を述べた。直後、辻は海軍側から山本長官の心遣いであることを知らされ「下司(げす)の心をもって、元帥の真意を付度しえなかった、恥ずかしさ。穴があったら入りたい気持ちであった」と回想。山本の態度から日本海軍と日本陸軍の統率を比較して「下剋上の悪風が敗れたる陸軍に無かったと主張することはできないが、さらに一歩考えねばならぬことは、幕僚にわがままを許すのは、上官の罪ではなかろうか。」と反省したようだ。

一番の悪は、今明らかになった瀬島龍三とはどのような人物だったのか?彼はガダルカナル作戦以降は全て失敗している。裏で共産国と繋がっていたのであろう・・・・



彼はソ連のスパイだったのか?「昭和の怪物」瀬島龍三の正体初代内閣安全保障室長を務めた元警察官僚の佐々淳行氏(故人)は、著書『私を通りすぎたスパイたち』で、「昭和三十年代、ソ連大使館員の尾行を続けていると、その館員と接触する日本人ビジネスマンがいた。それが瀬島だった」と記している。

瀬島は大本営参謀だった太平洋戦争末期の'44(昭和19)年12月から翌年2月にかけて、単独でモスクワ出張に出る。自身の回想録『幾山河』には、「外交・軍事機密文書を在モスクワ日本大使館及び武官府に届ける役目」で、「私の偽名は『瀬越良三』だった」と書いている。日本が日ソ中立条約の継続を望み、広田弘毅元首相をモスクワに派遣しようとしていた時期の重要任務だったが、瀬島は回想録で「遠くない将来、ソ連の対日参戦は不可避となるだろうと思わざるを得なかった」と、思わし気な述懐をしている。

日本の敗戦時、関東軍作戦参謀として満州に赴任していた瀬島は、ソ連軍との停戦交渉を担った。ここでも「60万の日本人をシベリアに送る密約を交わした」との説があるが、回想録で否定している。
その後、11年のシベリア抑留生活を送ったが、その間、'46(昭和21)年10月には、「ソ連側証人」として東京裁判に出廷。抑留中も過酷な野外労働ではなく室内労働だった。

勿論、茶番な東京裁判に被告側に肝心な名前「瀬島龍三」は無い。


「ソ連人が記した『シベリア抑留秘史』がソ連崩壊後に出た時、瀬島は日本語翻訳版の監修を務めて改竄。私がそれを指摘すると『事実を書いて何が悪い』と開き直りました」
勿論親中派で有名な中曽根首相が「最も頼りにした参謀」'81(昭和56)年3月、「増税なき財政再建」を掲げた鈴木善幸内閣の下、臨時行政調査会が発足。数々の企業を再建させた土光敏夫元経団連会長が、会長を務めた。伊藤忠会長の他にも、日本商工会議所特別顧問などを務め政財界に幅広い人脈を築いていた瀬島は、請われて委員となった。「メザシの土光さん」と愛された土光会長が臨調の「光」なら、瀬島は「影」の存在で、各方面との調整役を務めた。

当時仕事関係での群馬での葬式場にて中曽根 弘文とも合ったが中曽根 弘文のことは皆口を噤んでいた、群馬以外の人には言えない事が多いようでした。勿論中曽根家は親中派の巣窟か・・・・・?



ついたあだ名は「臨調の官房長官」。情報漏洩の元は、「裏臨調」だった。権勢を増していた中曽根康弘行政管理庁長官が毎週金曜夜、赤坂の料亭で開催した会合の異名だ。勿論海軍上がりの中曽根が最も重用したのが、軍隊の先輩でもある瀬島で、二人を中心として、配下の橋本龍太郎党行財政調査会長などと、実質的な方針を決めていた。

その後、公約に反して企業増税を打ち出した鈴木内閣の人気は急落し、'82(昭和57)年に中曽根が後継総理の座に就く。同時に瀬島は、「総理の参謀」となった。瀬島龍三と伊藤忠との関係は、どうも「日本は中国の属国として生きていけばいいのです・・。それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」と公言してはばからない丹羽宇一朗前駐中国大使と伊藤忠との関係と似ているような感じがするのは私だけだろうか。

未だ伊藤忠商事は共産圏との国と商売をし金銭回収は第三国を使い利益を上げている事は事実である、元伊藤忠商事の知人が話してくれたのである。日本国の人間に全く情けないが、未だ瀬島龍三から続く親共産派は随分沢山いる事実である。

実は共産主義者が此の国の政治を関与して事が理解出来る、意外と親中派は多く浸透していたとこは事実である、現在米国から指摘された、二階、今井の親中派と名指しされた。
明治44年(1911)生まれの瀬島氏は陸軍士官学校を首席で卒業後、関東軍参謀本部で太平洋戦争の指揮にかかわり、無数の日本兵が餓死したガダルカナル島の撤退作戦では立案主任を務めた。戦後は11年間にわたりシベリアに抑留されたが、その瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる“シベリア抑留密約説”だ。瀬島氏は終戦直後の1945年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである。

裏ではロシアと繋がり勿論最初に話した、樺太の真岡郵便局の女性たちの事件に繋がる、東京裁判だけでなく戦争の傷を残した日本人も裁かれなくればならない。此れが日本史の史実である、今こそ正しい歴史を次の世代に公表し二度と戦争はしては行けないことを学んで頂きたい。

此処で改めて解るのは、8月15日に終戦宣言した日で未だ戦いは終わってなかった、勿論日本人は「武士の情け」等の風習がありそれも軍人以外の殺略などはしない、いやできない国民性があるが、アメリカ合衆国は2度も原爆を使い又終戦宣言後も東京空襲を実施した。一般の国民を亡き者にしたのは、よほど日本人が怖かったんであろう、共産党は全く違って自分の国の人間を大量殺略で国を作った人々であることは事実である、長い偽りの日本史を理解し美しい日本を取り戻したいと思う、長い文章にお付き合い頂き大変感謝いたします。

又新たな情報が分かり次第まとめて見ます、ブラボー!

愛犬麻呂が旅立つ、石坂公子(Kimiko Douglass-Ishizaka)が演奏したバッハ:The Well-Tempered Clavier、Bk 1 BWV.846-869の鑑賞。

2020年08月14日 | バロック音楽・オーディオ一般

庭の水槽に時期遅れの蓮(蓮根)の花が咲く、後少しで満開です、今年は咲かないかと思っていたが、見事に花をつけた。


翌日は咲き始めた、蓮の花、満開時より此の程度の咲き加減は実に良い塩梅だ、シャッターチャンス?蓮の花の開花で実に艶やかになる、お盆に咲く花は極楽浄土か?それにしても暑い日が続く。

最近の我が家のワンコの食欲が細くなり、突然引きつけを起こし動物病院で注射をし少しは小康状態になったが、先日12日の夕方愛犬のMダックス(麻呂)が旅立ちました。(20年5ヶ月)の長命でした、人間に例えると約100歳でした。翌日火葬しYouTube配信の般若心経を副読しました。


なにか心に穴が空いたように、気が抜けた感じです。家族の一員だったのでしょう。すごい脱力感だ、何もやる気が無くなる、家族皆落ち込む・・・・・・・。一緒に過ごした日に感謝する。


何気にYouTubeの中にピアニスト、石坂公子(Kimiko Douglass-Ishizaka)さんをここで初めて知りました。残念ながら初めて聴くピアニストでもありました。演奏する曲はバッハの「The Tempered Clavier」Book 1 BWV.846-869の録音でした。


音が鳴って暫く聴くうちに、なにか音楽に包まれるような間隔に陥った、早速iTunesで石坂公美子さんを検索すると4曲ヒットする、早速iTunesに切り替え試聴する、なんと驚く事は一音毎に知った音符を鳴らしチェックして聴くようにすごく大切な演奏が素晴らしく聴こえる。一瞬柔らかな腕の中で抱かれるように感じった。勿論ゴルドベルグ変奏曲を良いが、筆者には調律されたキーボード、平均律第一集が素晴らしく聴こえる何故か?・・・・・・・・。



勿論英国製の「ho's systemのLS3/5a」と古いアンプ、LINN LK100の組合せで聴くが、先ず先ずでの音はするのだが、細かいニュアンスに欠ける感じが纏い付く、もっと良い音?(力強い)で鳴るはずだ!の意識が強く残る、以前一度EL34の真空管アンプで聴いた記憶が徐々に美化され記憶に残っている。

今の音よりピアノ曲は確かに綺麗に聴こえ、包み込まれる感じは強いのではあるまいか?の疑念が湧く、此れは正に病気の症状であろう。

暫くは石坂公子さんのピアノ演奏に身を任せゆったりした時間を楽しむ、バッハらくしない演奏だが実に心地よいのだ。まるでシューベルトを聴くような感じに陥るがじつに気持ちが良い。



受賞歴のあるピアニスト、石坂公子が演じたThe Well-Tempered Clavier、Bk 1を発表しました。石坂さんは、バッハのソロキーボードの音符やフレーズを体系的に研究し、偉大な作曲家の作文の厳格な解釈を発見しました。石坂さんは2000年よりソリストとして活動し、モーツァルト、ベートーベン、グリーグ、ガーシュウィンの協奏曲を演奏し、バッハとショパンの通訳としての地位を確立している。



これはバッハではなく、シューベルトです。バッハはバロック派時代の人ですが、この演奏は古典派をすり抜けて一気にロマン派の演奏を聴く感じにになって聴こえる。音も、バッハらしい音ではなく正確情的で、表現もロマン派的な表現になっており、シューベルトのピアノソナタを聴くようです。これは第一巻のみでが、第二巻が実現されれば是非聴きたい演奏です。


JSバッハの世界では、音楽は超越的なものと見なされ、地上の欲望を超える目的を果たしました。愛、死、幸福、神性など、人間の存在に関する質問を調査し、回答するために使用されました。パフォーマーにとって、これらの主題を正確に反映することは、音楽のあらゆる側面に没頭することを意味します。Navona Recordsは、受賞歴のあるピアニスト、石坂公子が演奏したTHE THE WELL-TEMPERED CLAVIER BOOK 1を発表します。その解釈は、このレパートリーに特異です。音の明瞭さとバランスのとれたアーティキュレーションから、真剣さと感情の深さまで、石坂は透明性、情熱、知性の美徳に身を委ねています。



石坂は、ニューヨークタイムズから「才能があり、献身的なバチアン」と見なされ、バッハのソロキーボードの音符やフレーズを体系的に研究し、偉大な作曲家の作文の厳格な解釈を発見しました。バッハの音楽を分析すると、石坂氏は「各声は明確で独立していて、最初から最後まで一貫している必要があります。各声には、そのナラティブに論理的な独自のフレージングとダイナミクスが必要です。」さらに、ピアニストはペダルを避けて明快さと正確さを実現し、優れた技術と制御によりカンタービレの叙情性と流体の通過を実現します。

石坂公子演奏、バッハ:BWV.846-869


ゴルトベルグのような万人に知れ渡る曲、しかもグールドによってマスターピースが完成されている曲を新人がこれだけの熟練技を駆使して公開するのか!とあと残りわずかの人生なのに、バッハを聴くにはまだまだ時間が欲しいな、長生きしたいものだな、と思う。



勿論ゴルドベルグも良いが、正にシューベルト風、平均律は別格です。ドイツ生まれの石坂公子(38)は、クラシック音楽では初めての名前ですが、このアルバムを聴く人に長い間賞賛します。録音は明確であり、最も速い通路であっても、彼女のアーティキュレーションはクリーンで理解可能です。および個々の作品の構造を表示することへの彼女の関心立派です-そして素晴らしいです。これを達成するために、彼女はピアノのサスティンペダルを使用しなかったため、バッハの内なる声を驚くほど引き立たせました。

今後も益々素敵な演奏を楽しみに期待します。ブラボー!

事件だ、Macが起動しない・・・今でも新鮮に楽しめる、Gerry Mulligan のバリトン・サックスの音色を検証する。

2020年08月10日 | JAZZ・ボサノヴァ

最近Macの調子が頗る悪い、起動音はするが・・・・・・、起動時も遅くなり、本日電源を点灯すると随分のんびり起動する、HDはSSDの為普段は立ち上がりは大変早いのが特徴だが・・・・・、インターネットも見れない?勿論メールも起動しない?2008年製のMac Proも寿命か・・・?新機種導入するか・・・?

一度隅々まで掃除とメンテナンスをと思い近くの電気屋でエアーダスターを購入する、HD,メモリーを脱却し分解丁寧に掃除し、コネクター部分もエアーダスターでよく吹きかけホコリを落とす、アルコール布で拭き掃除して、あとは全体を掃除機で吸引する。綿埃が吸い込まれた、接続箇所は綿棒で無水アルコール清掃する。



その後接点復活剤を塗布し、組み立てる、ホコリは殆ど無くなり恐る恐る電源を入れる、Mac独特の起動音(ジャーン)と共に以前と同様に快適に立ち上がる・・・成功、まだ使えるようだ、どうやら回復したようですやはり長年のホコリと接続部分の接点の不良問題のようだ。
一年に一度の細かな清掃のメンテナンスは大切なんです、タワータイプは床に直置きする為にホコリが入りやすい事は最大の弱点である今回から机の上に移動した。

メインは当時12年前は相当高額の525GのSSDにて起動して後2テラのHDが3個付き全ての合計が6.5テラの装備で、メモリーは8スロットルあり、8G×4スロットル2G×2で36Gに増設したので、重いデーターも殆どサクサク動き、ギガ以上の写真等もサクサク動きレンダリングにも大変優れもののマシンでした、勿論映像もストレス無く見られる。残念な事は2015年移行アップデートが出来ない事が残念だ。

一応、Ai、Psを操作しテストするが問題は無いようです、今後の為外付けのHD3テラSSDを注文し、到着したら書類関係をコピーして保存しておこう、現在使用のMac Proは動かなくなるまで使おう、次の交換はMacProは高額のためMac miniにランクを落としての導入になるだあろう。とりあえず今回は清掃で回復出来た事は幸いである今まで使ったMacProでは一番の長寿機種でもある


筆者もJAZZのジェリー・マリガンのバリトン・サックスを聞き出し50年が過ぎようとしているが、以前も紹介はしたが、久しぶりにバリトン・サックスの音色を気分良く楽しむ事にする。
Gerry Mulligan (ジェリー・マリガン)は、1927年4月6日ニューヨークに生まれ、1996年1月20日、コネチカットで亡くなっている。 映画『真夏の夜のジャズ』での真っ赤なジャケット姿はジャズファンにジャズ・ミュージシャンのかっこよさを再認識させた。また、マリガンはバリトン・サックスという、アンサンブルの一角を占めていた楽器をソロ楽器にした功績も大変大きいピアノレスの演奏も有名です。

若い頃から優秀なミュージシャンであったマリガンだが、1944年17歳のときにラジオ・バンドのアレンジをしたのがその端緒で、ジーン・クルーパのバンドのスタッフライターとして2年働いた。そのあと、クロード・ソーンヒル、エリオット・ローレンス、スタン・ケントンなどの有力バンドのために働き編曲者としての腕を磨いてた
その一方で、サックスのプレイにも時間を費やしたが、マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』における演奏で一躍注目を集め、また提供した作品も大きな支持を受けた。こうしてジェリー・マリガンはこの時期演奏者というよりも、編曲者として脚光を浴びた様であった。



1952年マリガンはロスアンジェルスに移り、チェット・ベイカーと出会い、ピアノレスのオリジナル・カルテットを結成する。その後のマリガンは「ヴァーヴ」を中心に多くの作品を録音、バリトン・サックスの巨匠として40年以上にわたって君臨した。

スタン・ゲッツ、ズート・シムス等の共演作品も有名で良いバランスの良いスイングを聴くことができる。



以前のKEF Q300の音と「ho's systemのLS3/5a」を比べ随分緻密な音に変わった音質傾向はよく似てるが、楽器の特徴を鳴らす事は実に旨い。ジャズ系統の音もそれなりに鳴らすが、ジムラン系統とは傾向は違う音だが、慣れると例えばクールジャズ、クラシックジャズなどは実に塩梅良く聴ける好きな音だ、全体に少し渋めの音が雰囲気を醸し出す。

ヨーロッパサウンドと言えば聴こえはよいが音の感じはそのように聴こえる、今日は古いアンプ、LINN LK100という英国製の古いアンプに繋鳴らすがLS3/5aとの相性も良い感じがする欧州の音はジャズ音楽も少し違った風情が出るようだ、少し渋めな音も魅力的である。



今回は昔筆者が昔住んでいた近くのレコード屋さんがマリガンの「JERU」のLPを進められて購入した記憶が残るが、20年以前に引っ越しも多く、オーディオ装置とJazzのLPは廃棄してしまい、後日CDを購入した想い出深いリズムだ。
マリガンのLPも10枚程は記憶していますが、誠に残念なことに「パリ・コンサート」も廃棄してしまったことに後悔を覚える。

「JERU」ColumbiaとRCA というアメリカを代表する2大レーベルを中心にソニーミュージックが所有する豊富なジャズ・カタログから、長らく再発を望まれている初CD化や現在入手困難なレア・ディスクを含む100タイトル(第1弾 2/26発売 50タイトル、第2弾 3/12発売 50タイトル)を\1,000+税(2枚組は\1,500+税)というスペシャル・プライスでリリース。ジャズ・ファン垂涎のラインナップとなった。



本作は、ピアノレス編成でジャズ界に新風を吹き込んだジェリー・マリガンが、ピアノの名手トミー・フラナガンを迎えたセッション・アルバム。大らかさと滑らかさを兼ね備えたマリガンのプレイと、名脇役フラナガンの相性は絶好調。バラード「ゲット・アウト・オブ・タウン」から、流行の兆しにあったボサ・ノヴァを取り入れた「カプリシャス」まで多彩な曲想が並ぶ作品。


【メンバー】
 ジェリー・マリガン (bs) 
 トミー・フラナガン(p)
 ベン・タッカー(b)
 デイブ・ベイリー(ds)
 アレック・ドーシー(conga)
  01. Capricious [5:44]
  02. Here I'll Stay [4:57]    
  03. Inside Impromptu [5:29]    
  04. You've Come Home [5:36]    
  05. Get out of Town [4:09]
  06. Blue Boy [4:35]
  07. Lonely Town [5:34]

ジェリー・マリガンがピアノのトミー・フラナガンを迎えてバラード中心に心温まるサウンドを聴かせるCD。1962年6月30日にN.Y.で録音。

ジェリー・マリガンといえば、1950年代初めにチェット・ベイカー(tp)と、ベース、ドラムのカルテットでウェスト・コーストの立役者だった。この時のアルバムの例はそのものズバリの『ジェリー・マリガン・カルテット』。ピアノレスカルテットが特徴だった。
この『ジェル』ではトミー・フラナガンのピアノと、ベース、ドラムのリズムセクションに対しジェリー・マリガンがワンホーンで演奏するという、ちょっと例外的な編成である。

ジェリー・マリガンのバリトンサックスは、他の方も書いているように、テナーサックスかと思えるくらいメロディアスで伸びやかである。バリトンサックスをこのように軽々と(?)吹けるのは、すごいテクニシャンだと思う。
どの曲でもトミー・フラナガン(p)のソロが聴ける。バリトンサックスとのテーマの受け渡しであったり、アドリブ的な転換であったり、存在感はさすがである。全体にカラッとして演奏は流石である。



#1の「カプリシャス」はボサノバ風で、コンガが活躍。サックスがテナー?……音域も軽いノリも!
#3の「インサイド・インプロンプチュ」では、終盤にちょっとバリトンらしい低音が聴ける。
#5の「ゲット・アウト・オブ・タウン」は、静かなサウンドの中に力強さを感じる。このアルバムでのイチオシ。
#6の「ブルー・ボーイ」は唯一のジェリー・マリガンの作曲。コール&レスポンスで始まり(エンディングも)、あまり「ブルー」でないバラードである。

いずれの曲もメロディアスで温かみがある演奏で、ジェリー・マリガンのワンホーンカルテットのサウンドにひたることができる。まさに西海岸ジャズを確立した記念碑的な名盤!人気トランペッター=チェット・ベイカーとの絶妙なコンビネーションも最高にご機嫌なのりである!



まさに西海岸ジャズを確立した記念碑的な名盤!「オリジナル・ジェリー・マリガン・カルテット」マリガンファンにはお薦めです。
人気トランペッター=チェット・ベイカーとの絶妙なコンビネーションも最高!
ピアノレスによるこのカルテットの演奏は、後世マイルスのクールとはまた一味違った意味で、クール・ジャズの一つの典型と見なされたが、ここでのマリガンはまだ熱い。チコ・ハミルトンのパーカッシブで音階を伴ったドラミングが、まさにプレイイング・コンポーザーとも言えるマリガンに大きなイマジネーションを与え、その他のメンバーにも自由を与えた結果、本作は優れて自由な雰囲気を持った、パシフィック・ジャズ・レーベルの作品群のなかでも最高の作品となった。
パシフィック・ジャズの10インチ盤第1号のPJLP1に、PJLP5を組み合わせてのCD化。ジェリー・マリガンとチェット・ベイカーの顔合わせがイカシている。洒落た味わいがアメリカの“時代”を感じさせる。リズム・セクションのサポートぶりもよろしい。



バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンが、チェット・ベイカーを迎えて編成した伝説のピアノレス・カルテットによるウエスト・コースト・ジャズの傑作。二人の息の合った絡み合いが魅力的な<バーニーズ・チューン>は同バンドの代表曲。
オリジナル・ジェリー・マリガン・カルテット/バリトン・サックス奏者はジャズでは珍しいかもしれません。テナーサックスよりさらに低音を担当する楽器なのでビッグバンドとかでもソロを取ったりすることは珍しいです。

ジェリー・マリガンはバリトンサックス奏者で且つ編曲にも優れているというなかなか多才な人物だったようです。本アルバム『オリジナル・ジェリー・マリガン・カルテット』はマイルス・デイビスのクールの誕生の影響を受けた作品でアンサンブルが心地よいです。トランペットでチェット・ベイカーも参加してますね。
ウエストコーストジャズの魅力がつまった名盤です。
  1.バーニーズ・チューン
  2.ウォーキン・シューズ
  3.ナイツ・アット・ザ・ターンテーブル
  4.木の葉の子守唄
  5.フレネシー
  6.フリーウェイ
  7.ソフト・シュー
  8.アーント・ユー・グラッド・ユーア・ユー
  9.アイ・メイ・ビー・ロング
  10.アイム・ビギニング・トゥ・シー・ザ・ライト
  11.ザ・ニアネス・オブ・ユー
  12.二人でお茶を
  13.アッター・ケイオス #1
  14.ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー
  15.ジェル
  16.ダーン・ザット・ドリーム
  17.スイングハウス
  18.アッター・ケイオス #2

10インチ盤で発売されたパシフィック・ジャズの2枚を中心としたオリジナル・ジェリー・マリガン・カルテットによる初期演奏集。このグループの成功が西海岸ジャズを決定付けたと言っても過言ではないほど。10インチ中心だった音源が集められた点でもファンにとって非常に有り難い。マリガンとベイカーのコンビネーションが、当時の東海岸におけるサックス&トランペットのコンビネーションとまったく違う響きになっている点にも要注目。(録音:1952-7、8、10)
参加アーティスト:(bs)ジェリー・マリガン、(tp)チェット・ベイカー、(b)ジョー・モンドラゴン、ボブ・ホイットロック、カーソン・スミス、(dms)チコ・ハミルトン、ラリー・バンカーオーディオ的に言えば、高音がよく出るとか、情報量が増えているということだと思いますが、このCDで聞くと、まずバンドが極めてよくスイングします。



個々には、ベースの立ち上がりが良くなっています。チコハミルトンのドラムは、控えめどころか、手数足数がとても多いです。チェットベーカーのtpは非常に多彩なニュアンスのデリケートな音色を持っています。マリガンのバリトンはかなり力強く聞こえ、アレンジも大いにおしゃれです。

マリガンカルテットは、趣味の良い、室内楽的なソフトなものと考えていましたが、それ以上に素晴らしく高度な表現力を持った歴史的なバンドであることに気づきました。チェットベーカーも一流とは思いませんでしたが、ジャズの歴史の中で巨匠というべき人だったと思います。チェットベーカーの出たとこ勝負のアドリブ、何とも言えない不思議な感性にはしびれます。

今も新鮮に聴こえる、ノリの良いマリガンの大人のバリトンに、ブラボー1