趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

西野水道:是非訪ねたいと思っていました

2011-04-26 18:33:30 | 郷土史

    西野水道近江の青の洞門)を見てきました
     =帰省の時にいつも傍を、その内にと=
       
この日記の掲載期間:5月6日ー5月12日)
            
        本日(10日)末尾にある新緑の写真を入れ替えました”
        拙作ではありますが合わせてご覧いたでければ嬉しいです

 
           手掘りの西野水道入口(入れます)

気になっていた二箇所、西野水道と磯野山城址
琵琶湖の一番北、丸子船の港があった
塩津で生まれ育ったKennyは年
に何回か実家に帰ります。帰省ルートはいつも現住所の野洲市から車で
琵琶湖岸を走ります。竹生島もやや後に遠ざかるころ小高い山が目前を
遮ります。その山は山本山から賤ヶ岳(共に城址)に繋がる長細い、その
地を分断する塀のような尾根です。古保利古墳群でも有名ところですが
何故か熊が多く、出没もあり毎年話題になる山でもあります。

  
     西野水道石碑             すぐ近くの磯野山城址の標識
   気になっていた石碑、看板:共にいつかは行きたいと。 磯野山城址も同じ日に
  見学しました。後日日記に書く予定です。

西野水道:なんで観光名所?
気になっていた(地元だったのに行ったことがない)その内の
一つ、念願の
西野水道を見てきました。西野水道がなんで取上げんならん程の水道なんや、
ですが、地元のお坊さんや住民がなんの重機もない時代、約170年前(江戸
時代末)に立ち上がり石工職人さんの力を借りてノミと槌を使って水路を掘った、
正にあの有名な青の洞門(大分県中津市)の近江版だからです。 
         
      
          水道の上部

水路を掘りぬいた理由は地元を横切る余呉川の氾濫から来る大洪水と
それに伴う大飢饉です。塀のような山が流れる余呉川の増水を遮り、度々
洪水を引き起しましたが塀の向こう側は琵琶湖です。水道(トンネル)を
堀り水を琵琶湖に流すしかないと人海戦術でくり貫いたのが西野水道です。
明治に30年程前の1840年の事です。

     
          水道の入口               水道の内部(ノミ痕も) 

    内部は真っ暗で、懐中電灯、ヘルメット、長靴を要します。
    3点セットは案内所に完備。でも入坑は覚悟を決めて! 


工事に苦難を極めた水道
経緯は添付写真にある案内板の通りです。なんでも能登の方から来た
石工は硬い岩盤に手間取り、一旦は引き上げてしまったとか。結局工事
は5年に及び能登、伊勢などからの石工職人の正に手作業により完成し
たそうです。工費は1275両(現在の金額で5億円)を要しましたが、全て
を地元の村人が負担したとのことです。(現地の音声案内と案内版から)


            

水道には入れますが・・・。
親切にも、長靴、ヘルメット、懐中電灯が無人(その時は)の案内所に
用意されていました。
巾は1.2m、高さは2.0m、全長220mです。その
上硬い岩盤を避けたと思われる曲がった水路で中は真っ暗です。とても
220mを歩いて琵琶湖側に辿る気にはなれませんでした。こんな所で
撮影した経験は全くありません。上からの水滴にカメラを気にし、また
飛びまわる小さな虫と戦いながらフラッシュを焚いて、手持ちの撮影で
何度も緒戦して何とかピントを合わせて引き上げました。ノミの跡が残って
いるそうですが、しっかりと確認出来たわけではありません。でも気楽に
写真を撮っている自分に贅沢は言えません。


      西野水道の位置 (矢印 ) 滋賀県長浜市高月町
            
 (JR高月駅から車で約10分)
さて、今や観光名所となった水道にご苦労を感じながら、隣りの出来栄えを比較
するのがおかしいとは言え近代建築工法の粋を集めたトンネル(水道)をなんの
感動もなく見てその場を後にしました。そのトンネルには危険だから入るな!と警告
の看板が何箇所かに。 轟々と流れるそのトンネルの中にお入りになる
お方がおら
れるのかと・・・。 斯(かく)言う私は江戸末期に造られたトンネルに入ってきました
ので、どっちもどっちですかな?。

ところでこの現在使われている水道は3代目なんです。昭和25年に2代目の水道
が初代との間に掘られています。その2代目も、注目はされていませんが目にする
ことはできます。

  
      現在の水道(トンネルの向側が琵琶湖)

 
  参考: 青の洞門 (大分県中津市のHPより引用)


   今日もご覧くださいましてありがとうございました

                  番外編:新緑が美しい季節となりました

      いつも訪ねてくださりありがとうございます。 この数日で撮った春、新緑
       の写真です。拙作ではありますが、観ていただけると嬉しいです。
  
 
                 県立安土考古博物館の広場

 
                    薬王寺(徳島県)

 
                     正観寺(徳島県)

 

コメント (6)
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Kennyの城址あるき:陣屋の馬場

2011-04-19 19:53:53 | 城址

  そうかー、やっぱり信長さん

=小谷城まちづくり委員会の皆様、
    そして滋賀県学芸員さんの案内で=

  小谷城 「陣屋の馬場」 というところを見てきました
        
      (この日記の掲載期間:4月29日ー5月5日)

        本日(4日)末尾に新緑の写真を掲載しました。合わせてご覧ください”
      
    

                 当日配布の資料より:赤いマークを歩く

陣屋の馬場?? = 浅井家滅亡がここに!
またお城の日記です。上の地図の山田山(矢印)
、この三叉路のところが
信長軍が置いた陣屋、陣屋の馬場(と今地元で呼ばれている広場)です。
この通路は大嶽(おおづく)から小谷城のある小谷山(赤い字で表記)、
己高山、そして越前への道
で、山の尾根伝いに越前に(越前から小谷へ)
駆けつける最短距離として当時の重要な軍道だったそうです。

(参考) 陣屋: 軍勢、軍隊の宿泊、陣営、陣所 (ここでは砦:Kennyの解釈)

 
      陣屋の馬場がある山田山(541m、上部の平らなところ)

朝倉軍が足止めを余儀なく
信長軍の小谷城攻めで止めを刺された最大の要因がここにありました。
信長は朝倉軍が援軍を南下させると読み、更にはこの近道を通ると見て
この通路を封じるためにここに砦を築きました。それを知った越前からの
番手衆が、既に大嶽は信長勢に落ちたと義景に知らせる。義景はもはや
進軍不可と見て疋田城に足止めを、そして後に越前に退却してしまいます。 
流れるままに
京極丸を落とされて久政、長政親子は分断されて万策尽き、
浅井長政は赤尾屋敷で(とされています)自刃し三代の歴史は終わりを
告げます。 
      
     
         要所毎に解説される県の学芸員さん

ここでも信長の鋭い読みが
虎御前山城から大嶽に攻め上った信長に朝倉の軍勢は降参。常識では
この兵は命を落とす運命ながら、信長は彼らを放免して大嶽落城を伝え
させれば朝倉軍は越前に退却すると読み、その通りになりました。

     
        陣屋の馬場中央部。学芸員さんのお話です

敗戦は変心、寝返り、裏切りが背景に。確かに・・・
浅井勢の浅見対馬守が信長に内通し織田軍を小谷城防御の焼尾砦に
引き入れました。これを見た信長は大嶽城、更には小谷城に一気に攻め
入ることになります。 この内通は小谷城の真向かいにある山本山城に
詰めていた浅井氏配下の武将阿閉淡路守貞征の寝返りがきっかけで
もあります。
このように戦国時代の
合戦の勝ち負けはそのほとんどが
この裏切りで決まっているんですね。関が原の合戦では西軍の小早川秀秋
の寝返りがその最たる例です。また賤ヶ岳の合戦では柴田軍の佐久間
盛政の判断の誤りにありますが、前田利家が突如戦線を離脱したこと
で戦況がなだれ現象的に秀吉軍に向いたとされています。

           
         元軍道とは言え今は樹木が茂り案内があってこそ歩けます

今回の見学会では
信長の洞察力、読み、戦略はあの地位を築いたのだから言うに及ばず
としても、その裏付けとなるお話とその現場を実際に見て、これはもう
史実として疑う余地のない程に感動する一日でした。今までいろんな城址
を見て来た体験から、まさにそこに城(砦)があったと思われる土塁や堀切、
曲輪(くるわ)跡を見ることによって信長が立ったその同じ場所に立って居る
歴史のロマンを改めて感じることになりました。下山は信長が虎御前山城
からこの陣屋に登ってきたであろう己高山参道を下りました。

      
        大嶽・小谷山山麓には辛夷(こぶし)の花が
            
心配りの見学会
小谷城まちづくり委員会
の皆様は見学コースに時間を要すとしてスタッフ
の車に分乗して車が入れるところまで運んで下さり、また最寄のJR河毛駅
まで送り届けてくださいました。案内がなければとても行き着けない場所
へ連れて行って頂き、更には県の学芸員さんの分かり易い解説と至れり
尽せりの見学会でした。 関係する皆様に厚くお礼申しあげます。

 
           浅井三代の祈願社、和泉大明神

小谷城周辺も面白い
今回は陣屋址(砦)でした。まだまだ周辺にはあります。多くの屋敷跡、
そりゃーそうでしょうね、軍勢が全員小谷城には宿泊できません。例えば
清水谷(きよみずだに)がそうです。近くまた委員会で次の企画があるそう
です。流石は小谷城です、日本五大山城として国指定の史跡になって
います。 
  
   (参考 )日本五大山城
越後春日山城(上杉謙信)、能登七尾城(畠山氏)、
        観音寺城(六角)、出雲富田城(尼子氏)、小谷城

        
            下山した上山田の町の桜が満開でした

  お断り:
これは私Kennyの個人的な日記です。当日のお話と頂いた
       文献に個人的見解を混ぜて記録をしておくのが目的です。
       聞き違いや間違いは多々あると思いますがご容赦ください。

      今日もご覧下さいましてありがとうございました。

                    番外編:今日(4日)は緑の日です
   いつも訪ねてくださりありがとうございます。この数日で撮った春、新緑
   の写真です。拙作ではありますが、観ていただけると嬉しいです。


                       安土考古博物館裏の庭


           三上山山頂付近のコバノミツバツツジ


               花緑公園、しゃくなげ園


                 自宅のハナミズキ

 

 



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愉快な写真仲間の作品展:2011年、桜編

2011-04-18 06:41:41 | 写真

        写真仲間の作品展: 桜編

八田正文先生
に長く写真を教わっている仲間、有志の作品です。
毎月2回、先生宅のギャラリーや会館で開催される教室、先生が
命名された「わいわい塾」でまさにわいわいと写真談義を楽しみ
ながら作品を観て頂き、ご指導をいただいております。

   今回は11名の仲間が作品を寄せてくれました
    
    写真展の会期:4月22日ー4月28日 (今日が最終日です)


                            徹子さんの作品
 
                        平和の祈り
                 青空へ平和の祈り花万朶(徹子)

守山市民運動公園にある「平和の祈り」像です。毎年8月6日、広島の
原爆投下時刻に合わせ、恒久平和の実現を願う集いが開催される場所です。
今は桜が満開で、多くの市民が平和の幸せを噛みしめています。

 

                           つーさんの作品
 
                               小さな桜
  石山寺の山門をくぐり見事な桜トンネルでしたが振り返ると山門の屋根に
   被った華が有り空を切りました。


                        マッシーさんの作品
 
                                      鴨川堤
      満開の花の下、もう少し人が多いとより華やかさが出たのですが
 

                               eiチャンさんの作品
 
                       
 背割り堤(京都八幡)
写真歴も超長く写真仲間なんて本来は失礼極まりないことなんです。でも本当に気楽に
お付き合いさせてもらっています。我々仲間は下戸集団に近く、eiチャンと私、Kenny
は宴会でのただ二人だけの飲み友達でもあります。 尚作品については私にはとっても
語れません。でもただ一言、どないしたらこんな写真撮れますのやー!
   (以上Kennyのコメントです)


                                   Maecanさんの作品
 
                        
満開の疎水にて
      
 琵琶湖疏水口に満開の桜に出会い、その迫力を撮ってみる。   
                     

                                     めかちゃんの作品
 
                       春の
満開という声とともに桜が渦を作りながら、見る者を楽しませてくれているのを感じながら
シャッターを押しました
                            

              すずらんさんの作品
 
                                              お花見 
守山市民運動公園の枝垂れ桜、手入れも行き届いて桜の根本に木を植えて囲み
根を踏み荒らされないようにされていました。 この日は晴天で桜も満開でした。

 

                               Teaさんの作品
 
                             八幡堀から
近江八幡へ撮影会で行った時のもので、誰でもねらう風景です。 自分ではこれでも他の人
とは違った撮り方出来ないかと考えたつもりです
 

                               蝸牛さんの作品
 
                          
  山科疎水の桜
残念ながら訪れるたびに昔の情緒が失われて昔の面影すら探さなければなりません。人に支配
された川と桜・・・魅力がなくなりました


                                   Daimamaさんの作品
 
                                    競演
21日(水)にMさんを誘って、甲賀市土山町鮎河のうぐい川沿いの桜撮影に行ってきました。
うぐい川の両岸に200本のソメイヨシノの競演です。満開をほん少し過ぎていた感じでしたが、
それでも圧巻でした。
 

  友情出展
              S.Iさんの作品
 
                 庭園に彩り
Kennyの幼馴染、同級生のIさんの作品です。近くにお住まいで、私達の写真展にも
友人を伴って来てくれます。ご自身は写真を習ってはいませんがブログやメールの
やりとりで時々添付しくれる作品が見事です。パソコンも自在にこなされる今では
優しい
おばーちゃんです。  I子さんありがとう! (Kenny)
       
  

                            Kennyの作品
   
                お東さん
に映える
約束があって夕方京都へ。 ちょっと早めに出て市内の桜をとお東さんの前を歩いて
おりましたらありました夕陽に映える満開の桜が門前に。その日は肌寒く
空気も澄ん
でおり桜が一層綺麗でした。贅沢な被写体に恵まれましたが撮るとなると、大いに
悩みます。


お礼
写真仲間の皆様、すばらしい作品をお寄せいただきありがとう
ございました


桜を撮るって難しいですね
カメラを退職後の趣味のひとつとして始めて4年目に入りました。昨年あたりから
桜を撮るのは特に難しいと感じ始め、作品を眺めて”ああ、これでは進歩なし”と。

カメラを始めた1年、2年は綺麗やーと気楽にシャッターを押し、これって本当に自分
で撮った写真? と 撮った写真を液晶画面に再生して満足しておりました。つまり
自己満足です。 しかし先生に写真の基礎から教わり、作品を観て頂き、数々の
優れた作品に触れる今、目だけは肥えてきます。撮った写真を見ても、おお桜かー、
それで何を表現したいの?と、才のなさ、進歩のなさを痛感するKennyです。 
過日社友でベテランの写真愛好家にお目にかかりました。「そうか、そう言うよう
になったかー」と・・・。

 

         今日もご覧くださいましてありがとうございました
         

     


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湖北のお城址はお江さんブーム 

2011-04-05 20:05:18 | 城址

   家族をNHK、お江さんの舞台に案内して
   =賤ヶ岳、余呉湖、小谷城址も観光客で一杯=
        (この日記の掲載期間:4月15日ー4月21日)


     小谷城、NHK大河ドラマで長政がお市と並んで見た景色
  
(琵琶湖と右上に薄く竹生島 虎御前山は写真の左方向:昨年8月撮影)

大河ドラマの舞台、滋賀
我が家はアウドア一家、春は恒例の一泊キャンプです。迷うことなく今年は
NHK大河ドラマの最初の部分、湖北が舞台の史跡を歩くことにしました。
Kennyの城址歩きで知った、賤ヶ岳、余呉湖に近いウッデーパル余呉という
リゾート地にロッジを取りました。

  
     ウッデーパル余呉:ロッジ、テントキャンプ場

NHK大河ドラマの及ぼす影響はさすが!
先ずは賤ヶ岳に:
やはりすごいですね。予想以上でシングルリフトはフル稼働でした。標高421m
の山が賤ヶ岳の合戦で有名な秀吉軍の砦がある賤ヶ岳です。麓からリフトで
簡単に辿れます。山頂からは琵琶湖の北端と余呉湖が同じ場所から左右に
見えます。さらに柴田勝家が開いたとされる軍道、北国街道や
旧伊香郡
4町(木の本、高月、余呉、西浅井)も眼下です。

 
    賤ヶ岳登山口・リフト乗り場            リフトに観光客が絶えない

今まで何度も訪れていましたが、これだけ賑わった賤ヶ岳は始めてです。
若いカップル、山本山から縦走して来たハイキング客。我々のような家族
連れなど多くの方がドラマとダブらせて思いにふけっておられます。

我が家族の内二人は小学生、史実には興味はありません。もっぱら無料の
双眼鏡(なかなか粋な計らいですね)で山頂からの景色を眺めています。
といっても大人達も、Kennyの一夜漬けの解説にどれだけ興味を持ったか
は非常に疑問です。反応は、なんでそんなに知ってんのー? でちょん。

 
賤ヶ岳山頂にある看板:琵琶湖・余呉湖・砦が           整備された登山道

佐久間盛政の砦のあった行市山は真正面に構えています。秀吉が美濃大垣
にいる隙を突いて勝家軍に滅ぼされた中川清秀の大岩山砦も尾根伝いの近
くです。

多くの観光客を迎える準備は既に十分で、リフトから山頂までの道も歩き易く
また麓からの
登山道もしっかりと補修されているようです。

小谷城戦国歴史資料館
やはり力の入れようが違います。ここは資料館なのでNHKのドラマでお江
さん役が着た着物等の展示はありませんが、発掘された碁石や小谷城の
解説は立派です。地元の方々がよく勉強されて丁寧に説明下さいます。
そのお一人が偶然にも妻の高校時代の同級生。校長先生も勤められたとか
で解り易く説明するのはお手の物です。ここでも大勢の方が先生のお話に
聞き入っておられました。

 
     ボランテアガイドさん           資料館駐車場には観光バスも

小谷城址
当然のごとく車、人、ひとです。昨年は城本丸近くまで車で上がれましたが、
今は麓からのシャトルバスが見学の手段です。ところが・・、当日は兎に角
真冬並みの寒さ。そこにバス待ち時間も覚悟です。防寒対策なしではとって
も無理と判断、いつでも来れると登城は諦めました。案内人の方のお話では、
最も人気のポイントは桜馬場跡(だったかな?)で、ドラマで長政とお市さんが
琵琶湖、竹生島、山本山、虎御前山を見下ろしたあの場所だそうです。
(TOPの写真)

       以下の写真は、昨年の8月に撮ったものです

 
  黒金門跡:NHK大河ドラマで長政とお市、3姉妹がここで悲惨な別れを

近江(滋賀県)は戦国時代の舞台
NHKの大河ドラマでも過去に何度も登場しましたが、滋賀県に1300以上
のお城があったとされ、この小谷城周辺も合戦の地で、近江、美濃、越前
などの各大名は都への通過点として重要な拠点と近江を制することに力
を注ぎました。案内した家族はともかく、私にとって改めて実感する今回
の旅となりました。 車、観光バスのナンバーを見ても実に遠くから・・。
この機会に滋賀県をもっと知っていただくと、滋賀県民の一人として
嬉しいかぎりです。

 
     大広間跡から本丸跡の石垣         番所跡から本丸跡の現地看板

     今日もご覧下さいましてありがとうございました。


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Kennyの城郭址歩き:鎌刃城址(米原市)

2011-04-05 19:50:17 | 城址

   近江国・六角氏の湖南、京極・浅井氏の湖北
  =境目の城、鎌刃城を長谷川博美先生のご案内で=

  近江の国にあった勢力争いの境目、米原市付近の訪問日記です

      今日(6月5日)、末尾に日記を追記しました
         =鎌刃城まつりが開催されました=

      
  (この日記の掲載期間:6月3日ー6月9日)

  
   今もしっかりと残る虎口(こぐち:門)で熱心に解説される長谷川博美先生 

鎌刃
城址(かまはじょう)の場所
滋賀県米原市番場の384mの山頂にあります。
 東山道(中山道)の
番場の宿、
また長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公、番場の忠太
郎が生まれたところとも言われています。アクセスは中山道の
東・西番場の中間点から名神側に登山道を歩んで行きますが山頂
まで約3km。急登攀での3kmは
結構きつい場所にその主郭が
あります。

 
    中山道番場宿の標識    名神高速(手前)の背後の山頂に城が 


鎌刃城は「境目の城

戦国時代、近江は南半分が佐々木六角、北が京極氏や浅井氏が支配
するという守護大名による分国の時代でした。鎌刃城のある一帯は
その境目にあり国境警備を目的として多くの城が築かれました。
磯山城、横山城などもその目的で築城されたそうです。すなわち
一武将が籠る城では無く、ころころと変る戦国大名に指定されて
城番を集団で努めるという城です。従って城主は土居氏、堀氏、

今井氏などで最後は信長による浅井家滅亡と共に廃城となります。


 
   これだけ深い掘切          V字形の縄張り

 
この城の他とは違う(と言っていい?)ところ
防衛体制が他の城にも増して強固
だとういうことです。特に城の
西側が強固で、六角の攻撃を意識している。その城の西側は大石垣、
竪堀、畝
(うね)状空堀、8本もの掘切り、犬ばしり、切岸
これら全部が完備されています。畝状空堀(下の写真)
は初めて耳
にしましたが、山の斜面に縦に、丁度手を広げて斜面に指を下に向
けて沿わすような感じです。それとこのお城は南北の尾根を利用し
V字形の縄張り(配置)になっています。これも防御のためだ
そうです。 (
犬ばしり:斜面に設けられた細長い通路や平地部分)

 
 畝状空堀、このように急斜面に何本も並ぶ(赤マーク状にうねる)
   

 
    大石垣、前を行く人と比べてその大きさが

籠城する在番衆の閑期の娯楽
5年の発掘調査で、釘が大量に出土しており、都会風の殿舎があ
ったと想像され、また碁石、すずりなども出ているところから、
荒々しい合戦の合間に武士達が碁を打ち合っていた様子を彷彿と
させると案内くださった長谷川博美先生のお話でした。

 
    鎌刃城の主郭           主郭部に残る石垣

この日記は
先生の当日のお話、先生から頂いたレジュメ。更には米原市教育
委員会発行のパンフレット「鎌刃城址」を参考に、見学会の記録
として書きました。記載内容に聞き違い、間違いが多々あるとは
思いますが、個人の日記とどうかご容赦ください。
なお、城址は4月初に訪ねました。

長谷川博美先生のHP:http://h-hasegawa.jimdo.com/

   
  今日もご覧下さいましてありがとうございました

日記の追加です:6月5日

今日、6月5日、鎌刃城のある米原市番場で、鎌刃城まつり が開催
されました。主な内容は以下の通りです。

 1.午前:長谷川博美先生による現地見学会
 2.午後:森岡榮一先生の講演
  3.自治会館での展示: *
鎌刃城発掘調査記録
                                   * 出土品の展示
                 * 関連資料の配布
                     

詳細は省略させていただきますが、大勢の歴史フアンが集まっておられ
会場には、鎌刃城の発掘調査の様子、出土品の展示。また3Dで映像化
したパネルなどが展示されていました。この3Dパネルは長谷川先生と
泉さん(城歩会、会長)が開発されました。






                出土品


             
 講演


             
3Dパネル

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