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Kennyの史跡歩き:餅の井落とし

2011-11-07 07:26:07 | 郷土史

 Kennyの故郷、近くの町
  に
水争いがあった!!
   =小谷城下まちめぐりウォークの皆様
                    と県の研究員さんの御案内で=

 *それは戦国の奇習「餅の井(ゆ)落とし」です*

      (この日記の掲載期間:11月11日ー11月19日)

この水利慣行は昭和13年まで400年以上も
滋賀県の旧伊香郡と旧浅井郡を流れる高時川を舞台に渇水期に起
こった水争い(を避ける)に纏わる史実です。その場所は高時川の
JR沿線で河毛駅の南からJR高月と木ノ本駅の中間位の間です。


            昭和37年の餅の井の井立ての様子
     昭和13年以降は餅の井落としの事態は発生していない

        (写真:農林水産省のHP・湖北の特集より引用)

話の概要
高時川を挟んで西に(旧)伊香郡が、東に(旧)浅井郡があります。
米作りの時期が来る毎年春にこの川に井(ゆ)を造り(補修)川の水
が浅井郡側(山麓で伊香郡より土地が高所のため)にも十分流れる
ようにします。 雨が適度に降る通常期は穏やかな日々が
過ぎて行
きます。ところが日照りが続く、特に夏場になると年によっては渇水
が発生。そうなると井(堰のこと)を水が超えな
いために伊香郡側に
流れる水が極端に減るかまたは流れなくなります。米作には死活
問題となります


      餅の井跡:高時川(草の中に石碑が見える)
          
(上のモノクロ写真の場所)

「餅の井落とし」 とは
そこでその渇水時だけ井を落とす(切る)事が許される決まりを作っ
て水争いが本格的な戦いにならないように工夫しました。これを餅の
井落としと云います。

浅井家の功:一方では浅井氏領国経営の真髄
このように地域の平和と秩序の破綻を招く水戦争勃発をぎりぎりの
ところで押しとどめることに成功しました。この争いを防ぐ為に貢献
したのが北近江の大名浅井家(二代久政)です。

        
             現在の頭首工・高時川
          
今は近代技術の頭首工が築かれ両側になみなみと水が流れており
勿論問題はありませんが、この慣行は昭和13年に起こった最後の
餅の井落としまで続きました。

毎年起きる訳ではなく
とは云え毎年この問題が発生するのではなく何十年に一回の頻度
であったとの事です。現在においてもこの浅井家の功が崇められて
います。また当時は水利権と云うものがあり今もその名残と思しき
仕来たりも残っているとのお話でした。勿論問題が発生していると
いうことではありません。
     

         
        現在の頭首工から旧伊香郡側に流れる

この餅の井落としの発端
元々はこの餅の井堰は高時川の下流にあったが久政は少しの間
でも雨が降らないと水不足に悩まされる事態の打開に、伊香郡の
村々を潤す堰(があった)を懸け越し(上流に)餅の井堰を井堰群
の最上流に移した
。その代わりに極端な渇水期には懸け越された
側の村々に餅の井堰を切り落とす権利を与えました。

餅の井落としの時:主催者の最高齢の方の実際に見たお話
正に戦争が勃発したような大騒ぎ(と云っては失礼か)だったよう
です。伊香郡側が井を落とすとの連絡が入ると浅井郡の村々
から男衆が六尺棒をもって餅の井まで先を争って駈けつけます。
その出陣の時は神社に集合、お祈りをします。村々の寺(宮も)の
鐘を延々と打ち鳴らし事を告げます。鐘は高温になり水を掛けて
冷やしたと。

           
              同、旧浅井郡側に流れる

伊香郡側は白装束で隊列を組んで行進してきます。一方浅井郡
側はそうはさせまいと構えます。しかし争いにはなりません。双方
の役員が儀式にのっとり交渉を始めます。その後落としが開始され
ます。その間浅井郡側は水を掛けて妨害(これも儀式だそうで)した
とか。
         近畿農政局のHPより引用
                (写真は水土里ネット湖北提供とあります)
     
石を投げたりと妨害を監視の警察、野次馬が事態を見守ります。
やがて堰をある幅(三間、5.5mとの決まり)で切り落とし伊香郡
側はまた隊列を組んで引き上げます。但し今で云う牛歩
戦術です
(時間稼ぎをします:少しでも水を長い時間伊香郡側に流す)。

それはその隊列が橋やカーブで姿が見えなくなった時に合わせて
堰を復元すると云う暗黙の了解があるからです。 

         
          今も利用の餅の井(高月町馬上)
             
(東側でもこの集落は伊香郡側)

余呉湖の水が高時川に
今も高時川の水量が減る時があります。その場合現在では余呉町
にある余呉湖から放流されて灌漑用水として利用されます。流れ
込む川がなく、鏡のように美しい余呉湖も今では人口の川もあり、
その上琵琶湖から水をポンプで汲み上げて放流するというダム湖
の位置づけとなりました。


       横山岳山頂から見た余呉湖(余呉町)と琵琶湖
             
(2011年11月9日撮影)

お礼:主催者の皆様の心配り、ご指導戴いた先生のご丁寧な解説
    に厚くお礼申し上げます。
    
お断り:このブログに記載の内容は私Kennyの個人的な日記です。
     当日のお話と頂いた文献に個人的見解を混ぜて記録をして
     おくのが目的です。私の聞き違いによる間違いは多々あると
     思いますがご容赦ください。

今日もご覧くださいましてありがとうございました


    ********** 


        歴史探訪の情報です     

     =坂本城と坂本の町をゆく=

  
 主 催:
滋賀県・大津市
   日  時:12月3日  13時 JR叡山坂本駅集合
   申込要:12月1日  17時までに
      問い合わせ: 077 528 4674

   

     =弥勒寺跡と丁野城跡をゆく=

   
主 催: 小谷城下町めぐりウオーク実行委員会
    日 時: 12月3日  10時30分 JR河毛駅集合
    申込要: e-mail:  t0654@excite.co.jp

   ご参加の場合は事前に必ず主催者に確認してください。
   
   
 専門の研究員さん(学芸員さん)が初心者にも分かるよう
    丁寧な解説をしてくださいます。

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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すごい慣行ですね (茲愉有人)
2011-11-12 10:53:37
水の重要性がよくわかる話です。
農業に水は死活問題ですよね。
ある意味すばらしい慣行かも。
共存共栄していくための生活の知恵でもあり、当時の政策の妙味ということでしょうか。

横山岳からの眺望が素晴らしい!
一度登ってみたい。しかし、交通の便が悪いロケーションですよね。

「餅の井跡」という言葉を最初読んだとき、有名な井戸の跡かな・・・なんて、錯覚をしていました。
ご説明を読みやっとその意味がわかりました。

不思議なのは「井」という漢字を「ゆ」と読ませるのはどこからきたのでしょうか?
その読み方の由来説明があったでしょうか?

角川の漢和中辞典を引いても、その読み方は載っていないのです。
「セイ(漢音)、ショウ(シャウ・呉音)、い」

また、この文字の字義自体の説明に、「堰」という意味合いは記されていません。
「いど」を第一義にし、第二義に「いげた、いげたの形」があり、第四儀に「むら、人の集まるところ」とあります。

「餅の井」という言い方の由来は・・・・どこでしょう?
ただ、この漢和辞典には、「井堰」という熟語が載っており、「水をせきとめたところ。せき」と説明しています。

井堰を井と略称するようになったということでしょうか。
興味があります。

「頭首工」 この言葉はどう読むのでしょうか、教えてください。


返信する
井をゆ、初めは?? (kenny)
2011-11-12 16:06:30
実は伊香郡にいた頃(実家)、あのように堰を作ったところを(水争いではありませんが、昔から村の中の川で石垣などで)”ゆ”と発音していた事を講座から帰ってきて思い出しました。講座の初めは「ゆ」と聞こえるのか? どっかに書いてあるのか?と。講師が途中で井をゆと発音とだけ言及、具体的説明はありません。伊香郡の方言か?? 餅の井の由来はメールで資料のコピーを転送します。ご覧下さい。頭首工は「とうしゅこう」です。横山岳は車であれば便利で木の本ICから20分で登山口です。場所は杉野と云う集落です。詳細は19日にブログで取り上げます。コメントありがとうございました。
返信する
ありがとうございます (茲愉有人)
2011-11-12 18:53:54
「井」を「ゆ」と呼ぶ習慣だったということですね。
ある種の音韻変化、呼びやすさなどからの言い習わしでしょうか。

お送り頂いた資料、さっそく拝読しました。ありがとうございます。

『近江與地志略』をネット検索したら、100冊に及ぶ近江の地誌なんですね。

面白く読ませていただきました。
「綾千駄、綿千駄、餅千駄」を三日以内にというのは当時としては莫大な金額に相当するのでしょうね。
だけど、「金銭ニて調候事ならバ」「金銭にて参る事也」とお金で解決しましょうという交渉をしたというのが面白いですね。非常に現実的で。
まあ、拒絶すれば、久政公からの政治的圧力が掛かり、何も得はないという読みもあったのかもしれないな、という気もします。

「とうしゅこう」と読むということ、ありがとうございます。
そこで、ネット検索してみました。
探せばあるものです。おもしろいのを見つけましたので、ご参考にアクセス先を載せますね。

用語データベース詳細 :頭首工
http://cyber.pref.kumamoto.jp/Chisan/Content/Asp/term/term_detail.asp?ID=102

水門と樋門・樋管の違い
http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/explain.html

ダムと頭首工のおはなし
http://www.guruguru-kids.net/ohanashi/03.html
これ、野洲川についてのページです。

御返事御礼を兼ね。
返信する
喜びです (kenny)
2011-11-13 05:53:35
郷土史を少なくとも、で始めた城址歩きからこの様な史実にまで触れることが出来ました。継続ですね、実感します。石部の頭首工から祇王井川の水を取っています。この野洲市内を流れる川は灌漑、生活用水として平清盛が引かせた川と云われています。当時野洲から出た祇王、祇女姉妹(白拍子)が清盛に頼んだとか。元々は市内の野洲川が源流ですが今はここから取水しています。頭首工はこんな役目の新しい手法なんですね。今、来年の大河ドラマに備えてかな?ある目的で祇王井川を仲間と撮っています。
返信する
野洲の出でしたか (茲愉有人)
2011-11-13 12:03:02
祇王・祇女というと、私はすぐに、祇王寺(往生院)を思い浮かべます。
祇王が母の刀自と祇女を伴って、剃髪し隠棲した地。小さな寺ですが、紅葉した庭が良かったですね。

祇王井川という言葉に惹かれて、ちょっとネット検索したらこんなサイトを見つけました。

既にご存じかもしれません。
てる爺と歩く 近江の散策  
- 流れに沿って歩く - 祇王井川
http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/02%20gioh/gioh.html

やはり関心をお持ちの方がいらっしゃるのですね。
返信する
馴染みのある地名に (ポエム)
2011-11-15 11:45:39
石部の頭首工は国道沿いにいつも眺めながら走っています。祇王井川、以前の住居の近くで懐かしく思います。

厳かな白装束で執り行われる儀式の様子が浮かぶようです。生活水の知恵がわかり興味深く拝見しました。

明日は楽しみにしています。よろしくお願いします。
返信する
頭首工、私も・・・ (kenny)
2011-11-16 08:56:06
頭首工、私もその石部で初めて言葉も施設も知りました。祇王川を撮っていて一つまた賢くなりました。ねえー、白装束、これも手元に写真はあるのですが、許可を誰に戴いたらいいのか分からず掲載は控えています。モノクロで何十年前の物ですが。Kenny
返信する
疑問とご参考に (茲愉有人)
2011-11-16 22:02:38
ちょっと区切りがついたので、ご紹介いただいた農林水産省のHPで写真のソースを調べてみました。ご紹介、ありがとうございました。

「湖北の祈りと農」というパンフレットが出ているのですね。大正十一年の「餅の井落とし」の様子が11-12ページに詳しくでていました。有益な資料ですね。
その中で掲載のモノクロ写真を見ました。
このパンフレット、さっそくダウンロードしました。

一つ解らないのは、この「井立ての様子」の写真は昭和37年頃とされているのですが、このパンフレットの15ページには、「餅の井落とし」は昭和15年が最後にそれ以後は発生していないと記されていることです。
「井立て」は伝統行事としてある時期までは継続されていたのでしょうか?
そう解釈しないと、辻褄が合わない気がするので。つまり、本来の目的・機能はなくなったけれど、その主旨を行事という形で残すことになったのかと・・・・

さて、白装束の写真も12ページに載っていますね。この写真には、出典が「湖南農業水利事業誌」(昭和62年3月)で、写真提供は湖北町丁野区と記されていました。湖北農業水利事業所の発行誌なのですね。

ところが、こちらの方の写真が、
近畿農政局のサイトの「湖北平野の農業」のページにも ”近世の「農」”の見出しの項目で、「餅の井落とし」として紹介され、5枚の写真が掲載されていました。
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/sekei/kokuei/kohoku/kohoku02.html

そして、その中に同じ白装束の写真が掲載されています。「5.引き上げる白装束の隊列」として。

さらに、「写真提供 水土里ネット湖北」と明記されていました。

水土里ネット湖北
http://midorinet-kohoku.or.jp/index.html
メールアドレス
main@midorinet-kohoku.or.jp

こちらにコンタクトを取られると、使用掲載関連についての回答が得られるのではないでしょうか。

もとの近畿農政局のサイトの内容についての利用相談は、「近畿農政局情報推進課」とサイトに記載されているページがありましたが。
結局は写真提供元への回付になるでしょうから。

ご参考になればと、付記します。





返信する
素晴らしい! (kenny)
2011-11-17 07:35:03
これはありがたいですね。しかし見事にヒットされますね。そうです、この写真(複数)です、講座で使われました。講座では昭和13年が最後の餅の井落としとのことでしたが、これを最後に事は発生しておりません。ただこの餅の井は新しい頭首工が出来るまで必要でした。この頭首工がいつ出来たのかは調べていませんが。TOPの写真は昭和37年とありますね。餅の井落としが奇習慣行であって餅の井(それで春先の井設置:井立て、井の補修を)は大事な堰であったと理解しております。
返信する
ついでに (茲愉有人)
2011-11-17 10:35:41
それじゃ、ちょっとリサーチを・・・・・

「井明神付近(高時川頭首工)
昭和15年(1940)県営事業による合同井堰が新設される」が最初のようです。
http://www.pref.shiga.jp/nagahama-pbo/denen/kohoku/sigen/takatokigwatousyukou.htm
ここには「昭和に入っては昭和8年、同15年に井落しが行われてきた。」と記載がありますね。

そして、
「1969年には国交省の事業によって高時川頭首工が完成」したと、ウィキペデイアには記載されています。(「高時川」の項)

尚、高時川の頭首工は、「昭和42年8月 高時川頭首工着手」とあり、また平成20年から第二期工事が始まり、平成21年完成予定との記載がありますので、二期工事も完了したことでしょう。
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/sekei/kokuei/kohoku/kohoku05.html

「姉川フォーラム通信」第8号にも記載がありますね。
http://www.shiminken.net/anegawaforum/tuusin-8.pdf

「湖北の祈りと農」には、国営湖北土地改良事業は、昭和62年3月に22年の歳月を費やして完了したと締めくくっています。頭首工もこの一環だったのですね。
返信する

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