武弘・Takehiroの部屋

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青春の苦しみ(4)

2024年08月19日 05時28分48秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

4)白昼夢

 十一月下旬の早稲田祭が近づいた頃、行雄は、中野百合子が歌舞伎研究会のサークル活動をしていることを思い出した。 彼女は入学した時からサークル活動をしていたようで、教室でも時々、歌舞伎の話しをしていたことを行雄は覚えている。

 彼は歌舞伎にそれほど興味はなかったが、歌舞研(歌舞伎研究会)ももちろん早稲田祭に参加しているので、それを縁にぜひ百合子に接近したいと考えた。 早稲田祭が始まる前日、行雄は意を決して荻窪の彼女の自宅に電話をかけた。

 大きな期待と小さな不安で心臓がドキドキしたが、電話口に出た百合子の母親の声は明るく、とても感じが良かったので行雄は胸をなで下ろした。 百合子を呼び出してもらうと、彼女の弾んだ声が受話器の向うから流れてきた。

「まあ、村上さん、なんの御用でしょうか」「うん、どうも。 あしたから早稲田祭が始まるけど、君は歌舞研のサークル会場にいるよね」 「勿論いますよ。でも、いつもいるわけではないわ。時間によってメンバーと交代しますから」

「それじゃ、あさってはどうかしら」「あさっては・・・ええと、午後二時から五時ぐらいまではいますよ」「それじゃ、あさって三時過ぎぐらいにサークル会場に行っていいかしら」 百合子が明るい笑い声を上げた。「勿論いいですよ、だって誰でも来てくれていいんですから。歓迎します」「じゃあ、あさって必ず行きます。その時間にいて下さいね」

 百合子がまた明るい笑い声を上げた。「勿論いますよ。だってその時間は私の当番ですから」「じゃあ、必ず行きますから」 行雄は受話器を置くと、安堵の気持と同時に嬉しさが込み上げてきた。 明後日は、歌舞研のサークル会場で百合子と楽しく話し合うことができる。 その後、彼女に時間があるならお茶に誘ってもいいかな・・・喫茶店は「茶房」がいいかな、それとも別の所がいいかしらなどと、浮き浮きするような想いが去来してきた。

 そのうちに行雄は、歌舞伎を勉強しなければと思った。百合子と話し合うなら、歌舞伎を知っておくことが必要だと考えた。 そう考える所に、この男のペダンチックで哀れな“悪癖”があるようだ。 歌舞伎のことなど知らなくても、いやむしろ知らない方が、百合子からいろいろ楽しく教えられるというのに・・・ ともかく彼は、歌舞伎の本を買うために、すぐに自転車に乗ってS書店に向った。そして、歌舞伎の入門書を購入すると自宅に戻って早速読み始める。 

 歌舞伎の起源とは、十六世紀から十七世紀にかけて「出雲の阿国(おくに)」という女性が演じた念仏踊りが始まりで、それが江戸時代初期には若衆歌舞伎、野郎歌舞伎に発展し、元禄期になって演劇として確立したなどと、歴史的経緯から書かれていた。

 行雄は読んでいくうちにだんだん飽きてきたが、これも百合子との会話に役立つかもしれないと思うと、辛抱強く読み続けていった。 翌日も大学が早稲田祭で休みだったので、彼は一日かけて歌舞伎入門書を読了した。

 そして、次の日が来た。秋晴れの素晴らしい天気である。 ただ冷たい風が強めに吹いていたので、行雄は白いダスターコートを着て大学に行くことにした。 このコートは以前、森戸敦子の両親が彼に贈ってくれた大学進学のお祝い金で購入したものである。

 行雄はふと敦子のことを思い出した。彼女との純粋な恋愛が懐かしく蘇ってくる。敦子は今どうしているのだろうか。 そんなことを考えていると、敦子の幻影がいつしか中野百合子の幻影に変っていった。 そして、百合子への思慕も絶対に純粋なものだと、行雄は思うのである。

 彼は武者震いするような気持で家を出た。「いざ出陣!」という感じである。彼女と会ったらどんな話しをしようかと、そのことばかりがあれこれと思い巡らされてくる。 歌舞伎の話しは勿論だが、その他にも何かないものだろうかと取り留めなく考えていた。

 勇み立って家を出てきたせいか、高田馬場駅には百合子との約束の時間より二時間も早く着いてしまった。 行雄は大学に徒歩で向う途中、蕎麦店で昼食の掛けソバを食べてから早稲田祭の会場に到着した。

 時間がまだ充分にあるので、足の赴くまま幾つものサークル会場を見て回ったり、キャンパスを散歩したりした。 そのうちに午後三時が近づいてきたが、不可解なことに勇み立った気持が消え失せて、次第に重苦しい気分になってきた。

 歌舞伎研究会のサークル会場に向う頃には、重苦しい不安感がますます高じてきて、一歩一歩が次第に遅くなるような気がする。 こんなことではいけないと、行雄は自らを励ましながら歌舞研の会場にやって来たが、一瞬、入ろうか入るまいかと迷った。

 なぜこんなに臆してしまうのだろうか。彼は自分の心の変化に戸惑ってしまうばかりである。 緊張感が高じる中で、彼は意を決して会場に入った。時間は百合子と約束していた午後三時を少し過ぎている。

 会場の中は閑散としていて、数人の学生しか訪れていなかった。 行雄は入口に最も近い掲示物の前で足を止めたが、そこには歌舞伎の歴史に関する年表や解説文が掲げられている。 色とりどりの形状や文体になっていたが、ごく月並みなものに思えた。一昨日、昨日と、行雄が歌舞伎の入門書で知ったばかりの事柄が綴られていたからである。

 この掲示物の前には、歌舞研のクラブ員と見られる男子学生が、やや退屈そうに椅子に座って脚を組んでいた。この男が上目遣いに送る視線を行雄は避けたが、重苦しい不安感は一向に治まらず、百合子はどこにいるのだろうかと彼は恐る恐る会場の中に目をやった。

 すると、細長い会場の最も奥まった所で、百合子が男子学生と何やら言葉を交わしていた。 彼女の姿を目に留めると、行雄は胸が詰まって急に心臓がドキドキと鼓動を打ち始めた。会場から逃げ出したい気持になったが、彼の足は掲示物の前で釘付けになっていた。 緊張と不安がますます募り、彼は身体中が熱くなってくるのを覚えた。

 同じ掲示物の前で立ちすくんでいるのも変なので、行雄は隣の掲示物の方へ重い足を運んだ。 そこには「歌舞伎の用語」と題して、黒衣(くろご)、せり、みえ、とんぼ、たて、宙乗りなどのことが、写真や図解入りで丁寧に解説されている。

 行雄はその掲示物に目を通していたが、百合子のことが気になって仕方なく、そっと目をやると彼女の方も彼に気付いたようである。百合子は男子学生と話しを続けていたが、時おり行雄の方に視線を投げかけてくる。

 百合子に気付かれたと思うと、行雄は身体がさらに熱くなってくるのを覚えた。彼女に話しかけようという気持はまったく消滅して、逆にますますその場から逃げ出したい衝動に駆られてくる。 しかし、彼は動けなかった。

 まるで“ロボット”のように突っ立っていると、男子学生との話しを切り上げた百合子が、ゆっくりとした足取りで行雄の方へ近づいてくる。 彼の心臓は激しく動悸を打ち、身体中が緊張のあまり硬直してきた。

 行雄は他の数人の学生が気になって仕方がなく、彼等の視線がどうか自分に向けられないようにと祈っていた。 とうとう、百合子が行雄から二、三歩の所まで近づき足を止めた。長身の彼女は彼を見下ろすように立っている。行雄は百合子の肉付きのよい大柄な身体から、物凄い圧迫を感じた。

 彼女は上着のポケットに両手を入れリラックスした雰囲気で立っていたが、行雄の様子が異常に見えたのか、けげんな面持ちを浮かべている。 暫くして百合子は言葉をかけてきた。「村上さん、何か御用ですか?」 彼女の声は静かだが、しっかりした口調だった。

 二、三人の学生が行雄らの方を見ているのを感じて、彼は恥ずかしさで身体中が火のように熱くなった。 なんと答えて良いか分からず、行雄は顔をしかめて呻くように叫んだ。「なんでもないさ!」

 百合子の表情は血がひくように青ざめた。彼女の落胆した様子を見てとると、行雄は逃げ出す一瞬のチャンスをつかんだと思い、一言も挨拶をせず、弾かれたようにサークル会場から外へ飛び出した。 ダスターコートを着ていたせいもあるが、身体中の火照りで行雄は発汗しているように感じた。 彼は喘ぎながら大隈講堂前のバス停にたどり着くと、急いでバスに乗って帰路についた。

 茫然自失の体(てい)たらくで家に戻ると、行雄は見る見るうちに悔恨の情に苛まれた。 自分はどうしてあのような不様な醜態を演じてしまったのか。なぜ百合子に対して素直に話しかけることができなかったのか。

 歌舞伎の予備知識をあれほど頭に詰め込んで出かけたのに、一言も触れることなく逃げ出してくるとは、一体どうなっているのだ。 自分はなんと意気地のない不甲斐ない奴なんだ! 百合子の青ざめた落胆した表情が目に浮かぶ。あの瞬間、彼女の目元が涙で潤んだではないか。

 自分は百合子にどうやって謝ればいいのか。行雄は慙愧の念に耐えられず自分自身を責め苛んだ。 しかし、彼はどのようにして謝ったらいいのかが分からない。結局その日は、悶々たる気持で過ごさざるをえなかった。

  翌日になると、行雄の苦悶も少し和らいできた。 すると、百合子への謝罪の気持とは別に、彼女の大柄で艶やかな姿態が想い起こされてくる。昨日、百合子がゆっくりと行雄に近づいてきた時の、丸みをおびた腰の周りの曲線が目に浮かぶのだ。 それは妙に悩ましく、なまめかしい。そして、彼女のふっくらとした胸の辺りの盛り上がりも、脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 それは、かつて森戸敦子や雨宮和子に抱いた想念とは、まったく異なるものである。どうしても百合子の“肉体”が気になってくるのだ。 彼女の肉付きのよい腰や大腿部が、幻影となって行雄の眼前に迫ってくる。彼は恍惚としてそれを愛(め)でるのだ。

 百合子は大輪の花だと、行雄は思う。 彼女は、大きくて豊かで美しい。正に大輪の白いユリの花だ。 そう思っていると、百合子の全体像が彼の脳裏に巨大な幻影となって映ってくるのだ。 彼女ほど素晴らしい女性がこの世にいるだろうか。彼女ほど美しく麗しい女性が他にいるだろうか。

 行雄は白昼夢を見るようになった。 百合子の幻影が、来る日も来る日も脳裏に浮かんでくる。しかも、それは日増しに大きく美しくなっていく。 彼女の顔、胸、腰、大腿部までが日々新たに輝いてくる。 光り輝く百合子の白昼夢に彼は酔いしれるのだった。

 

 早稲田祭も終り十二月に入ると、寒さが身に凍みる季節となってきた。 授業の時などに、行雄は百合子と出会うことがあったが、彼女は人が変ったように不機嫌そうにむっつりしていて、彼の方に決して顔を向けなかった。 ことさら彼を無視しようという態度に見えたので、行雄は謝罪の言葉をかけることができなかった。

 ありきたりの謝罪をしても、百合子は許してくれないだろうと思うと、行雄の気持は一層重苦しくなり話しかける気にもなれない。 なんとかしなければと思うのだが、彼女に対する仕打ちがあまりに酷かったので、彼は謝る勇気を失っていた。 仕方がないので、行雄は多少の距離を置いて百合子の様子を窺うしかなかった。

 しかし、彼女を想う気持が内向していくと、思慕の情と幻覚はますます強まっていった。 行雄は家にいると、ロマンチックなクラシックレコードをしばしば聴くようになった。 彼はリストの「愛の夢」と、ベートーヴェンの「ロマンス第二番」に特に魅了された。

 これらの曲は、愛する感情の結晶ともいうべきものだ。 甘美な調べは行雄の夢想を限りなく広げ、百合子への思慕を深めていく。彼は夢想の中で百合子を抱き締めていた。彼女は“かぐわしい”匂いを放ちながら彼の腕の中にしなだれている。 そういう恍惚とした想いに耽る時、涙が頬を伝って落ちてくる。 

 行雄の白昼夢は止まることがなかった。来る日も来る日も朝から晩まで、彼は百合子の幻影に魅せられ息が詰まるような状態が続いた。 俺は百合子と結婚する。彼女と永遠の契りを結べばどんなに幸せであり、どんなに喜びに満ちたものになるだろうか。 このように想像すると、行雄はしびれるような快感に浸るのだった。

  夢想に明け暮れるうちに十二月も押し詰まってきた。 ある日のこと、行雄は自宅でたまたまイタリア・ルネサンスの絵画集をひもといている時、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなどの名画とともに、ある一つの絵画を目に留めて愕然とした。

 それは明るい陽光の中で、大きな貝殻に乗ったヴィーナスが、風を受けながら海辺に姿を現わした絵でる。 ヴィーナスは茶色の長い豊かな髪で陰部を覆い、恥じらうように戸惑いの表情を見せている。 その右手は右の乳房の上に置かれているが、左の乳房は露わに光にさらされている。

 若く美しいヴィーナスは、自分のまばゆい裸体に困惑しているようだ。あまりにも美しく生まれ、これほどまでに光り輝く自分の裸体を、どうしてよいのか持て余しているように見える。 神秘的であるとともに官能的な絵である。このサンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見た時、行雄は深い衝撃を受けた。

 ヴィーナスはすぐに中野百合子の幻影に結び付き、彼は百合子の裸体を想像し頬が火照るのを感じた。 彼女の裸体もこのヴィーナスのように、美しく豊かで、まばゆいものに違いない。ヴィーナスの白く輝く太股は、あのタイトスカートに包まれた百合子の大腿部を連想させる。

 暖かい血潮が流れる彼女の長くて丸い大腿部の幻影が、行雄の脳裏に迫ってくると、彼はもう息がつけないほどに感じられた。百合子は俺のヴィーナスだ! もう、どうなってもいい。俺は百合子を自分のものにするのだ。彼女を永遠に抱き締めるのだ。 悦楽の夢想に行雄は感動し、この想いを実現するしか自分の生きる道はないと信じた。 しかし、現実生活で彼は何もできないまま、二学期は終った。


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