前回の続きを書かせていただきます。
③バタンバンからシャムリープへの船旅
バタンバンからシャムリープまではバスで4時間、ボートでは3時間~7時間かかると言われていました。船旅は実際にはどれくらいの時間がかかるのか想像できませんでしたが、カンボジアでも最も景色がいい船旅と言われていたので、思い切ってボートを選んでみました。料金は片道20米ドル(2,400円程度)です。ボートでは屋根付きの客室の中か、その屋根の上に座る(席はありません)ことができ、私は思い切って屋根の上に陣取りました。景色は確かにきれいで、「ディアハンター」等のベトナム戦争関連の映画で見たような、茂みに挟まれた幅の狭い川をゆっくりと進んでいきます。川の両岸に村が点在しており、通過するたびに子供達がHello!と手をふってきてくれて、乗客も皆、手を振り返していました。そういう楽しい時間も2時間を経過すると、暑さのせいもあって、だんだんとベトナム戦争当時の兵士達の移動の過酷さを追体験する時間へと変わっていきます。川幅は3メートル程度になり両岸の木の枝が容赦なく屋根の上にいる乗客と襲い、ボートのエンジンは頻繁に止まります。疲れとスリルからか乗客同士自然と話を始めましたが、5時間も経つと、もはや誰も口をききません。そして、突然狭かった川の先に湖が広がった時、乗客たちは立ち上がり「シャムリープに着いた!」と叫びながらカメラを取り出します。そして、その湖が30分後再び小川に戻った瞬間、全員再び無言で座り込んだのでした。
結局、シャムリープに到着するには7時間を要しました。これは価値観の問題ですが、私はボートに乗って良かったと思っています。美しくも素朴な景色、冒険性、そして他の観光客との交流等を考慮にいれますと、貴重な経験といえます。ただし、お乗りになる決心をしたら、ある程度覚悟を決めて、7時間乗るつもりで、前日はよくお休みになこることをお勧めします。
④シャムリープ(アンコールワットの町)
ボートが岸に着いた瞬間に響き渡る、タクシー(トゥクトゥク)運転手たちの日本語「どこまで行きますか?」「ホテルは決まっていますか?」。観光地に来たことを実感しました。シャムリープの町の中心はかなり観光地化されており、レストラン、バー等の赤いネオンサインまででており、50メートルおきにタクシードライバーを声をかけてきます。ただし、そういった観光地的要素を忘れて建物だけをよく見てみると実は植民地時代の建物がよく保存されていることに気づきます。フランス植民地時代の建物をバーやカフェに使っている店が並ぶその名も「バーストリート」にいると、さながらニューオリンズのフレンチクオーター(行ったことはありません)にいるかのようです。
さて、アンコールワットは予想以上に素晴らしいものでしたが、ここではこれ以上は書きません。是非一度訪れてください。シャムリープではプノンペンで入手したDiscover Cambodiaを使ってまわりました。
Angkor Hospital for Children
カンボジアの医療を垣間見れるということと、とにかく献血して欲しいというメッセージが前述のガイドブックに書いてあったので、まずは行ってみました。私は生来血の気が多いほうではないので、献血をしたことはそれまで一度もありませんでしたが、カンボジアに来てからの様々な経験の結果、献血をする決意をしました。
350cc抜くと聞いて、驚き、さらに看護師から「この後めまいがするかもしれないからすぐにホテルに帰ってください。」と言われ、恐怖を感じましたが、続行。終了後、待合室のような場所に戻り、提供されたコーラ(Tシャツとおかしももらえます)を飲んでいると、続々と献血を希望する人がやってくるので少々安心しました。その後、一人の医師がやって来て、病院のガイドツアーをしてくれるというので、色々見せていただきました。様々な医療器機がありましたが、驚いたことに、その全てが先進国からの寄付だそうです。日本製、アメリカ製等様々です。外来病棟、入院病棟とあり、そのどちらにもたくさんの子供たちがいました。入院病棟を周っていたとき、一人の女の子がひどくつらそうにしていたので、ガイドしてくれていた医師に聞くと、彼が担当の医師を紹介してくれました。その子はデング熱にかかったそうで、私が「致命的なんですか」と尋ねると、微笑みながら、直りかけだと教えてくれ、その病気の治療には輸血が必要なので、献血によってこういう子を助けることができると言っていただき、救われた思いでした。更に、退院前に一週間滞在しなければならない、「教育」病棟にも連れて行っていただきましたが、そこでは両親に子供のケアの仕方を一から教えるのだそうです。
外に出てしばらくすると、めまいはしませんでしたが、途方もない眠気に襲われたので、すぐホテルに戻り、2時間ほど眠りました。その後、4日ほどは午後になると凄い眠気に襲われました。やはり、体が驚いたのでしょうか。
一ノ瀬泰造の墓
これはタクシーの運転手に教えてもらった場所です。一ノ瀬泰造はベトナム戦争当時、20代前半で単身ベトナムにわたったカメラマンで、シャムリープ周辺の村でクメールルージュによって殺害されました。1973年にクメールルージュによって拘束された時には日本からも釈放の嘆願がかなりなされたようですが、反応はなく、1979年頃に実はすでに殺されているという情報がはいり、1980年代に入ってから泰造の両親が現地まで行き実際に遺骨を掘り出しました。現在、墓がたっているのはその場所です。泰造は危険とわかっていてもアンコールワットにひかれ、カメラをもってその付近まで行った時に捕まったそうです。拘束中、カメラを取り上げられたことに反抗し、ハンストを始めたところ、クメールルージュの兵士に「再教育が必要」と言って、連れて行かれ、その兵士が帰ってきたときには泰造の靴をはいていたそうです。当時、クメールルージュは弾薬節約のために、捕虜殺害の際には竹の棒等で撲殺していたようなので、相当な痛みを伴う死であったと想像できます。
その墓の前には墓守の親子がいて、様々は資料を見せてくれて、最後に記帳をします。そのノートを見ていくと、日本からジャーナリストやカメラマン志望の若者が多く訪ねてきていることがわかります。ほとんどの人が自分の信じたとおりに生きることへのあこがれについて書いていたようです。
タクシーの運転手に「タイゾー」と言えば、ほとんどの運転手は知っています。
Dr.Beatによる定期演奏
Dr.Beat Richnerはベトナム戦争の頃、初めて、カンボジアに医師として赴任したスイス人で、この人に指導されたKanta Bopha hospitalは現在4つカンボジアにありますが、その1つがシャムリープにあります。アンコールワットに行く際には必ずこの病院の前を通りますので、すぐわかりますが、このDr.Beat 毎週土曜日夜7時過ぎからチェロコンサートを開いています。と言っても、メインはチェロ演奏ではなく、曲間にある彼の話です。30分ほど彼の演奏と話を聞くと、病院の歴史と現在に関するビデオを大きなスクリーンでみることになります。現在、この人はWHOとぶつかっています。問題は、WHOが継続てきる医療を考え、あまり高価な薬等を提供しないのに対し、DrBeatはヨーロッパと同じ質の医療を提供すべきだと考え、方々から資金を集めてそれを実行していることです。また、結核の予防接種は実は逆効果であるとDrBeatは訴え、予防接種を義務づけるWHOとぶつかってもいます。
演奏の合間や映画の終わりに、DrBeatは繰り返し寄付を訴えます。実際、昨年はこのコンサートによる寄付金だけで5億円に達したそうです。ホールをでて出口に向かうと数人のカンボジア女性が壺をかかえて待ち構えています。すると観客達は20米ドル札をぽんぽん入れていきます。私はさすがに20ドル(80RM)を寄付する勇気はなかったので代わりに彼の活動のドキュメンタリーDVDを10ドルで購入しましたが、私が帰る頃には壺はどれもドル札でいっぱいになっていました。
終わりに
カンボジアの人たちは素朴で誇り高い人たちです。プノンペンでこんなことがありました。戦争で両足をなくした男性が「私は物乞いをしているのではありません。働いているのです」というカードを首からさげて、私のところに絵葉書を売りに来ました。まだ、着いたばかりでお金を使いたくなかった私は断ったのですが、彼の足を見ているといたたまれず、つい少量のお金をあげようとしてしまいました。すると、彼は「やめろ!」といい、私のお金をとりあげ、草むらの中に投げ捨て、私をにらみつけました。私は彼の自尊心を傷つける軽率な行為を謝罪し、その場を立ち去りました。このようなプラカードを首からさげた人はシャムリープにもいます。他の観光客ともよく話したのですが、この世界で最も貧しい国の1つで我々にできることはとにかく物を買うことだと思います。観光客ですから、少々ふっかけられます。それでも自国の物価に照らし合わせると、安い。それなら言い値で買ってあげてもいいのではないでしょうか。寄付をしたいがそのお金が本当に人々に還元されるかというのも、常につきまとう問題です。その意味では上記のDrBeatは間違いのないルートで医療にお金をまわせますから、寄付する人が多いのでしょう。
公立の学校もまだカンボジアには5校もありません。また、仮に学校をでても仕事も多くありません。プノンペンの国立博物館で一人の若者が私に日本語で話しかけてきました。「日本人ですか?日本語を勉強しているので話し相手になって欲しい」というのです。文法はまだ危ういところがありましたが、それでも流暢に話します。私がある仏像をずっと見ていると、今度は後ろにいた白人の女性に英語で話しかけ、同じことを言います。しかも、やはり流暢です。彼はその後私のところに戻ってきて、しばらく話しましたが、彼は日本語を8ヶ月しか学習していないそうです。優秀な子だなと思っていると、仕事は見つからないから、来年には実家に帰り農家をやると言います。彼がうつむいたまま言った「カンボジアは貧しい国です。」が忘れられません。
③バタンバンからシャムリープへの船旅
バタンバンからシャムリープまではバスで4時間、ボートでは3時間~7時間かかると言われていました。船旅は実際にはどれくらいの時間がかかるのか想像できませんでしたが、カンボジアでも最も景色がいい船旅と言われていたので、思い切ってボートを選んでみました。料金は片道20米ドル(2,400円程度)です。ボートでは屋根付きの客室の中か、その屋根の上に座る(席はありません)ことができ、私は思い切って屋根の上に陣取りました。景色は確かにきれいで、「ディアハンター」等のベトナム戦争関連の映画で見たような、茂みに挟まれた幅の狭い川をゆっくりと進んでいきます。川の両岸に村が点在しており、通過するたびに子供達がHello!と手をふってきてくれて、乗客も皆、手を振り返していました。そういう楽しい時間も2時間を経過すると、暑さのせいもあって、だんだんとベトナム戦争当時の兵士達の移動の過酷さを追体験する時間へと変わっていきます。川幅は3メートル程度になり両岸の木の枝が容赦なく屋根の上にいる乗客と襲い、ボートのエンジンは頻繁に止まります。疲れとスリルからか乗客同士自然と話を始めましたが、5時間も経つと、もはや誰も口をききません。そして、突然狭かった川の先に湖が広がった時、乗客たちは立ち上がり「シャムリープに着いた!」と叫びながらカメラを取り出します。そして、その湖が30分後再び小川に戻った瞬間、全員再び無言で座り込んだのでした。
結局、シャムリープに到着するには7時間を要しました。これは価値観の問題ですが、私はボートに乗って良かったと思っています。美しくも素朴な景色、冒険性、そして他の観光客との交流等を考慮にいれますと、貴重な経験といえます。ただし、お乗りになる決心をしたら、ある程度覚悟を決めて、7時間乗るつもりで、前日はよくお休みになこることをお勧めします。
④シャムリープ(アンコールワットの町)
ボートが岸に着いた瞬間に響き渡る、タクシー(トゥクトゥク)運転手たちの日本語「どこまで行きますか?」「ホテルは決まっていますか?」。観光地に来たことを実感しました。シャムリープの町の中心はかなり観光地化されており、レストラン、バー等の赤いネオンサインまででており、50メートルおきにタクシードライバーを声をかけてきます。ただし、そういった観光地的要素を忘れて建物だけをよく見てみると実は植民地時代の建物がよく保存されていることに気づきます。フランス植民地時代の建物をバーやカフェに使っている店が並ぶその名も「バーストリート」にいると、さながらニューオリンズのフレンチクオーター(行ったことはありません)にいるかのようです。
さて、アンコールワットは予想以上に素晴らしいものでしたが、ここではこれ以上は書きません。是非一度訪れてください。シャムリープではプノンペンで入手したDiscover Cambodiaを使ってまわりました。
Angkor Hospital for Children
カンボジアの医療を垣間見れるということと、とにかく献血して欲しいというメッセージが前述のガイドブックに書いてあったので、まずは行ってみました。私は生来血の気が多いほうではないので、献血をしたことはそれまで一度もありませんでしたが、カンボジアに来てからの様々な経験の結果、献血をする決意をしました。
350cc抜くと聞いて、驚き、さらに看護師から「この後めまいがするかもしれないからすぐにホテルに帰ってください。」と言われ、恐怖を感じましたが、続行。終了後、待合室のような場所に戻り、提供されたコーラ(Tシャツとおかしももらえます)を飲んでいると、続々と献血を希望する人がやってくるので少々安心しました。その後、一人の医師がやって来て、病院のガイドツアーをしてくれるというので、色々見せていただきました。様々な医療器機がありましたが、驚いたことに、その全てが先進国からの寄付だそうです。日本製、アメリカ製等様々です。外来病棟、入院病棟とあり、そのどちらにもたくさんの子供たちがいました。入院病棟を周っていたとき、一人の女の子がひどくつらそうにしていたので、ガイドしてくれていた医師に聞くと、彼が担当の医師を紹介してくれました。その子はデング熱にかかったそうで、私が「致命的なんですか」と尋ねると、微笑みながら、直りかけだと教えてくれ、その病気の治療には輸血が必要なので、献血によってこういう子を助けることができると言っていただき、救われた思いでした。更に、退院前に一週間滞在しなければならない、「教育」病棟にも連れて行っていただきましたが、そこでは両親に子供のケアの仕方を一から教えるのだそうです。
外に出てしばらくすると、めまいはしませんでしたが、途方もない眠気に襲われたので、すぐホテルに戻り、2時間ほど眠りました。その後、4日ほどは午後になると凄い眠気に襲われました。やはり、体が驚いたのでしょうか。
一ノ瀬泰造の墓
これはタクシーの運転手に教えてもらった場所です。一ノ瀬泰造はベトナム戦争当時、20代前半で単身ベトナムにわたったカメラマンで、シャムリープ周辺の村でクメールルージュによって殺害されました。1973年にクメールルージュによって拘束された時には日本からも釈放の嘆願がかなりなされたようですが、反応はなく、1979年頃に実はすでに殺されているという情報がはいり、1980年代に入ってから泰造の両親が現地まで行き実際に遺骨を掘り出しました。現在、墓がたっているのはその場所です。泰造は危険とわかっていてもアンコールワットにひかれ、カメラをもってその付近まで行った時に捕まったそうです。拘束中、カメラを取り上げられたことに反抗し、ハンストを始めたところ、クメールルージュの兵士に「再教育が必要」と言って、連れて行かれ、その兵士が帰ってきたときには泰造の靴をはいていたそうです。当時、クメールルージュは弾薬節約のために、捕虜殺害の際には竹の棒等で撲殺していたようなので、相当な痛みを伴う死であったと想像できます。
その墓の前には墓守の親子がいて、様々は資料を見せてくれて、最後に記帳をします。そのノートを見ていくと、日本からジャーナリストやカメラマン志望の若者が多く訪ねてきていることがわかります。ほとんどの人が自分の信じたとおりに生きることへのあこがれについて書いていたようです。
タクシーの運転手に「タイゾー」と言えば、ほとんどの運転手は知っています。
Dr.Beatによる定期演奏
Dr.Beat Richnerはベトナム戦争の頃、初めて、カンボジアに医師として赴任したスイス人で、この人に指導されたKanta Bopha hospitalは現在4つカンボジアにありますが、その1つがシャムリープにあります。アンコールワットに行く際には必ずこの病院の前を通りますので、すぐわかりますが、このDr.Beat 毎週土曜日夜7時過ぎからチェロコンサートを開いています。と言っても、メインはチェロ演奏ではなく、曲間にある彼の話です。30分ほど彼の演奏と話を聞くと、病院の歴史と現在に関するビデオを大きなスクリーンでみることになります。現在、この人はWHOとぶつかっています。問題は、WHOが継続てきる医療を考え、あまり高価な薬等を提供しないのに対し、DrBeatはヨーロッパと同じ質の医療を提供すべきだと考え、方々から資金を集めてそれを実行していることです。また、結核の予防接種は実は逆効果であるとDrBeatは訴え、予防接種を義務づけるWHOとぶつかってもいます。
演奏の合間や映画の終わりに、DrBeatは繰り返し寄付を訴えます。実際、昨年はこのコンサートによる寄付金だけで5億円に達したそうです。ホールをでて出口に向かうと数人のカンボジア女性が壺をかかえて待ち構えています。すると観客達は20米ドル札をぽんぽん入れていきます。私はさすがに20ドル(80RM)を寄付する勇気はなかったので代わりに彼の活動のドキュメンタリーDVDを10ドルで購入しましたが、私が帰る頃には壺はどれもドル札でいっぱいになっていました。
終わりに
カンボジアの人たちは素朴で誇り高い人たちです。プノンペンでこんなことがありました。戦争で両足をなくした男性が「私は物乞いをしているのではありません。働いているのです」というカードを首からさげて、私のところに絵葉書を売りに来ました。まだ、着いたばかりでお金を使いたくなかった私は断ったのですが、彼の足を見ているといたたまれず、つい少量のお金をあげようとしてしまいました。すると、彼は「やめろ!」といい、私のお金をとりあげ、草むらの中に投げ捨て、私をにらみつけました。私は彼の自尊心を傷つける軽率な行為を謝罪し、その場を立ち去りました。このようなプラカードを首からさげた人はシャムリープにもいます。他の観光客ともよく話したのですが、この世界で最も貧しい国の1つで我々にできることはとにかく物を買うことだと思います。観光客ですから、少々ふっかけられます。それでも自国の物価に照らし合わせると、安い。それなら言い値で買ってあげてもいいのではないでしょうか。寄付をしたいがそのお金が本当に人々に還元されるかというのも、常につきまとう問題です。その意味では上記のDrBeatは間違いのないルートで医療にお金をまわせますから、寄付する人が多いのでしょう。
公立の学校もまだカンボジアには5校もありません。また、仮に学校をでても仕事も多くありません。プノンペンの国立博物館で一人の若者が私に日本語で話しかけてきました。「日本人ですか?日本語を勉強しているので話し相手になって欲しい」というのです。文法はまだ危ういところがありましたが、それでも流暢に話します。私がある仏像をずっと見ていると、今度は後ろにいた白人の女性に英語で話しかけ、同じことを言います。しかも、やはり流暢です。彼はその後私のところに戻ってきて、しばらく話しましたが、彼は日本語を8ヶ月しか学習していないそうです。優秀な子だなと思っていると、仕事は見つからないから、来年には実家に帰り農家をやると言います。彼がうつむいたまま言った「カンボジアは貧しい国です。」が忘れられません。