風の谷通信

専業農家からの引退を画策する高齢者。ままならぬ世相を嘆きながらも、政治評論や文化・芸術・民俗などに関心を持っている。

12-044 北関東と原爆の図

2017-04-30 18:52:45 | この道の先に

風の谷通信No12-044

ホテルを早くに出る。このホテルは無料の朝食を玄関ロビーで提供してくれるので、簡単に済ませてチェックアウトし、08時頃の特急あずさに乗る。新宿着09:30頃。池袋から東武東上線で森林公園駅まで。残念ながら昔の池袋駅の記憶は役に立たない。かろうじて大まかな位置関係が理解できる程度。森林公園駅のホーム階段を上がって改札へ出る。ここに出迎えてくれた友人の姿を見誤ったのだが、先方も同様だったという。ごもっとも、この年代でほぼ20年近く会ってないんだもの、お互いに姿が変わってしまっているよ。

 ここから先は彼のクルマで乗せてもらえることになった。乗車兼案内係り、まさに「時の氏神」。こんなところに旧知の友人がおいでとは全く以て幸運。

 丸木美術館は思いもよらず街はずれの森の中にあった。ウイキペディアに掲載されているのとは景色が違う。中へ入って見たが寂しい感じがした。ウイークデーでもあるし観客が他になかった。原爆の図については、事前に画像を見ていたのでショックが少なかったが、やはり怖いしイヤだね。でも人はこの絵を見るべきだよ。ショックが少なかった理由の一つは画面の被災者たちの肉体が美しかったからだろう。当時の日本人の身体はあんなにはちきれてはいなかったはずだ。もっと痩せさらばえて、かつ汚れていたはずだ。原爆被災者の写真の方がはるかに悲惨だったように思う。

合わせて観た南京大虐殺の図は迫真の恐れがあった。軍装から見て日本兵と判る兵士が刀を振り下ろした姿は今も瞼の底に残る。今でも思い出すと不安になる。

それにしても、東松山市あるいは埼玉県が、この丸木美術館を大切にしてはいなかったらしい。勿体ない。この存在全体が丸木夫妻の自己犠牲の結果であるというのは悲しい。

見学を済ませて浦和へ移動。途中川越街道沿いで昼食。陽射しが美しいが強風が荒れていた。北関東の平野を風が吹き抜けて行く感じだ。川越街道という、西日本の感覚では吹きさらしの感じを受ける、そんな地区で食事したあと、川越市内の「喜多院」(川越大師)を見学した。川越大火の後に再興されたとのことで17世紀半ばの建物である。三代将軍家光の誕生の間だとか春日の局ゆかりの場所だとか五百羅漢も見学した。五百羅漢の姿態が多種多様で興味深い。この加西市のものとはずいぶん異なる姿であり、比較することによって加西の羅漢像がいかにも素朴だと理解できる。川越の古い街姿の「小江戸」も通過した。

彼の自宅へ立ち寄ってお茶をご馳走になり、浦和のホテルにはいる。おまけに夕食までご馳走になって一日を終えた。まる一日お世話になりました。

ついてに話を進めてしまうと、翌日早くに浦和を発って東京経由で帰郷した。甲州から上州までも足早に駆け抜けた3日の旅でした。帰路の車中では早くも次の訪問地を思案しているのです。

                   

旅の寸描:甲府のホテルの窓に上る朝日、甲府のホテルの真ん前にある豪壮な個人住宅、ある銀行の頭取だった人の家だとかで、甲府城の城山に背中を預けて建っている、3枚目は丸木美術館の正面