風の谷通信No12-013
高村薫の作品「土の記」を読んでいて興味深い記述に出会った。
70歳を過ぎた主人公が夏の稲田を世話している。目の前の稲の
有様から、近隣仲間たちの動きから、亡妻が死の直前に見せた
奇妙な行動から、天候の気配から、草の伸び具合から、稲の生育
や天候や、、、、さまざまな事柄が頭に浮かんでは消え浮かんで
は消える。事細かな農村生活の物理的心理的描写である。
その中で興味を惹かれたこと。ニューヨークへ移り住んだ娘とその
また娘(主人公の孫娘)が住むアパートに思いが及ぶ。時差が気に
なる。用があるならば先方の夕方、こちらの早朝に電話してくるだろ
う、、、と想像している。そのうちに、隣の部屋の老夫婦が飼って
いる子犬のことや、アパートの足許の店で売っている何かのファスト
フードの匂いがその10階の部屋まで昇ってくるという状況まで
想像してしまう。
実に克明な描写が続く。
ふと気が付くと自分が同じことをしている。夜に、、、ちょうどこれから
のデスクワークに時間帯に、、、パリとの時差を想像する。あの
アパートの前の道を頭に描いてみる。夕方のパリの繁華街を想像
する。かと思うと早朝の畑の中で頭の上を飛ぶエールフランス機の姿
を見て二人が帰ってきそうな夢も見る。この時刻にこの上空を飛ぶ旅客
機は他にはないのだ。
かと思うと、主人公自身の記憶が既に鈍りかけていて、なんとなく
認知症の走りのような気配を彼自らが疑っているかのような記述が
ある。そんな中で、娘の気持ちへの推理が働く。
ニューヨークに脱出した陽子は、娘と共に文字通り親からも上谷の
一統からも解き放たれたのだと言ってもよかったが、伊佐夫の思考
はそこでもう一回転し、待てよと思い至るのだ。娘の渡米は、言い換
えれば陽子と親の自分が未だに各々の根に持つものが、遂に行き場
を失ったということだろうか。・・・父も娘も積年のわだかまりを清算し
ないまま、その機会を失ったということだろうか。
ここには、崩壊してゆく稲作農村とそこに棲む家族の崩壊をも描き
込んである。不幸な親子である。私自身には、パリの街への嬉しい
想いとは別に、この現住地での苦しい思いが重なって、なかなかに
読み応えのある作品「土の記」である。