と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

今、gymから帰ってきた。これから趣味と実益を兼ねたバイトに行ってくるのだ(^_^)。

2016年08月25日 18時12分10秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

趣味である塾のバイトも辞めさせられたら、どうするんじゃ?ノイローゼになっちまうですな。だから、バイト先ではおとなしくしていまひょ

 

 

いい汗かいてきた。

Gymで。

Walkingは、距離で9.9キロ。通常歩数で13281歩。Exだと10251歩。血圧は126と76。体重は65.1キロ。順調である。実に順調。これが1年半前にICUに入っていたとは信じられない回復ぶりである。こんなことなら、某大学大学院を中退しなければ良かったとも思うが、中退してゴミ論文書きから撤退したからここまで回復できたのである。それくらい、ボキは勉強にむかないのである(^_^)。

今日は暑かったから、なおさらのことである。いつもはgymのシャワーはあびないのであるが、今日はシャワーもやってきた。これからヨルバイトの塾があるからだ。加齢臭と汗のにおいとぐちゃぐちゃになっていたら、生徒が集中できないではないか。だからである。

ま、それくらいの思いやりはいかにアホなボキでもできるのじゃよ(^_^)。

さらに今日は剃髪もした。スキンヘッドになった。かなり伸びていたから、これですっきりした。いい男になってしまったよん。

挫折の日々を送っているバカジジイである。普通のジー様のような格好をしていたら神様仏様に嗤われる。

わははっははっははっははははってねぇ。

夕方Amazonから「史記」(漢文大系の第一巻)と「風来山人集」(岩波古典大系)が来た。古本である。さっきちょっと読んでいたけど、塾から帰ったら本格的に読んでみるつもり。これでまたまた退屈しのぎになる。

いつもいつも退屈ばかりしているなぁ。

これで趣味である塾のバイトも辞めさせられたら、どうするんじゃ?

ノイローゼになっちまうですな。

だから、バイト先ではおとなしくしていまひょ。おとなしいのが一番ボキには似合っているからで。

じゃぁ、バイトに行って参ります。

 

Bye-bye!

 

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自己否定はそんなにいけないことなのだろうか?

2016年08月25日 09時18分42秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

徹底した自己肯定は、さらにもっと徹底した自己否定からくる

 

 

自己否定はいけないことだとよく言われる。

心理カウンセラーの書籍や、HP等々にも散見される。あるいは、種々の宗教の書籍にも、HPにも書いてある。つまりマイナス要因というわけである。暮らしていく上では。

そんな自己否定みたいな負の要素を抱えて生きているより、明るく、元気で、精一杯生きていくことであるとされているものが多い。ましてや、もともとが人間は神の子であって、明るく生きていくのが当たり前であると励ますものもある。神に近づこうとするわけである。

どーもボキはずっと疑問に思ってきた。

そう思えないボキのようなダメ人間、クズ人間にどんなに明るく生きていけと言われてもできないものはできないからである。

そんなに人間って明るいもんなのだろうかねぇ。

君は明るくて、将来性豊かな、すばらしい人間だと褒められても信用できないからである。オノレのくだらなさ、バカさに気がついているのは、本人であるからだ。それでもって、こっちは悩んでいるのに、下手に励まされてもオノレがイヤになっちまう。

ボキは、本当にダメだからである。

生きがいを持てと言われても、持てなかった。

そりゃぁやることはたくさんあった。仕事に紛れて生きていると、オノレのくだらなさを一瞬でも忘れることができたからである。それに生きるためには喰わなくちゃならん。一定のサラリーをもらえるのならば、何を今更文句が言えようかと思っていた。

それでも、ボキはそういうのをごまかしだと思ってきた。

だから、生涯学習ごっこをしてきたのである。

資格のためにではない。

ましてや、第二の人生のためではない。

芥川ではないが、漠然とした不安であった。虚無主義と言い換えてもいい。こんな人生、生きる意味なんてあるんだろうかと15歳くらいからずっと思ってきたからである。

文学やその他もろもろの書籍を買ってむさぼるように読んできたのは、ニヒリズムからの快癒を願っていたからである。

そんなアホなボキに、どんなに美辞麗句を用いて「と~ま君よ、君には無限の可能性がある」「将来有望である」「期待しているよ」等々のウソを言われても信用できなかったのである。

人生は虚しいというのが、高校生以来のボキの精神的な核である。いまだにそうである。将来が不安だというような話でない。そんなもんではない。今が生きるに値するのかという考え方が根底にあったのだ。以来、50年間追求しているテーマである。

だから徹底してボキは「自己否定」なのである。

こんなくだらない奴はいないと、こころから思っているのである。

そして、徹底して自己否定をすることによって、ボキは他人に生かされてきたことに気がつくことになる。他人もそうだし、亡父亡母もそうだった。オノレ一人で生きてきたわけではなかった。助けられて生きてきたのである。病気のときもそうだった。一年半前にICUに入っていたときも、そう思った。ICUに入ったのもいいきっかけであった。

ゼロからの再スタートであった。人生をリセットしたわけである。もともと、大学だって新聞配達をしながら貧乏と闘ってきた。本当のプロレタリアである。本来なら、千葉県の高校教師なんかできやしない。その程度の能力しかなかった。ましてや、大学院博士課程に入学して博士をとるなんてぇことも、身の程知らず。ルンペン・プロレタリアであったのだからできるわけもない。所詮木偶のボーであるから。

しかし、ゼロから人生を見直すということもまたいいものである。

否定から肯定へのコペルニクス的転回であったからである。

ここを通らないとなかなか自己肯定はできないのである。そう思う。しみじみと。

これからは、人生の明るい面だけを見て過ごしていくつもりである。

「感謝」の二文字をこころにしっかり刻んで。

亡父にも亡母にも。古女房ドノにも。ボキの長女、長男にも。孫達にも。それに近所の方々にも。老人大学のクラスメイトにも。塾の生徒にも。アルバイト先の二つの大学の先生方にも。

ああああああああああ、書き切れないほどの方々にお世話になっているではないか。

感謝を忘れてはアカンですなぁ。

 

マジに。

 

おおいなる自己肯定のために。

 

Bye-bye!

 

 

 

 

 

 

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我が日本はまだまだである。発展途上である。伸びしろがあるからである。

2016年08月25日 07時45分05秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

なぜ日本に豪邸街が存在しないか。

 

 

グローバル社会とかなんとか言っているけど、我が日本、まだまだである。なぜか。それは我が日本には、豪邸街というのが存在しないからである。

むろんボキの家も庶民の住むせせこましい家でしかない。それは承知の上で言っている。

豪邸というのはある。チラホラと。数億円以上の物件。しかし、豪邸街となるとなかなかである。そういう町並みというのは江戸時代ならあっただろう。大名屋敷街である。家計が順調だったから豪邸も持てたのであろうから。内実は貧窮していたのかもしれないが。

だから、マンションとかなんとかと言っても所詮江戸時代の長屋と一緒である。

むろん縦に長い豪邸街もあることは承知している。しかし、土地は狭い。縦に長いマンションとかもである。言わばマンション長屋である。さらに、小金持ちの庶民が住んでいるだけである。一部を除いては。

うらやましいとは思わない。

問題は(といってもたいしたことではないが)、住居環境というのが日本はまだまだであると思うのである。住宅環境のソフトはすばらしいものがある。ウオッシュレットしかりである。しかし、ハードの面ではさみしいかぎりである。

なにしろ狭い。狭くても工夫して住んでいるのである。兎小屋と揶揄した外国のメディアがかつてあったが、あれを否定することはできないだろう。

ボキンチは、犬小屋くらいはあるが。入り口から、根性も人相もアタマも悪い純粋日本犬であるボキがワンワンと吼えている。やせ衰えた昔の秋田犬である。昔は凶暴だったけど。今はまったく温厚そのもの。おだやかに生きているだけである。孫もできたし。

わははっはははっははははである。

それにつけても、九十九里浜もそうだが、千葉県内にも豪邸街が存在しない。うらやましいくらいの豪邸がそろっていて、こんなところに住んでみたいというような街がない。さらに千葉県は海抜が低い。沖縄県よりも海抜が低い。ま、それはどうでもいいことだが。

土地に執着しているのである。千葉県人のみではない。庭があって、犬を放し飼いできるくらいの土地にこだわるわけである。

だから千葉県人のみならず家の転売をしないのである。日本人は。住み替えというやつである。ごく少数を除いては。ローンの関係もある。アメリカが盛んなのは、サブプライムローンというのが盛んだったからという指摘もできるが、あれは完全に失敗した例である。だから考えないことにするけど。

しかし、マンションならあり得るだろう。転売を繰り返して。それでもマンションは豪邸とは言いがたい。値段的には豪邸と呼ぶ資格のある方々はおられるだろうが、土地のない住居では豪邸とは呼びがたい。

ヨーロッパの貴族の家には豪邸がある。確かにある。ドイツにも多かった。あれはすばらしい。住めれば住みたいと思うくらいのがある。

特に、バイエルン州のノイシュヴァンシュタイン城はすばらしかった。マリエン橋から見た城は、まさに浦安ディズニーランドの正門から見えるお城のモデルそのものであった。あれは十分に豪邸である。それでも周囲は豪邸街ではなかったが。孤立していたし。まだ某大学大学院に在籍していた時代に行ったのである。古女房ドノのバースディ記念にである(^_^)。それくらいしないと、ボキはこれから捨てられてしまうからのぉ~~~~。マジに。

結論を書こう。

なぜ日本に豪邸街が存在しないか。

それは本当の意味で、グローバル化していないからである。貧富の差も大きいからである。まだまだなのである。日本も。

だからまだまだ我々日本人はやることがたくさんあるのだ。得意の経済分野でも然りである。

今日は天気がいい。

台風10号が気になるが。

朝、walkingにも行ってきたし、午後からまたgymに行く。

夜はアルバイトの塾である。

充実した一日でありたいものである。

(^-^)/

 

Bye-bye!

 

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8月24日(水)のつぶやき

2016年08月25日 05時10分47秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/