Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

銭不動へ

2021-05-25 23:42:23 | つぶやき

 

 先日、久しぶりに銭(ぜに)を訪れた。2018年に四徳導水の調査に行った際に、桑原の滝の先まで行ったことはあったが、その際にも銭までは立ち寄らなかった。だからいつ以来なのか、記録を紐解かないとはっきりしない。銭といえば、かつて中川村の調査で銭に暮らす女性のもとを訪れ、話をきいたことがある。大正7年生まれの方で、そういえば昨年だろうかその女性に関する新聞記事をどこかで拝見した記憶がある。昨年の盆が初盆だったと、この日銭を訪れて通りすがりに会った女性に聞いた。銭で通りすがりに地元の人に出会うことは滅多にないこと。大正7年生まれの女性は百歳を数えられて亡くなられたことを知った。お年寄りに話を聞いてきたわたしは、こうして多くの話者を見送っていることになる。

 もちろん銭で話をうかがったわけであるから、銭不動の話も聞いている。馬の神様として知られたお不動様の祭りには、列をなして参拝者が訪れたというから、往年のにぎやかさが偲ばれる。その銭不動にも立ち寄ってみた。桑原から山道を進むこと数キロ。オートキャンプ場にたどり着くと、その脇から銭不動への道が分岐する。坂道は雨で荒れていて、普通車では難しいのでは、と思うほどの道。その道で女性の運転する軽トラックに出会った。目的は銭不動より先にあったようだ。この山の中にお不動様の建物が現れると、感動ものかもしれない。それほどそれまでの道とはうってかわって周囲はすっきりと整備されている。かつて来たときにも建っていたのだろうが、記憶から消えていた歌を詠んだ碑が、銭の集落を見下ろすようにあった。昭和54年4月に建てられたもので

大草城 ゆかりの土地に 陣場在り
信仰いまに不動明王

と詠まれている。常泉寺26代「泰寿敬書」とあるから、かつて中川村の調査の際にお世話になった方の書である。

 銭不動へ上る道の手前に四辻がある。ここに先日も触れた桑原の境地蔵が建っている。お顔はけして緻密な彫ではないが、背後に彫られた「桑原」が印象に残るはず。そして「延享丑四月 十三人」は境地蔵に彫られた共通の銘文である。延享は5年までしかなく、「丑」年となると延享2年。したがって1745年となる。276年前に建てられたお地蔵さんである。その対に道標がある。そこには

西大草ヲ経テ龍西線ニ通ズ
東四徳ヲ経テ中沢村ニ通ズ
南桑原ヲ経テ大鹿村ニ通ズ
北北山方ヲ経テ飯島村ニ通ズ

とあり、さらに

大正御即位記念南向村青年会

とある。最近道標に注目してきたところだが、これもまた同じころに建てられた青年会の建てた道標のひとつだ。建立時には「大鹿村」にはまだなっていなかったのでは?と思ったが、実は大鹿村が発足したのは第1次明治8年、一度分村したが、第2次明治22年に再び大鹿村となっている。ようは歴史上「大鹿村」の名は古いというわけだ。

 この境地蔵のある辻を、サイノカミと言った、ということはかつて銭に暮らした女性に聞いたこと。こり辻から銭不動までの景観は、癒しの空間である。


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