Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年老いて思うもの

2024-05-16 23:00:00 | つぶやき

 それぞれの人たちにそれぞれの権利があるのは百も承知だ。例えば近ごろさかんに話題に上る同性婚も否定するものではない。しかし、生産性という面で必ずしも現在の日本の状況の課題をクリアーするものではないことは言うまでもない。ようは人口減少という視点である。すでに人手不足は始まっており、とりわけこの後、金にならない世界は真っ先に切り捨てられるだろう。その最前線が地方であり、農業である。その最前線にある地方の姿は、みんな口には出さないが惨憺たる状況が待ち受けていることを知らない人はいない。

 今日はお世話になった方たちと、年度末に飲んで以来の懇親会を行った。世知辛い世の中でも年老いた人間にとってみれば義理堅い付き合いを忘れはしない。だからこその義理を返そうとした懇親会だった。しかし、こうした義理も、現在はかなり省略されて、たとえお客さんに義理を果たしたとして、返されることは稀になった時代である。そういう意味では返していただけることへの感謝は表しようもないが、その恩は忘れない。それが人間としての義理であり、常識だとも思っている。が、しかし、冷淡な時代であることは先日自ら出版した本への対応の現実で触れたとおりだ。この世に「義理」なるものは消滅しているし、それが当たり前だと認識している。とはいえ、何か「ほしい」よね、そう思うことは多々ある。その「ほしい」とは代償ではない、一言でもいいから、何か反応してほしい、その程度のことなのだ。それさえできなくなっているのが現代人なのである。

 お客さんと飲んだあと、最終までの時間がそれほどなかっので、二次会は遠慮した。とはいえ電車までの時間は少しあったため、近くのラーメン屋へ入った。それほど時間に余裕があったわけではなく、「ぎりぎりかな」と思いながらも久しぶりであったから、「食べたい」そう思った単純な行動である。もう30年以上前から時おり足を運んでいたラーメン屋である。数十年レベルで同じような店に時おり出入りするが、おそらく、それらすべての店で、現当主が営業できなくなれば、廃業になるのだろう。今だからこそ足を運べる世界で、数年後そこに同じものを求めることはもうできないだろう。店を出る際に「おいくつになったのですか」と聞くと、75歳という。なるほどそう長くは続けられないだろう。とはいえ頻繁に訪れることはできないし、いつまで「行ってみよう」と思った際に立ち寄ることができるか、もはや時間の問題なのかもしれない。そしてそういう店は街並みの中にいくつもある。どれほど地域のリーダーたちの中にこうした事実を考えている人がいるか知らないが、もちろん若い、新しい人が出てきてくれる可能性もあって、全てが消えてなくなるわけではないだろうが、先の姿は容易に想像できそうなほど、街並みは老年化している。

 一世紀以上も前なら「私財を投げうって」人のために働く人がいたが、この世には金があってもそんなことをする人はいない。なにもかもが個人の権利にゆだねられ、裏を返せば暮らしやすいと言えるのかもしれないが、人のせいにする言葉ばかりが聞こえる時代である。もちろん年寄りのボヤキに過ぎないが、若いころ、このような風が漂うような国になろうとは、思ってもみなかった。あえて言うなら、外の風景は何も変わらず、眺めていれば、かろうしで癒してくれることが助けだろうか。


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