キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

お正月用のワインが揃いました

2020年12月30日 | ☆買い物


ワインがたくさん!
お正月だしね…と、調子に乗っていたらワインがこんなになりました。
10本あります。

先日の東欧ワインの試飲会で注文したのが7本。 近所のバーで原価で譲ってもらったカリフォルニアワインが3本。
到底飲みきれないと思いますがまあ少しずつ飲みましょう。

こんなにたくさんあるけれど、どれも試飲しておいしかったものばかり。割引してもらってお得に買えました。全部で23000円ぐらい。

感染も広がってきてるし、スーパーへ買い物に行くのも避けたいので、食料品は全部生協の宅配で済ませました。生協っておせちの注文もできるんです。今年は20数年ぶりに日本で正月を迎えるのでおせちも2箇所から取ってしまいました。簡単な重箱に入ったものが冷凍で届きます。それを冷蔵庫で解凍すればすぐに食べられるらしいです。さらに近所のレストランにオードブル盛り合わせも頼んだので(これは明日取りに行きます)何もしないでご馳走が揃うことになります。
楽ちんです。




年末年始に台湾に行くことを思えば、(いかに格安航空会社で相部屋のホステルに泊まってという貧乏旅行をしていても)数万円は使ってしまうので、このぐらいのお金をかけるのはアリかなと思いました。

今日は30日。 いつもの年なら荷造りしてもう空港に向かっているくらいの時間です。 台湾に行くのはもちろん楽しいのだけれど、年末のバタバタとした雰囲気のまま心身ともに疲れきって旅行に行くので、いつもかなりストレスでした。ところが今年は年末の仕事はもちろん忙しかったものの、これから一週間休みで家にこもっていられると思うとなんとものんびりした気持ちです。コロナで色々制約が出ていますが 意外な副産物もありましたね。



ワインメモ。
カリフォルニアの赤3本。 ナビゲーター、7ジンファンデル、それとこれは飲んだことないものですがホワイトハウスでも使われているワインだとか JAL のファーストクラスで出てくるワインだとかと言われて買ってみました


東ヨーロッパワイン赤とロゼ。
赤はルーマニアの飾るかというぶどうのワインです。ロゼはチェコのカベルネソーヴィニヨン。梅酒みたいな香りがしました。
箱付きの細いボトルはこれはワインではないんですが、チェコのアプリコットワイン。甘いお酒です。


白ワイン5本。
ハンガリーのトカイ地域のが2本。細いボトルに白いキャップのはフルミントの甘いワイン。もう一つはミュスカブランアプティグラン。
両脇はルーマニアの。土着品種のフェテアスカレガーラとシャルドネ。
赤いキャップの可愛いボトルはモルドバのヴィオリカという土着品種のもの。



お正月休みの本

2020年12月27日 | ☆読書


図書館でお正月用の本を借りてきました。
退屈しないようにと思って手当たり次第に。世田谷区の図書館は一人15冊まで借りられるようになって助かります。

ヒマラヤ登山系の本3冊。
仏教入門系の本4冊。
岡本綺堂半七捕物帳系4冊。
「昔ばなし」大学の課題図書系2冊。
背表紙が読めないくらい薄い本は岩波ブックレット「年表昭和・平成史-1926-2019」です。

おおむね私の今の興味の範囲と言えます。
相変わらず小説は読まないけど。
昔話もどちらかというと民俗資料のような感覚で読んじゃうし。
仏教系の本は数多く出ていますが、玉石混交。
(本が悪いのではなく、私の興味にこたえてくれる本でないケースが多いということが大きいですが)今回のチョイスもあまり期待できないかな?
また感想書きます。

今年はコロナ禍でイベントが少なかった分、例年より本を読んだかもしれません。

半七は実在したか?昭和2年の綺堂の文章

2020年12月25日 |   └─半七捕物帳
昨日書いた「半七は実在した」に、綺堂本人が昭和11年に書いた文章を載せましたが、実は昭和2年にはかなり曖昧なことも書いているのです。

私はこちらの文章を先に読んでいたので、ずっと半七親分を実在とは思わなかったのでした。



その文章も引用します。

回想・半七捕物帳

捕物帳の成り立ち

 初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然と湧き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
 しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲あさって、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取らず、最初からでは約ひと月を費やして、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
 そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
 その年の六月三日から、まず「お文の魂」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森暁紅君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化ばけ師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
 そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
 半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚しいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
 前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。(昭和2・8「文芸倶楽部」)

昭和2年の段階では、綺堂もまだ半七のモデルについて曖昧にしておくほうが読者の興味が削がれないと思っていたのかもしれないですね。

 「アドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種」
とあるのは、新潮文庫延原謙訳のタイトルで言えば、
「冒険」「思い出」「帰還」になります。綺堂は全て原文で読んでいるんですよね。その一方で当時の文化人らしく漢文方面にも精通して中国の怪奇ものをたくさん紹介してますし、明治の文化人のレベルの高さはすごいですね。それだからあんなに洗練された文章がかけるのかな。

 ところで、私が読んでいる半七捕物帳はアマゾンKindleから出ている電子書籍で、なんと捕物帳全69篇全て収録されていて100円くらいでした。(上記の文はその付録に収録されていたのです)

スマホに入れて通勤電車で読むのに便利です。著作権が切れているため、100円とというのは電子書籍にまとめる手間賃でしょうか?

電子書籍ならではの利点もあって、こういうシリーズものだと「あのエピソードはどの話に出てきたっけ??」なんていうことを確認したいときに、単語詮索できるのです。紙の本だと自分の記憶だよりですけどね。
あ、そうやって頭を使わないからどんどん劣化していくのか…?!




「半七は実在した」今井金吾著

2020年12月23日 |   └─半七捕物帳

いやいや面白かった。
この本も永久保存用に取り寄せようかしら??


 最近「半沢直樹」の作者池井戸潤が昔勤めていた銀行の頭取に「半沢」氏が就任という話題がありましたね。この半沢氏は池井戸潤の同期だったらしく、優秀だったので小説の主人公の名前に借りたとのだとか。半沢直樹が実在したというわけではないようですが、小説の世界が現実世界と地続きになってるようで、ファンは楽しく盛り上がったことでしょう。

 
三菱UFJ銀頭取に半沢氏 13人抜き、常務から来春昇格―池井戸潤氏と同期 2020年12月22日21時49分(時事ドットコム)

 三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)が傘下の三菱UFJ銀行の次期頭取に、同行常務の半沢淳一氏(55)を昇格させる人事を固めたことが22日、分かった。同行で常務から頭取に就任するのは初めてで、副頭取など計13人抜きとなる。MUFGの指名・ガバナンス委員会の承認を得て、来年4月に就任する。
 半沢氏は1988年に三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入行し、人気ドラマ「半沢直樹」の原作者である池井戸潤氏とは同期。(後略)


 さて、シャーロック・ホームズが架空の人物であるように、半七捕物帳の半七親分も岡本綺堂の創作だと思っていたのですが、どうやらそうでもないらしい。
半七親分にもモデルがいたそうです。
いや、モデルどころではない、実際に綺堂は半七親分(のモデルの人)から聞いた話を元に小説を書いたらしいのです。


 明治の半七老人が赤坂に住んでるというのは創作らしいですが。おそらく綺堂が執筆した当時はゆかりの人がまだいて、個人が特定されるのがよろしくないと考えたのかもしれません。
明治の半七老人は赤坂でなく大久保に住んでいたようです。(その大久保の住まいの様子は半七老人の友人である三浦老人の住まいとして「三浦老人昔話」の方で語られています。)



 綺堂も「モデルはいるのか実在の人物なのか?」と散々聞かれたらしく、自らちゃんと文章を残しています。ちょっと長いですが引用しておきます。(青空文庫から持ってきました)


半七招介状
 岡本綺堂

 明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(岡田)へ午飯を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
 その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来こない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口をなめている形である。
 花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向いっこういけません。この徳利も退屈しのぎに列べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役で、白塗りの色男はみんな素面ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
 こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩やせぎすの中背ちゅうぜいで、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊きいた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
 だんだん話しているうちに、この老人は文政六年未年の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰が中る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
 話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見日和は珍らしい。わたくしはこれから向島へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
 二人は吾妻橋あづまばしを渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢ってくれる積りらしく、老人は言問団子に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
 長い堤を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄もやのなかに沈んでいた。
「さあ、入相がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直まっすぐに帰ります。」
 老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
 言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間ばかりの小さな家に、老人は老婢と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
 それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
 老人の友達のうちに町奉行所の捕方すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
 こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
 老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃ふを知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然と答え得ないの右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
 但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。(昭和11・8「サンデー毎日」)

面白いですね~!
半七捕物帳を読んだことがある方なら、この記者と老人のやり取りはまさに小説そのままだと気が付かれると思います。(というか、この浅草から向島への花見の話も小説の中に確かありましたよね)

 私が特に面白いなぁと思うのは、半七捕物帳の第一作「お文の魂」に登場する「Kのおじさん」のことです。この「Kのおじさん」が実在の人物で16歳の綺堂に「お文の魂」を話したのなら、綺堂は16歳のときに聞いた話の人物に20代半ばで出会って親しくなっているのです。そんな偶然あるのかしら??いくら今より人口が少ないとは言っても?


で、この本ですが、
この本の著者は半七親分は実在の人物で、場所などの設定は変えてあるものの、毎回話の導入部分に出てくる明治の話も事実であったと考えています。そして、半七の一生をできるだけ正確にたどって年表もつくってます。話に出てくる街の様子から、その日の歩いた道順はどうだったかとか、「停車場」とだけ書いてあるのは何駅だとか、注釈本を作る勢いで事細かに調べつくし、推理しつくしています。

 シャーロック・ホームズならシャーロキアンとかホームジアンと言われる研究者がいますが、こらはまさに「ハンシチアン」の研究成果。著者自身も戦前の神田の生まれで、思い入れも深いのでしょう。

 私も半七親分の神田三河町の家のあたりを歩いてみようと、鎌倉河岸のあたりを歩いたことがあります。その頃はまだ親分が実在だなんて知らなかったので、洒落のつもりでしたが、また行ってみたいと思います。
 その時の記事 ⇒ 2017半七捕物帳江戸散歩」

 子どものころからシャーロック・ホームズが好きな私は、ロンドンベーカー街へも行きましたが、やはり架空の人物とわかっているので221bがどこだったかとか真剣に考えようとは思いません。が、半七はちがいます。名前こそ「半七」ではなかったものの、実在の人物で、きっと子孫もどこかにいるでしょう、ひょっとすると先祖がかの有名な半七親分だとは知らずにいるのかもしれません。そんなことも想像すると、また一段と楽しくなります。

半七ブームが起きてほしいなぁ。
そして映像作品も良質なのがどんどんできてほしいです。
ホームズでいうところの「グラナダTVシリーズ」のような、原作に忠実な作品を見てみたいです。

「そして謎は残った」―伝説の登山家マロリー発見記

2020年12月23日 | ☆読書

図書館に本を返しに行ってヒマラヤ関係の本があるかなと登山コーナーに回って見つけた本です。 
そもそも登山に興味がなく、このマロリーという人のことも知りませんでした。先日読んだ、夢枕獏の「エヴェレスト〜神々の山嶺」という小説の中に大きく取り上げられていて知ったのですが、この人は「そこに山があるからだ」と言った方だったのですね。
その言葉なら知ってる!


読み始めてすぐに「大当たり!」な本だと分かりました。

こういう本を読みたい!
こういう本が読みたかったんだ!

面白くて読み終わるのがもったいないほどでした。


 私と違ってマロリーという登山家の事をご存知ない方は少ないかもしれませんが、説明をすると…


 世界最高峰エベレストに人類が初登頂を果たしたのは1953年のイギリス隊だとされていますが、それより30年前の1924年に、もしかしたら初登頂したかもしれないといわれてました。
 なぜかというと、1924年のイギリス隊のメンバーであったマロリーとアーヴィングの二人が頂上アタックに出かけたあと行方不明になったからなのです。その後遭難死ということになりますが、果たして頂上を踏んでから遭難したのかそれとも頂上にたどり着くことなく遭難したのかそれが長年の謎だったわけです。

 夢枕獏の小説にはそのマロリーが頂上アタックの時に持って行ったカメラの話が登場します。もし初登頂がなされていれば必ず写真を撮っただろうから、カメラさえ見つかればその謎が解けるというわけです。なかなかスリリングで面白い小説でした。

 一方、この本は小説ではなくノンフィクションです。

 1999年にマロリーとアーヴィング二人の遺体を見つけるためだけの調査隊が組織されました。二人を見つけることが出来れば(特にマロリーのカメラを見つけることができれば)、彼らが頂上にたどり着いたのかどうかの謎が解けるだろうというのです。ちなみに高度8000mを超えるエヴェレストのような山では、遺体は腐敗することがなく、かといって人力で下ろすこともできないため、遭難した人たちはずっとそのままなのだそうです。想像のつかない世界ですね。

 1924年のマロリーたちの登山の様子、それから1999年調査隊の登山の様子がたくさんの資料をもとに交互に語られ、非常に臨場感を持って読み進むことができます。

最後にどうなるかということはここには書かずにおきますが、タイトルにもあるとおり、すべてを解き明かすことはなかなか難しいものです。


 マロリーたちの遭難は75年前(今からだと100年近く昔)のことなので、ある意味考古学的な手法が用いられて調査が進みます。それは古代遺跡の発掘などにも似たロマンです。そして、その調査がマロリーの謎の魅力にとりつかれた数人の「個人」の情熱により成し遂げられたというのもワクワクするポイント。
 
事実の前にはフィクションは霞んでしまいますね。


東欧ワインの試飲会

2020年12月22日 | ヨコハマ散歩
前回はオンラインで参加したウイスキーのバーチャルテイスティングツアーのことを書きましたが、今回はリアルで参加したワインの試飲会についてです。

横浜に引っ越す前、近所にイタリアワインの専門店がありました。酒屋さんですが、立ち飲みバーのような感覚でグラスで飲むこともでき、好みのワインを探すことができました。なので、買うワインがほとんどイタリアワインばかりになっていました。

今年、散歩の途中でワイン屋さんを見つけました。
入ってみるとそこは東ヨーロッパのワインばかりを取り扱っている専門店でした。輸入業者さんが直接販売しているようで、割と安く買えるのと、店主の方が毎回ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれるので、すっかりファンになって東ヨーロッパワインに少しずつ親しみ始めました。

 コロナの為に全く試飲会などのイベントが開けなくなったとおっしゃっていましたが、ようやく試飲会が開かれると言うので参加してきました。(このイベントのために店内改装をして、コロナ対策がしっかり取れるようにしたそうです)

無料の試飲会だというのでどんな感じなのかなと思ったんですけれども、行ってびっくり!なんと50種類のワインを試飲できるそうです。
コロナ対策がしっかりとられた店内。このイベントのためにアクリル板も設置されています。以前の試飲会はどんなスタイルだったのか分かりませんが参加者の席は固定されていて隣の人との交流はないスタイルです。
これはめちゃめちゃ安心です!


無料の試飲会なのにこんなことまでしていただいて、しかもイベント参加者には割引もしてくれると言う話。
これはたくさん買いますよね。


当日試飲するワイン50種類。この写真にのってないワインもたくさん飲んだはずです。


参加者テーブルはこんな感じ。
テスティング用のグラスが五つと水、ワインリスト。紙コップは飲み残しのワインを入れるものです。グラスに注がれたワインを全部飲んでいると酔っ払ってしまうので、テイスティングの時は味見だけにして残りは捨てるんだそうです。じゃあ飲む分だけつけばいいじゃないかと思いますが、そうすると香りがしっかり分からないことがあるそうで、やはりそれなりの量は注がないといけないのだそうです。



テイスティング中。
店主さんはルーマニアの方でワイン愛に溢れています。
一本一本注ぎながら説明をしてくれます。一時間半で50種類をテスティングするのでまるで運動会のようでした。














コロナになってこういうイベントが開けなくなったので、お店を改装することにしたそうです。やっぱりイベントがあるのとないのとでは売り上げも違うのだと思います。
改装中もお店に行って買い物してたんですが、なんと店主さんが一人で日曜大工で改装していました。
おかげでとても安心して参加できました。

お店情報
通販もやってます。
おすすめです!


オンラインで ウイスキー醸造所見学

2020年12月21日 | ☆旅行─台湾
 コロナのせいで海外旅行は全くできなくなったわけですが、旅行業に関わる業者さん達は苦しい中色々工夫をされているようです。
 先日、友人から紹介されて台湾のカバランウイスキー醸造所に行った気分にしてくれるオンラインツアー(セミナーかな?)に参加しました。

 カバランウイスキーは台湾にある比較的新しいウイスキー醸造所ですが、世界的な賞をたくさんとっているとても優秀なメーカーです。何年か前に私も台湾の醸造所へ見学に行ったことがあります。

 今回参加したのはオンラインでウイスキーの紹介を受け、さらにテイスティングをさせてくれるというものなんですが、テイスティング用のウイスキーはミニボトルで先に送ってくれます。そのため参加費が7800円でした。(カバランウイスキーがとてもおいしいことを知っているので7800円は高いとは思いませんでしたが)

 セミナーはまずこのカバランウイスキーの歴史や製造方法の紹介があり、その後実際に3種類のウイスキーをテイスティングしながら説明を聞きます。質問も随時受け付けてくれるので、理解も深まります。
 講師の方は日本のバーテンダーさんでもありカバランウイスキー特使(?)をしている方のようです。





 前に工場に行った時にミニボトルで色々買ったことがあるし、台湾の免税店でも何度か買ったことがあり、それなりに親しんではいるウイスキーなのですが、やはりプロの方が説明してくれると味わいも一層わかりやすくなります。たくさんある種類のラベルだけじゃわからない違いもよくわかりました。

 自分の好みもわかったし、次に買う候補が決まりました。日本ではなかなか手に入りにくいウイスキーなので、また次台湾に行く時には是非お土産に買いたいと思います。



 オンラインのいいところは一人分を申し込むと複数で視聴できることですね。
おつまみも色々用意して夫婦で飲みながら楽しみました。


また別の日、JTBとグローバルWiFi主催の世界3大仏教遺跡のバーチャルツアー無料イベントにも参加してみました。
有料版は現地ガイドさんが実際に現地から中継してくれるらしいです。アンコールワットから元日のご来光を見るツアーなんていうのもあるみたい。日本でこたつにあたりながら、カンボジアの初日の出を見るなんてすごい体験ですね!






横浜山手からの夕陽

2020年12月18日 | ヨコハマ散歩
半休をとってはやびけした木曜日、どこかのカフェにでも行って読書しようかなと思っていましたが、東京の感染者が800人を超えたというニュースを聞いてどこにも寄る気にならず、またまたひたすら散歩してしまいました。

初冬の景色は美しく、写真をいろいろ撮りましたのでご紹介します。


イタリア山からの富士山。
雲がかかってます。
夕方は逆光気味ですね。

洋館と銀杏(ブラフ18番館)



山手の邸宅街から見た夕陽。
南側斜面だとこういう景色が見えるんですね。
遠くに見える煙突の煙は、根岸~磯子あたりのコンビナートと思われます。


きれいですね。



山手から降りて元町へ。
中華街へ続く市場通り橋にランタンが。
去年はなかった気がします…。


ショーウィンドウのクリスマスの飾りに個性があります。
これは老舗紳士服店POPPYさん。



デプレ元町


夕暮れの元町商店街。
この時間が一番きれいだと思います。


ヒマラヤに思いをはせる「エヴェレスト~神々の山嶺」夢枕獏

2020年12月14日 | ☆読書
を読んで以来、「ヒマラヤ登山」に興味が出てきて、デスゾーンにも登場した夢枕獏氏の小説「エヴェレスト~神々の山嶺」を読んでみようと思った。
図書館で借りてきたが、なんと文庫本で1000ページ以上ある。

でもさすが人気作家の夢枕獏、とても面白くて2日で読み終わった。(休みの日に一日中読んでいた)夢枕獏って初めて読んだけど、かなりくせの強い作家さんですね。しつこいなぁ・・・・という感想。
とても面白いんだけど。
 
これまで登山というものに全く興味がなかったので、本を読んでいても具体的にどんなふうに登るのかイメージが難しい。さらにヒマラヤがどんなところなのか全然知らなかったので情景を思い浮かべることも難しい。
もちろん、そういう読者のために結構解説も入ってるから、まったくちんぷんかんぷんということはないのだけど、山の写真とか登山家の服装とかは写真で見ておきたいところ。

というわけで、この本が映画化されたのも見てみました。
なるほど、カトマンズってこんな町なんだ。
エベレストってこういう山なんだ。
ベスキャンプってこういうところなんだ。
とイメージがつかめました。
映画は正直原作とはかなり印象の違うものでした(ストーリーが追えない・・・ダメな脚本のお手本みたいな感じ)

 
以来、グーグルアースでヒマラヤの地図を見たり、地形を見たり、ベースキャンプに行った人のブログ読んだり、写真見たり、急にヒマラヤブームです。
テレビで「ヒマラヤ」っていう検索ワードで番組検索したら、NHKBSでヒマラヤ山脈を端から端までトレッキングするという番組をやっていたので、早速録画してみています。

雄大。
人々は氷河の削った谷(U字谷って地理で習った)に住んでいて、景色がとても独特。谷にへばりつくような段々畑。日本の景色とは全然違う。
ネパールは100くらいの民族からなっているのだそう。びっくり・・・。
エベレストのベースキャンプには、1週間歩いて行かないとたどり着けないらしい(ヘリコプターは別)。ヒマラヤの中はそんな風に歩いていくことしかできない場所がたくさん。アジアの最貧国の一つと言われますが、今どんどん中国の開発資本が入ってきているらしい・・・。地元の人にとっては良いことだと思いますが、きっとかなりの自然が破壊されてしまうでしょう。

2015年のネパール大地震のとき、ヒマラヤも大きな被害があったそうで、そのことを取り上げたドキュメンタリーもみました。
3000m上から土石流と雪崩が落ちてきて村を飲み込んでしまったらしいです。知らなかった。

初めて知ることがいっぱいで、ネパールに興味がわいています。
玄奘三蔵の天竺行ルートはヒマラヤ通るのかな?

調べてみた。
さすがにヒマラヤ越えはしてなくて、シルクロードからアフガニスタン回りだったみたい。

新田神社今昔 「半七の見た江戸」今井金吾著 

2020年12月12日 |   └─半七捕物帳

半七捕物帳に出てくる江戸の場所を「江戸名所図会」などの絵と現代(といってもこの本が書かれた1999年ころ)の東京の写真と比べながらたどっていく本。本文は半七捕物帳で江戸の風物が描かれている部分の抜粋。

楽しい!!

場所が特定できないところもかなり推理で補ってあるし、昔の芝居小屋や店、町の名前など今ではもう残っていないものについては、現在の住所表示まで載せてある親切ぶり。


さて、私去年まで大田区に住んでいて毎年初詣には矢口にある「新田神社」におまいりしていました。半七捕物帳の「大森の鶏」という話にこの神社が登場します。関係あるとこだけ少し抜粋引用します。

「名は……八さんといっていますが、八蔵か八助か判りません。なんでも矢口の方から来るのだそうで……」
「矢口か。矢口の渡しなら六蔵でありそうなものだが……」と、庄太は笑った。

 ※平賀源内作と言われる「神霊矢口渡」という歌舞伎があるので、矢口の話は江戸の人々にもおなじみだったのでしょう。六蔵は新田義興公をだまし討ちにする船頭。

「いっそ矢口へ行ってみましょうか。大森のかみさんは曖昧なことを云っていましたが、ほかの女中にカマをかけて、鶏を売りに来た奴の居所いどこをちゃんと突き留めて来ました。そいつは矢口の新田神社の近所にいる八蔵という奴だそうです」
「矢切で死んだ奴の詮議に矢口へ行く……。矢の字尽づくしも何かの因縁かも知れねえ。おまけにどっちも渡し場だ」と、半七は笑った。「じゃあ気の毒だが矢口へ行って、あの鶏はどこで買ったのか、調べてくれ。こうなったら、ちっとぐらい手足を働かせても無駄にゃあなるめえ」
「そうです、そうです。こいつは何か引っかかりそうですよ。だが、これから矢口までは行かれねえから、あしたにしましょう」
 なにかの期待をいだいて、庄太は威勢よく帰った。明くる日も寒い風が吹いたので、庄太も定めて弱っているだろうと思っていると、果たしてその日の灯ひともし頃に、彼はふるえながら引き上げて来た。
「矢口へ行って、八蔵という奴の家うちをさがし当てました。あの鶏はやっぱり海保寺門前の桂庵の家で買ったということですから、鳥亀の女房が売ったに相違ありません」
 八蔵は農家の伜であるが、家には兄弟が多いので、彼は農業の片手間に飼い鶏どりや家鴨あひるなどを売り歩いていた。大きい笊に麻縄の網を張ったような鳥籠を天秤棒に担かついで、矢口の村から余り遠くない池上、大森、品川のあたりを廻っていたのである。

新田神社は江戸じゃないけど、この本にもちゃんと出てました。なじみの場所が出てくるとうれしくなっちゃいます。


「新田明神社」 
江戸時代らしくお寺も一緒にあります~真福寺。
新田神社は、新田義貞の次男義興公の怨霊を慰めるための社で、本殿の裏には義興公の塚があります。上の絵で丸く竹が生っている部分。この塚、もちろん今もあります。そこに生える笹が片葉になるという伝説もある・・・。

GoogleEarthで同じ角度から俯瞰した現在の新田神社。
周りは家がびっしり。


新田義興公の時代には新田神社のすぐ裏が多摩川で「矢口の渡し」があったといわれていますが、いまの多摩川ははるか向こうに・・・。



はじめは図書館で借りてきたのですが、
「これは永久保存だ!」と思ったので、アマゾンで買いました。

天草で伊勢海老 GOTOくまもとその7 

2020年12月11日 |   └─くまもと
 今年の3月に両親の傘寿のお祝いの会をするはずでした。お店も予約してあったのですが、コロナでだんだんだんだん雲行きが怪しくなり、2週間ぐらい前になって延期を決めました。その後の状況から、家族全員で集まって(兄弟3人の家族みんなで帰省して)お祝いを開くのは諦めるしかなくなりました。

 そこで今回の帰省では両親を温泉ぐらいには連れて行きたいなと思いました。連れて行くと言っても運転は父がするので連れて行ってもらうという感じなのですが(笑)。はじめは熊本空港から近い菊池あたりで…と思っていたのですが、「泊まりでどこか行くなら天草で伊勢海老を食べたい」という父の提案により、行き先が天草になりました。どうも知り合いが天草に入って伊勢海老を食べてきたという話を聞いたようです。

伊勢海老か〜食べたことがないような気がする。


 とりあえず行き先を天草に決め宿選び。あまり遠いと帰りに渋滞にハマったらいやだなということで、大矢野島あたりを探します。計画段階ではまだ第三波の気配はなく、むしろ混雑の方を心配していました。実際、GOTOを利用しようと思うとなかなか予約が難しい状況でした。

 予約したのは大矢野の「海星」という旅館。温泉もあります。GOTOに参加している施設はしっかりコロナ対策してるはずなのでむしろ安心です。毎日満員電車で通勤している私から見ると、旅行そのものは感染リスクは高くないと思います。天草なんて熊本市内より人は少ないだろうし、自家用車での移動ですし。一番のリスクは「私が実は罹っていてウイルスを持ち込む」ってことです。

 両親はなんと言っても傘寿の高齢ですから、私がうつしたら洒落になりません。罹ってないとは思うけど、万が一私が罹っていても大丈夫なように、両親の前では常に不織布マスクつけてました。流石に食事のときは外しますが、なるべく離れて座ったり、大声は出さないようにしたり、更に自分が触ったところを消毒して回ったり、車は常に窓を開けて換気をしたり。東京の生活でもやらないほどの注意ぶりでした。

 帰省から2週間以上が経過しましたが、おかげさまで私も両親も特に体調の変化もなく元気にしています。自分の対策は万全だったと思うものの、何事もなくホッとしました。




 宿の夕食です。
伊勢海老に天然鯛のお造り。クルマエビの踊食い(きゃー)までありました。伊勢海老は夕食にお刺身で食べ、翌朝にお味噌汁になって出てきました。贅沢でした。

 食事会場での対策はしっかりとられていて、宴会場を壁で仕切って1部屋に4組までのテーブルが用意されています。しかも時間がずらしてあったのか、同時に食べるのは2組まで。もともとお客が多くはなかったのでしょうけど、東京や横浜では考えられないくらいの距離の取り方です。同時に食べているお客までの距離は10メートル近く?寂しいくらいでしたが安心でした。






天草四郎がコロナ対策しています。
天草ならではですね。



宿の部屋からみた日の出。
この入り江にある船着場から「談合島(湯島)」への船が出ているそうです。
島原の乱のときに天草と島原の揆軍が相談をした島とつたわっています。
天草四郎はここ大矢野出身だったそうです。





 ここのところみるみる感染者が増えていて、GOTO事業は見直しと言われていますね。これだけ感染者が増えてしまってはGOTO事業の中断はやむを得ないとは思いますが、ワクチンができて治療もできるようになったら、またガンガン旅がしたいです。

 前にも書いたように旅自体が感染リスクを上げるとは思いません。でもいまは医療の充実に全力を向けるべき時だと思いますので、政策として臨時の予算を使うのは医療関係に集中させた方がよいでしょう。一市民としては、引き続き感染しないように心がけて生活するしかありません。

与謝野鉄幹晶子夫妻と高濱集落 GOTOくまもとその6

2020年12月09日 |   └─くまもと
崎津集落を見学したあとは、大矢野島の今夜の宿へ向かう。
せっかくだから天草西海岸の「これぞ天草」という景色を見ようということになった。ここから父のガイドは「五足の靴」の話に。
 
「五足の靴」メンバーが訪ねた大江天主堂は道から眺めるだけにとどめて先を急ぐ。父には目当てがあるようだ。「十三仏」に行くらしい。
十三体のお地蔵さんが並んでいる海岸を想像した。

途中高浜という集落へ。
焼き物の看板が目立つようになる。漁港のように見えるけれど焼き物の町でもあるようだ。しかも磁器。全然知らなかったが、天草は良質の陶石の産地でもあるそうだ。

「ここに与謝野晶子たちが滞在した家があるとたい」
地図を見ると旧上田家というのが近くにある。
行ってみると広めの駐車場の先に長塀がある、さらに奥には磁器の窯元も。



上田家というのはこのあたりの庄屋だったらしい。
自由に入ってよいらしく、入り口にはタイルに染めた案内板があり、中に入ると古いが立派な建物と庭がある。








ここは五足の靴メンバー与謝野鉄幹・晶子夫妻が滞在したらしい。
その説明の展示もある。
むかしの文化人は、こういう土地の名士の家に滞在するものなのですね。
漱石が「草枕」に書いた小天温泉の家も個人宅だった。







もう誰も住んでいないらしく傷みも気になったが往時の様子がしのばれる。
庭にアワビの殻がある。
崎津集落ではこれがキリシタンの法具になったらしい。

ここも山茶花が花盛り。




十三仏へ。


仏様が並んでいるわけではなく、展望スポットだった。
天草西海岸の雄大な景色が広がる。
東シナ海だ。
夕陽の名所らしいが、日没まではもう少しかかるか。









ここに与謝野夫妻の大きな歌碑がある。
晶子の歌のスケールの大きいことに父がしきりと感心していた。


鉄幹
天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波

晶子
天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く 






大矢野まで戻って、宿に入る前にちらっと見た夕陽。
たしかに美しい。


横浜の秋

2020年12月07日 | 神奈川散歩
GOTOくまもとは一休みして、秋の横浜の様子をお届けします。
こちらは今朝出勤前に撮影したものです。
山下公園前の銀杏並木。

山下公園から見えるマリンタワーとホテルニューグランド
秋バラの花盛りです。

逆光で撮ってみた銀杏並木



こちらは昨日の午後。
イタリア山庭園で撮ったもの。
「外交官の家」

ブラフ18番館前の銀杏。

この銀杏の下のベンチは絶好の撮影スポット

イタリア山庭園の噴水も秋景色



そしてこちらは先週の日曜日の三渓園。
さざんかのじゅうたん

聴秋閣の特別公開

これは同じ日の本牧山頂公園で。
皇帝ダリアが咲いていました。


戸馳島 GOTOくまもと その5

2020年12月05日 |   └─くまもと
 宇土半島の南にある戸馳島に天草からの帰りにちょっと寄った。高校一年の春休みに行って以来だから何十年ぶりだろう??クラスメートに戸馳島の人がいて、彼の家に行くことになったのだった。高校時代はこういうクラス行事が多かった。仲良し同士で行くのではなくクラス全員で計画していくのだ。もちろん全員参加ではなかったと思うけれど、生徒だけで計画していくキャンプや遠足は少し大人になったような感じで楽しかった。

 さてその高校時代、戸馳島は橋でつながっておらず三角港まで鉄道で行ってそこから船に乗って渡してもらった。(と思ったが、戸馳島にかかる橋は1973年には開通していたらしい。ということは大人数だったから輸送しやすい船に乗ったのか???)今は立派な戸馳大橋という橋ができていた。花の栽培が盛んなようで、フラワーロードとかいう名前の道があった。父の車は横井迦南の句碑のある海水浴場を目指していた。若宮海水浴場である。

 海水浴場はきれいに整備されていた。対岸の八代が間近に見えた。八代外港のキリン(クレーン)や八代市街地にある製紙工場の煙突の煙もハッキリ見える。八代が見えると何だか急に懐かしい。この角度から見たことはないが「故郷」という感じがする。


若宮海水浴場 松橋方面

八代方面

八代の十条製紙の煙がよく見える。
あ、いまは日本製紙になってるんだっけ。


海水浴場にある横井迦南の句碑
「不知火」を見る人々の様子を詠んだらしい。
これをみて、母が八代の方から「不知火」を見た話をしてくれた。



戸馳神社
銀杏の散り落ち葉がきれいだった。

境内にある仁王石像


元文三年(1738年)とある。






 島ではほとんど住民を見なかった。橋ができて便利になったら逆に人口流出するというのは日本各地で発生している現象で、ここも例外でないのだろう。

 今はどうなのか知らないが、私の高校時代は戸馳島のような熊本市外から市内の高校に入るのは相当成績優秀な人に限られていた。5%枠とか言ったっけ?クラスに1〜2人くらいの郡部出身者がいて皆高校生専門の下宿屋から通っていた。

 今にして思えば、高校一年の春休みの戸馳島訪問は、彼の親御さんの思いで実現したのだろう。かわいい息子が15歳で親元を離れるとき相当心配だっただろう。町の暮らしになじめるか?クラスメートたちは息子と仲良くやってくれるだろうか。でも彼は明るい性格で楽しく学校生活を送っていた。1年が無事におわったとき「友達を島に呼びなさい。クラス全員でもいいぞ」という話になったのではないだろうか。
島で何をやって遊んだとか全く覚えていないのだけれど、ご両親に歓迎してもらって、帰りに花をたくさんお土産にもらったことを覚えている。戸馳島は花の栽培が盛んな島、クラスメートの家も花を育てていた。

 卒業以来一度も会っていないが、教師になったと聞いている。職場はうちの実家の近くのはず、ばったり会ったらわかるだろうか。


世界遺産「崎津の潜伏キリシタン集落」 GOTOくまもと その4

2020年12月03日 |   └─くまもと
熊本に帰省しても天草はやはり遠いところで、ましてや崎津となると熊本市内からゆうに3時間はかかるところなのでこれまで行ったことがなかった。

今回は天草に一泊するので行ってみたい。チェックアウトした日は熊本空港から帰るので渋滞などのことも考え1日目に行くことにした。


3連休の最終日。天草へ向かう道はそれほど混んではいなかった。山道が多く海は時々見えるだけ。伊豆半島のドライブに似ている。以前来たときよりも道が良くなり新しい橋もかかり、それが渋滞解消に寄与しているようだ。
平成の大合併で天草市となった河浦町だが、町域に入ると道がきれいになる。国道の沿いに山茶花がびっしりと植えられ、ちょうど花盛りだ。「サザンカロード」と名前もついている。

崎津はそのさざんか国道から右に折れてトンネルを2つ抜けたところにある。リアス式海岸の入り江の一つだ。道は狭く山が迫って平地が少ない。以前平日に来たことがある父は「前に来たときにはこのへんに停めたが…」と駐車スペースを探すが、集落にある駐車場はどこも数台のキャパでいずれも満車。案内に立っていた人に観光駐車場を教えてもらい集落のハズレにある漁港前に無事停められた。




連休の世界遺産とは言っても、交通の便が悪いせいかあるいはコロナ第三波の影響か、ここは歩く人もまばら。関東地方だったらもっともっと多いだろう。


母がしきりに羊羹の話をする。前に来た時に買ったことがあるらしい。南風屋(はいや) という店の前に「杉ようかん」と言うものが売られている。
「これ、これ」と母。
このあたりの名物だとか。いかにも手作り風でしかもあと2つしかない。
話の種に一つ買う。店の人に「今日中にお召し上がりください」と言われ、お昼ごはん替わりに食べることとした。

次に来たお客さんはこれが目当てだったのか「えー!あと一個しかないんですか?!」とがっかりしていた風。2つとも買わないでよかったと思った。







崎津教会の庭でようかんを食べつつ前のグループの見学が終わるのを待つ。
ここは江戸時代の庄屋の屋敷跡で「踏絵」などが行われた場所とのこと。大正時代に崎津に教会を建てることになったとき、象徴的なこの場所を選んだのだそうだ。明るく風通しも良い建物で、中が畳敷きになっているのが珍しい。いかにも日本人のための教会だと思う。










中は撮影禁止だったので写真がないので、よそからお借りした写真をどうぞ。





教会の隣に資料館があった。
天草には昔炭坑(良質の無煙炭だったとか)があり、その坑夫や関係者に利用された宿屋を解体再建した建物だった。中に崎津集落の歴史などの展示がある。(﨑津資料館みなと屋)

右手がみなと屋さん

昭和初期の崎津集落ジオラマ

波が穏やかな入り江



崎津ではここの2ヶ所を見学した。

その日の夕食に父が「かくれキリシタン」と「潜伏キリシタン」の違いについて話してくれた。また、1805年に起きた「天草崩れ」と呼ばれる事件についても話してくれた。父の話は面白く、朝食の時に宿の仲居さんから「昨夜はお父様の天草の歴史のお話を私も仕事しながらお聞きしてたんですよ。お詳しいですね、。学校の先生ですか?」なんて言われたりもした。

長崎県による特設サイトへ

「潜伏キリシタン」というのは世界遺産指定の時に使われた言葉だが、私はあまり深く考えてなかった。
津崎集落のような「潜伏キリシタン」のことが世界遺産に指定されたのは江戸時代に禁教となって一人の指導者(聖職者)もいない中、約230年間信者だけで信仰を守り続けたというその特異性にあるとされる。
こどものころから「隠れキリシタン」としておなじみのイメージを持っていたが、実態はかなり変容していたらしい。言われてみればそうだなとおもうが、何世代も信者だけで隠れて信仰している中で、その信仰は日本の仏教や神道、土着信仰と習合して、いわゆるキリスト教本流とはとは全く違う宗教になっていたと考えられるそうだ。これをキリスト教と認めるか否かは研究者により意見が分かれるらしい。

明治になりキリスト教が解禁になったあと潜伏キリシタンはキリスト教本流へ合流したが、一部の信者は「この教えは自分たちの信じているものとは違うようだ」といってこれまでの日本で変容した習合キリシタン信仰を手放さず教会に参加しなかった。これを狭義の「カクレキリシタン」というらしい。
とても興味深い話で、まさに世界遺産にふさわしい文化と言えるのでは?と思った。

YOKOの好きなもの羅列

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