黒人少年エメット・ティルの殺人事件

2023年03月06日 09時42分55秒 | 事件・事故

エメット・ルイス・ティル は、白人女性に口笛を吹いたことで殺されたアフリカ系アメリカ人の少年。愛称ボボ。

  • 生年月日:1941年7月25日
  • 死没:1955年8月28日
<歴史に残る殺人事件>
 1955年8月24日、エメット・ルイス・ティル Emmett Louis Tillという名の黒人少年が二人の白人男性によって惨殺されるという事件が起きました。その後、この事件の裁判は全国的に注目を集め、拡がりをみせ始めていた公民権運動に大きな影響を与える歴史的事件へと発展してゆくことになります。
 当時、こうした白人による黒人のリンチ殺人はそれほど珍しいことではありませんでした。そのため、そのほとんどは地方紙の片隅に小さく載せられる程度の扱いしかうけていませんでした。
 ではなぜ、この事件が歴史的大事件として注目を浴びることになったのでしょうか?それにはいくつかの理由がありました。だからこそ、この事件は歴史の流れにおける時代を象徴する存在として選ばれることになりました。そして、エメット・ティルの名は、アメリカ国民が人種差別の問題を学ぶとき、必須の存在となり、未だに語り継がれる存在となったのです。(2004年にはアメリカのFBIがこの事件の再捜査を行ったそうです)
 では、この事件が選ばれることになった理由とはなんだったのでしょうか?

<エメット・ティル少年>
 当時14歳だったエメット・ティル少年の父親は軍人でしたが、婦女暴行の罪で処刑されており、母親と二人シカゴで暮らしていました。しかし、その年の夏、彼は夏休みを母親の親戚のもとで過ごすために友人とアメリカ南部ミシシッピー州のタラハッチーを訪れていました。大都会シカゴで育った彼はその年齢にしては背も高く、都会的なセンスをもった大人びた少年でした。おまけに彼は北部の都市部と南部の田舎町において、黒人の立場がどれほど違うのかを理解できていませんでした。母親からは言動に注意するようにと硬く言われていたにも関わらず、ある日白人が経営する食料雑貨店で、その店の店主の妻に声をかけ誘惑してしまいました。それは、本当に口説こうとしたのではなく、田舎の少年たちに自分の度胸と性体験の豊富さを証明してみせるための子供じみた行為だったようです。しかし、店主の妻はこの行動に激怒して、彼らを店から追い出しました。それでも事が大きくなるとまずいと考えた彼女は夫には話さないつもりでした。ところが、めったに事件など起きない田舎町でのこの出来事は、すぐに街中に知れわたってしまいました。

<殺す側の論理>
 もともとその店は、ほとんどの客が黒人という小さな店で、経営者もまたプア・ホワイトと呼ばれる貧しい階層に属していました。しかし、そんな彼らのような立場の人間ほど差別意識が強いというのもまた、社会の現実です。店主のロイ・ブライアントは、このまま放っておけば自分たちは街中の笑い者になると思い、さっそく義理の兄J・W・マイラムとともにトラックに乗り、エメット・ティルを探し始めました。
 親戚の家でエメットを見つけた二人でしたが、初めは彼を殺そうとまでは思っていなかったと本人たちは主張しています。二人は持参した45口径のコルトをちらつかせながら、彼を徹底的に殴りつけました。ところが、少年は痛めつけられても二人に命乞いをしようとはせず、相変わらず反抗的な態度をとり続けたといいます。そのため、ついに二人は銃でエメット少年を撃ち殺し、その死体に重りを付けて川へ投げ捨てたのでした。
 ただし、「最初は撃つつもりではなかった」というのは、あくまで犯人である二人の証言です。僕も少年の顔写真を見ましたが、それはとても痛めつけるために殴った結果には見えませんでした。おまけに少年の死体からは性器が切り取られていたのです。

<事件が全米に広がった理由>
 事件はすぐに街中に広まり、少年の親戚が警察に通報。3日後に川から無惨な死体が発見されました。この事件は、被害者が少年だったということ、それもシカゴという大都会から来た外部の者だったということからマスコミを通して全米の注目を集めるようになります。
 さらに少年の葬儀の際、彼の母親は息子の無惨な顔をあえて一般に公開し、なおかつ葬儀を4日間に延長することで多くの人々にその非道さを訴えかけました。このむごたらしい写真がもたらした衝撃は、どんな言葉よりも強くアメリカ国民の心をとらえることになりました。
 裁判が始まると、裁判所があるサムナーの町には全国からマスコミが押し寄せ、関係者への取材攻勢が始まりました。少年をあずかっていた親戚の黒人男性モーゼス・ライトは、犯人の二人をしっかりと見ており、度重なる脅迫にも負けず、そのことを証言しました。(しかし、その後彼は町にいられなくなり、行方をくらましてしまいました)
 そうした必死で対応する被害者側に対して、犯人とその家族や町の白人たちのふてぶてしい態度は、マスコミを通じて全国に伝えられ、人種差別意識丸出しの保安官の言動とともに南部の現状を全米に知らせることになりました。多くのアメリカ国民が忘れかけていた人種差別の現状を、この事件は全米中に知らしめることになったのです。

<地元の反応>
 外部からの注目と批判は、逆に地元の反発をまねいたのか、それとも当然の結果だったのか。裁判は12人の陪審員全員によって無罪評決が下され、二人はあっさりと釈放されてしまいます。すると二人は自分たちが法律上二度と裁かれることがないと知った上で、新聞記者に事件の真相を告白します。そして、4000ドルを受け取りました。
 さすがにこうした行為は地元でも批判をあびることとなり、店は黒人たちの不買運動もあって、あっという間に彼らの店は倒産に追い込まれました。
 残念ながら、事件そのものはまったく解決されなかったわけですが、この事件を契機に公民権運動はいよいよ大きなうねりとなり始めました。例えば、当時サムナー周辺には当時全国紙の記者はたった一人しかいなかったのですが、事件を機にどんどん北部からやり手の記者が訪れるようになり、南部での人種差別の現状を取材、発表して行くようになります。こうして、アメリカ中が自国における人種差別の現状を認識することになりました。何かを変えるには、その現状を把握することこそが最大の近道と言われます。その意味では、この事件こそ、その後の公民権運動の盛り上がりを生み出す重要なターニング・ポイントだったといえるのです。

<アメリカ式植民地政策の終焉>
 かつて、ヨーロッパの国々はアフリカやアジアに多くの植民地をもち、そこから吸い上げる利益によって発展を続けました。それに対してアメリカは遅くに独立し、海外へと進出したこともあり、わずかな植民地しか持ちませんでした。その代わりとして、アメリカが保有していたのがアメリカ国内に住む黒人社会という植民地だったわけです。第二次世界大戦後に世界中の植民地が独立していったのと歩調を合わせるように、アメリカの黒人たちも差別という支配から独立するための闘いを始めることになったのは当然歴史の流れだったのでしょう。
 エメット少年の死はその自国内植民地独立闘争のきっかけとして、未だに語り継がれているのです。
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