本題を前に契約している車の損害保険会社(岡田准一君がイメージキャラ)からスマホアプリ連動の発信機が来たのと今月コストコに行けないのでひじょ〜に(松村邦洋さんの掛布雅之氏のものまね風に)困っています。
母の四十九日が終わり、もうすぐ母の日になりますが、ブルーになっています。
職場でカーネーションのアレンジを造花で作った物を頂き、仏壇に飾っています。
基本的私はお花のお世話が苦手な人間なので…。
と前置きは長くなりましたが、近藤真彦さんが例の事務所を逃げるようにして辞めたのでこのお話。
弟がビートたけしさんのオールナイトニッポンの本を持っていて、一時期ハマっていました。
その中に「同い年でもこんなに違う」というコーナーのネタが掲載されていました。
このコーナーが生まれるきっかけが近藤真彦さんとのあるエピソードでした。
今から35年前の昭和61年にたけしさんがプライベートで板さんを雇って作った個人的な居酒屋にある冬の寒い日に近藤真彦さんが高級なスポーツカーを乗り付けてお店に来ました。
その車に何かあったら困るから見張りを付けて欲しいと言うのでたけしさんに指名されたのがたけし軍団の若手メンバーでそれも近藤さんと同い年だという。
たけしさんと近藤さんが食事をしている外で寒い思いをして見張りをしていたのを見たたけしさんがそれをヒントに「同い年でもこんなに違う」というコーナーが生まれたと言っていました。
そのほかに日本アカデミー賞で鞍馬天狗のコスプレをして大顰蹙と大失笑を買った話も掲載されています。
その年の秋に近藤真彦さんは母親を交通事故で失い、たけしさんは執拗なおかつ強引な取材への抗議からフライデー事件を起こしてしまい、国会でも取り上げられました。
3年後に当時交際していた中森明菜さんとの金屏風事件で男を下げてしまい、そのことはあの事務所を辞めても蒸し返されています。
たけしさんが近藤さんと同い年のたけし軍団の若手に車の見張りをさせたのはスターになれば高級車も乗れるし女にもモテるし高級な物も食べれると言うことを教えたかったのかもしれない。
いとこがたけしさんの生まれ故郷の足立区梅島の隣町の中央本町に16年と西新井に14年住んでいます。
たけしさんが母さきさんへの反発から梅島の町を出てお笑い芸人としてのキャリアを始めたのが明治大学の学生のときでした。
同学年に今は亡き星野仙一氏が野球部のエースで後に中日ドラゴンズに入団し、楽天では中日と阪神の監督として成し遂げることが出来なかった日本シリーズ制覇をしました。卓球部には三遊亭小遊三師匠がいました。
彼の生い立ちから芸人として成功するまでの話は「たけしくん、ハイ!」と「菊次郎とさき」に細かく描かれています。
亡くなった母もたけしさんも同学年だし母親の名前も「さき」だし故郷を出たということで共通点が多い。
紅白歌合戦でも歌われた「浅草キッド」は舞台衣装の背広も蝶ネクタイを作って貰っても靴を買うお金がなかったと売れない頃の苦労話が描かれています。
近藤真彦さんに「浅草キッド」の「夢を捨てたと言わないで」という歌詞の意味が理解出来ていれば金屏風事件も逃げるようにしてあの事務所を辞めることもなかった。
最後に母が余命宣告より1年10ヶ月生きることも出来たのもノートに書いた「前向きな生活」「目標を持つ」というのもあったと思う。