4月2日に教授こと坂本龍一さんが亡くなったというニュースが流れた。
亡くなった日が弟の51歳の誕生日というのにショックを受けた。
それも高橋幸宏さんが亡くなった2か月後に…。
YMOは細野晴臣さんひとりになってしまいました。
新聞では教授の訃報記事が一面に載っており、岐阜とも関わりがあり、加子母村に住みたいと言ったくらい岐阜の町が気に入っていました。
教授という仇名と学生結婚した最初の奥様との離婚の原因がDVだったのと芸術家特有の性格ゆえに女性関係も派手で、気難しいイメージが強いですが、音楽番組には余程のことがない限り出ないのに、バラエティ番組やお笑い番組には喜んで出たという。
「THE MANZAI」ではYMOの3人で「トリオ・ザ・テクノ」という名前で漫才をやり、「オレたちひょうきん族」では三匹の侍のコントをお正月スペシャルでやりました。
昭和58年に「戦場のメリークリスマス」に俳優と自ら大島渚監督に志願して音楽を担当し、ソロとしても世界中に名が知られ、化粧品会社のCMソングとして使われた「君に胸キュン」も大ヒットしたものYMOは散開(あえて言う)。
その後は自身も出演した「ラスト・エンペラー」でアカデミー音楽賞を受賞し、その翌年にはグラミー賞を受賞しました。
ソロでもひょうきん族に出演し、ひょうきんベストテンではおさむちゃんに苦笑いし、タケちゃんマンのコントで明石家さんまさん扮するひまわりが乗った台を蹴飛ばしていました。
同級生に小学生の時からのYMOのファンがいて、その同級生の影響でNHKFMの「サウンドストリート」のデモテープのコーナー(私はこの番組でデモテープという言葉を知った)にYMOの「東風」に歌詞を付けてオルガンを弾いて歌うというのでその内容が大学受験不合格で浪人になったことを嘆くというもので、それが面白いと話したらいい顔をしませんでした。
どうしてかというと彼女の父親は中学の音楽の先生で管理教育に異議を唱えたためにヤンキーの多い学校に左遷され、周りがエリートばかりで、出来て当たり前を強制される教育を受けたからです。
平成5年にYMOは10年ぶりに復活し、アルバム「テクノドン」と東京ドームでライブを行いました。
その時もしっかり「とんねるずのみなさんのおかげです」のモジモジ君コントをやっていました。
そして「あのふたり」と出会います。
ダウンタウンの浜田雅功さんと松本人志さんです。
ふたりのファンである教授は「GEISHA GIRLS」としてプロデュースしました。
メンバーにはサウンドストリートのデモテープに投稿したティ・トウワさんもいました。
プロデュースするだけではなく、「ガキの使いやあらへんで!!」の罰ゲームで浜ちゃんが教授の住むNYにシャープペンを取りに行く(消しゴムも)という理不尽なものもありました。
忘れていけないのが「ごっつええ感じ」でのアホアホマンの兄アホアホブラザーです。
弟同様に汚れたパンツをはいて登場し、おっぱいをもまれてピアニカで戦メリのテーマ曲を演奏していました。
それ以上なのが浜ちゃんがライオンの父親で、仔ライオンにスパルタ教育をするコントで仔ライオンをボコボコにしていたら中が教授で返り討ちに遭いました。
ちなみに浜ちゃんの息子さんでOKAMOTO'Sのハマオカモト君は星野源さんのサポートメンバーとしてなくてはならない存在で、星野さんの布施明さんのパロディキャラニセ明に対抗してハマ君は細野晴臣さんのパロディキャラウソノ晴臣を演じています。
星野さんのアルバムの特典映像でニセ明とウソノ晴臣と声優の宮野真守さん演じる光GENJIの諸星和己さんを意識した雅マモルが旅行に行くというのは大爆笑しました。
私は桑田佳祐さんのコスプレとものまねが大好きで、そのことを「やさしい夜遊び」に投稿したら本人を大赤面させ「あれは武装です!」と言われました。
桑田さんと言えば昭和57年の紅白歌合戦でやった故三波春夫さんをド派手な着流しに白塗りメイクでやったときは大顰蹙を買いました。
三波春夫コスプレで免疫が付いたのか桑田さんがどんなコスプレをしようがものまねをしようが動じなくなった反面、ダンディハウスCMで白タキシードでダダ滑りし、紅白の30年後にサントリーのマッコリのCM同様に白衣装と長髪のヅラでチャン・グンソクさんのパロディキャラのチャン・ソングスなる人物を演じたのを見たときはテレビの前で頭抱えていました。
その後の全国ツアーで鯉のぼり模様のスーツ着て登場したときは生理痛がぶっ飛びました。
気難しい一面を持ち、政治的な発言も多い彼でしたが、子供達に音楽を教え、自然と触れ合う姿は優しい目をしていました。
加子母は父が材木の仕事をしていた関係で行ったことがあります。そのことはわすれないようにしたいです。
教授には学校の先生以上にいろんなことを教えてくれました。
ご冥福をお祈りしますというより、ありがとうという言葉を送りたいです。
最後に6月の新潟行きは父と行くことになりました。そのあたりの話は後ほど。