スーパーももちゃんはミスうちゅうかん

サザンファンの介護福祉士です。阪神の糸井選手と同じ誕生日なのでこのタイトルになりました。

茅ヶ崎ライブエントリー可能になりました。

2023年06月26日 21時49分48秒 | サザンのネタ
明日接骨院とブロック注射があるので手短に。


21日から2泊3日で父と一緒に母の故郷の新潟に行きましたが、行き帰りの高速は死ぬかと思ったくらい父は飛ばし、帰りは観光もお土産も買う余裕もなく23日に帰宅しました。


24日オンエアのやさしい夜遊びにてサザンの45周年の活動の詳細が発表され、3か月連続の配信シングル発表と10年ぶりの茅ヶ崎ライブが発表されました。


前回はツアーの一部でしたが、今回は23年ぶりの単独公演で4日公演です。


私は新国立競技場でのライブをやると思っていたのでびっくりしました。


新潟でお金を使い(ETCとガソリン料金だけで1万5000円近く)ファンクラブでもチケットが取るのが難しいのにエントリーを決意してしまいました。


前回「ふざけるな!!」ツアーも一緒のいとこにメールしたらOKだったので。


あと茅ヶ崎は弟が住む岡崎市と徳川家康と大岡越前繋がりで交流があります。


来年もツアーがある可能性が高いのと新井の道の駅がゆっくり見れなかったリベンジの旅をしたいのにいいんでしょうか!!


今後は休みの日に「作るのと片付けるのが嫌だから」と外食に行くのを減らすかテイクアウトのお弁当です。


個人的にはライブより桑田さんも大好きだというしらすが食べたいです。


富山と新潟の旅の話は後程。


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推し活なんて下手すると人生狂わせてしまいますよパート6(完)。

2023年06月21日 22時40分47秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
パート6です。


桑田さんのライブ1週間前に納車となり、納車1週間後の日曜日に名古屋に行きました。


国府宮神社のはだか祭と高島屋のアムール・デュ・ショコラ以来2年9か月ぶりでした。


ライブの前に熱田神宮に行き、金山からバンテリンドームナゴヤのあるナゴヤドーム前矢田駅に行きました。


13時からグッズ販売のため、お昼は後回しになりました。


仲良しのサザンファンの友達のおかげで記念撮影にも参加出来ました。


初めての電子チケットも上手くやれ、ライブも楽しく見ることが出来ました。


スタンド席だったので早く出れたもの、父からの電話で慌てて帰宅することになりました。


この件で離婚して出戻れて好き放題出来たのは母のお陰なのと、父が高齢なのを考えると考えて行動しないと後が怖いと思いました。


今年の2月にユーミンのベストアルバムの特典で彼女のライブの先行予約を外れる覚悟でエントリーしたら当選してしまいました。


今年はサザンと大江千里さんと遊佐未森さんのアニバーサリーだし、ライブ行くなら今しかないと遊佐未森さんの名古屋公演に行きました。


更にサザンの45周年ライブが新国立競技場で開催されるとしたら…。


今回のブログはサザンのデビュー45周年でライブが確定していないのに日産スタジアムだの茅ヶ崎だの横浜アリーナだのとSNSで言っているファンに対する苦言でもあります。


父も高齢だし、離婚後出戻って、職も不安定で、きちんと定職に就けたのが離婚3年後で、正社員になれたのは3年前でした。


桑田さんのバンテリンドームナゴヤ公演の日も父は町内の掃除に参加していました。


母が亡くなってから8月14日はお坊さん対応で休まなければならず、希望休の兼ね合いでライブは難しくなりました。


昨年のリフォームの一部と車の買い替えの2回ローンで貯めたお金から100万円出していて、正社員で給料が増えたとはいえども夜勤をやらないと生活出来ないので先が怖い。


それ以上にメニエール病と椎間板ヘルニアのブロック注射でお金は減る一方です。


推し活に付いて色々調べているうちに推し活で自分を失った女性の姿をリアルに描いた「推しが辞めた」というマンガがあることを知りました。


無料で少しだけ読みましたが、主人公は派遣の仕事だけではお金が足らず、風俗の仕事で派遣の仕事の倍の給料を注ぎ込んで推しの男性アイドルに貢いでしまう。握手会で自分の顔を覚えてもらいたいためにCDだけでも5万円分買ってしまう。


彼女の推し活仲間も今の仕事の給料だけでは推し活出来なくて、それぞれ転売とパパ活と親のお金の持ち出しと秘密を抱えている。


そんなある日、自分が推していたアイドルがグループから脱退するというニュースを知り、身も心もボロボロに…。


主人公がアイドルにお金を貢いでしまうくだりはバブル期に女の子に振り向いて貰いたくてお金がないのに高級車を買ったらアッシー君として使われ、アクセサリーを買っても見向きもされずに捨てられたという話より重い。


このマンガの話を読んでキンプリのファンの子がテレビのニュースのインタビューでグッズで5万円使ったと言っていた女の子がいて、見るだけ辛くなりました。


推し活もギャンブル依存と似ていると言われており、その恐ろしさは元大王製紙会長の井川意高氏の本に大王製紙の資金106億円をギャンブルでパーにしたと書いています。彼のギャンブル依存の背景に大王製紙を公害を出す会社だという見方をしている了見の狭い教師との確執のあった少年時代と愛媛という閉鎖的な環境とワンマンと言われ、親子共々大王製紙を追放された父親の教育虐待があったとカミング・アウトしています。


知っているサザンファンも会社で上司のパワハラを受け、職場に自分の居場所がなく、ライブ同行で必死になって待っても見ることが出来なかったことを馬鹿にされ、それでも桑田さんを心の支えにして生きている人もいます。


亡くなった母も桑田さんと原坊を「ファンを大事にする」と褒めていました。


推し活で一番怖いのは推し活にのめりこむあまりに結婚出来なくなることや、結婚で推し活を辞めなければならず、それが原因で離婚することです。


自分も結婚で名古屋に簡単に行ける環境から岐阜市はおろか名古屋に行くのも難しい地域にすむことになったことでストレスがたまり、体調を崩しました。


今少子高齢化が大きな問題となっていますが、政治家を批判する前に女性の場合、結婚と出産で推し活が出来なくなることや地方に住むことで自分の存在意義を見失い、結婚に対するハードルを自分自身で高くしている事実も知って欲しい。


パート6まで続いたこの話はここでおしまいです。

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推し活なんて下手すると人生狂わせてしまいますよパート5。

2023年06月19日 21時07分41秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
新潟の母の実家行きの準備が全然出来ていない状態でのパート5です。


年末の帰省ラッシュで混雑している名古屋からこだまのグリーン車(それしか取れなかった。)に乗って新横浜に行きました。


新横浜到着後、ホテルに荷物預けてからJRで関内に向かって原さんの実家の天吉で天丼食べて、関内から横浜経由で川崎に行って川崎大師参拝後に右往左往しながら川崎から新横浜に戻りました。


夢にまで見た横浜アリーナに到着したときは言葉が出ませんでした。


それも席がセンター席でした。


桑田さんが紫綬褒章を頂いた後のライブでその日は安倍晋三夫妻も来ていました。


また横アリに行こうと思って岐阜に戻りましたが、紅白での事件が…。


年越しライブで春からのツアーが発表されました。


年越しライブのチケットが取れたので「今度のツアーは簡単に取れる」と思ったらドームでも取れない問題発生。


私は取れたのですが、中にはファンクラブの2次でも取れなかったという…。


私の知り合いに当落メール発送日に身体が動かなくなり、ドクターストップがかかってライブに行けなくなりました。


私はナゴヤドーム公演に行きましたが、帰りに満員のナゴヤドーム前矢田駅に行く階段の手前で転びそうになりました。


たぶん規制退場がなかったことが一番の原因だと思いますが、今でもトラウマです。


日本武道館公演はチケットが取れませんでした。


翌年の桑田さんの年越しライブは介護職員の手当が多かったのでスケジュールと前より良いホテルを予約してあとはチケットが取れるだけでしたが…。


ファンクラブもローチケの先行も外れて大ショックでした。


そのお金で年明けに東京に住むいとことディズニーランドに行くことになりました。


出発4日前に母が鼻血で倒れ、何とか回復しました。


しかし、ディズニーランドでアナ雪のプロジェクションマッピングを撮ろうとスマホを取り出したときにヤフーのアプリがそのままで、そこでかかりつけの歯科医院の先生が診察トラブルで刺殺されたことを知ってしまいました。


岐阜に戻った2日後に診察があった私はショックを抱えたまま岐阜に戻りました。


鼻血で倒れた母も検査をしているうちに大腸に異常があることが解り、5月に内視鏡検査を受けたところ大腸がんが見つかり、岐阜大学病院でステージ4であることが解りました。


母が退院した時は家でおかずを作れるほど回復していたのと転移した肺と肝臓のがんも消えていて手術の必要がなかったのでレベッカと桑田さんのソロライブのナゴヤドーム公演には行けました。


ただし、母のことがあるので17時スタート公演でした。


サザンもデビュー40周年なので前回同様にスタジアム公演だったらどうしようと思ったらNHKホールと夏フェスとAAAのひとり紅白だけでした。


6月に消えたはずの母のがんが再発していました。


その頃に結婚して7年子供に恵まれなかった弟夫婦に子供が出来たことが解り、その子のために母は必死にがんと戦っていました。


翌年の1月19日に姪が産まれても寒いのと病気の影響で産院には行けませんでした。


元旦にサザンの40周年ライブの日程が発表され、チケットが紙屑になる覚悟でエントリーし、当選しました。


姪が産まれたあとで母のがんマーカーが上がってしまいましたが、脂肪だったという。


年号も令和になり、2年が限界と言われていた母もそれを乗り越えることが出来ました。


6月にナゴヤドームでサザンの40周年ライブを東京のいとこと見に行き、翌日に東山動植物園に行きました。


ライブの喜びもつかの間、翌月の遅番勤務中に気分が悪くなって嘔吐し、耳鼻科で診て貰ったらメニエール病であることが解りました。


母も8月に胆石の手術をしました。


異常に暑い夏でした。


来年は東京オリパランピックの後に東京に行くことと近場なら大丈夫と翌年の3月に大江千里さんのジャズライブを見に行こうと思ったら母の身体に限界が来てしまいました。


12月も無理して大掃除をやっていたら体調を崩し、ダウンしてしまいました。


母の体調で大変なのにコロナウイルスのせいで自由のない生活を強いられました。


ライブも配信がメインになりました。


いつ自由な生活に戻れるかという不安を抱えて毎日をすごしていました。


そんな中で契約社員だった私は夜勤をやるようになった1年数ヶ月後に正社員として勤務出来るようになりました。


それを一番喜んでいたのが母でした。


クリスマスを目前とした12月の半ばに母は緩和ケアに入ることになりました。


本人はそれでも前向きでした。


お正月も元気に過ごせました。


何とか家事炊事も出来た母が急変したのは2月でした。


病院も行けないので訪問看護のナースさんが来ました。


3月に入ってから寝たきりになり、歩行も困難でトイレも行けなくなり、おむつをすることになりました。


3月17日に母は75歳の誕生日1か月前に亡くなりました。


母の介護を巡って父と揉めたので、初七日法要が終わってからお風呂も入らずに寝てしまいました。


母の死後1か月も経たずにおば(父の義妹)が亡くなりました。


父も私も悲しむ間もなく毎日をすごしていました。


1年遅れの東京オリンピックが終わり、夜勤をしていた私は桑田さんのソロライブ開催をSNSで知りました。


介護職という立場上県外に出れない私は心がポキンと折れました。


母の死後半年が経ち、秋分の日が過ぎてから激しい胃の痛みが出るようになりました。


仕事が終わってから系列のクリニックで診て貰ったら先生が厳しい顔で「胃の内視鏡検査を受けてください。紹介状を書きますから。」と言われてしまいました。


更に子宮も激しく痛みだし、かかりつけの産婦人科の先生から厳しい顔で「長良医療センターでMRI検査です。」と言われました。


胃の内視鏡検査で十二指腸潰瘍とMRI検査では子宮だと思ったら椎間板ヘルニアでした。


母の死のショックから抜けきれないのとライブに行けないイライラが身体に出ました。


大晦日の夜勤は38度近い熱が出て、寝ながらの仕事でした。


年中無休で診察しているクリニックで点滴を受け、検査も異常なしでした。


母の一周忌が終わり、3回ワクチン接種とコロナも落ち着いたので岐阜県内はあちこち行けるようになりました。


3年ぶりに木曽三川公園のチューリップ祭りに行った私は工事現場の落書きコーナーにこう書きました。「桑田佳祐さんと松田聖子ちゃんのライブに行きたい。新潟か東京に行きたい。」


お風呂のリフォームでお風呂に入れないので高山と下呂温泉に行っても心の中はライブに行きたいという気持ちでいっぱいでした。


夏は更年期障害の影響で体調を崩し、ヘルニアの悪化でブロック注射をしないと治らない状態でした。


10月の半ばにお世話になっているお寺で開催されたフリーマーケットのイベントに行き、看板ふくろうのいる喫茶店でのランチ後、帰宅しようと運転していたら車のインパネに警告ランプが点灯し、いつ車が止まるか解らない恐怖とお金の不安を抱えながらディーラーに行ったところ衝撃の発言をされました。


「修理しても保証出来ません。」


ディーラーで見積もりを出して貰い、父と相談し、翌日も休みだったのでディーラーに行って買い替え手続きをしました。


10年前の納車1週間前に行った布袋寅泰さんのライブ前に年明けだったこともあり、熱田神宮でお守りを買ったことを思い出した私はこう決意しました。


感染と首になる覚悟でバンテリンドームナゴヤに行こうと。


9月に発表の時点でライブは来年のサザン45周年まで我慢の予定でした。


行かないと体調が余計悪くなると思い、ローチケの先行で撃沈覚悟でエントリーしたら当選でした。


次回は富山あるいは新潟で更新予定です。



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推し活なんて下手すると人生狂わせてしまいますよパート4

2023年06月12日 22時42分29秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
パート4にまでなりました。


話は平成17年になります。


今の家に出戻って離婚届を出してから友達と無職になったのでクレジットカードの契約も出来なくなりました。


苦労して決まった再就職先もパートでギスギスした環境でした。


養蜂会社で蜂を育てる仕事なので土日は休めても祝日出勤でした。


再就職が決まる月に我が家でインターネット接続が出来るようになり、インターネットが友達でした。


秋にサザンが7年ぶりにアルバムを出すことになり、6年ぶりにナゴヤドームでライブをやるというので思い切ってチケットを取ろうとしても電話は繋がらず、お昼すぎに取れました。


しかし、家の近所のローソンでチケットを発券したら席が5階席…。


6年前の時は30分で繋がって、席もスタンド1列目でした。


ひとりでナゴヤドームに行き、スクリーンもまともに見れない状態で見て、寂しく帰りました。


しかし、インターネットのおかげで仲良くなったサザンファンの人達との出会いで孤独な思いをすることはなくなりました。


オフ会がきっかけで年明けにサザンのファンクラブに加入しました。


ブログを始めたこともプラスになりました。


養蜂会社に再就職した2年後に育てている蜂が外来種に引っかかるということで、夏に事業所兼工場を閉鎖することになりました。


桑田佳祐さんが年越しライブのMCで「無人島でライブがしたい」と発言したことで6月25日に静岡県浜松市で夢人嶋という音楽フェスをやることが発表され、ひとりで行くのも怖いのでおそるおそる離婚してから5年会っていない東京のいとこを誘ったらOKで、チケットもホテルも確保出来ましたが…。


本来なら系列の工場に異動の予定が、上司と折り合いが悪かったこともあり、首を言い渡されました。


それもフェスの前日でした。


フェスに行ったもの、キャパの割にはトイレも少なく、生理だったので地獄でした。ライブが終わっても待機が長く、ホテルに着いたのは日付が変わる前で、ツアー客だと夜中の3時だとか高速道路で行った人によると到着したら朝でそのまま仕事に行ったというのもありました。


散々な目にあったフェスの最大の収穫は加山雄三さんとアミューズ繋がりでポルノグラフィティと福山雅治さんのライブが見れたことです。


岐阜に戻ってから再度仕事を探さなければならず、決まった会社も5日で解雇(後で知ったのが解雇の背景に職場の主の人間が私のことを気に入らなかった)で、人間不信になった私は仕事を探す勇気もなくなりました。


当然親子関係も険悪になりました。


翌年の5月に今の介護職員初任者研修を受け、ヤマト運輸のアルバイトと日雇い派遣の仕事をしながら実習を受け、資格を取り、老人保健施設への再々就職が決まり、平成23年に介護福祉士資格を取得しました。


ヤマト運輸のアルバイトを始めた頃に仕事がないので暇つぶしで描いていたダンディハウスCMの桑田さんの似顔絵がネットで知り合った似顔絵師のコンクールで佳作となりました。


同時期に桑田さんのソロライブツアーが発表され、定職に就いていない状態なのに横浜アリーナの年越しライブをエントリーしてしまいました。


横浜アリーナ公演は落選しましたが、第2希望の日本ガイシホール公演が当選しました。


そのチケットがアリーナ1列目という神席で、母とふたりで大喜びしました。


離婚してから介護の仕事が決まるまで辛いこととがたくさんあったのが救われました。


ライブでは桑田さんに岐阜から来たことをいじられながらも楽しい時間を過ごすことが出来ました。


次はサザンの30周年ライブを見よう!と張り切っていたら東スポの記事で解散と書かれ、正式発表で無期限活動休止なので大騒ぎ。


30周年ライブが日産スタジアム4日間公演で、私は運良く東京のいとこがいたので行くことが出来たけど、中には病気や家族の反対で行くことが出来なかった人もいました。


東京に行くのは10年ぶりでした。


ライブの前はいとこの会社の親睦会に参加しました。


複雑な気持ちでライブを見て複雑な気持ちでいとこのマンションに戻り複雑な気持ちで岐阜に戻りました。


心に大きな穴が空きました。


この年は大変な年でリーマンショックと小室哲哉さんの逮捕がありました。


安定した仕事に就いて1年経ってもまだ契約社員でした。


平成21年になり、レコーダーを買ったことでテレビがリアルタイムで見れない心配もなくなり、WOWOWに加入したおかげでいろんなアーティストのライブを見ることが出来ました。


平成22年に職場の異動で小規模多機能施設に変わり、人間関係の不安と不満を抱えた状態で介護福祉士の試験勉強が始まりました。


桑田さんのソロアルバムとツアーも発表され、ナゴヤドーム公演が試験の1か月前なので何とかなるだろうと思っていたら桑田さんが食道がんであることが解ってツアー中止とアルバム発売が延期になりました。


母の「桑田さんは原さんがいるから大丈夫」という言葉に励まされ、秋の実技試験免除の実習も試験不合格で心が折れたけど再試験で合格し、大晦日の紅白に勇気づけられ、雪の降る中で介護福祉士国家試験を受けて無事合格しました。


しかし、合格発表の前に東日本大震災が起きてしまいました。


その後桑田さんの宮城ライブが発表されました。私は「いくら桑田さんが好きでもこのライブは被災された人のためのライブだから。」と行くことを辞めました。


その変わり11年ぶりに東京ディズニーリゾートに行き、大散財してしまいました。


11月に弟が入籍することとなり、マンションの駐車場に2台も車を置けないからと乗っていたダイハツムーヴを私に譲渡することになりました。ダイハツがミライースを発表し、その車を買うための下取りになりました。


定職に就いて4年しか経っていないので貯金がなく、幾らか親に出して貰いました。


弟が籍を入れる4日前に桑田さんの神戸でのクリスマスライブと横アリのライブが発表され、東京と車でお金を使い果たした私は心がポキンと折れました。


その経験から年末にお金を残すよう心掛けています。それはボーナスが出る立場になった今もです。


年明けに布袋寅泰さんのライブに行き、車も納車されました。


春に桑田さんのツアーが発表され、ライブのある年末を楽しみに仕事を頑張りました。


4年前の日産スタジアム公演以来の桑田さんのライブは生理痛も忘れるくらいエキサイトしました。


翌年の6月に待ちに待ったサザンの再活動が発表され、大きなニュースになりました。


実はGW後に原因不明の高熱が出て、大学病院で診察を受けたほど体調が悪く、6月の半ばまで歩行も困難でした。


体調不良のことがあったので9月の豊田スタジアム公演で助かりました。


本来なら地元公演はひとりで行くのが定番ですが、名古屋より遠いのとひとりは寂しいので東京のいとことふたりで行きました。


父が70歳になったことを機に「行けるうちにひとり旅をしよう」ということで仕事柄諦めていたサザンの年越しライブに行く決意をしました。


当時の職場が夜勤が出来ないと正社員になれなかったこともあり、ケアマネ試験の勉強も本格的に始めたのもその頃でした。


4月に名古屋で仲良しの似顔絵師のイベントに行ったあとは休みも勉強でした。


9月頃に年越しライブがあることを見込んでこっそり新横浜のホテルを予約しました。


ケアマネ試験も終わり、サザンの年越しライブのエントリーをしました。


ただしエントリー日は12月28日でした。


その年に車の車検とパソコンの買い替えがあったのでお金の工面に苦労しました。前の職場のことと桑田さんのソロライブツアーで外れた経験から大晦日は避けました。


当落メール発送日はまともに食事が出来ない状態でした。


その日は遅番勤務で、話の解る仕事仲間が夜勤なので、仕事の終わりかけにこっそり見たら当選でした。


今の家に来て10年経っていたので天にも登る気持ちでした。


年越しはファンクラブでも取れないので複雑な気持ちでした。


平成26年12月28日に遠足前日の子供状態のままほとんど寝ていない状態で新横浜に向かうこだまに乗りました。

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推し活なんて下手すると人生狂わせてしますよパート3。

2023年06月08日 21時19分31秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
続きの続きです。


退職したのがクリスマスで、有給が残っていたので籍は翌年の1月まで残っていました。


ボーナスと退職金があったのでしばらく家にいるつもりでした。


そういう考えになった背景に学校に馴染めず、嫌嫌行かされたので1年くらい自由にさせて欲しいという気持ちがありました。


仕事を辞めたことで家にいることが多くなり、見合い話も多くなりました。


仲の良かった友達と東京ディズニーランドに行き、帰宅したら見合いの話で、ライブの日に見合いということもあり、親子関係も険悪になってしまいました。


大学を2年留年していた弟も就職氷河期の中で就職し、今では同年代より良い生活をしています。


4月になってもだらだら生活が続いたことで追い詰められた私は家を飛び出し、名古屋を一番に出る新幹線に乗って東京に行き、いとこの家に5日ほど居候しました。


取れなかったサザンのライブも最初で最後のつもりで見に行ったらその10年後にファンクラブまで入りました。(そのあたりの話は後日)


お金も尽きたので再就職しようとしても就職氷河期と年齢で全然決まりません。


ヤマト運輸のバイトも1か月でおしまいでした。


見合いと仕事の面接の日々でした。


いろんなバイトを経験した後に夕食材料の配達の仕事に就くことになりましたが、パートだったのでボーナスもありませんでした。


その頃お金もないのにサザンに次いで運良くドリカムのチケットを入手することが出来、仕事が終わるのも早かったので営業所に車を置いて見に行きました。


その年の9月に初めて海外に行くことになり、アメリカに行く予定が出発3日前にニュージーランドに変更になったもの、不満を言いながらも楽しい旅行でした。


翌年29歳になるのに運良くサザンのナゴヤドーム公演のチケットが取れてしまいました。


親のプレッシャーも半端なく、それが原因で体調崩しました。


秋に紹介された人とお付き合いするようになり、結婚することになりました。


我が家もインターネットが出来るようになり、それが心の拠り所でした。


私は結婚をきっかけに平成11年まで加入していた大江千里さんのファンクラブを辞めることにしました。


相手の家が名古屋に行くのも難しい地域であることも覚悟しての結婚でした。


結婚してから相手の家庭が機能不全家庭であることが解り、結婚前に購入したトヨタのワンボックスカーも5年ローンであることも共働きしても生活が苦しいことも気が付きました。


ライブに行く余裕もありません。


結婚してからトラブルもたくさんありました。


今それが大きな社会問題となっていますが、根強い「女性は家庭を守る」という呪縛がありました。


再就職しても上手く行かず、厄年もあって8か月仕事が決まらないという生活でした。


その時の逃げ場が図書館と職場のパソコンのインターネットの情報でした。


向こうの家族とも険悪になり、体調を崩して別居しても解決出来ず、ある出来事がきっかけで私は雨の降る中荷物をまとめて家を出ました。


私の結婚後に弟は仕事の関係で岐阜の家を出て岡崎市に移住し、両親は材木屋の仕事が続けれなくなって家を引っ越しました。


私はパソコンの職業訓練校に通いながら離婚調停をする生活でした。


訓練校の人達がみんないい人だったので終わるときが辛かったです。


離婚も正式に決まり、元の姓に戻りましたがお金がなかったので郵便局のアルバイトを正月返上でやっていました。


再就職のパート先では年下の上司の恫喝もありました。


そんな中で運良く取れた3度目のサザンのライブを見に行ったことが人生の転機になりました。


次回に続く。

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推し活なんて下手すると人生狂わせてしますよパート2。

2023年06月04日 17時26分47秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
前回の続きです。


高校を卒業して大手菓子メーカーの工場に就職しました。


各務原市に会社があり、交代制勤務の関係で寮に入るのが嫌で運転免許を取ろうとしたら入社式に間に合わなくて自動車学校を途中で辞める(今は保証してくれる)ことになり、配属が決まってから寮に入り、再度自動車学校に行きたかったのですが、仕事が落ち着くのと大学生が夏休みを利用して免許を取るため入校出来たのがお盆明けで、取るのに3か月もかかりました。


そのため社会人2年目にならないとライブが見れず、それでも小堺一機さんのおすましでSHOWと岐阜市で行われたバービーボーイズと大江千里さんのライブを見ることが出来ました。


その大江千里さんのライブこそが沼落ちのきっかけでした。


明石家さんまさんが大竹しのぶさんと入籍後に見たひょうきん族のかまへんライダーというコントに夜ヒット生放送のリハーサルの合間を縫ってひょうきん族の収録現場を見学していた千里さんをさんまさんが引っ張ってコントに参加したときに「草津節」の合いの手が歌えなくてさんまさんに怒られていたのを見たのがきっかけでファンになりました。


本来なら今問題となっている「蛙化現象」で嫌いになると思いきや、千里さんに対して気取っているというイメージがあったので見方が変わりました。


大竹しのぶさんもそうですが、故大川慶次郎氏や佐野史郎さんや福本豊さんや現在日本ハム二軍監督の木田優夫氏や浅田美代子さんもさんまさんがきっかけで見方が変わった有名人です。


当時千里さんのライブチケットが入手するのが困難で、弟がサンデーフォークというイベンターの会員(それも大学1年なのに)に入っていて、親の顰蹙を買ってまで電話しまくり、取れたチケットが2階席。


どうしたら良い席で見れるのと弟に聞いたらファンクラブに入るしかないと言われ、年明けに岐阜中央郵便局で大学入試志願の書類を出す高校生に混じってファンクラブ入会しました。


サザンの時は公式サイトから資料取り寄せで、コンビニ払いでした。


ファンクラブに加入しても、その年の野外ライブは東京のいとこに会うこと優先で見れず、秋からのツアーは翌年の1月公演じゃないと見れませんでした。


ファンクラブに加入したおかげで神席でした。


ライブが見れるようになったもの、家の中では大変なことが起きていました。


私が就職した年に可愛がっていた柴犬が亡くなったことで祖父が認知症になり、ファンクラブに加入した翌年に熱中症で入院しました。その時に納涼千里天国が今のベルーナドームであり、祖父が入院していた病院にはヘルパーさんがいたのと症状も安定していたので2泊3日で行きました。


その時に仲の良かった友達が私を利用して男友達と会っていて、その友達が父親に絶対服従の家に育け、カンニングでクラス1のヤンキーより先に親の呼び出しがあった人で、感の鋭いクラスメートに「あの子とは付き合わない方が良い。」と陰で忠告を受けたくらい性格に問題のある人で絶縁しました。


納涼千里天国を見に行った3週間後くらいに祖父が亡くなりました。


千里さん以外にもいろんなアーティストのライブに行きました。


ただしサザンは取れませんでした。


祖父の一周忌が終わった1か月後に父が初期の腎臓がんであることが解りました。


当時勤務していた会社の工場12月は土曜日もフル稼働で、その時に千里さんのクリスマスライブが横浜アリーナと大阪城ホールであり、大阪城ホールなら何とか行けると思って無理矢理有給を取って大阪に行くことが決まっていました。


幸い父の回復も良くて、クリスマスには退院出来たもの、抗がん剤の副作用で些細なことでイライラするようになりました。


中学高校と自由がなかった反動で遊び呆けていた私はやりたい放題のピーク期だったのでボーナスがたくさん貰える立場でも親子関係は最悪でした。


集団生活に馴染めなくて寮を出たこともあり、寮も戻れず、遊び呆けていたので独り暮らしする考えもありませんでした。


90年代とはいえどもまだ「25歳までに結婚しないと惨めになる」という呪縛もあって見合い話も来ていたけど逃げました。


同級生の中には結婚した人や男性が少ない職場ということもあって早々に結婚した先輩や同期もいました。


24歳になり、遊び呆けていることに親も苦言を言うようになりました。


翌年、阪神大震災とオウムの事件が起き、自分自身もいろんなあって職場に居づらくなりました。


その年の秋に仲が良かった友達が結婚し、お見合いもしたけど結婚して自由がなくなることが怖くて断りました。


様々なストレスが重なり、後輩が自分より先に給料のランクが上がることを知ってショックを受けたことで6年9ヶ月勤務していた会社を辞めました。


それ以上に工場特有の閉塞した環境に耐えれなくなったのと友達が出来ず職場でぼっちだったのに耐えれなくなったのもライブにのめり込んだ原因でした。


次回につづく。










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推し活なんて下手すると人生狂わせてしますよパート1。

2023年06月01日 22時39分49秒 | ももちゃんの読んでくれてありがとう
ブログ約2週間ぶりです。


バタバタしていたら6月になりました。


1泊2日予定の新潟行きがシフトの関係で前後含めて7日休みなったおかげで2泊3日になりました。


昨年の高山下呂のリフォーム避難旅行以上にピリピリしています。


サザンのデビュー45周年が近いのとジャニーズの性加害問題と市川猿之助さんの件で言いたいことがありまして…。


あえてコメント欄は閉じました。


遊佐未森さんのライブ翌日にオートバックスでETC車載器を付けて貰い、18日の3連休初日に牧歌の里へETCのゲート通過練習と高速道路運転を兼ねて行きましたが、往復4000円近い料金を見て泡吹きました。


実は牧歌の里のレストランで鶏肉ケイちゃん定食を食べているときに猿之助さんの一家心中未遂事件を知りました。


その日の夕方に職場でiPad端末の介護記録ソフトの講習があったので、早めに牧歌の里を出て職場のある岐阜市に戻る途中で関SAで休憩したら標高の高い場所から低い場所に戻った影響で耳鳴りが酷くなり、しばらくSAを出れませんでした。


翌日耳鼻科で診て貰ったら薬が増えました。


と話は脱線しました。


牧歌の里に行く前に父の食事の準備と洗濯があったので先に朝食を食べながら見た新聞の女性セブンの広告に例の記事が掲載されていたのを見たので「事実無根なら法的手段に出ることも出来たのに…。」と思いました。


亡きジャニー喜多川氏の性加害の件のこともあり、これはまずいぞと思いました。


事実一部のネット民がジャニーズと歌舞伎と宝塚の闇の部分を暴露して潰そうとしている話も見ました。


ジャニーズも歌舞伎も宝塚もファンの多くは女性です。


私はジャニーズのアイドル全盛期に小学校高学年→中学→高校→社会人1年目を過ごしました。


私が一番最初に好きになったジャニーズのアイドルは田原俊彦さんで、あとはシブがき隊時代の本木雅弘さんです。


中学2年のときはチェッカーズと吉川晃司さんの人気が凄かったです。


しかし、3年になって受験を控えていたのでアイドルで盛り上がることは許される環境ではありませんでした。


入学した高校は女子高だったのでジャニーズやアニメ以外にも盛り上がるものがたくさんありました。


その頃に少年隊がデビューし、校則の厳しい学校でありながらライブに行くクラスメートは何人かいました。


私は親が厳しいのでライブなんて行けませんでした。


高校を卒業して働きに出るしか自由はありませんでした。


話が長くなるので次回に続きます。


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