スーパーももちゃんはミスうちゅうかん

サザンファンの介護福祉士です。阪神の糸井選手と同じ誕生日なのでこのタイトルになりました。

欽ちゃんが熱海で小堺さんに言いたかったこと。

2020年08月25日 10時57分58秒 | テレビ番組の感想
本題を前に私事ですが、先週の金曜日に姪が目の虫刺されで1週間入院となり、弟から入院先でご機嫌斜めな写真を送って来ました。

そして今日めでたく退院しました。


19日のNHKのBSプレミアムで萩本欽一さんと小堺一機さんが熱海を旅するという「真似して真似され二人旅」が放送されていました。


20年前の番組ですが、嫌なことも忘れるくらい大爆笑しました。


この番組はものまねをする人とされる人がふたりで旅をするんだけど、今回欽ちゃんと小堺さんが行ったのは熱海です。


何故熱海なのかというと、お笑い芸人として挫折した欽ちゃんが熱海のホテルで営業の仕事をした修業の場所であることと、コント55号の人気ががた落ちし、自殺まで追い込まれた彼が失踪してたどり着いたのも熱海だと言います。


小堺さんは欽ちゃんを師匠だと思っても欽ちゃんは小堺さんを弟子だと思っていません。


同様のことが香川照之さんも体験したと言います。彼は東大を卒業後に俳優としてデビューし、2歳の時に離別した実の父親の市川猿翁さんがまだ三代目猿之助だったときに会いに行きますが、息子として認めて貰えませんでした。藤間紫さんの協力で和解するのに20年以上かかったと言います。


猿翁さんと香川さんのように実の親子でもわかりあえるのは難しいのです。


小堺さんは小学生の時にNHKの合唱団に入り、その時に出演していた今でいうEテレの番組のメンバーから外されるという経験をし、大学生のときに合唱団時代のメンバーだった山尾百合子さんがハガキを送ったことでTBSの「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場に出たことがきっかけでタレントとしてデビューするもの、大学卒業後に故勝新太郎さんが主宰する勝アカデミーという育成スクールで故岸田森さんの指導を受けます。


その裏に「何をしても中途半端」と厳しく言われた南極越冬隊経験を持つ寿司職人の父秀男さんの言葉がありました。


欽ちゃんとの関わりは所属事務所が一緒で、駆け出し時代に「欽どこ」で関根勤さんとのコンビ「クロ子とグレ子」として出たことです。


めちゃイケの「マジオネア」のクイズのネタにもなったように厳しく言われることが多かったと言います。


それゆえ小堺さんは欽ちゃんにコンプレックスを持っていると言っています。


貫一お宮の像の前でどういうコントをやるかというトークと小堺さんの欽ちゃんのものまねの特徴について語るのと欽ちゃんがお世話になった芸者さんやホテルのハコバンの人との思い出話で盛り上がりました。


途中小堺さんの熱海の海岸での「北の国から」の五郎さんとNHKなのに古畑任三郎と薄暗いバーでバニーガールを従えての勝新太郎さんのものまねで欽ちゃんを語りますが、ブタっ鼻で小堺さんだとバレバレ(笑)。


欽ちゃんからのテストの課題で小堺さんがホテルの宴会場で食事をしている団体客相手に欽ちゃんがやった小学生に扮してのコントをやるのですが、一部が受けただけで途中で帰ったおじさんがいました。


後で欽ちゃんが出てきて種明かしをした時、欽ちゃんが出てきたときの宴会場の盛り上がりは異常でした。


小堺さんに取ってはそれが相当なショックだったらしく、帰りは気まずい空気が出来てしまいました。


それはふたりで食事をしている時もでした。


2回目は欽ちゃんが熱海で考え、故坂上二郎さんとコント55号を結成するきっかけとなった机というコントで弁士が欽ちゃんで詰襟の学生服をきた小堺さんとのドタバタ劇です。


最初は二郎さんが弁士で欽ちゃんが学生だったのが受けが悪く、立場を逆にしたらバカ受けでした。


動画で見たら欽ちゃんがおもいっきり飛び蹴りするシーンであれだけでも大爆笑しました、


最後に手紙の返事の話で、ふたりでビールを飲んで今までのわだかまりが溶けました。


私は小堺さんが85年から17年までやっていた「小堺くんのおすましでSHOW」の90年から94年の名古屋公演に行っていて、92年にやった回でその年に「北の国から」のスペシャルの名場面でもある「純が東京でタマ子(裕木奈江さん)という女の子と肉体関係を持って妊娠させてしまい、タマ子のおじさん(故菅原文太さん)にかぼちゃを持って土下座する」というのをタキシード着てやった芸は恐怖を感じました。(当時ブームだった「ずっとあなたが好きだった」佐野史郎さんの冬彦さんより怖かった。)


小堺さんの田中邦衛モノマネは桑田佳祐さんの前川清のものまね同様オーバーなおかつ本人が憑依している。


あと小堺さんと松尾伴内さんとバイオリン奏者の中西俊博さんとバイオリンをウクレレにして漫談をしたのとリカちゃん人形をフライパンでソテーして料理研究家の結城貢さんのものまねをしたのもです。


小堺さんのコントで爆笑したのが今だったらコンプライアンスに引っかかるもので、欽ちゃんがせっけんのくにに行き、いきなり服を脱ぐせっけんのくにのお姉さん役の明石家さんまさんに「ダメだよー!こんなところで裸になって!!」といい、あげくのはてにはさんまさんを突き飛ばすというものや、ゴジラのぬいぐるみをかぶった小堺さんがアダルトビデオの女優で、ベッドシーンの撮影でブラジャーやパンティを助監督役の松尾伴内さん(だったと思う)が脱がせるとAV男優役のラサール石井さんがグラサンとぽっちゃりとした身体にビキニパンツ一枚で登場するというオチのコントとさんまさんが隊長の探険隊コントで当時社会現象となっていた人面犬を探すというもので、ジミー大西さんの原住民の歌に合わせて小堺さんの人面犬が登場するんだけど、鈴木宗男のような怖い顔でなおかつ拗ねていて「私は寂しい人面犬♪」と歌い、最後に案内したジミーちゃんが「すみません、嘘をついていました。」で終わるというもの。


小堺さんといえばコナキジジイのものまねも爆笑で、錦織一清さんと一緒にやったこともありました。


私はこういう小堺さんを見ていたので宴会場のシーンは衝撃でした。


欽ちゃんが小堺さんにやらせたかったのは自分を理解しない人をどう笑わせるかということだったのかもしれません。


20年前にやった「桑田佳祐の音楽寅さん」の渋谷ゲリラライブは最後に人が大勢集まり、モニターを見て身の危険を感じたユースケ・サンタマリアさんが桑田さんを救出に行くけど、これが熱海のホテルの宴会場だったらどうなっていたんだろうか?


自分を理解しない人をどう笑わせるかということは介護の仕事でも言えるのではないかと思った。


言葉を言い替えれば「自分を理解しない人をどう笑顔にさせるか」ということである。


20年前はお金をかけて番組を作る時代でしたが、リーマンショック以後お金を制作費を削るようになり、コンプライアンスの問題でテレビが面白くなくなってきました。


最後のメッセージではありませんが、また欽ちゃんと小堺さんのふたりで熱海を旅して欲しいです。

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続大森さんは後のことを考えていなかったの?パート2

2020年08月16日 20時32分53秒 | サザンのネタ
前回の「続大森さんは後のことを考えていなかったの?」のパート2です。


異常な暑さでブログ書くのしんどいですが、休み休み書きます。


私はサザンのファンの分類で「TSUNAMI前TSUNAMI後」「大森隆志前斎藤誠後」に分かれるのではと思います。


私がmixiを始めたのもサザンのファンクラブ(以後応援団と略)に加入してからで、最初は楽しくやれたのが大森さんが逮捕され、サザンの無期限活動休止が発表されてから不穏な空気が出るようになった。


そのサザン30周年ライブでもある真夏の大感謝祭は日産スタジアムだけの公演だったため経済的地域的に行けないファンも多かったのも事実です。


私は幸い東京のいとこと行くことが出来ましたが、心に空いた穴は大きかったです。


東京から岐阜に戻る日、ライブと北京オリンピックの閉会式を報じるスポーツ新聞をお土産に複雑な気持ちで新幹線に乗って岐阜に戻りました。


その後リーマンショックが起き、小室哲哉さんが詐欺容疑で逮捕されました。


WOWOWの加入はレコーダーを購入した09年のお正月後で、ひとり紅白も再放送でした。09年のAAA「男はしたいよ」も翌年の武道館のイベントも行けませんでした。


介護福祉士になり、介護職員処遇手当もまだ少なく、桑田さんの食道がんから1年の復活公演でもある宮城ライブもみんなで元気になろうぜの会も金銭的な事情で行けませんでした。


生で桑田さんのライブが見れるまで真夏の大感謝祭から4年かかりました。


サザンが復活したときはお祭り騒ぎでしたが、先にも書いたある問題が出てしまいました。


それは「TSUNAMI前TSUNAMI後」と「大森隆志前斎藤誠後」のファンのマウントの取り合いです。


ツアーの日程に13年ぶりの茅ヶ崎公演が含まれていたのと、応援団の新規加入者もチケットの優先権があったのでそれも大問題になってしまいました。


チケットも本来なら制限すべきなのが全公演エントリー可能になり、昨年の40周年ライブのふざけるなツアーも応援団でさえ取れなくなりました。


その原因にファンのライブがいつ出来なくなるかわからない不安感から来る独占欲もあります。


40周年の一昨年は本来ならサッカースタジアムでのライブになっていたはずが翌年のドームアリーナ公演になりました。


40周年を記念したベストアルバム「海のOyah!」がリリースされたときに出たのが大森さんの「自分の名前がクレジットされていない」問題が出てしまいました。


落ち着いて考えるとバラッド3発表後の大森さん休養発表後から脱退まで「後のことを考える」話し合いがきちんと出来ていなかったの?と言いたくなる。


こういう問題は離婚調停みたいに弁護士が入るケースもあるし。


休養も最初からサザン脱退が前提だったのかもしれません。その背景に「TSUNAMI」のレコ大受賞があり、双方のキャリアにマイナスになることを避け、ほとぼりが覚めるのを待ってからの脱退の可能性が高かったと思います。


現在活躍されているミュージシャンの中にはバンドやライブ活動では生活出来ないのでアイドルや演歌歌手に曲を提供したり、アニメソング作ったり、スタジオミュージシャンやったり、音楽の専門学校の先生やボイストレーナーをしている人がほとんどなのも事実です。


サザンや桑田さんに関わる人だと昨年NHKスペシャルと紅白歌合戦でやった「AIでよみがえる美空ひばり」の「あれから」の作曲をした佐藤嘉風君がいい例です。


前にも述べたように布袋寅泰さんもBOOWY時代「ストップひばりくん」のエンディング曲と映画「風の谷のナウシカ」で王蟲の音をギターで表現する仕事をしています。


小田原豊さんはレベッカのときからあちこちのアーティストのアルバムにも参加し、桑田さんに「ドラムを下手に叩いて」と言われたエピソードがあります。


布袋さんと小田原さんがバンド解散後も活躍出来たのも一人立ち出来る仕事をやったことが大きいと思います。


一番の成功例はTMネットワークや浜田麻里さんのサポートをしていたB'zの松本孝弘さんです。彼は後にグラミー賞を受賞します。個人的ナンバー1ギタリストの布袋さんでさえ取れなかった賞です。


松本さんや布袋さんや小田原さんのように大森さんが一人立ち出来る仕事をやっていればあのような事件は起きなかったのかもしれない。


大森さんが脱退して斎藤誠さんがサポートに入ってもうまくやれたのは斎藤さんが一人立ちできる人だったことも大きい。(ちなみに斎藤さんは黒のカリスマこと蝶野さんの高校の先輩です。)


このブログを書くに当たり、サザンの公式サイトに掲載されている歴史に付いて調べたら大森さんの休養も脱退も書いていません。むしろ黒歴史になっています。


大森さんは今日の横アリ無観客ライブの特番をどんな気持ちで見ていたんだろう…。


ライブを支える裏方さんは400人だと言います。マネージャーとして籍のある中西君も社長職の傍らサザンのために働きました。


ブログのタイトルでもある「後のことを考えなかったの?」と「一人立ち」に付いては35年前の中3のときと25年前のカルビー退職時の自分自身にも言えることです。


中3のときもカルビーを辞めたときも心が折れて何も出来ない状態でした。


カルビー退職後は就職氷河期で、転職するのも大変だったのにも関わらず、定職に就くのに2年近くかかり、その仕事でさえ正社員ではありませんでした。


今は介護福祉士ですが、このご時世どうなるかわからない。


明日は我が身である。


最後に昨年のサザンのふざけるなツアーで「旅姿六人衆」を「40周年」とタイトルを変えて歌ったのは大森さんへのメッセージも大きいと思う。





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続大森さんは後のことを考えていなかったの?パート1。

2020年08月10日 22時32分22秒 | サザンのネタ
本題を前に一言。

コロナウイルスのストレスと更年期の影響でメニエール病の症状がひんぱんに出るようになり、所ジョージさんの歌のタイトルではありませんが「まったくやる気がございません」状態です。


16日にサザンの横アリ無観客ライブの特番と22日にWOWOWでふざけるなツアーの再放送と横アリ無観客ライブが放送されるので容量を減らすためにブルーレイにダビングしています。


ここからが本題です。


2年前に書いた「大森さんは後のことを考えていなかったの?」という話の続編です。


元サザンのギタリストでもある大森隆志さんがベストアルバム「海のOyah!」に自分の名前がないことをFacebookになかったことを書いていたことがサザンファンの怒りを買ってしまいました。


最近の週刊女性のインタビューのことも批判的な意見が出ました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e9e558c278a0dea9c5926ca89ab4eb5509438a43


20年前の秋にリリースしたシングルを最後に大森さんは休養に入り、それ以後青学のサークルの後輩でもある斎藤誠さんになりました。


11日で大森さんがサザンを脱退して19年になります。


当時結婚していて夜遊びどころではありませんでした。


大森さんがサザンを脱退した3年後の年末に離婚して、翌年運良く「みん好き」ツアーのチケットが取れました。


当時インターネットが友達で、岐阜のタウン情報誌のサイトでサザンを岐阜に呼ぼうのコーナーで知り合ったサザ友さんがきっかけでファンクラブに加入し、その5ヶ月後に大森さんが逮捕されてしまいました。


事件当時GWの終わりに高熱と嘔吐体調を崩してしまい急性胃腸炎と診断され、体調が戻らないまま夜遊びを聴いていました。


桑田さんが怒りと悲しみを抑えながら話していたのが印象的でした。


夢人島フェスに行く前に離婚後苦労して再就職した養蜂会社を辞めなければならず、人間不信になるような出来事もありました。仕事がなかなか見つからず、親とも揉めました。介護の仕事に就いたのは養蜂会社を辞めた1年と1ヶ月後でした。


辛い介護の仕事を頑張っているのも再就職が見つからずに苦しんだ経験があるからです。


知り合いに病気で働けなくなった人もいます。


安定した収入も入り、呼び捨てツアーもアリーナ1列目の中央で仕事が見つからずに苦しんだことも忘れて楽しみました。


来年はサザンのデビュー30周年なので仕事を頑張っていました。


衝撃的なニュースはGWの後に起きました。


サザンの無期限活動休止の発表です。


話は長くなるので次回に続きます。

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続自分がどう生きるかは自分自身が決めることだ。

2020年08月03日 22時04分19秒 | いつものお話
前回の続きです。


74歳の母に千里さんが言った「自分がどう生きるかは自分自身が決めること」の話をしたら「良いことを言う」と誉めていました。


母自身が3年前の千里さんの言葉そのもののを経験したのもあると思います。


そういえば25年前に千里さんの納涼千里天国を見に行ったときに仲の良かった友達がその年の秋に結婚するのでこれからどうやって生活するか親の見合いしろプレッシャーとかオウムの事件の報道で心が傷ついて心がオーバーヒートしてカルビー辞めたのも事実です。


当時就職氷河期で再就職も難しいのに後先も考えずに辞めたので、翌年の納涼千里天国がハワイ開催だとファンクラブから来たときカルビー辞めたのを後悔しました。


確か4泊6日くらいで25万円くらいで、成田か関空発だったので、どちらか行くまでの交通費とお土産代とか入れたらボーナスだけでは足りなかったと思う。


でも、カルビー辞めて1年定職に就かず、再就職探すの苦労する生活選んだのは自分です。


結婚してからも義理の妹ふたりが中卒で、上の妹は元ヤンキーというのを見た。


高校に行っても意味がないと言う人いるけど、現実には資格を取ってきちんとした知識がないと働けない。


私は中学で躓いて、中3のときの担任の先生が勉強を強制する人だったのと、高校が女子高で自由がなかった復讐とその見返りを求めて生きていました。


特に介護はせっかく資格を取っても対人関係ですぐに辞めてしまうケースが大きい。


私の場合は祖母が7年寝たきりだったし、結婚していたときに旦那の弟が自閉症だったのを見ていたのと、介護の仕事を辞めたら働く場所がないのと、養蜂会社で働いていたときのような思いは嫌だったから必死でした。


それ以上に養蜂会社を辞めてから決まった会社で4日で首になったのでああいう思いは嫌だという思いが大きい。


私は曲がったことが大嫌いで、テレビのニュースを見てあんな人間許せないこの世から消えて欲しいというようなことをいうことがあるけど(私の最大の欠点)、言ったら人生おしまい。


千里さんで頭が下がるのは政治批判も芸能関係者批判もしないこと。彼の父親が読売新聞の記者だったこともあり、物事を中立的に見ると言うのは見習いたい。


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