スーパーももちゃんはミスうちゅうかん

サザンファンの介護福祉士です。阪神の糸井選手と同じ誕生日なのでこのタイトルになりました。

止まってしまった胸の振り子を再度動かすために自分たちが出来ること。

2024年04月08日 22時48分16秒 | ももちゃんソングブック
今日は新学期スタートであるとともに岡田有希子さんの命日です。


先月から体調を崩し、コロナに感染(完治しました。)したため、今日母のお墓参りに行き、彼女が命を絶った時間に黙祷しました。


母のお墓に行くときに車の中で平成24年に行われた桑田佳祐さんのソロライブ「I LOVE YOU〜now&forever〜」のDVDに収録されている「愛しい人へ捧ぐ歌」の「胸の振り子はあの日で動かない」という歌詞は38年経っても癒えない彼女のファンの心を映しているのではと思った。


昨秋松任谷由実さんのライブを見た後に「人魚姫の夢」とご主人の松任谷正隆氏が作ったアルバムの表題曲でもある「十月の人魚」は似ているとブログで書いたようにコロナ以後の生きづらさが映し出されている。


彼女が亡くなった当時、高校の入学式で、名鉄岐阜駅はまだ新岐阜駅だったし、岐阜バスのターミナルも汚かった。名鉄の定期券はすぐに買えたんだけど、岐阜バスの定期券を買うのに凄く待たされました。


帰宅後に見た中日新聞の夕刊で彼女が亡くなったことを知り、絶叫しました。


先にも書いたように桑田佳祐さんの「愛しい人へ捧ぐ歌」のように胸の振り子はこの日で止まってしまいました。


それは自分だけではないことを父の姿を見て知りました。


父が兄貴のように慕った人の死後、父は奥様と一人息子さんに迷惑をかけるからとあえて縁を切りました。


私の場合、離婚後子供がいなかったのと向こうの家族がモラハラ気質の強い人間で機能不全家庭ということもあり縁を切りました。住んでいた美濃市も観光でさえ行けません。


父も私も母の死で心の振り子が止まったけど、ふたりで支え合って生きていますと言うより生きるしかないんです。


彼女のお墓のある愛知県愛西市は我が家から車で1時間半かかる場所です。高速では行きづらい場所です。墓石には画家になる夢と絵を描きにもう一度スイスに行きたかったと書いてあります。


私もイラストレーター希望で、日比野克彦氏の母校でもある加納高校の美術科に行きたかったけど、勉強でつまづきました。


実はメンタルクリニック受診時に私は発達障害の検査を受けました。受験戦争と校内暴力のあおりで管理教育になってしまった結果が発達障害やHSPのように繊細すぎる性格の子供が生きづらい環境を生み出してしまいました。30年前に羽島市で起きた女児が殺害された事件も加害者がいじめが原因で引きこもりだったということから発達障害でないのかと思うようになりました。


何故このようなことを思うようになったかというと、姪が自閉症スペクトラム障害だからです。


大尊敬するジャズピアニストの大江千里さんの言葉を借りますが、子供が親や教師に支配されず、自分の生き方を自分で決める世の中になって欲しい。友達に裕福である反面、父親に絶対服従の家庭に育ったストレスから問題行動を起こしたのを見ているからです。


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「だんちょね」と「アイライク演歌」が言いたかったこと。

2024年01月11日 23時11分45秒 | ももちゃんソングブック
今年は新年早々から地震のニュースだけではなく、2日前の八代亜紀さんの訃報もショック だが、それ以上に ショックを受けたのが冠二郎さんの訃報である。


お話をするとX(旧Twitter)には 書ききれないぐらい思い出があるからだ。


今から17年前の暮れに 桑田佳祐さんの呼び捨てツアーのチケットが自宅に届き、 それが アリーナ1列目だったことで亡くなった母と二人で大騒ぎした。


その後ネットのスポーツ新聞の記事で、そのライブの 大阪公演の模様が写真入りで掲載していて、それもド派手なスーツ姿だったので、それを 「次は白いタキシード?」というタイトルでブログのネタにしたところ、仲良くなった サザ友さんがブログに「衣装が冠二郎化してきたような・・・またはベンジャミン伊東こと伊東四郎。植木師匠の影響か?」
「やっぱり、名古屋は白スーツの腐乱苦品寅(フランク・シナトラ)で来るのか。」とコメントしたことで冠二郎という人に興味を持った。


当時私は介護の仕事を始めて2ヶ月足らずで、移乗介助もおむつ交換も入浴介助もうまく出来ず、下手すると大事故寸前ということもありました。チケットが届いた日の夕方にルンルン状態でパソコンで音楽を聴いていたら職場から電話がかかってきて、職員が自宅で転倒して骨折したので急遽勤務を変わって欲しいと言われ、はしゃぎすぎたのか風邪をひいて苦しい思いをしながら勤務を乗り切りました。


ライブ当日、前日の模様を報じる中日スポーツの芸能欄にド派手なシルバーのスーツ姿で歌う桑田さんの写真を見て「こんなもんアリーナ1列目で見たらおしっこもらすぞ。」と名古屋に向かう電車の中で見て、東急ハンズなどに行ってからライブが行われる日本ガイシホールに向かい、中に入ってから緊張してトイレに2回行き、そんな中で私がアリーナ1列目で見た桑田佳祐さんは冠二郎じゃなくて白いジャケットに下はクレリックシャツに黒パンツでした。


おそらくシルバーのスーツだったらおしっこちびる以上にコーフンしすぎて鼻血ぶーでした。


その5年後に見た桑田さんは鯉のぼり模様のスーツ着ていました。


冠さんと言えば衣装が派手で、職場で利用者様の介助をしながら見ていた音楽番組で電飾の付いたスーツ着ていたし、仕事柄とサザ友さんがきっかけで冠さんが出る音楽番組は必ず見ていたし、その話もブログで書いていました。


特に「炎」は演歌のイメージを変えた曲として知られ、小堺一機さんと関根勤さんの「コサキン」やナインティナインの番組に出演したことで若者のファンが増え、演歌歌手初のインストアライブも行いました。


平成12年に氷川きよしさんがデビューし、純烈やビタミンボイスとけん玉がトレードマークの三山ひろしさんや王子様みたいなコスチュームの山川恵介さんなど個性の強い演歌歌手が増えたのも冠二郎さんの影響が大きいと思います。


余談ですが山川さんと呼び捨てツアー当時桑田さんを含めサザンのスタイリストを担当していたのが岩崎さとみさんだったというのも驚き。


ブログのタイトルにもなった「次は白いタキシード?」はその年に放送したダンディハウスのCMでブラックタイ指定のパーティーなのに白いタキシード着てパーティーに参加した桑田さんがダダ滑りするというもので、そのスタイリングを担当したのが岩崎さん。似顔絵のネタにもなり、似顔絵コンクールで佳作となって携帯電話の待受にしたら仕事が決まったので別名「幸運を呼ぶ白いタキシード」と呼んでいます。


演歌歌手でブレークするのに四半世紀以上かかったことや年齢詐称やヅラ疑惑などいろいろありました。


コサキンの番組で自分のことを「ホイットニー・ヒューストン」だと思っていた発言や「ごきげんよう」で洗濯をしてから洗濯用の洗剤で身体を洗っていたという天然エピソードも。


埼玉在住のサザ友さんに同郷の冠さんの訃報の話をポストしたらイベントで鎧を着て「ムサシ」を歌っていた思い出話をされていました。


八代さんの訃報でそのサザ友さんが「今年はまだ10日目ですが、今後、演歌・歌謡曲界のドミノになりそうで背筋が冷たい…。」と述べていました。


5年前から入退院の繰り越しで、2年前にシングルを出して以後表舞台には出ていなかったという。


八代さんと冠さんの訃報は今後の演歌歌謡曲にかなり影響が出る。


坂本冬美さんが桑田さんとコラボで作った「ブッダのように私は死んだ」のような曲を作っても限界はある。


八代さんがフジロックに出演されたように演歌歌手がフェスに出るのも難しい。


これは「作る側」「歌う側」「ファン」も考えなければいけない。


最後に八代亜紀さんと冠二郎さんのご冥福をお祈りします。
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王子様は待っても来ない。

2023年11月28日 23時45分28秒 | ももちゃんソングブック
本題を前に布袋寅泰さんのライブの話は後程。


久々に布袋コールの中でのライブで、気合い入れ過ぎてヘルニアは出るし、サザンや桑田佳祐さんのソロライブ以上にエネルギー使いました。


本当だったらライブのあった日曜日から明日まで休みの予定が、夜勤専属兼ケアマネの職員の腰痛で有給の分が減らされて明日から仕事です。


先月のユーミンさんのライブ以後「人魚姫の夢」という曲をヘビロテしていた時期がありました。


「スペクタクルシャングリラⅢ」のDVDだけでは物足りず、シングルを買い、アマゾンのブラックフライデー狙いでこの曲が収録されているアルバム「そしてもう一度夢見るだろう」を買いました。


それも桑田佳祐さんとユーミンの「Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)」が収録されている「ユーミン乾杯!!」を予約しなければいけないのに、「〇〇スーパーセール→そのチームの選手が後輩選手に対するパワハラがあったので伏せています。」があるからいいやと「そしてもう一度夢見るだろう」を優先しました。


シングルとアルバムでは若干アレンジが違っていて、バックミュージシャンに桑田さんのソロライブではお馴染みの河村カースケ智康さんが参加されています。


シングルとしてリリースされたのが「スペクタクルシャングリラⅢ」の後ですが、真面目に聴いたのがJOURNEYツアーの後で羽生結弦選手の結婚→離婚の加熱報道以後「いつかあなたはやってくる深い涙の底へ私を目覚めさせるためにやがて薔薇色の朝になりあなたはささやくのよ哀しい夢だったと」の歌詞が「あなたの王子様(夢=自分の推し)は待っても来ない、結婚したこと(現実)を受け入れないことは心が狭い」というメッセージなのかもしれない。


明石家さんまさんも浅田美代子さんに「俺達の夢が嫁に突然なってしまって」
「それで夢が帰って来たと思ったら悪夢となって帰ってきた」とぼやいたのと同じだと思った。


この曲が生まれたのもユーミンさんの御主人でもある松任谷正隆さんがプロデュースし、亡き岡田有希子さんのアルバム「十月の人魚」に収録されているアルバムタイトルでもあるこの曲で、正隆さんが作曲とアレンジをされています。


も大江千里さんに沼落ちしすぎて親がライブに行くのをやめさせたいがために見合い話を矢継ぎ早に持ってきたらダサい男ばかりだったというようにバンドブームの頃の音楽雑誌の投書欄に当時は25歳までに結婚出来ないといかず後家になるという呪縛と世間体から親がバンドの追っかけをやめさせたいがために見合い話を持ってきたら農家のブ男だったというのもある。(これ実話です。)


私は「人魚姫の夢」で現実を知った。30年前の自分に「王子様は待っても来ない」と言いたい。


私がギャグでアミューズの中西正樹社長のことを王子様にひっかけ亡き歌手のプリンスに似ているので「社長じゃなくて社長殿下(プリンスのファンは彼のことを殿下と読んでいるから」と呼んだほうが良いと言っていますが、それとは違います。


かっての自分が大江千里さんに沼落ちしすぎて結婚しても上手く行かずに離婚して、介護福祉士という国家資格を持っても正社員になれたのは3年前で母亡き後父とふたりで生活しています。


弟も40歳近くで結婚して、結婚7年目に義妹の妊娠が解り、41歳での高齢出産でした。


「人魚姫の夢」は日本人(特に女の子)の生きづらさが歌詞に出ている。


もうすぐ12月になり、母亡き後に自分はどこまで生きることが出来るんだろうという不安と恐怖と闘っている。天皇陛下が園遊会でユーミンさんに推しソングが「翳りゆく部屋」だとお話されたように人間の生きづらさを描いた曲にこそ魅力があるのではと思います。


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愛は勝つと平成3年。

2023年11月19日 23時29分11秒 | ももちゃんソングブック
本題を前に26日の布袋寅泰さんの名古屋センチュリーホールの電子チケット無事に何とか受け取ることが出来ました。(その代わり設定で四苦八苦しました。)


17日にKANさんが亡くなったというニュースが流れました。


彼は東京に住む仲良しのいとこと同学年で、昨年の60歳のお誕生日に振り袖を着て撮影したというエピソードの持ち主で、告別式に本当ならこの写真の等身大パネルを置く予定が祭壇に写真が飾られていたという。


KANさんと言えば「愛は勝つ」ですが、この曲がヒットした平成3年は大手菓子メーカー勤務3年目で、バブルが弾けたとは言えども平和ボケ出来る環境でした。


その年の2月に会社のイベントで故萩原流行さんが主演のミュージカル鑑賞とパーティーと東京ディズニーランドの旅行があって贅沢三昧でした。


ボーナスもたくさん貰えました。


東京ディズニーランドも会社のイベントを含めて3回行っていました。


CDやレーザーディスクも毎月10000円ほど名古屋のヤマギワ(今のソフマップ)で買っていました。


服もデパートでしか買いませんでした。


父が会社経営をしていたので軽自動車から日産パルサーになりました。


しかし…。


中学高校と自由がなく、人間関係に苦しんだ私は職場に居場所はありませんでした。


母が干渉する人だったので一方的に自分は愛されていないと思っていました。


特に中3の時に担任の先生が厳しくて、自分は辛いことに耐えれたから強い子なんだと思っても抑圧された反動が出てしまいました。


馬鹿騒ぎして面白い子として扱って貰いたかった反面、会社に不満を持っていました。


その年の12月に職場の食事会に自分が誘われなかったことから自分は職場でいらない人間だと思いこんでしまいました。


後でそれは誤解だったのですが、騒動を起こしてしまいました。


当時の職場は12月は休めないのですが、2日休んで名古屋の松坂屋で高いセーターを買ってしまいました。


今だったら首案件です。


でも、両親はズル休みしたことを責めませんでした。


大江千里さんのライブを観に大阪城ホールに行くためにズル休みしたときもです。


平成3年という年はバブルが弾け、湾岸戦争が起きた年でもありました。その影響が翌年に出ました。


父の仕事も阪神大震災後に影響が出ました。


そういう年だったからこそ「愛は勝つ」はヒットしたのではと思います。


この曲がヒットした20年後に東日本大震災が起き、コロナの感染で日本中が沈んでいるときには応援歌になりました。


大江千里さんの好きな私に取ってKANさんと槇原敬之さんは脅威的存在でもありました。千里さん自身平成2年で人気の限界を感じたとインタビューで話していました。


最後にKANさんの御冥福をお祈りします。

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日本一の名曲王でも下ネタ王死す。

2023年10月16日 22時01分25秒 | ももちゃんソングブック
松任谷由実さんの日本ガイシホール公演まで1週間切ったのに何も出来ず、子供の頃から親しみ、思い出もたくさんあった岐阜の高島屋が閉店し、岐阜県から百貨店がなくなるというニュースを聞いて言葉が出ないほどショックを受けています。


今日の早番勤務の後でスマホを見たら谷村新司さんが亡くなったことを知りました。


アリスやソロだけでなく、三浦祐太朗君の母親でもある山口百恵さんの「いい日旅立ち」や24時間テレビの「サライ」や高校野球ファンには選抜大会の大会歌「今ありて」鉄道ファンにはJR西日本のCMにも使われた「三都物語」があります。


特にソロで歌われた「昴」はオーケストラをバックに歌われる壮大な曲でもあります。


それ以上に谷村さんと言えばビニ本マニアと「天才・秀才・バカ」での危険な下ネタ。


アリスの代表曲も「帰らざる日々」→「帰らざる髪の毛(谷村さんの髪の毛が薄くなりだしたから)」と「遠くで汽笛を聞きながら」→「遠くでおならを聞きながら」と「チャンピオン」は下ネタになるので言えません。


この番組ではばんばひろふみさんがいじられるのがお約束です。


詳しいことはウィキペディアの「天才・秀才・バカ」の項目を読んでください。今だったらアウトなネタが多いです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%89%8D%E3%83%BB%E7%A7%80%E6%89%8D%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AB


番組ネタの豆本もありますが、アマゾンやメルカリで高値付いています。私が読んだのはさだまさしさんまで下ネタでいじられていました。


当の本人はコサキンで「このコーナーを真似たものがメディアを問わず多数出てきたものの、一時的なものも含めてほとんどが失敗に終わっている」と述べていたけど、谷村さんが桑田佳祐さんの翌年に春の叙勲で紫綬褒章を頂いたとき真面目に「天才・秀才・ばかと桑田佳祐のやさしい夜遊びではどっちが酷いか」という話で盛り上がったことがある。


「やさしい夜遊び」では今のアミューズ中西正樹社長のマネージャー時代の恥ずかしい武勇伝が暴露されていました。


ラジオはテレビやインターネットやSNSより身近な情報ツールであることも大きい。


本来なら今年でアリス50周年でツアーの予定が谷村さんの急性腸炎の手術で来年に延期になった矢先の訃報でした。


「昴」は職場の音楽療法でも歌いました。


谷村新司さんは名曲王でもあり、日本一のエロ&下ネタ王でもありました。


御冥福をお祈りします。

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24年ぶりの遊佐未森ライブ。

2023年05月19日 22時47分48秒 | ももちゃんソングブック
5月13日にジプリとアニメージュ展を見た話でいっぱいいっぱいになったため遊佐未森さんのライブの話は後回しになりました。


彼女のライブに行くのは24年ぶりです。


今の生活になってからは行こうと思えば行けたのですが、ライブは多くて2回が限界だし、サザンや桑田さんのツアーが入るとそれが優先でした。


10月にユーミンの50周年ツアーの日本ガイシホール公演が取れ、サザンの45周年ライブも確定しないのにチケットを取ったのは父親の年齢的に今がライブを見るチャンスだったからです。


あと17時スタートで夕食食べても22時に岐阜に戻れることも大きいです。


今回のライブはカフェミモというキャパ500人以下の小さい会場が主のツアーで、24年前に行ったのが鶴舞公園の中にある愛知県勤労会館で、老朽化もあって10年前に閉館になりました。


今回のライブは千種文化小劇場というキャパ250人程度の会場でした。


それもライブハウス(ダイヤモンドホール)並みの会場は約26年ぶりです。


ここ行くの初めてで、行き方を間違えそうになりました。


到着したのが開演25分ほどで、桑田佳祐さんのソロツアー以来の電子チケット入場でしたが無事に入場出来ました。


セットリストはこちら。

春の雨
ミント
森とさかな
夢見る季節タルトタタン
潮騒
川(リコーダー演奏あり)
街角
Here Comes the Sun (ビートルズのカバー。桑田佳祐さんが「音楽寅さん」の「アベーロード」で歌っていました。)
アラビアの唄
一粒の予感
恋はやさし野辺の花よ
雲の時間
野の花
午後のかたち
瞳水晶(このあたりだったような)
夏草の線路

アンコール
風が走る道(ゲストにサポートの楠さんと同じバンドのくじらの杉林恭雄さんが参加。)


未森さんに関してはエピック時代が一番良かった反面、後で知った事実で平成11年頃に体調を崩したことで海の近くに引っ越したという。その年に結婚前提で交際(後に結婚→離婚)していた人がいて、結婚を機にいろんな事情でライブに行けない状態となり、離婚翌年にサザンのナゴヤドーム公演に行くまでライブは6年ご無沙汰でした。


私自身もライブは桑田さんの5倍返しツアーに行けるまで3年半諸事情で行けなくて、配信も見る時間にお風呂の関係でアーカイブでということがありました。


アニメ同様にライブ行くのもお金がかかる道楽で、私の場合は高校を卒業するまでライブなんて行けなかったからその反動が出て、周囲が結婚したのと「女の子は25歳までに結婚しないといけない」という呪縛もあり、仕事のストレスや親の見合いしろプレッシャーで体調を崩して6年勤務した大手菓子メーカー辞めた後で、多額の退職金があるのを良いことにライブ行こうとしたらライブの日と見合いの日がダブルブッキング状態で、ライブを優先したことで親子関係険悪になりました。


カミングアウトになるけどそのことも結婚しても上手く行かなかった一番の原因でした。


名古屋に簡単に行ける地域から名古屋に行くのが簡単じゃない地域に住んでいたストレスもありました。


結婚で制限の多い生活をした経験ゆえに一部サザンファンのライブに関する発言についてはあまり良くない見方をしています。


自分自身横浜アリーナに行ったので言うのですが、サザンや桑田さんの年越しライブは地域的以上にさまざまな事情で行けない人のほうがむしろ多いんですよ。


父が来年免許返納なのでライブに行くのも再来年あたりが限界なのかなと思います。


自分自身が年寄り相手の仕事をしているので心配だからです。


今回は19時終了で、帰りにビックカメラで買い物して、夕食食べて22時までに戻れましたが、それがなかったら21時帰宅になっていました。


こういったことをふまえ、日曜祝日公演は遅くとも16時スタートで、グッズ等の購入もネットで注文してあとは会場で引き取りのシステムにすべき。


最後に元阪急の福本豊氏の名言ではありませんが「加古川から向こうの人が帰れない」にもあるように遠方に住んでいる人が安心してライブやスポーツ観戦に見に行けれるようにしていただきたいです。


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教授のアホアホマンの兄貴は桑田さんのチャン・ソングス以上でした。

2023年04月06日 20時57分27秒 | ももちゃんソングブック
4月2日に教授こと坂本龍一さんが亡くなったというニュースが流れた。


亡くなった日が弟の51歳の誕生日というのにショックを受けた。


それも高橋幸宏さんが亡くなった2か月後に…。


YMOは細野晴臣さんひとりになってしまいました。


新聞では教授の訃報記事が一面に載っており、岐阜とも関わりがあり、加子母村に住みたいと言ったくらい岐阜の町が気に入っていました。


教授という仇名と学生結婚した最初の奥様との離婚の原因がDVだったのと芸術家特有の性格ゆえに女性関係も派手で、気難しいイメージが強いですが、音楽番組には余程のことがない限り出ないのに、バラエティ番組やお笑い番組には喜んで出たという。


「THE MANZAI」ではYMOの3人で「トリオ・ザ・テクノ」という名前で漫才をやり、「オレたちひょうきん族」では三匹の侍のコントをお正月スペシャルでやりました。


昭和58年に「戦場のメリークリスマス」に俳優と自ら大島渚監督に志願して音楽を担当し、ソロとしても世界中に名が知られ、化粧品会社のCMソングとして使われた「君に胸キュン」も大ヒットしたものYMOは散開(あえて言う)。


その後は自身も出演した「ラスト・エンペラー」でアカデミー音楽賞を受賞し、その翌年にはグラミー賞を受賞しました。

ソロでもひょうきん族に出演し、ひょうきんベストテンではおさむちゃんに苦笑いし、タケちゃんマンのコントで明石家さんまさん扮するひまわりが乗った台を蹴飛ばしていました。


同級生に小学生の時からのYMOのファンがいて、その同級生の影響でNHKFMの「サウンドストリート」のデモテープのコーナー(私はこの番組でデモテープという言葉を知った)にYMOの「東風」に歌詞を付けてオルガンを弾いて歌うというのでその内容が大学受験不合格で浪人になったことを嘆くというもので、それが面白いと話したらいい顔をしませんでした。


どうしてかというと彼女の父親は中学の音楽の先生で管理教育に異議を唱えたためにヤンキーの多い学校に左遷され、周りがエリートばかりで、出来て当たり前を強制される教育を受けたからです。


平成5年にYMOは10年ぶりに復活し、アルバム「テクノドン」と東京ドームでライブを行いました。


その時もしっかり「とんねるずのみなさんのおかげです」のモジモジ君コントをやっていました。


そして「あのふたり」と出会います。


ダウンタウンの浜田雅功さんと松本人志さんです。


ふたりのファンである教授は「GEISHA GIRLS」としてプロデュースしました。


メンバーにはサウンドストリートのデモテープに投稿したティ・トウワさんもいました。


プロデュースするだけではなく、「ガキの使いやあらへんで!!」の罰ゲームで浜ちゃんが教授の住むNYにシャープペンを取りに行く(消しゴムも)という理不尽なものもありました。


忘れていけないのが「ごっつええ感じ」でのアホアホマンの兄アホアホブラザーです。


弟同様に汚れたパンツをはいて登場し、おっぱいをもまれてピアニカで戦メリのテーマ曲を演奏していました。


それ以上なのが浜ちゃんがライオンの父親で、仔ライオンにスパルタ教育をするコントで仔ライオンをボコボコにしていたら中が教授で返り討ちに遭いました。


ちなみに浜ちゃんの息子さんでOKAMOTO'Sのハマオカモト君は星野源さんのサポートメンバーとしてなくてはならない存在で、星野さんの布施明さんのパロディキャラニセ明に対抗してハマ君は細野晴臣さんのパロディキャラウソノ晴臣を演じています。


星野さんのアルバムの特典映像でニセ明とウソノ晴臣と声優の宮野真守さん演じる光GENJIの諸星和己さんを意識した雅マモルが旅行に行くというのは大爆笑しました。


私は桑田佳祐さんのコスプレとものまねが大好きで、そのことを「やさしい夜遊び」に投稿したら本人を大赤面させ「あれは武装です!」と言われました。


桑田さんと言えば昭和57年の紅白歌合戦でやった故三波春夫さんをド派手な着流しに白塗りメイクでやったときは大顰蹙を買いました。


三波春夫コスプレで免疫が付いたのか桑田さんがどんなコスプレをしようがものまねをしようが動じなくなった反面、ダンディハウスCMで白タキシードでダダ滑りし、紅白の30年後にサントリーのマッコリのCM同様に白衣装と長髪のヅラでチャン・グンソクさんのパロディキャラのチャン・ソングスなる人物を演じたのを見たときはテレビの前で頭抱えていました。


その後の全国ツアーで鯉のぼり模様のスーツ着て登場したときは生理痛がぶっ飛びました。


気難しい一面を持ち、政治的な発言も多い彼でしたが、子供達に音楽を教え、自然と触れ合う姿は優しい目をしていました。


加子母は父が材木の仕事をしていた関係で行ったことがあります。そのことはわすれないようにしたいです。


教授には学校の先生以上にいろんなことを教えてくれました。


ご冥福をお祈りしますというより、ありがとうという言葉を送りたいです。


最後に6月の新潟行きは父と行くことになりました。そのあたりの話は後ほど。

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桑田佳祐さん「わい!えむ!おー!あれ?」

2023年01月17日 22時46分26秒 | ももちゃんソングブック
高橋幸宏さんの訃報でこんなことを思い出した。


それは桑田佳祐さんの「ILOVEYOU〜now&forever〜」ツアーで「波乗りジョニー」の前に何故か故西城秀樹さんの「ヤングマン」を歌うんだけど、途中の「YMCA」のふりで「YMO」では片山さんがドヤ顔で「ライディーン」のメロディーを演奏し、スクリーンに「高橋幸宏さん、還暦おめでとうございます」と出て、「YAZAWA」の時は自身もサポートメンバーだった深町さんが「止まらないHaHa」で客席がタオル投げ!!「YUMING」では金原さんがアホの子丸出しボイスで「恋人がサンタクロース」を熱唱の後で「波乗りジョニー」のイントロが流れて盛り上がるというもの。


ちなみに桑田さんと幸宏さんは仲良しで、彼の病気療養中に奥様の原由子さんと夫婦連名で「偉大なる尊敬する高橋幸宏様。大好きなゆったんに逢いたいなあ!!お帰りお待ちしておりますので。佳祐由子」と書いたメッセージカードを送り、幸宏さんのインスタに掲載されていました。


桑田さんのメッセージカードの願いは叶いませんでした…。


SNSではYMOを聴いた世代のお悔やみメッセージがいっぱい掲載されていました。


水木しげる氏の娘の原口なおこさんがアニメ以外のLPレコードで初めて買ったのがYMOだったとツイートしていました。ちなみに私はサザンの「人気者で行こう」です。


私はいわゆる「YMOチルドレン」世代で、彼らを初めて知ったのは昭和55年の小学4年生の時でした。


アニメが好きで田原俊彦さんを王子様だと思っていた私はYMOの音楽を聴いたときカルチャーショックを受けました。


テレビの音楽番組よりバラエティ番組には喜んで出演し、「ひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」のエンディングの大騒ぎの中でしれっと登場し「ミュージック・フェアのスタジオはどこですか?」とたずねるもの。


このほかに3人で「トリオ・ザ・テクノ」なる漫才トリオで登場したり、時代劇コントもやっていました。


幸宏さんに関してはサディスティックミカバンドの再結成時は高中正義さんと桐島かれんさんの3人で取調室コントに飛び入り出演していました。


昭和60年以後番組が終わるまで夜のヒットスタジオの本番とひょうきん族の収録日が同じ水曜日で、夜ヒットの本番前にひょうきん族の収録の見学をしていて大江千里さんのように無理矢理コントに飛び入り出演させられたこともありました。


You Tubeには取調室コントのはないんですよ…。モジモジ君のはあるのに。


幸宏さんの訃報以後急に音楽の配信サイトで「ライディーン」の2バージョンと「君に胸キュン」とサディスティックミカバンド再結成時の「ボーイズ&ガールズ」をダウンロードしてしまいました。


幸宏さんはYMOの良心的存在で、特に坂本龍一さんはダサい服装だったのをスタイリッシュなものにし、教授というニックネームの考案者でもあります。


教授もがんの末期で今日の誕生日に新しいアルバムが出ました。


YMOの最高傑作のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」はCDがAmazonで高値が付いています。原口なおこさんが買ったのもこのアルバムでした。


「ライディーン」はドコモの携帯電話の着信音の定番で、私が初めて持った携帯電話がF207で、人気のPやNのように着信音が作れない機種でしたがしっかり「ライディーン」が収録されていました。


片山敦夫さんがどや顔でキーボードを演奏していたのが懐かしいです。


「ライディーン」は高橋幸宏さんの最大の遺産です。


高橋幸宏さんのご冥福をお祈りします。

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あれはユーミンの武装です。by桑田佳祐。

2022年12月17日 21時28分37秒 | ももちゃんソングブック
先週ボーナスが出たので楽天スーパーセールを利用して桑田佳祐さんの「がらくた」ツアーと松任谷由実さんの「SPECTACLE SHANGRILA Ⅲ」のDVDを買ってしまいました。


桑田さんとサザンに至っては音楽ソフトに対しては6年前にDVDからブルーレイに移行していますが、車がナビドラレコ対応となり、CDよりライブDVDを聴きながら運転するのが楽しみになりました。


しかし、ユーミンさんの「SPECTACLE SHANGRILA Ⅲ」だけは車で再生するにはもったいない迫力がある。


このライブDVDを購入するきっかけが彼女のデビュー50周年を記念したベストアルバム「ユーミン万歳」で、You Tubeで過去のライブの映像が公式チャンネルで見ることが出来るというので一番インパクトが強かったのがこのライブでした。


桑田さんの呼び捨てツアーのときのシルバーのスーツ(私がアリーナ1列目で見た時は白ジャケットに黒パンツのフォーマルスタイル)やILOVEYOU〜now&forever〜ツアーの鯉のぼりスーツも真っ青なド派手衣装で当時53歳(平成19年のライブです。)なのにマジシャンみたいな衣装でホットパンツにニーハイブーツで歌っているし…。


それ以上なのがこのライブがコンサートとサーカスの融合というもので12秒でステージがプールになり、ユーミンの周りでアースティックスイミング(当時はシンクロ)のパフォーマンスをやるというのが凄い。


「時のないホテル」では男性ダンサーのアクロバットが半端なく、スイングプレートに乗っていたユーミンが消えた後に高い位置からダンサーがダイブしたときは悲鳴が上がっていました。


本編ラストは「真夏の夜の夢」で盛り上がっておしまいですが、メンバー紹介の後でユーミンが水面に花を手向けるとシンクロの世界選手権金メダリストのウィルジニー・デデューさんが登場するラストが強烈でした。この他にシドニーとアテネオリンピックの銀メダリストの武田美保さんも出演していました。


ユーミンのライブはステージに象が登場したり、エレベーターやたくさんのテレビモニターから人が登場したり奇抜な演出でも知られていますが、SPECTACLE SHANGRILAは平成11年と海外公演も行われた平成15年とラスト公演は平成19年に行われましたが、お金がとんでもなく(50億円かかったとも)かかるのと諸事情で3回でおしまいになったという。


桑田佳祐さんの「やさしい夜遊び」で私が「桑田さんといえば『コスプレ』でしょう」と投稿したのが採用されたときに真っ赤になって照れて「よく見てるねえ」「あれはコスプレじゃなくて武装です!」と発言。


言い替えれば西川貴教君のあの衣装も松田聖子ちゃん(とあえて言う)のフリフリドレスもビートたけし御大のカブリモノもコスプレじゃなくて武装と言うことで(笑)。


桑田さん、ユーミンさん50歳過ぎてもホットパンツにニーハイブーツで歌っているんだけど。


ユーミンさんのあのお衣装はユーミンさんなりの武装というわけで…。


ユーミンさんのサポートメンバー経験者で「エヴァンゲリオン」の主題歌「残酷な天使のテーゼ」を歌った高橋洋子さんが一番有名ですが、個人的には大江千里さんや浜崎あゆみさんのサポートメンバーとして活躍した濱田美和子さん(父親は元阪神の松木謙治郎氏)や彼女の後任でサザンや桑田さんのソロライブでお馴染みの清水美恵師匠のイメージが強いです。


濱田さんが浜崎あゆみさんののサポートをしていたこともあり、彼女がやりたかったのはユーミンのライブのようなことだったのかも。


来年のデビュー50周年ツアーの後期日程も発表され、私はユーミン万歳の特典でチケットの優先権を持っています。


本当は前期日程で発表された来年8月の日本ガイシホール公演をエントリーする予定でした。アルバム購入当時県外どころかライブに行ける目処が立っていなかったのと来年のサザンデビュー45周年ライブが新国立競技場で開催することを考えてエントリーしませんでした。


ユーミンのライブ=敷居が高いというイメージが強くて、カルビーの時代にたくさんのボーナスをもらえても彼女のライブは行く勇気はありませんでした。


エントリーは来年の2月です。



問題は当選した後です。





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60歳を過ぎても歌えるというのは凄いこと。

2022年09月06日 22時25分08秒 | ももちゃんソングブック
4日に桑田佳祐さんのベストアルバムと宮城と5大ドームを含めたツアーが発表されましたが…。


今年も介護職という立場ゆえにライブ行けません。


中津川のソーラー武道館も布袋寅泰さんが出るので見に行きたいと思っていたけど、同じ岐阜県とはいえども中津川までは遠いので断念しました。


6月の高山と下呂温泉は家のリフォームの関係で実現できた旅行で、出発前に感染者が出ていたらキャンセルでした。


昨年のツアーはほとんどが体育館レベルの会場で人数制限があったのでチケットを取るのが困難でした。


それ故ファンを大事にする桑田さんゆえに急遽ドームツアーが発表されたと思う反面、彼がコロナウィルスに感染したことで無理しないで欲しいというのと不安感の強いファンが「桑田さんが生き急いでいる」と言い出してしまいました。


冷静に考えてみたら体調に問題があったらツアーなんて出来ない。


そして今日は大江千里さんのお誕生日で、関西学院大学でのバースデーライブの配信を楽しみにしていたらトラブルで見れなくなってしまいました。


千里さんの誕生日を記念してツイッターの挨拶ネタも千里さんでした。ファンの人と「私が千里さんのファンになれたのは桑田さんのおかげ」とツイートしました。


でも、ファンになったのはひょうきん族です。


千里さんは平成19年を最後にシンガーソングライターとしての活動から身を引き、翌年に渡米して音楽大学でジャズを学び、大学卒業後の平成24年にジャズピアニストとして再デビューしました。


その裏で日本ではアリーナスタジアムクラスの会場をいっぱいに出来てもアメリカでは認めてもらえませんでした。


千里さんがジャズピアニストとして再デビューした年の桑田さんは2年前に食道がんが見つかり、歌手としての活動は難しいのではないかというピンチの中で難しい手術を乗り越え、翌年の東日本大震災半年後の宮城ライブで復活し、ソロデビュー25周年のベストアルバムとツアーが行われ、鯉のぼり模様のスーツ姿で登場するオープニングは凄かったです。


今年は8月の終わりに矢沢永吉さんが前年の東京オリンピック後初の新国立競技場でのライブが行われ、桑田さんが悔しがっていました。


矢沢さんはもうすぐ73歳になります。


そういうことを考えると60歳を過ぎても歌えるというのは凄いことなんだなと思う。


千里さんは47歳でシンガーソングライターとしての活動から引退したのだから。


立場上見に行けないのが悔しいとかこれから何を頑張ればいいんだろうという気持ちになったけど、15年前の自分のようにお金も仕事もない先の見えない状態でがんばっていた気持ちが必要なのではと思いました。


最後におおたか静流さんのご冥福をお祈りします。20代の頃彼女の歌声に救われました。


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