平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読了しました。
知りませんでしたが、映画化もされているようです。
恋愛小説というくくりになるのでしょうが、それだけではありません。
天才クラシックギター奏者である蒔野とジャーナリストの洋子の関係性を軸に物語は構築されています。
そこには天才音楽家であるための恍惚と苦悩が語られ、ジャーナリスト故の世界の出来事に対する一種の憤りみたいなものが色濃く描かれます。
恋愛小説と言っても、若い人のそれではなく、38歳の男と40歳の女、中年同士の恋愛です。
ただし、二人とも独身なので不倫というわけではありません。
もっとも、洋子はアメリカ人の男と婚約していますが。
二人はたった3回会っただけで、互いに激しく魅かれあいます。
しかし、蒔野を慕うマネージャーの女の偶然が招いた策略により、二人はボタンの掛け違いから、相手から疎まれるようになったと感じ、4度目の逢瀬はおあずけとなります。
その間、二人はそれぞれに恋をして別の相手と結婚し、子供をもうけます。
そのままなら、昔の恋の思い出として終わったのでしょうが、マネージャーの女は罪の意識に耐えられず、夫にも洋子にも何年も前の策略を告白してしまいます。
しかし蒔野も洋子も、それぞれに忙しく、また家庭を持つ身になっています。
洋子はアメリカ人の夫と離婚していますが、二人の間の息子とは定期的に会っています。
現在は現在であり、過去は変えられません。
二人はたった3回の逢瀬を胸に、熾火のように恋心を持ち続けているわけです。
私は今過去は変えられない、と書きました。
しかし蒔野と洋子は出会ったばかりの頃、以下のように語り合います。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか。
含蓄に富んだ言葉だと思います。
私たちは常に過去を変えながら生きているのだとしたら、過去に囚われる必要はないし、囚われてはいけないと思います。
二人が出会って5年半。
逢うことが無くなって何年も経っています。
しかしその長い時間の後、蒔野がニューヨークで行った演奏会に洋子は客として密かに聞きに行き、舞台上から蒔野は洋子が客席にいることを気づいてしまいます。
コンサートが終わるにあたって、蒔野は、マチネ(昼の演奏会)の後、セントラルパークの池の辺りでも散歩したいと思います、と語ります。
それは当然、洋子に向かって語られた言葉です。
そしてセントラルパークの池のベンチで、二人はついに再会を果たすのです。
物語はここで終わります。
二人の間に再び恋の炎が燃え上がるのか、互いの今の生活を守るために、懐かしい旧友として短い会話の後にそれぞれの道を歩むのか、語られることはありません。
中年男女の長くて切ない恋を描いて秀逸です。
ただし、平野啓一郎という小説家、あまり恋愛小説は向かないような気がしました。