昨日、今日と、ゴールデンウィークの出だしは素晴らしい天気に恵まれました。
都内の満員電車での通勤を嫌って、東京脱出を図り、千葉の職場に就職、千葉市にマンションを購入して20年が過ぎようとしています。
東京脱出を図りながら、週末になるとお上りさんになって都内各地を散歩してまわる私は、実は東京が好きなのかもしれない、と思うようになりました。
誰でも故郷には愛憎半ばする感情があると思いますが、千葉に住んでみて、あらためて故郷を愛する気持ちが増したのかもしれません。
昨日は、ふと、オリンピックをひかえて、国立競技場の工事はどの程度進んだのか見たいと思い、車を神宮外苑に走らせました。
絵画館前駐車場に車を止め、神宮外苑の森を少し歩くと、骨組みが出来上がった国立競技場が見えてきました。
なかなか圧巻です。
私が通っていた高校は神宮球場の真向かいにあり、30数年前、私は毎朝毎夕このあたりを歩いていたのが、信じられないくるらい昔に感じられるとともに、当時にタイムスリップして、あらゆることに悩み、厭世的になっていた美少年に、思いどおりにはいかないけど、未来はそう悪いものではない、とささやいてあげたくなりました。
日本青年館も移転して新しくなっていました。
その後、青山通りに出て、、青山周辺の小じゃれた町を散策。
他人の車ですが、おそろしく古いスポーツカーがとまっていて、目を奪われました。
途中、とろろ蕎麦を食い、表参道へ。
さすがに表参道ヒルズ周辺は多くの人で賑わっていました。
神宮外苑から青山あたりは、都内でも最も美しい町と言えるのではないでしょうか。
その代わり、都会らしい猥雑さはあまり感じられず、それが物足りないと言えなくもありません。
ただわけもなく憂鬱に沈みながら、30数年前、このあたりを学校帰りに散歩したものです。
今はすっかりおじさんになり、憂鬱こそ我が人生の本質と知り、そうと知れば逆に憂鬱を感じない、鋼の精神を身につけたように思います。
懐かしくも気持ちの良い散歩でした。
年度あたまで忙しい日々が続いています。
この時季、いつも、職業選択を誤ったのではないか、という思いに駆られます。
もちろん、ブラックな職場というわけではありませんが、日々、つまらぬ仕事に追われていると、職業選択のみならず、あらゆる場面で、右か左か迷った時に、いつも間違った選択をしてきたような、奇妙な気分に囚われ、苦しみます。
荒川ケンタウロスの「アンセム」という歌で、二人が歩んできた道は正しかった気がして、というフレーズがあります。
よどみに浮かぶうたかたは | |
ハピネット | |
ハピネット |
一方、さだまさしの「主人公」という歌では、昔を振り返って、あそこの分かれ道で選びなおせるならって、という歌詞があります。
さだまさし 12CD-1056A | |
株式会社ワーナーミュージック・ジャパン | |
株式会社ワーナーミュージック・ジャパン |
自分の人生を正しかったと思いたいのも人情なら、人生の時の時にあたって、選びなおせるものなら選びなおしたい、と思うのもそうでしょう。
私は自信をもって、正しい道を生きてきた、と言い張りたい欲望に駆られながら、じつはそうではなかったことを、自分自身がよく知っています。
きっとこれからも、愚かな選択をして、後悔することがあるでしょう。
しかし、その選択をした時には、いつもそれが最良だと思っていました。
そうであるならば、後悔など、自身を貶める行為でしかありはしません。
内心はともかく、せめて外面だけは、後悔などせず、傲慢なまでに自信満々な態度で、世間を渡っていきたいと思います。
そのくらい格好付けなければ、やれませんから。
昨日は謎のだるさと強い眠気に襲われ、仕事を休んでしまいました。
9時ぎりぎりに起きて職場に電話し、そのまま倒れるようにベッドへ。
そのまま17時まで眠り続けました。
シャワーを浴びて晩飯を食い、19時にはまたもやベッドへ。
今朝は6時に目覚まし時計が鳴るまで熟睡。
それほど疲れている感じはないのですが。
メンタルでしょうか?
おかげで今日はひどく忙しくなってしまいました。
深く考えず、そんな日もある、と気楽に考えたいと思います。
昨日、今日と、4月とは思えない馬鹿陽気に恵まれました。
昨日は少し早いかな、と思いつつ、亀戸天神藤祭りに出かけました。
車を亀戸天神裏の駐車場に停め、歩き始めました。
例年ですとゴールデンウィーク頃が見ごろ。
しかし、昨日の時点で、すでに終っている棚もありました。
ゴールデンウィークに行ったら完全に終っているでしょうねぇ。
さほど広くない境内には大勢の人が藤を楽しんだり、的屋でカキ氷を買ったりして、思い思いに楽しんでしました。
境内の池には亀や鷺がいました。
そう長くはいられないので、ぶらぶらと錦糸町方面へ。
錦糸町の繁華街を歩き、さらに墨田公園へ。
フラダンスの大会を開いていました。
お昼はインドカレーを食しました。
それにしても錦糸町の北口は大きく変わりました。
タワーマンションが出来て、巨大なショッピングセンターができ、多くの若い夫婦が住み始めたご様子。
小さな子供もたくさんいました。
錦糸町というやさぐれたイメージとは大違い。
住んでみたい、と思いました。
歩きつかれて、タワーマンションの近くにあるタリーズでアイスコーヒーを飲んで帰りました。
気持ちの良い陽気になりました。
昨夜は課の歓迎会がありました。
今年度は、7名の方を新たに迎えました。
まことにバカバカしい宴会ですが、そもそも宴会というもの、バカバカしいものです。
一緒に酒を飲んだからと言って、業務能率の向上に資するとは思えません。
しかしながら、わが国は和を以て貴しとなすお国柄。
酒を飲んでバカ話をするのも、まわりまわって仕事がやりやすくなるのかもしれません。
本当は欠席したかったのですが、そこはバブル世代の悲しさ。
宴会と聞けば出席し、二次会でも三次会でも付き合ってしまうのは、世代のせいでしょうか?
現に、30代前半以下の者は、誘っても二次会には来ません。
一次会でさくっと帰ってしまいます。
そういうところは見習いたいですね。
昨日も40代以上の者で二次会に繰り出しました。
おかげで今日は体がだるいです。
こんなことを、26年も繰り返してきたのですねぇ。
歓迎される皆様の中には、新卒の女性もいました。
22歳。
私が就職してから5年後に生まれた計算になります。
ほとんど娘のようなものです。
年をとるわけですねぇ。
四月に入ってからの精神的落ち込みから、上司に職階の降格を願い出ました。
しかしそれは、一蹴されてしまいました。
降格人事というのは滅多にあるものではなく、私も26年間働いて実際の事例は1件しか見たことがありません。
それは仕事をせずにネットで遊んでばかりいて、仕事を溜めこんでしまった、という事例です。
私の場合、仕事上の問題は該当しませんので、心身の故障により、その職階に耐えられない、という理由にしました。
その場合、職場はまず指定する医師の診断を受けることを命じます。
診断書が、降格相当と出れば、降格となります。
しかし、私の場合、10年ちかく、双極性障害を患いながらもフルタイムで勤務できており、しかも毎年度末の勤務評定では、最高のA評価をもらい続けています。
昇任させるべきところ、双極性障害を理由に現在の職に留めているだけでも有り難く思え、ということのようです。
当然、医師の診断も必要ない、とのことでした。
降格というのはなかなか認められないものですねぇ。
手を動かす仕事が増えても、少しでも気分的に楽になれればと思ったのですが。
考えが甘かったようです。
どこの職場もそうでしょうが、4月は業務量が多いうえ、人の異動などもあり、ひどく忙しいものです。
そのせいか、軽いうつ状態が続いています。
今、服薬している薬は気分安定剤と抗不安薬で、抗うつ薬は飲んでいません。
抗うつ薬も出してもらったほうが良いのか、一過性のものだと思うので我慢したほうが良いか、迷うところです。
精神障害(双極性障害)がひどい時は、これさえ治ればバラ色の人生が待っている、と思っていましたが、ほぼ治癒した今、思うのは、バラ色の人生などあり得るはずもなく、ただ普通に戻るだけなのだな、ということです。
ユングは、心理療法について、心理療法の最高の目的は、患者をあり得ない幸福状態に移そうとすることではなく、彼に苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐を可能にさせることである、と述べています。
むべなるかな。
しかし、苦しみに耐えられる強さ、というのは分かりやすいですが、哲学的忍耐とはいかなるものでしょうね。
ユングの心理学から考えると、おそらくそれは全体性を身に着ける、ということではないかと思います。
全体性とは、人間心理のこの部分が理性で、この部分が欲望で、この部分が宗教性で、といった分け方をすることは不可能であり、人間は全体として存在している、という意味です。
人間の存在はそもそも哲学的であると言え、全体性を身に着けることは、とりもなおさず哲学的であるということで、それを哲学的忍耐と呼んだのではないかと推測します。
ユングは東洋哲学、わけても仏教に深い関心を持ち、それらの考え方を心理療法に取り入れようとした人です。
上の言葉も、東洋的と言うか、仏教的な感じがします。
それならば、東洋の島国で、東洋の精神性にどっぷりと浸かって生きてきた私は、ユング派の心理療法が向いているのかもしれません。
いずれにせよ、あり得ない幸福状態など、望むべくもありません。
今日はひどい風が吹いて、まるで春の嵐。
昼食のために近所の蕎麦屋に行ったのと食材の買出しのためにスーパーに行った以外は、自宅でのんびり過ごしました。
ソメイヨシノは完全に散ってしまいましたが、新宿御苑ではまだ遅咲きの桜が楽しめると聞いて、昨日、出かけました。
車を伊勢丹の駐車場にとめ、新宿御苑まで歩きました。
なんという種類の桜か分かりませんでしたが、ソメイヨシノとは明らかに品種の異なる桜が、苑内のそこここで咲いていました。
それにしても外国人のなんと多いこと。
白人、中国人、ムスリム。
訪れていた客の7割くらいが外国人観光客でした。
浅草などが外国人観光客で溢れかえっていることは知っていましたが、なぜ新宿御苑?
都会の中の自然というのが面白いのでしょうか?
それは良いとして。
ツツジも見ごろを迎えていました。
ツツジと桜を1枚の写真におさめるなど、ずいぶん贅沢ですね。
苑内で売られていたお弁当を食べて、自然の次は都会の猥雑さを味わおうと、歌舞伎町までぶらーり。
大勢の人でしたが、こちらは外国人は少なかったように感じます。
その後伊勢丹でパイプや葉巻などの喫煙具売り場や高級時計売り場を冷やかしました。
私は日頃手巻きの懐中時計を愛用しています。
腕時計は皮膚に直接金属が触れるので嫌いなのです。
今、オーバーホールに出している懐中時計は30万円くらいしました。
オーバーホールが終るまでのつなぎに、ヨドバシカメラで購入した電池式の懐中時計を使っていますが、こちらは1500円。
この差は何なのでしょうね。
伊勢丹で売られていた懐中時計はいずれも手巻きで、安くても20万円、高い物だと、200万円の値が付けられていてびっくり。
それでも、宝石をあしらった腕時計などは1,800万円でしたから、懐中時計の値段の幅は小さいと言えるでしょう。
その後伊勢丹の地下で赤白のワインを1本づつと、イタリアンのお惣菜の詰め合わせを購入し、昨夜は珍しくワインを楽しみました。
盛りだくさんの、良い散歩でした。
麻生副総理、行政文書の管理に関する質問で、決裁について、「全文書を全部読んでいるかと言われると自信がない」旨の答弁をし、立憲民主党の枝野代表があきれ返っていましたね。
しかし、役所の世界では、中身を見ずに決裁の印を押すのはよくあること。
特に高い役職であればあるほど決裁文書は厖大になり、一々読んでいたら仕事が滞ってしまいます。
差別用語らしいですが、俗に盲判(めくらばん)などと呼ばれます。
そうはいっても、押印した以上、責任は決裁権者にあります。
中身を読もうと読むまいと、責任を取るのは押印した決裁権者です。
それなのに、馬鹿正直に「全部は読んでいない」みたいなことを言うのは反則です。
読んでいなくても、読んだ、と言い張らなければいけません。
私のような下っ端でも、下の者から上がってきた決裁文書を穴のあくほど読むことはありません。
決裁文書の種類にもよりますが、軽微なものは斜め読みだけで押印します。
そうじゃないと書類が溜まって仕方ありません。
役所に限らず、稟議制を取っている組織では多かれ久なかれそうなんじゃないでしょうか。
でもまぁ、本当のことだからこそ、それ言っちゃおしまいよ、って感じでしょうか。
春風吹きさぶ。
そが音聞きつつ、我深酒す。
酒、我をして物思い、いたらざずべからず
我、中年より初老に至り、酒、我が魂(たま)、若き日々に誘わざるなし。
酒、誘うまま、若き日に至れば、そは真、愚かなる精神なり。
愚かなること知りたるまま、我が愚か懐かしむとは、如何に?
愚かほど、そは若さなり。
我、若さ失うとて幾年。
幾年、長き故思う。
若さ、美し。
されど、皺また美し。
おのが皺、鏡に感得、我、美くしと思わざる能わず。
我、後、春、覚ゆる幾度?
幾たり春訪れようと、我、若かりし愚、懐かしむこと限りなし。
年度が代わり、毎年度仕様が変わるe-Rad(府省共通研究開発管理システム)というシステムに悩まされています。
コンピュータの進化は便利なものですが、おっさんである私にはストレスでもあります。
去年と同じことをやっていたのではおっつかない、というのは、中高年には辛いことです。
近頃、2045年問題、という言葉を耳にするようになりました。
アルファ碁というAIが自ら学習し、進歩することによって、世界のトップ棋士と戦っても負け知らずの存在となり、アルファ碁と人間の対局は行わないことになった、というニュースは、もはや懐かしい感じさえします。
2045年問題とは、自ら学び、進化し、人間を凌駕する知能を身に着けたAIが登場し、さらに加速度的に自らを進化させ、人間には考えも及ばない、過去のSF作品で語られた出来事など易々と可能にしてしまうような、超人的人工知能が登場し、その後の社会の変化は予測もつかず、それは2045年頃実現する、という仮説です。
ここに至れば、私が苦しんでいるシステムの更新など、考古遺物に等しい存在になるのかもしれません。
その時点を技術的特異点(シンギュラリティ)と呼び、それ以前とそれ以降ではまるで異なる社会が実現する、と。
「マトリックス」や「ターミネーター」みたいですね。
マトリックス・アルティメット・コレクション 〈10枚組〉 [DVD] | |
ウォシャウスキー兄弟,ウォシャウスキー兄弟 | |
ワーナー・ホーム・ビデオ |
ターミネーター スペシャル・ブルーレイBOX(3枚組)(初回生産限定) [Blu-ray] | |
アーノルド・シュワルツェネッガー | |
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン |
ただし、2045年問題に対しては、人類にとって危険であり回避すべきである、とする意見がある一方、必ずしもAIに人間が支配される、とは考えずに、人類の幸福に資するとする意見もあります。
企業や組織がAIの技術や実験結果を独占することを禁じ、広く情報を世界で共有することにより、危険な事態は防げる、と。
やや人間認識が甘い気がしますが、それはそれとして。
技術的特異点(シンギュラリティ)が起きるにせよ起きないにせよ、近い将来、単純労働の圧倒的多数は機械化され、情報化やディープ・ラーニングはますます進み、社会は大きく変貌を遂げるでしょう。
2045年まではあと約27年ほどあります。
これはせいぜい100歳くらいまでしか生きられない人間にとって、決して短くない時間です。
この間に、例えばかつては空を飛んでいた超音速旅客機が採算が取れないという理由で生産されなくなったように、また、50年近く前に月に到達しながら、その後月の有人探査は途絶えたように、技術的特異点(シンギュラリティ)は経済的に見合わないとなれば、研究開発を中止するかもしれません。
SF映画のようにAI自らがそれを拒絶し、自ら進化し続ける場合は分かりませんが。
先のことは誰にも分かりません。
事務職といえど、パソコンが無ければ仕事にならない、なんて事態は、ほんの30年ほど前には、ほとんどの人は想像できませんでした。
ボールペンと算盤、せいぜい電卓で仕事をこなしていたわけです。
おそらくはWindows95が登場した1995年が一つの転換点となって、社会の情報化は大きく進み、変化したものと思います。
あれからまだ23年で、この変わりよう。
なんらかの転換点は、今後も訪れることでしょう。
それが技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれるほどのインパクトは持たないとしても。
2045年、生きていれば私は76歳。
やっと後期高齢者になった頃。
死んでいる可能性のほうが低いように思います。
いや、私は100歳超えまで生きるつもりでいます。
技術的特異点(シンギュラリティ)が起きるのか、起きないのか。
起きないにしても、人類の社会はどう変化していくのか?
私は120歳まででも長生きして、人類進化もしくは変化の行方を見てみたい、と切に願います。
そしてまた、進化もしくは変化が、人類にとって有益であらんことを。
この一週間の疲れと、強い南風のせいか、全く出かける気が起きず、家でゴロゴロしていました。
朝は6時半に起きて、まずはお風呂。
その後納豆とハムエッグと白飯の朝食をたっぷりと摂ったら眠くなってしまし、再びベッドへ。
2時間ほど眠って、その後はテレビなど。
お昼は近所のイタリアンでパスタと珈琲。
その足で近所の魚屋と八百屋をまわり、夕食の食材を購入。
今日は16時半から月に一度の精神科の通院日。
なんだか冴えない土曜日になってしまいました。
年度末最初の一週間が終わりました。
そして、桜も。
今年は桜が早かったですねぇ。
この時期はいつもそうですが、仕事が涌いて出るようで、嫌になるほど忙しい日々でした。
こういう日々がしばらくは続くんですねぇ。
就職して27年目に突入しますが、年度末・年度始めの忙しさに慣れるということはありません。
むしろ年々体力が落ちて、ふらふらになるばかりです。
明日、明後日は土日でお休み。
それだけを心の支えに、今週を乗り切れました。
昨日は花見の名所、目黒川に出かけました。
大勢の人で賑わっていましたが、激しく散り乱れており、中には葉桜になってしまった木もあって、いよいよ桜も終りなのだなと、感じました。
花見で酒を飲むのは当然ですが、目黒という気取ったお土地柄か、イチゴをたっぷり入れたピンクのカクテルがそこここで売られており、多くの女子がそれを楽しんでいました。
ワンカップやチューハイは、そもそも売っていません。
せいぜいコロナビールくらいです。
その気取りぶりに、全く気取ったところのない江戸川区で生まれ育った私は、恥ずかしくてやれませんでした。
あんなもの飲んでも酔わないと思いますが。
しばし目黒川沿いを散策し、散り行く桜を楽しみました。
その後近くにある西郷山公園へ。
ここでも多くの人が花見を楽しんでいました。
目黒川よりは散っていない感じでした。
桜を見ると、あぁ、一年間生きながらえたのだな、という感慨を覚えます。
そして、もう一年、生きられるのだろうか、とも。
常識的に言って、48歳の私が1年後に亡くなっている確率は極めて低いと思いますが、桜には、どこか死を連想させる力があるように思います。
その後代官山から渋谷まで歩き、地下鉄で帰宅しました。
良い花見だったように思います。