ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

化物園

2024年02月28日 | 文学

 昨夜は恒川光太郎の連作短編集「化物園」を読みました。
 7つの短編が収められています。
 一つ一つの作品は独立した物語ですが、同じ化物が登場することによって、連作と見做すことができます。
 同じ化物とは言っても、猫だったり蛇だったり、果ては顔が無く、数センチ浮いているものだったり、見た目は様々ですが、それらは同じ物です。
 この短編集の圧巻は、最後に掲載されている「音楽の子供たち」の迫力でしょうね。

 「音楽の子供たち」によって、それまでは明かされなかった化物に関することが分かります。
 化物は人間が誕生するはるか以前から存在する物であって、その姿は変幻自在であり、かつては人間を喰らうこともあったことが示唆されます。

  その後異形の化物は人間世界の片隅で息をひそめ、長く、人間との関係を保ってきました。
 人間によって化物はどう変わるのか、また、化物によって人間はどのような影響を受けるのか、それらがぼんやりと描かれます。
 人間と化物との距離感が良い感じです。
 この作者ならではの、どこか寂しさを感じさせる、メランコリーとでも言うべき雰囲気が漂っていて、良い連作短編集であったと思います。

 これで現在出版されている恒川作品は全て読んでしまいました。
 読んでいないのは、雑誌等に発表され、まだ単行本になっていない作品です。
 これらが本として売り出されるのが楽しみです。 

 


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怖れる

2024年02月25日 | 精神障害

 30年くらい前までは、天気予報はよく外れ、それを揶揄することが多かったように思います。
 しかし最近の天気予報は外れるということはまずありません。
 あたります。
 今日も予報どおり冷たい雨が降り続きました。

 なぜか分かりませんが、朝6時半に起きて朝食を摂り、週に一度の洗濯をして部屋干しを済ませたら眠くなり、ベッドに潜り込んだら深い眠りに落ち、14時まで眠り続けました。
 こういうこと、時折私を襲います。
 大抵、ひどい悪夢を見て寝汗をびっしょりかき、目を覚まします。

 何を怖れているのかは分かりませんが、私はいつも何かを怖れ続けています。
 それが私の本性であるかのように。


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成田山公園梅まつり

2024年02月24日 | 散歩・旅行

 3連休の真ん中。
 昨日は雨で明日も雨の予報。
 今日だけが晴れて気温が上がり、穏やかな一日になるとのことでしたので、梅を観ようと成田山公園梅まつりに出かけました。
 思ったほど咲き乱れてはいませんでしたが、そこそこの開花です。





 





 菜の花も咲いていました。



 まずは満足です。

 成田山公園に行くということは、成田山新勝寺にお参りすることと同義でなければなりません。
 広く長く、古くからやっているであろう各種のお店が軒を並べる参道を通って新勝寺へ。





 
 奈良の薬師寺や東大寺ほどではないにせよ、嫌になるほどの広さです。

 成田山でお昼と言えば鰻に決まっています。
 一番人気の川豊と言う店、4時間待ちの表示。
 アホですか。
 そんなに待ったら夕飯になってしまいます。

 以前この店でうな重を食ったことがありますが、おそらく蒸さずにいきなり焼いているであろう、荒っぽい味わいでタレは濃い目。
 川豊でしか味わえないと思いますが、私は30分待ちの上品な味わいの店で特上のうな重と肝吸いを頂きました。
 3,900円。
 財布には優しくないですが、鰻なんてそんな物です。

 参道では成田名産、米屋の栗蒸羊羹を購入しました。
 虎屋のような高級羊羹とは異なり、なんとなく粉っぽいのですが、それが成田に行ってきたなと言う感じがして良いのです。

 40代までは全く甘い物を口に入れませんでしたが、年とともに好みは変わってくるらしく、50を過ぎてから少しですが甘い物を食べるようになりました。
 一番の好みは豆大福ですが、羊羹も嫌いではありませn。
 洋菓子は味のバリエーションが豊富で良いのですが、少々もたれるのが難点です。

 今日は久しぶりに1万歩を超える散歩となり、大満足です。


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真夜中のたずねびと

2024年02月24日 | 文学

 昨夜は恒川光太郎の短編集「真夜中のたずねびと」を一気読みしました。

 この作家の作品の多くが異界と現実を行き来するような幻想的なものですが、昨夜読んだ短編集は趣を異にしていました。
 つまり、現実世界で起きるミステリーの要素が極めて強く、異界との繋がりはほんのわずかばかり示唆されるだけなのです。
 また、一つ一つが独立した短編になってはいますが、ある作品の主人公が別の作品の端役で登場したりして、緩やかな連作と読むことが出来るようになっています。

 幻想的な要素が満載の恒川作品を期待すると肩透かしをくらいます。

 作家の作風は年とともに変わっていくものです。
 この短編集を興味深く読みはしましたが、もしこの路線を突っ走るようなら、私はこの作者から離れていくような予感を覚えます。

 


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またもや懐中時計

2024年02月23日 | その他

 性懲りもなくまた懐中時計を買ってしまいました。

 懐中時計では有名なアエロウォッチの手巻きで、デザインが現代的というか、スタイリッシュな黒で、暗い場所では文字と針が光るという、懐中時計にしては珍しい逸品です。



 懐中時計は百年以上前に作られ、オーバーホールを繰り返したアンティークの美品は200万円くらいするそうですが、新品は高級腕時計のように何百万円もする物はありません。
 しかしそれでも、ちょっとしたものなら何十万円とかかります。
 安月給の木っ端役人には無理目なコレクションです。
 今日購入した物も、私には分不相応な値段でした。

 もともと私は物欲があまりなく、コレクションなんてしたことがありませんが、懐中時計にだけはハマってしまいました。



 これで止めておかないと破産してしまいますね。 


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躁鬱大学

2024年02月22日 | 文学

  昨夜は「躁鬱大学」という文庫本を一気に読みました。
 現在は双極性障害と呼ばれ、かつては躁鬱病とよばれていた疾患を持つ人が書いた、双極性障害患者やその家族向けに書いたものです。
 「カンダバシ語録」と言う物をテキストにして15回、双極性障害患者の生き方や物の考え方を講義する、という体裁を取っています。

 ここでは著者は双極性障害という言葉は使わず、古い名称の躁鬱病と言っています。
 これは躁鬱病のほうが実態に近い言葉であるからだろうと思います。
 さらには躁鬱人非躁鬱人という概念を作り出し、やや過激な書きぶりが面白く感じられます。

  ・躁鬱病は病気というよりも一種の体質。
  ・特有の滑らかな対人関係の持ちようは躁鬱病の証拠。
  ・中高時代より好調と不調の時期があったはず。
  ・躁鬱病の人は我慢するのが向きません。「この道一筋」は身に合いません。
  ・一つのことに打ち込まず、幅広く色んなことをするのが良いでしょう。
  ・気分屋的生き方をすると気分が安定する。
  ・自分の気持ちが動いたものにふっと手を出す。
  ・法に触れないことなら何でもしてみましょう。

 これらはカンダバシ語録の一部です。
 ただし、原典から引っ張って来たものなので、「躁鬱大学」での講義として取り上げられたものでは無い物も含んでいます。

 腹に落ちる言葉もそうではない言葉もあります。

 一つ言えることは、一つのことに打ち込まず、あっちをふらふら、こっちをふらふらする生き方が良いようです。
 この本の著者はRapid Cycler(急速交代型)と呼ばれる、短い周期で躁と欝を繰り返すタイプのようで、私とは大分異なります。

 私は19年くらい前に気分の落込みがひどく、うつ病と診断されました。
 その3年後くらいに激しい躁状態に見舞われ、自分が神様にでもなったような気分になり、浪費、性的逸脱、攻撃的になる、徹夜で駄文を書き散らす等の症状のため、双極性障害に診断名が変わりました。

 うつ病と双極性障害は全く異なる病気で、使う薬も異なるし、そもそも同じうつ状態にある時も脳波が違った波形をえがいています。
 うつ病では気分を持ち上げる薬を使いますが、双極性障害では躁も欝も抑える気分安定薬が使われます。
 私は服薬治療のおかげか半年ほどで寛解状態となり、その後欝も躁も再発していません。

 しかし一度でも躁状態に見舞われた人はその後再発しなくても双極性障害患者と見做され、生涯、再発予防のために気分安定薬を飲み続けることになります。

 そのような私にとってラピッドサイクラーと呼ばれる躁と欝を頻繁に繰り返す人の気持ちはよく分かりません。
 この本の著者は、どうもラピッドサイクラーを念頭に書いたようなので、違和感を覚えます。 

 最大の気付きであったのは、気分屋のままに色々なことを浅く広く、法に触れないことなら何でもやりましょう、ということです。

 私はこれまで、自身を一つのことに集中するタイプだと思ってきました。
 しかし思い返してみると、集中はしますが、それは長続きせず、小説の執筆もごく短い物しか書けませんでした。
 短歌や俳句をひねったこともありますが、早晩飽きてしまいました。
 飽きっぽい面は確かにありますし、それは少年時代からそうで、高校時代には時折激しい高揚感を感じながら、長続きしないことがありました。

 これからは興味があることなら何でも少しづつ首を突っ込んでみようかと思います。
 それが性に合っていて、しかも健康にも良いようですから。

 


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白昼夢の森の少女

2024年02月19日 | 文学

 昨日読み始めた恒川光太郎の短編集「白昼夢の森の少女」を今日の昼休みに読み終わりました。

 作者が後書きで書いていましたが、アンソロジー等に収載された短編を集めたものということで、バラエティーに富んでいました。
 ほんの数ページの物から50ページほどの物、ホラー小説然としたものから私小説っぽい物。

 いずれも興味深く読みました。

 この作者、「スタープレーヤー」シリーズなど、長編も書いていますが、最も面白いのは短編から中編くらいの物なのだと思います。

 


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日曜日

2024年02月18日 | その他

 今朝は5時にばっちりと目を覚ましてまい、もう眠れませんでした。
 そこで朝湯に入り、飯を食ってから洗濯をしました。
 わが家は日曜日の朝に一週間分の洗濯をするので結構な量です。
 そのために、大容量の洗濯機を使っています。
 同居人が夢の中にいる間に洗濯を済ませ、ベランダに干してしまいました。

 その後、しばし読書。
 恒川光太郎の短編集を半分くらい読みました。

 午後は春めいた陽気に誘われて千葉駅周辺を散歩しました。
 日頃町に出ることが出来ない田舎めいた所にある巨大研究所で働いているため、週末くらいは都会的な町を歩きたくなります。

 たっぷり歩いて疲れてしまい、喫茶店で珈琲を飲んで帰宅しました。

 今日の晩酌のお供は大きなカマスの開きと江戸川産のべらぼうに旨い小松菜の煮びたしとフルーツトマト、それに木綿豆腐の冷奴です。

 明日からの仕事を思うと暗い気分になりますが、サラリーマンである以上仕方ありません。
 飯の種ですから。


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箱庭の巡礼者たち

2024年02月17日 | 文学

 もう4年前のことになりますか。

 今の職階に上がるのとほぼ同時に、世界はコロナ禍に見舞われました。
 私は悪い気にあたると、ひどく気分が落ち込む悪い癖があります。
 コロナ禍の気も、非常に悪いものでした。
 それに加えて昇任によるストレスが加わり、私は小説を読む気力を失ったのでした。
 読書という悪癖から逃れられて幸せだ、なんて空元気を出していましたが、精神が一時的にせよひどく衰えたものと思います。

 しかし最近コロナ禍も収まりつつあり、加えて今の職階にも慣れ、少しづつ気力が充実してきたところ、村上春樹の新作「街とその不確かな壁」が上梓され、これを読むことによって長く続いた小説を読まない生活を終わらせることが出来たように思います。

 今日は私が敬愛する作家、恒川光太郎「箱庭の巡礼者たち」を読みました。

 この作家は「夜市」という小説でデビューし、私は衝撃を受けました。

 その後この人の小説を次々と読みました。
 現実と異世界を行き来する人々の世界をイマジネーション豊かに紡ぎ出す小説群は私を圧倒しました。
 ホラー作家という触れ込みでデビューした人ですが、その内容はそこはかとない哀しみを湛えたダーク・ファンタジーという趣です。

 今日読んだ作品は、ジュブナイル風の青春小説のような書き出しで始まりながら、異世界の扉を開いた少年少女が異世界にどっぷりと浸かり、さらに物語は何百年にも及ぶ壮大な時空を描く連作短編集になっています。
 この作者が醸し出すセンチメンタルな意匠を纏いながら、豊かなエンターテイメントに仕上がっています。

 私が小説から離れていた間にいくつかの本を出したので、それらを丹念に読んでいきたいと思っています。


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生活を始める?

2024年02月12日 | 思想・学問

 先週の金曜日、千葉大学医学部附属病院の眼科を受診するために休暇を取ったため、今日まで4連休でした。
 わりとゆっくりできたと思います。

 今日は6時半に起きて朝湯に浸かり、朝飯は納豆と生卵だけの質素なおかずで白飯をたっぷりと食い、珈琲を飲んで二度寝しました。
 幸せ。

 昼は近所のラーメン屋であっさりした塩ラーメンを食し、ミスタードーナツで食後の珈琲を頂きました。
 ラーメンや蕎麦は嫌いではありませんが、どうしても慌ただしく食って終わりになってしまうので、駅前のドトールやミスタードーナツで珈琲を飲むことを慣例としています。

 その後近所の魚屋で中おちと真鯛の刺身を購入。
 本当に良い魚屋が近所にあって良かったと思います。
 実家からとても甘みの強い小松菜を送ってもらい、昨日、一昨日とお浸しにして食しました。
 今まで食ってきた小松菜は何だったのかと思うほど旨い小松菜です。
 小松菜は江戸川区の名産なので。
 今日は油揚げを買ったので煮浸しにする予定。
 野菜はその他はフルーツトマトです。
 私は幼い頃からトマトが好物で、トマト坊やとまで呼ばれていたそうです。
 自分では覚えていませんが。

 こんな風に日々を生きてきて、年を食い、最後は石の下。
 人間の一生なんて儚いものです。
 それでも、死なない以上生きなければなりません。
 生きるためににつまらぬ仕事をするという芝居を続けて。

 私の学生時代の友人で独身を貫いて一人を楽しんでいる者がいます。
 一人であちこち海外旅行に出かけ、様々な高級店で旨い物を食い、哲学書と森鴎外の小説を愛する優雅な生活を送っています。

 彼が最近、生活を始めることにした、と年賀状に書いて寄越しました。
 自分が浮世離れした暮らしをしてきたという自覚はあったようで、しかし50代半ばを迎え、浮世離れを止めて、生活を始めるとは全く意外です。
 何か思うところがあったのでしょうね。
 彼は何ももてないために独身であるわけではありません。
 180センチを超える高身長と、穏やかな性格で学生時代から女を切らしたことがありません。
 しかし自分一人の小さな居心地の良い夢の城を守るため、結婚という選択肢も、一人の女と長く付き合い続けるという選択肢も選ばなかったというだけの話です。

 じつを言うと、就職して数年は私も彼のように一人だけの夢の城で誰とも深い付き合いをせず、まして結婚などせず、面白おかしく暮らしていこうと思っていました。
 しかし私の両親とお付き合いしていた今の同居人の両親からの結婚しろという強いプレッシャーに負けて、一人だけの夢の城を捨ててしまいました。
 
 だらしないことです。
 親からのプレッシャーごときでおのれの夢の城を永遠に捨て去るなんて。

 しかし同居人と暮らし始めて、私の考えは変わっていきました。
 同居人は正職員として私と同じくらいの給料をもらっていたため、互いの収入の半分を家計費に入れ、残り半分はそれぞれが管理してお互い口を挟まないことにしました。
 極めてイーブンな関係で、私は気に入っています。

 同居人は穏やかな性格で、しかし音楽や映画、小説などは私と似てエキセントリックな物を好むため、私たちは良好な関係を保ち、これまで喧嘩一つしたことがありません。

 私には想像もできなかった、二人だけの夢の城を築き、二人だけでそこに潜んで暮らすことに成功したのです。
 我儘で傲慢な私の性格を思えば、全く意外なことです。
 で、私たちは彼と異なり、生活を始めようとは思いません。
 人並みに働きながら、それは完全に芝居でしかなく、心中深く、夢の城に籠り、生活はしていないのです。
 いつか生活を始めようと思う時が来たなら、二人だけの夢の城は瓦解してしまうでしょう。
 だから私たちは永遠に二人だけの夢の城に籠っていたいと思うのです。
 生活なんて始めません
 永遠に。
 



 


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ローズ・ゴールド

2024年02月11日 | その他

 金属質の物が肌に触れるのが嫌で私は腕時計をしないことはこのブログでお知らせしたとおりです。
 で、懐中時計を使っています。
 長いことロンジンの手巻きの懐中時計1本で済ませてきたのですが、最近になって様々な懐中時計が欲しくなり、懐中時計専門店からいくつも購入しています。

 私の好みはシルバー、アラビア数字、蓋無し、手巻きです。
 ローマ数字は好まず、絶対に買いません。
 ローマ数字なんて普段読み書きすることがありませんから、見にくいのです。
 スケルトンや蓋付き、ゴールド、クオーツも好みません。
 しかしローマ数字のように絶対に買わないということはありません。
 いくつか買いました。
 
 ゴールドに興味は無かったのですが、ごくわずかですがローズ・ゴールドという色の懐中時計があることを知り、注文しました。
 それが今日届きました。

 こんな感じです。

 これで懐中時計は6つになりました。
 そろそろ打ち止めかなと思います。
 高級腕時計ほど高い物はありませんが、それでも10万単位の買い物ですから、これ以上はまずいかなと思っています。


 
これだけあればもう満足です。


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どのように、と、何ゆえに

2024年02月11日 | 思想・学問

 昨日は4週間に1度の精神科通院日でした。
 寛解状態が15年以上も続いている身であれば、毎度愚痴をこぼし、毎度同じ薬が処方されるという仕儀に相なることは仕方が無いと思います。
 精神科クリニックが千葉駅近くにあることから、予約した診察時刻の2時間前にそごう千葉店に寄りました。
 通勤用のビジネス・バッグを購入するためです。
 今使っている物は10年以上使ってすっかりくたびれてしまったからです。
 私は鞄には興味がありません。
 鞄には何十万円も何百万円もする高価な物が存在するくらいの知識はありますが、鞄は中に必要な物を入れて持ち運ぶのがその役割であって、それを果たせてまぁまぁ見映えが良ければ何だって良いだろうというのが私の考えです。
 で、2万円以下の安物を購入。
 それでも鞄に金をかけたく無い私としては痛い出費です。
 懐中時計は何十万円もするものをいくつも買っているのに。

 通院前、東大教授で生物学者の小林武彦なる人物が書いた「生物はなぜ死ぬのか」という新書を読みました。
 そのタイトルから哲学的な内容を想像したのが馬鹿でした。
 著者は生物学者です。
 自然科学の限界は、物事がどのように出来ているのかを解明できても、なぜそのように出来ているのかは分からないとして最初から問題にしないということだと思います。

 どのようにだけであって、何ゆえにはありえません。

 そう考えるとこの新書のタイトルは根本的に間違っているとしか言えません。
 
 ぐだぐたとあらゆる生物の在り様が語られ、死ぬことによって生物多様性が保たれるだとか、捕食された生物は捕食した生物を生かすことが出来るだとか、生物の総量は変わらないだとか、当たり前のことしか書いていません。

 考えてみれば当然のことです。

 なぜ死ぬのかなんて、我々はどこから来てどこに行くのかという問いと同義であり、それは全人類永遠の謎です。

 過去、多くの宗教家や哲学者が様々な解釈や回答を残しましたが、私を納得させるものなど一つもありませんでした。

 多分特定の宗教を盲信的に信じる以外、この問いに答えは無いのではないでしょうか。
 しかしそんなこと私には出来ないし、圧倒的多数の日本人は出来ないものと思います。

 この新書は生物はなぜ死ぬのか分からないということを実感させるだけの内容になっています。
 タイトルにだまされてしまいました。

 


 


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街とその不確かな壁

2024年02月10日 | 文学

 昨夜、村上春樹の最新書下ろし長編「街とその不確かな壁」を読み終わりました。

 小説を読むのはじつに久しぶりです。
 私は自身をハルキストだとは思っていませんが、ほとんどの著作を読んでいるので、その気はあるのかもしれません。

 数日前のブログで、この作品は2つの世界が同時並行的に語られ、最後に融合する、変形的なメリー・ゴーランド方式を取っており、初期の名作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」との類似を認めたが、読む進むうちにそうではないと思った、という意味のことを書きました。
 しかし読了して作者自身の手による後書きを読んだところ、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を意識して書いたことが明記されていました。

 私はこの重層的で魅力的な物語を高校生の頃に読みました。
 その頃、ぼんやりと将来は物語を紡ぐ人になりたいと思っていたのですが、この作品を読んで、こういう物語を書ける人がいるのなら私が物語作者になる意味はないのではないかと思ったことを覚えています。
 それほどの衝撃でした。

 最初期の「風の歌を聴け」・「1973年のピンボール」の2作品こそ私小説的な趣を醸し出していますが、3作目の「羊をめぐる冒険」以降、この作家は一貫して幻想的で不思議な物語を書き続けています。

 

 

 「街とその不確かな壁」ももちろん不思議な物語です。

 高い壁に囲まれた街に迷い込み、夢読みという職業に就いたと、現実世界を生きる図書館長を務めるの物語が語られます。
 そして現実世界を評して、「この世界は日々便利に、そして非ロマンティックな場所になっていく」と語らせます。
 印象深い一文です。
 印象深い文章は他にもたくさん出てきますが、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」ほどの魅力は感じられません。

 筆の衰えというわけではないのかもしれませんが、スリリングではあるものの、微妙に面白くないのです。
 一つには私が年を経て瑞々しい感覚を失ったせいもあるでしょうし、この作者があまりにも書くことに慣れてしまったということもあるでしょう。

 村上春樹はもう10年くらい前からノーベル文学賞を取るのではないかと期待され続け、毎年今年は駄目だった、ということを続けています。
 ノーベル文学賞にふさわしい作家だと思いますが、ノーベル文学賞は商業的に成功するともらえない、というジンクスがあるそうですから、もう無理かもしれませんね。

 いずれにしろ、久しぶりに幸せな読書体験をさせてもらいました。


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眼科

2024年02月09日 | その他

 今日は休暇を取りました。
 半年に一度の千葉大学附属病院の眼科を受診するためです。

 33歳の時に強い疲れ目で近所の眼科クリニックを受診しました。
 疲れ目は問題にならず、涙の成分と同じ目薬を処方されただけでしたが、緑内障の初期症状が認められるとのことで、視野検査を受けたところ視野の欠損は無かったため、半年に一度そのクリニックで視野検査を行い、様子を見ることとなりました。

 しかし少しづつ緑内障が進み、一種類だった目薬が二種類になり三種類になりました。
 そして3年前、クリニックの院長から白内障だけではなく緑内障にも手術があり、ただし進行を止めるだけではあるが、手術を検討すべき時期が来たと言われ、紹介状を渡され、千葉大学医学部附属病院に行きました。

 てっきりすぐに手術ということになると思っていたのですが、千葉大学医学部附属病院においても視野検査を行った結果、50代だと緑内障の手術を受けるにはいささか若く、感染症の怖れが大きいと言われ、こちらでも半年に一度視野検査を行い、そのたびに様子を見ましょうと言われ、ついに3年経ってしまいました。

 なんだかモヤモヤします。
 切るならさっさと切ってくれと言いたくなりつつ、しかしやっぱり眼の手術は怖いというのが本音です。
 職場の先輩に網膜剥離で眼の手術を受けた人がいて、話を聞いたら眼に麻酔をかける際、注射針が眼に迫ってくるのが見えるということで、私は恐怖に打ち震えました。

 このどっちつかずの状態、いつまで続くのでしょうね。

 33歳で緑内障と言われ、もう23年が経とうとしています。
 確実に悪化してきているとは思いますが、多分3年くらい現状維持が続いているのでしょうね。
 だから眼科医は手術をしないのだと思います。
 どうせ進行を止める効果しかない手術だったら、そのまま様子を見続けるのも悪くないかと思います。

 人間50歳を越えればどこかにガタがくるはずで、それが私の場合眼だったということでしょう。

 しかし私にも自慢できることがあります。
 それは歯です。

 生まれてから一度も虫歯になったことがなく、4カ月に一度歯のクリーニングに通っていますが、いつも歯科医からお手本のような良い歯並びだと驚嘆を込めて褒められます。
 私が旨い物を食うことをことさら好み、味わえているのはこの歯のおかげだと思います。

 これから年とともにあちこち不具合が生じるのでしょうが、生まれた瞬間から死に向かっていくしかない生物の宿命としか言いようがありません。
 せめては不具合の発生が1秒でも遅くなってほしいと願います。


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生存に有利?

2024年02月07日 | 思想・学問

 生物学者で東京大学定量生命科学研究所の小林武彦教授によると、人間本来の寿命は55歳程度だそうです。
 ところが進化の過程で老いた個体がいる集団のほうが生存に有利に働くため、本来より長生きできるようになったと言います。

 寿命の限界は120歳程度とみられ、過去最も長生きしたのは122歳で1997年に亡くなったフランス人女性だそうです。

 意外だったのは栄養状態が良くなり、医学が進歩したことが寿命が延びた理由だと思っていたのですが、小林武彦教授によるとそうではないようです。

 老いた個体がいる集団のほうが生存に有利に働くため。

 そんなことは想像の外でした。

 そうだとすると、栄養状態よりも医学の進歩よりも進化の過程で得た生存に有利な条件こそが原因だということになります。
 遺伝子のなせる技というか、深謀遠慮というか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のヤハウェの三宗教では神様が全てを創造したということになっているので、寿命が延びたのも予め神様によってプログラミングされていたと解釈するのかもしれません。
 しかし何から何まで神様が創ったとするのは無理があるように思います。
 キリスト教原理主義者は進化論を否定し、滅んでしまった動物の化石など、進化論の裏付けになっている物については、神様が世界を創造する時に化石も創って埋めておいたそうです。
 かなり苦しいですが、原理主義を守るためには屁理屈みたいな物に縋る他無いのかもしれません。

 どんな宗教であれ原理主愚者というのはおのれの信条を守るために無理目な解釈をするのが普通ですから、それは放っておきましょう。

 現代の日本社会は、老いた個体がいるほうが集団の生存に有利に働くというような、生易しい年齢構成ではありません。
 老人ばかり増えて若い世代が減っていっているのが現状で、今後少子高齢化はますます進むでしょう。
 そうなると、老いた個体だらけになってしまい、かえって集団の生存に有利に働かなくなってしまうのではないでしょうか。

 要はバランスです。

 老人が少ない時代には老人を増やそうと働いた遺伝子ですが、老人が増えすぎたら減らそうとするような気がします。
 しかしわが国の現代医学はなんでもいいから生かそうとします。
 と言うか、死ななければ良い、みたいな思考のように思います。
 それが生命として相応しいのか無視して。
 ヨーロッパ諸国が認めているような尊厳ある安楽死を認めても良いかもしれません。

 小林武彦教授はこのあたりについてどう解釈しているのか知りません。
 当然、生物学については全くの素人である私には何のことやら分かりません。
 じっくり教授の著作を読んでみましょうか。
 この記事はネットの情報によるものですので。

 


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