『アヴィニョンの娘たち』
ピカソはほとんどの場合、“キュビスムの画家”という位置づけがなされている。しかし彼の展覧会で、本来の意味でのキュビスムの絵にお目にかかることは、あまりないのではあるまいか。ピカソにとってキュビスムとはほんの通過点にすぎず、彼の創作をキュビスムというカテゴリーで総括するなど、ナンセンスきわまりないことだと思う。
『アヴィニョンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館蔵)ひとつとっても、そこにはキュビスムの要素以外のものが、ごった煮のように盛り込まれている。ぼくはこのへんのことについて、以前に「推敲するピカソ」という記事を書いたことがあるが、何枚もの下絵を描き、推敲に推敲を重ねたあげく完成したのがこの絵だというのが、どうしても信じられない気がするのである。
***
何年か前に、『ミステリアス ピカソ ― 天才の秘密』という映画のリバイバル上映を観た。この映画は、フランスの国宝に指定されているということだが ― それにしても、日本と比べて何と新しい国宝だろう! ― ピカソが実際に絵を描いている様子を、キャンバスの裏側から写しつづけたドキュメンタリーである。
その映画を観ているうちに、ぼくは正直、あきれてしまった。ピカソにとっての推敲というものは、普通のわれわれが考えているレベルとは、まるで次元がちがうのだ。画家の頭の中に描くべきビジョンができあがっていて、それに向かって徐々に近づいていくといった ― あたかも、山のいただきを目指して麓から一歩ずつ登っていくような ― まどろっこしい手間は、ピカソは踏まない。では、彼はどうしているのか。
作っては壊し、壊しては作る。ひたすら、その連続である。キャンバスに引かれたいくつかの線がたちまち輪郭となり、細部が描かれ色が塗られて、どうやらこれで完成しそうだと思う間もなく、その絵はさっさと別のものに描きかえられてしまっているのだ。さっきまで描いていたものは、いったい何だったのか? そうピカソに問いかけたくなるほど、彼の絵は絶え間なく変貌をつづけるのである。
しかもその変化の過程には、まったくといっていいほど脈絡がない。たとえば、3輪のバラの花だと思ったのが魚になり、次には鶏になり、ついには牧神へと変わってしまう、というような・・・(下図)。このような光景がえんえんとつづくのであるから、ぼくがしまいにあきれてしまったとしても、無理もないだろう。いやはや、ピカソとは、湧き出る泉の化身なのではあるまいか?
***
『アヴィニョンの娘たち』にみられる、不揃いな描かれ方をした女たちも、いまだ変貌の途中であるかのように思われるのだ。いわば、この絵は未完成のようにも見えるのである。
初めてこの絵を図鑑か何かで観たときの衝撃は、今でも色褪せていない。でもそれはキュビスムという斬新な技法に驚いたのではなく、絵が内側から分裂しているかのような不均衡さに度肝を抜かれたからだろう。ぼくがキュビスムなどという美術用語を知ったのは、おそらくずっとのちのことだろうが、それ以前にこの絵は、とんでもない革命をぼくの中で起こしていたのだ。
つづきを読む
この随想を最初から読む
ピカソはほとんどの場合、“キュビスムの画家”という位置づけがなされている。しかし彼の展覧会で、本来の意味でのキュビスムの絵にお目にかかることは、あまりないのではあるまいか。ピカソにとってキュビスムとはほんの通過点にすぎず、彼の創作をキュビスムというカテゴリーで総括するなど、ナンセンスきわまりないことだと思う。
『アヴィニョンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館蔵)ひとつとっても、そこにはキュビスムの要素以外のものが、ごった煮のように盛り込まれている。ぼくはこのへんのことについて、以前に「推敲するピカソ」という記事を書いたことがあるが、何枚もの下絵を描き、推敲に推敲を重ねたあげく完成したのがこの絵だというのが、どうしても信じられない気がするのである。
***
何年か前に、『ミステリアス ピカソ ― 天才の秘密』という映画のリバイバル上映を観た。この映画は、フランスの国宝に指定されているということだが ― それにしても、日本と比べて何と新しい国宝だろう! ― ピカソが実際に絵を描いている様子を、キャンバスの裏側から写しつづけたドキュメンタリーである。
その映画を観ているうちに、ぼくは正直、あきれてしまった。ピカソにとっての推敲というものは、普通のわれわれが考えているレベルとは、まるで次元がちがうのだ。画家の頭の中に描くべきビジョンができあがっていて、それに向かって徐々に近づいていくといった ― あたかも、山のいただきを目指して麓から一歩ずつ登っていくような ― まどろっこしい手間は、ピカソは踏まない。では、彼はどうしているのか。
作っては壊し、壊しては作る。ひたすら、その連続である。キャンバスに引かれたいくつかの線がたちまち輪郭となり、細部が描かれ色が塗られて、どうやらこれで完成しそうだと思う間もなく、その絵はさっさと別のものに描きかえられてしまっているのだ。さっきまで描いていたものは、いったい何だったのか? そうピカソに問いかけたくなるほど、彼の絵は絶え間なく変貌をつづけるのである。
しかもその変化の過程には、まったくといっていいほど脈絡がない。たとえば、3輪のバラの花だと思ったのが魚になり、次には鶏になり、ついには牧神へと変わってしまう、というような・・・(下図)。このような光景がえんえんとつづくのであるから、ぼくがしまいにあきれてしまったとしても、無理もないだろう。いやはや、ピカソとは、湧き出る泉の化身なのではあるまいか?
***
『アヴィニョンの娘たち』にみられる、不揃いな描かれ方をした女たちも、いまだ変貌の途中であるかのように思われるのだ。いわば、この絵は未完成のようにも見えるのである。
初めてこの絵を図鑑か何かで観たときの衝撃は、今でも色褪せていない。でもそれはキュビスムという斬新な技法に驚いたのではなく、絵が内側から分裂しているかのような不均衡さに度肝を抜かれたからだろう。ぼくがキュビスムなどという美術用語を知ったのは、おそらくずっとのちのことだろうが、それ以前にこの絵は、とんでもない革命をぼくの中で起こしていたのだ。
つづきを読む
この随想を最初から読む