てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メモリアル・ピカソ(5)

2007年03月12日 | 美術随想
『アヴィニョンの娘たち』


 ピカソはほとんどの場合、“キュビスムの画家”という位置づけがなされている。しかし彼の展覧会で、本来の意味でのキュビスムの絵にお目にかかることは、あまりないのではあるまいか。ピカソにとってキュビスムとはほんの通過点にすぎず、彼の創作をキュビスムというカテゴリーで総括するなど、ナンセンスきわまりないことだと思う。

 『アヴィニョンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館蔵)ひとつとっても、そこにはキュビスムの要素以外のものが、ごった煮のように盛り込まれている。ぼくはこのへんのことについて、以前に「推敲するピカソ」という記事を書いたことがあるが、何枚もの下絵を描き、推敲に推敲を重ねたあげく完成したのがこの絵だというのが、どうしても信じられない気がするのである。

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 何年か前に、『ミステリアス ピカソ ― 天才の秘密』という映画のリバイバル上映を観た。この映画は、フランスの国宝に指定されているということだが ― それにしても、日本と比べて何と新しい国宝だろう! ― ピカソが実際に絵を描いている様子を、キャンバスの裏側から写しつづけたドキュメンタリーである。

 その映画を観ているうちに、ぼくは正直、あきれてしまった。ピカソにとっての推敲というものは、普通のわれわれが考えているレベルとは、まるで次元がちがうのだ。画家の頭の中に描くべきビジョンができあがっていて、それに向かって徐々に近づいていくといった ― あたかも、山のいただきを目指して麓から一歩ずつ登っていくような ― まどろっこしい手間は、ピカソは踏まない。では、彼はどうしているのか。

 作っては壊し、壊しては作る。ひたすら、その連続である。キャンバスに引かれたいくつかの線がたちまち輪郭となり、細部が描かれ色が塗られて、どうやらこれで完成しそうだと思う間もなく、その絵はさっさと別のものに描きかえられてしまっているのだ。さっきまで描いていたものは、いったい何だったのか? そうピカソに問いかけたくなるほど、彼の絵は絶え間なく変貌をつづけるのである。

 しかもその変化の過程には、まったくといっていいほど脈絡がない。たとえば、3輪のバラの花だと思ったのが魚になり、次には鶏になり、ついには牧神へと変わってしまう、というような・・・(下図)。このような光景がえんえんとつづくのであるから、ぼくがしまいにあきれてしまったとしても、無理もないだろう。いやはや、ピカソとは、湧き出る泉の化身なのではあるまいか?



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 『アヴィニョンの娘たち』にみられる、不揃いな描かれ方をした女たちも、いまだ変貌の途中であるかのように思われるのだ。いわば、この絵は未完成のようにも見えるのである。

 初めてこの絵を図鑑か何かで観たときの衝撃は、今でも色褪せていない。でもそれはキュビスムという斬新な技法に驚いたのではなく、絵が内側から分裂しているかのような不均衡さに度肝を抜かれたからだろう。ぼくがキュビスムなどという美術用語を知ったのは、おそらくずっとのちのことだろうが、それ以前にこの絵は、とんでもない革命をぼくの中で起こしていたのだ。

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メモリアル・ピカソ(4)

2007年03月10日 | 美術随想
『道化役者と子供』


 妙な言い方になるが、ピカソは確かに対象を変形する名手だった。正面向きの顔と横顔が合体したイメージや、乳房と尻とが同じ面に描かれた裸婦など、彼は奇想天外な人物像を続々と生み出した。そういう絵を次から次へと見せられると、ピカソに“絵画史上最大の発明家”という称号を贈りたいような気もしてくる。

 だが、彼は大変素直なデッサンの名手でもあったにちがいない。『道化役者と子供』(国立国際美術館蔵)を観ていると、そんな気にもなってくるのである。ピカソを、ある一面のみで語ることほど、陥りやすい過ちはない。

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 この絵は厚紙にグワッシュとパステルで描かれていて、油絵などと比べるとかなり肩の力を抜いて描いたものだろうが、しかし数万点ともいわれるピカソの創作の大部分は、こういう作品で占められているのではないかと思う。

 つまりは、ちょっとした落書きや描き損じのようなものも、ピカソの場合は立派に作品として流通してしまうということだ。こういう現象は、他の有名画家にもみられるにちがいないが、ピカソにおいては特に際立っているように思う。

 ピカソの展覧会を観ると、ときおりメモ帳の切れはしのようなものが、後生大事に額縁に入れて展示されているのにぶつかる。こんなものはピカソの家のゴミ箱から拾ってきたのではないか、と陰口もたたきたくなるが、よくよく目を凝らしてみると、そんな紙切れにもやっぱりピカソの個性が横溢しているのに驚かざるを得ない。ピカソとは、そんな画家なのである。

 この『道化役者と子供』も、速筆のピカソからすれば、せいぜい何十分かで描かれたものだろう。そのわりにはほとんど線に迷いがない。ただ、よく観ると、ふたりの人物の足のところにだけわずかに線を引き直したような形跡がある。

 もっと不思議なのが、少年の足の部分だけは、輪郭線が定まらないままに着色されているという点だ。そのため、少年の足はブレているように見える。下絵だったら、それもあり得ない話ではないが、しかしちょっと奇妙である。

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 この道化役者や、サルタンバンク(軽業師)の家族というテーマは、「青の時代」からの過渡期にさしかかりつつあるこの時期のピカソをとりこにした主題であったらしい。その中のひとつ、水彩で描かれた『家族、あるいは両親と子供』(下図、ルートヴィッヒ美術館蔵)を観て、ぼくがまたしても不思議に思ったのは、やはり足の描き方だった。夫婦とおぼしき妻のほうの足は、本来ならスカートから見えているべき爪先がまったく描かれていないし、夫のほうにいたっては、片足しか描かれていないのだ。



 ここでぼくは、大胆な仮説を立ててみたくなる。ピカソはもともと、足を描くのが苦手だったのではないか、ということである。少年時代には、すでに大人顔負けの高い描写力をもっていたとされるピカソだが、だからといってやすやすと描いたということにはならない。彼なりに、大変な苦心をしながら描いたのかもしれないではないか。

 そういえば、美術史上に一大金字塔を打ち立てた『アヴィニョンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館蔵)にも、片足しか描かれていない女性が登場する(下図、部分)。ピカソの足へのコンプレックスは、相当なものだったのかもしれない。



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メモリアル・ピカソ(3)

2007年03月08日 | 美術随想
『貧しき食事』


 肘をつく姿といえば、どうしてもこの絵が思い浮かぶ。『海辺の母子像』『肘をつく女』の2年後に制作された、『貧しき食事』というエッチングである。生涯にわたっておびただしい版画を作りつづけたピカソだが、これはその中でもごく初期のもので、なおかつ代表作のひとつだ。

 子供のときに観たピカソ展にも、この版画は出品されていた。キュビスム風のゆがんだ人物像や、落書きのような自由奔放な油彩画を観たあとで、果たしてこれが同じ画家のものであろうかなどと思いながら、ぼくはこの版画に向き合ったことだろう。ピカソはわけのわからない絵を描く人だと、人からも聞かされ、そう思い込んでいた小学生のぼくは、何だかだまされたような気分だった。これほど真に迫った、写実的な人物像を ― しかも銅版で ― 造形できる人は、めったにいるものではないと、今でも思う。

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 ほんのひとかけらのパンと、空っぽの皿を前にして、肩を寄せ合う痩せさらばえた男女。ふたりは目を合わせることなく、男はあらぬ方を向き、女は投げやりな視線をこちらに向けている。

 ここでもやはり気になるのは、異常に引き伸ばされた手の表現だ。後年、新古典主義と呼ばれる時期に描かれたピカソの人物像には、まるまると太った、丸太のようにたくましい手足が描かれることが多いが、それとはいちじるしい対照をなしている。これはいったい何をあらわしているのだろう?

 ぼくがここで思い浮かべたくなるのは、ゴッホの『馬鈴薯を食べる人々』(下図、ゴッホ美術館蔵)である。悲痛ともいえる表情で、小さな食卓を囲んでいる5人の人物。ゴッホ版『貧しき食事』とでもいいたくなるような絵だ。



 だがピカソとちがうのは、彼らは浮かない表情をしながらも、確かなコミュニケーションがそこに感じられるという点である。同じ農民といういわば共同体の一員として、相手を気づかったり、話しかけたりしているように見える。そして彼ら農民の指は、太くてたくましい。それは労働する人の指である。

 しかしピカソが描いた人物は、何も生み出し得ない指をもっている。彼らはパンに手をのばすことすらせず、相手の肩を抱きかかえ、あるいは自分のあごを手の甲にのせているだけだ。

 ゴッホが描いた農民には、貧しいながらも、確実に明日がめぐってくるという感じがする。暗い中にも、活気があり、それがこの絵を救っている。しかし『貧しき食事』のカップルには ― 彼らはまだ若いにもかかわらず ― 明日はあるのだろうか?

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 昨年、プーシキン美術館の展覧会でピカソの『アルルカンと女友達(サルタンバンク)』という油彩画を観た(下図)。それは一見すると屈託のない、明るい画面のような気がするが、そこには『貧しき食事』と共通の要素があまりにも多いのに驚かされた。



 グラスを前にしながらも、なすすべもなくテーブルに肘をついているだけの男女。長く引き伸ばされた手の指。そして何よりも彼らの目線の位置は、『貧しき食事』をそのまま裏返したかのように、ぴったり一致するのだ。

 これら2枚のピカソの絵には、貧しい現実から何とか目をそむけようとする男と、反対に冷ややかな目で現実を受け入れている女とが、対照的に描き出されているように思われる。

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メモリアル・ピカソ(2)

2007年03月07日 | 美術随想
『肘をつく女』


 ピカソの20代はじめのころを「青の時代」と呼ぶことは、前回にも少し触れたとおりであるが、実際に展覧会で「青の時代」の絵に接する機会は少ない。90年を超えるピカソの生涯からすれば、ごくごくわずかの期間にすぎず、残された作品の数も多くはないのだろう。

 「青の時代」の絵画には、陰鬱な表現がふんだんに盛り込まれている。そこからは、のちの自由奔放なピカソの姿を想像することは難しい。まるで抑圧されたかのように、暗く重厚な画面を描きつづけている。絵の対象となるものも、決して光があてられることのない下層社会の人々であったり、あるいは自画像だったりする。ピカソ自身が、なにものかに抑圧されながら絵を描いていたかのような、そんなイメージがつきまとうのである。

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 『肘をつく女』(アサヒビール株式会社蔵)は、『海辺の母子像』のかわりに「日曜美術館30年展」に展示されていたものだったが、それ以前にも大山崎山荘美術館というところで何度か観たことがある。このたび展覧会の図録で、両方の絵が見開きで載っているのをぼんやり眺めているうち、これらがどうやら同じモデルを描いているらしいことに、不覚にもようやく気がついたのだった。

 ひいでた額から真っ直ぐにつながる鼻梁といい、痩せこけた頬といい、頭に布をかぶっている様子といい、それはどう考えても同一人物で、しかも似たような服装を身に着けているのである。2枚の絵はどちらも同じ年に描かれたということだが、むしろほとんど同時期に、相前後して描かれたのではないかという想像をしたくなる。

 ただ『肘をつく女』には、青色がほとんど使われていない。画面の大半を占めるのは、茶色か黒か、あるいは両方が混じったような濁った色だ。『海辺の母子像』にみられたような、暗い中にもどことなく透明感をはらんだブルーの世界とは、この絵は無縁なのである。

 さらに彼女は、あの赤子を連れていない。ひとり寂しく頬杖をつき、もの思いに沈んでいるだけだ。ひょっとしたらこの姿こそが、この名もない女の真実の姿なのではあるまいか?

 彼女に赤子を抱かせ、海辺に立たせたのは、ピカソの想像力のたまものだったかもしれない。そしてそこには、絶え間ない抑圧からの解放が託されているにちがいない。そんなふうにも思われてくるのである。

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メモリアル・ピカソ(1)

2007年03月06日 | 美術随想
『海辺の母子像』


 ピカソについては、子供のころに展覧会を観て以来、あれこれと考えつづけてきた。だがピカソほど自由気ままな人間ともなると、その人物像を総括することは容易ではない。まとまりきらないままに、ここで積もり積もった思いをぶちまけてしまうのも無駄ではないだろう。むしろそのほうが、ピカソという破天荒な人物へのアプローチとしては、よりふさわしいようにも思われる。

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 ぼくが初めてピカソ展を観たのは、小学校の高学年のころだったろう。当時ぼくが暮らしていた、福井のデパートで開かれた展覧会だった。ぼくは子供ながらに、ピカソの絵にいたく感動したらしい。親に買ってもらった図録を、暇さえあれば広げていたものだ。そのせいか、もう四半世紀ほども経つというのに、作品のいくつかを今でも詳細に思い出すことができる。

 そのときの展覧会で、『海辺の母子像』(ポーラ美術館蔵)を観た。確か、日本初公開という触れ込みで展示されていたように記憶する。気がついたときには、この絵はポーラのコレクションに加えられていた。その気になればいつでも観にいけるわけだが ― ポーラ美術館は箱根にある ― いまだにこの絵とは再会できていない。先日の「日曜美術館30年展」に出品された地域もあるようだが、京都では展示されなかった。

 このたび、改めて『海辺の母子像』のことを思い出したのは、大阪のデパートで開かれていたピカソ展で『母と子』と題された素描を観たからだ(下図、ルートヴィッヒ美術館蔵)。この素描そのものは、とりたてて素晴らしいというものではないけれども、これは明らかに、『海辺の母子像』の下絵だと思われたのである。今回の展覧会の図録にも、そのように書かれていた。



 比べてみるとすぐわかることだが、母子像の向きは左右反対になっている。しかし、母性的というよりは凛々しく、深い瞑想にふけっているような母親の顔立ちは、まことに特徴的だ。彼は後年、おびただしい数の女性像を描きつづけたが、このような顔の女性は二度と描かなかったような気がする。

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 まるで祈りを捧げるような細長い手と、指先から咲き出したような花びらを描き足して、ピカソはこれを油彩画に仕上げた。月夜とおぼしき海岸の、「青の時代」特有の暗く沈んだ色調の中で、その花の赤さは異常なほどだ。

 『海辺の母子像』こそは、少年だったぼくにピカソの存在を強烈に刻みつけた、忘れがたき一枚である。

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