てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェスよさらば

2008年12月31日 | その他の随想


 おみくじで凶を引いてはじまったこの2008年は、ぼくにとってまことにひどい年だった。生涯最悪の一年といっても過言ではない。できることなら今すぐ記憶のなかから消し去ってしまいたいぐらいだ。風呂へ入ろうと服を脱ぐたびに、下腹部の傷がつらかった手術の記憶を思い起こさせる。

 しかしこの不景気では、2009年が今年をうわまわる最悪の年にならないという保証はどこにもない。いわゆる非正規労働者であるぼくは、明日をも知れぬ思いでびくびくしながら過ごさねばならないのであろうか? そんなぼくを支えてくれ、日々の原動力になってくれるのが美術であり、芸術だ。腹の足しにはならないが、心を豊かに満たしてくれ、明日も生きようと思わせてくれるのである。

 厳しいふところ事情のなか、今年も年末の「第九」の演奏会を聴いた。今から考えるとかなりの出費だが、チケットが売り出された数か月前にはこれほど深刻な不況が襲ってくるとは夢にも思わなかったのだ。今年最後の贅沢のつもりで、大阪中之島のフェスティバルホールに赴いた。チケットをお金に変える手段もあったのだろうが、ぼくはどうしても出かけたかった。

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 18年前に福井の実家を出て、ひとまず大阪の豊中市に落ち着いたが、そのころのぼくは美術よりもクラシック音楽の虫だった。以前の記事でも書いたことがあるが、思いがけずテレビで「第九」の全曲を耳にして、あっという間にとりこになってしまったのである。当時はすでにCDが普及しはじめていて、慣れない仕事から帰宅したあと、壁の薄いアパートの一室に疲れた体を横たえながらヘッドホンで聴くクラシックのCDがぼくの癒やしであった。

 お金がたまると、少しずつコンサートに出かけるようになった。何といっても驚いたのが、福井とはちがって毎日のようにどこかしらで公演があることと、会場となるホールの豪華さだった。今では福井にもクラシック専用のホールができているが(ただしぼくは入ったことがない)、昔は一流の演奏家が来演したときでも、文化会館のようないわゆる多目的ホールを使って間に合わせていたのである。

 フェスティバルホールにはじめて入ったときは、本当に度肝を抜かれた。ロビーにはまるで高級ホテルのような深紅のカーペットが敷き詰められ、天井からはシャンデリアがいくつも下がっている。壁面には絵画が何枚も掛けられ、過去に登場した名演奏家の写真がずらりと掲げてある。ホールの内部に足を踏み入れてみると、天井の高さに眼がくらむようだった。2700もの座席があるということで、大阪にはこんなにクラシックを愛好する人がいるのかと感心したものだ(もちろんやって来るのは大阪の人ばかりではないけれど)。

 ぼくが聴いたいくつかの公演のなかでも忘れがたいのが、朝比奈隆が大阪フィルを指揮した「第九」の公演である。毎年12月29日と30日の両日におこなわれていて、3、4回ぐらいは聴いたのではないかと思うが、一度はマエストロの後ろ姿を仰ぎ見るような位置に座ったことがあった。当時すでに80代の半ばであったけれど、聴いているほうにまで気迫が伝染するかのような熱のこもった演奏をくりひろげるかと思うと、第3楽章の美しい調べには心の底から陶酔することができた。演奏が終わると、マエストロは指揮棒を隣にいる弦楽器奏者の譜面台に挟んでこちらへ向き直るのだが、そのとき指揮棒がひどく震えているのが眼についた。年齢のせいか、それとも極度に興奮していたせいか、それはわからない。

 そんな思い出のフェスティバルホールが、今年限りで建て替えられるというのである。その最後を見届けるために、ぼくは29日の「第九」のチケットを買ったのだ。時間より早く着いてみると、人々はすでにぎっしりと集まって開場を待っている。ホールの50年の歴史を振り返るパネルや映像が展示されていて、それを熱心に見てまわる人もいる。大変な熱気だったが、今日が朝比奈隆の命日だったことに気づいた人はどれだけいただろう。

 オープンした翌年の1959年には、作曲家のストラヴィンスキーがN響を率いて自作の『火の鳥』を指揮した。そのときのモノラル映像はNHKでたびたび放送されているが、楽団員に混じって若き日の岩城宏之や黛敏郎が舞台にのっていたそうである(このふたりもすでに故人となった)。西日本の音楽シーンを支えてきた歴史あるホールが、その姿を消すのは何ともさびしい気がする。

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 この日の「第九」を振ったのは、現音楽監督の大植英次だった。彼の演奏を聴くのははじめてだが、登場してみると思ったより小柄なのに驚いた。この小さな男が、朝比奈亡き後の大阪フィルを牽引しているのである。

 彼は指揮棒を持たず、ときに歌舞伎役者が見得を切るような不思議なポーズを織り交ぜながら、熱い「第九」を聴かせてくれた。演奏については、批評めいたことはいうまい。大植は指揮者としてはまだ若いし、前任者の長い歴史に比べれば大阪フィルとのコンビも緒に就いたばかりである(余談だが、プログラムを見ていたら楽団の理事の名前の欄に橋下某とあったので驚いた。彼はいったい何をやってくれているのだろう。なくなるのはホールだけでじゅうぶんだ)。

 終演後、ロビーはちょっとした撮影会の様相を呈していた。どこかの観光地に来たみたいに肩を並べ、シャッターを押してもらう人もいた。大阪フィルのカレンダーを売っていたスタッフは、お釣りを渡すときに「よいお年をお迎えください」といっていた。年の瀬とともに、名物ホールもその任務を終えようとしているのだった。

 2013年には、同規模の新しいホールとなって生まれ変わるということだ。だが、何百年も前のヴァイオリンが今でも名器とされているように、木が音と調和して豊かな響きをかもし出すには時間がかかる。新生フェスティバルホールが本当に鳴りはじめるのは、まだまだ先の話なのかもしれない。


DATA:
 「第9シンフォニーの夕べ」
 指揮:大植英次
 管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
 合唱:大阪フィルハーモニー合唱団 他
 2008年12月29日、フェスティバルホール

(了)



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 さて、つたないブログながら、今年もお付き合いいただきましてありがとうございました。4月に大きな病気をして以来、無理をするのをできるだけ避けているので(と思っていても無理をせねばならないときが多いのですが)更新のペースは遅くなり、書きかけの記事をたくさん積み残したまま大晦日を迎えることになってしまいました。2008年、本当に悔やまれる一年でした。

 来年こそは少しでも明るい展望が開けてくれることを祈りつつ、一日一日を真剣に生きてまいりたいと思います。

 皆さま、どうかよいお年を。

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