河合隼雄さんが、息を引き取った。79歳だった。
昨年8月、脳梗塞で倒れられた当初は、そのうち何食わぬ顔をして復帰されるのではないかと思っていた。なにしろ、河合さんは「日本ウソツキクラブ」の会長でもあるからだ。「閻魔大王にね、そろそろあの世に行かせてくださいとお願いしたら、お前はまだ日本文化に対する研究が足らん、出直してこい、と怒られましてね、すごすご戻ってきましたよ」などといいながら。
だが11か月という期間は、ウソを貫き通すにはあまりにも長すぎた。この間、意識を取り戻すことはなかったという。高齢とはいえ、まだまだやり残したことがたくさんあったにちがいないと思うと、本当にやりきれない気がする。
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河合隼雄さんは臨床心理学者であり、ユング研究の権威であった。だが、ぼくは心理学の勉強をしたことはないし、ユングについてもそれほど詳しくはない。そんなぼくでも河合さんの著書を読み、その言動に何かと注目してきたのは、やはり彼自身がとてつもなく幅広い知性を備えていたからだろうと思う。
ぼくがはじめて河合さんに興味をもったのは、人から借りて読んだ『河合隼雄 その多様な世界』という本によってだった(上図、岩波書店)。これはまことに変わった本で、河合隼雄をテーマにしたシンポジウムが、河合さん本人を眼の前においておこなわれたときの記録である。パネリストがまたそうそうたる顔ぶれで、作家の大江健三郎、哲学者の中村雄二郎、児童文学者の今江祥智、生命誌研究で知られる中村桂子、ノンフィクション作家の柳田邦男というメンバーだった。ぼくは当時、大江の小説に非常に心酔していたので、知人がこの本を貸してくれたように記憶している。
それにしても、日本を代表する知性が大勢集まって、河合隼雄というたったひとりの人物について討論するというのは、考えてみればすごいことだ。それは河合さんの交友関係がいかに広かったかということでもあるが、むしろ彼が取り組んでいる心理学の問題が、現代日本がかかえる諸問題と深いつながりをもっていることのあらわれでもあろう。
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その本を読んで数年後、河合さんがNHKのテレビで3か月にわたって講義をされているのを見た。それは専門の心理学の話ではなく、日本神話をもとにしてこの国の本質を読み解くという内容のものであった。冗談好きで、いつも笑顔を絶やさない河合さんが、その番組の中ではクソ真面目な顔をして、独自の日本観を諄々と語っておられた。先ほどの本を貸してくれた知人は、真面目すぎてつまらないなどとボヤいていたが・・・。
日本という国のなりたちを、神話という“物語”に求めたところが、いかにも河合さんらしいとぼくは思う。そこには、臨床心理学者としての彼の豊富な経験が生かされているにちがいないからだ。心の病を抱える患者が相談に来ると、河合さんは性急に診断をくだすことをせず、患者が自発的に“物語”を語り出すのを辛抱強く待つのだという。なぜなら、患者本人が語る“物語”の中に、家族や社会の中におけるその人自身の位置づけがはっきり刻印されているからだ。“物語”を読み解くことにこそ、治療への道筋が隠されているというのである。
私事になるが、かつてはぼく自身も、かなり深い精神的な危機を経験したことがある。八方ふさがりの真っ暗闇の中を、手探りで進むような時期があったのだ。周囲から見放され、孤独のどん底に突き落とされたようなぼくを、もしどこかのボンクラな医者が診察したら、再起不能の重症と診断されたかもしれない。
だが、ぼくが自分を見失うことなく今まで生きてくることができたのは、ぼくを取り巻く“物語”を理解できていたからだ、と思う。ぼくが精神的な危機を迎えたのは、突然何かの病原菌に侵されたからではなく、そこに至るまでの確固としたプロセスがあったからだ。“物語”を順序よくたどっていくことで、自分が今なぜこういう事態に立ち至っているか、客観的にわかるようになってくる。そうすることで、自分という存在を受け入れることができるのである。
ぼくがこのような経験をしたのは、河合さんの存在を知るずっと前のことであったが、彼のさまざまな著作を読んでいるうちに、自分の若いころの“物語”をしみじみと思い出さないわけにいかなかった。その延長線上に、今のぼくがいるのである。“物語”はまだつづいているのだ。
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さて河合隼雄さん自身にも、その“物語”はあったはずである。だが、彼は人の“物語”を聞くことにばかり熱心で、自分のことを語ることは少なかったのではなかろうか。彼の本を読んでいると、ときおり、他人にことよせて自分のことを書いているのではないかと思われるような文章にぶつかる。たとえば、次のようなところだ。
《Kさんは大変に仕事熱心な人である。そのうえに極めて有能な人なので、入社以来、常に表街道を歩みつづけていた。他の同僚よりも早く課長になり、これからますます張り切ってゆこうと思っていたとき、病気になってしまった。「今時、あなたのような年齢で結核になる人は珍しいですね」と医者に言われたのだったが、どうしたことか、結核で休職ということになり、折角、獲得した課長の座を他人に渡さねばならなくなった。(略)
Kさんは病気の宣告を受けて悲観してしまった。残念で仕方がなかった。ところが不思議なことに、心の片隅で何だか「ほっとしている」ような感じがあった。(略)
Kさんはこのことを主治医に話してみると、「結核というのは、なったときに何だかほっとするという人が案外多いのですよ」という返事が返ってきた。医者は微笑しながら、「一度ゆっくり休め、と言うことですな」とつけ加えた。この一言で、Kさんは事態がよく解(わか)った。確かにKさんは何らかの意味でゆっくり立ちどまり、自分の生き方をふりかえってみる必要があったのである。
このようなことがあったので、復職後のKさんは焦らなかった。それは確かに陽の当たらぬ場所であった。しかし、そこから見る世界は、陽の当たる場所から見る世界とは、また異なるおもむきがあった。人の親切というものの味も前よりはよく解るようになった。こんなKさんを他人は、病気をして人間がひとまわり大きくなったと評した。》(『働きざかりの心理学』新潮文庫)
今だからいえるのであるが、この「Kさん」というのはまさに「河合さん」のことだったのかもしれない。彼は民間人として文化庁長官に抜擢され、高松塚古墳の問題などに頭を抱えつつも、精力的に行動した。関西で催される展覧会などのチラシには「関西から文化力」と書いたロゴマークが印刷されていることがあるが、これは河合さんによって提唱された「関西元気文化圏」というプロジェクトの一環であることを示している。
残念なことに、河合さんを襲ったのは結核ではなく、重い脳梗塞だった。彼は自分の生き方を振り返るいとまもなく、長い昏睡状態の後に、帰らぬ人となった。もし河合さんが、本当に閻魔大王から追い返されていたら、今度は“陽の当たらぬ場所”に腰を据えて、どんなにか素晴らしい仕事をされたろうにと思うと、かえすがえすも残念でならない。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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時間差の書き込みになりますが、お許しください。
「奥田元宋さん・寂静」で検索しましたところ、テツさんのブログにHITし、それ以来読ませて頂いてます。
今・・・物語の坂の途中。
少し疲れた時。
何か・・・心の中で、溶けていくのを感じられました。
書店に寄ってみます。
ご愛読いただきありがとうございます。
ぼくもいつも「坂の途中」にいるようなもので、なかなか頂上は見えませんが、気長に書きつづけていくつもりです。
これからもよろしくお願いします。