てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

運動音痴のスポーツ談義(2)

2009年08月22日 | その他の随想


 ボルトとはちがって、誰とも競り合おうとせず、ひとり黙々と世界記録更新に熱意を傾けるアスリートもいる。その代表的なひとりが、棒高跳びの女王と呼ばれるエレーナ・イシンバエワだと思う。今度の「世界陸上」では一度も跳ぶことができず、ボルトとは逆の意味で世界を驚かせた。

 イシンバエワがすでに女子棒高跳びの選手として偉大な金字塔を打ち立てているのは周知の事実だが、そこに満足することなく、常に記録に挑戦しつづけていることがわれわれを魅了する。彼女は他の選手の試技さえろくに見ようともしない。タオルをかぶって自分の世界にこもってしまう。一見すると休んでいるようにしか見えないが、そのとき彼女の内側ではネジがいっぱいに巻かれ、起爆剤が充填され、大きな跳躍へ向けてのパワーが刻々と準備されているのであろう。ライバルに触発されて奮起するタイプの選手ではなく、神が降りてくるのを待つ芸術家の姿に似ている。

 すでに孤高のレベルにありながらさらに上を目指すことは、想像以上の困難をともなうにちがいない。彼女は必然的に、棒高跳びの競技会を「イシンバエワ・ショー」のように演出さぜるを得なくなる。導火線に火をつけるのは、記録では足もとにも及ばないような他の選手たちではなく、大観衆から浴びせられる熱い注目であり、スタジアムを揺るがす声援であり、手拍子である。ワンマンショーの主役がもし失敗をやらかしたとき、そのあとにはいかなる試練が待ち受けているか、わかっているはずではあるけれど。

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 しかし今回、イシンバエワは跳べなかった。なぜなのか、いったい何があったのか、それは知らない。

 きくところによると、予兆はあった。先月、ロンドン・グランプリという大会でポーランドのロゴフスカという選手に敗れていたという。イシンバエワの存在が巨大すぎて、他の棒高跳び選手の名前をいわれてもピンとこないのだが、今回「世界陸上」ベルリン大会で金メダルに輝いたのは、そのロゴフスカだった。例によってタオルをかぶり、ドリンクの入ったケースに足をかけて(女王だから許される行動だろう)人知れずエネルギーを蓄えていたイシンバエワは、3回跳躍するも一度も成功せず、まるで子供のように両手で顔をおおった。信じられないような、まさに最悪の負け方だった。

 そのとき思い出したのが、かつて男子の王者だったセルゲイ・ブブカのことだ。「鳥人」ともてはやされ、彼の世界記録はいまだに破られていないが、その去り際はみじめだった。シドニーオリンピックのときだったか、今回のイシンバエワと同じように一度も跳べずじまいだった彼は、ぼくのおぼろげな記憶では非常に取り乱し、ユニフォームの上半身を脱いで半裸の状態で何かをわめいていたように思う。ブブカはそれを機に現役を退くが、あの鳥人の引退レースともいうべき最後の姿にしては、あまりにもぶざまだった。

 人間たるもの、ましてやスポーツ選手たるもの、いつまでも世界のトップに君臨することはできない。彼らが本当に輝くことができるのは、長い一生からすればほんの一瞬にすぎないのだ。その一瞬がまたたく間に去り、次なる世代へと王座を明け渡すとき、彼らはどのように振る舞うのか。それは、極端ないい方だが、人が死ぬときにどのような態度をとるかという問題とも結びつくような気がする。やるべきことはやったと、穏やかに死を迎えるか、まだ死にたくないと泣き叫びながらそのときを迎えるか・・・。

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 “記録なし”に終わった女王イシンバエワは、メディアのインタビューに懸命に答えながらも、その眼からはぼろぼろと涙を流していた。彼女の耳たぶには、水から跳ね上がろうとするイルカのピアスが輝いていた。

 イルカだって、一度は深く水にもぐらないと跳びはねることができない。ベルリンという地で水中深くもぐってしまったイシンバエワは、必ずやふたたび天高く舞い上がってくれるだろうと信じたい。

(画像は記事と関係ありません)

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