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盲腸で入院中、腹の傷はずいぶん痛むが頭は奇妙に冴えわたり、来る日も来る日もいろんなことを考えた。ついこの間まで眼の回るほど忙しく働いていたくせに、突然することがなくなると、時間が経つのがあまりにも遅くて退屈きわまりない。そんなとき、ぼくの頭をしばしばよぎったのが、俳人正岡子規のことだった。
いったいなぜだろう。子供のころに俳句をちょっとかじったことはあるが、特に子規の句を読んだりしたことはなく、すっかりいい大人になるまでほとんど何の興味ももたずにきた人物だった。もちろん髪のない横顔の肖像写真はよく知っているのだが、頭に浮かぶ句といえば「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」ぐらいである。小学校のころ、同級生が間違えて「鐘が鳴る鳴る法隆寺」といっていたりしたものだ。
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ぼくがふと子規のことを考えるようになったのは、彼が晩年の長い年月を病床で過ごしたことを思い出したからだった。ぼくはといえばもちろん死の床に伏しているわけではなくて、やがて傷口がふさがれば退院できるにちがいないけれど、後から調べてみると子規は重度の脊椎カリエスで、3年間も寝たきりだったという。その病気がどんなに苦痛をともなうものなのか、ぼくは経験していないので知りようがないが、相当痛いものらしい。歩くことはおろか、座ったり寝返りを打ったりすることもできない状況だったそうだ。
しかしぼくがすごいと思うのは、すさまじい病苦にさいなまれながらも、子規が毎日のように筆をとっていたということである。俳人というものは、季節を愛でるために外をそぞろ歩いたりするものではないかと思っていたが、子規は家から一歩も出ることができないのに、病床でも句を詠んでいる。さらには、他人の句に痛烈な批判を浴びせたりもしている。そればかりか、日常のこまごましたことを仔細に綴ってもいる。
ぼくは退院してすぐ、子規が最晩年にしたためた『病牀六尺』を買い求めた。子規の枕元には弟子である伊藤左千夫や高浜虚子らが交替でかよってきて、俳句の投稿誌を見せたり、よもやま話をしていったりしたらしく、誰が来てどんな話をした、ということが書かれている。
驚くのは、すでに死神の足音が聞こえていたにちがいない正岡子規が、自分の専門ではないさまざまなことがらに大いなる好奇心を示していることである。釣りの餌が地方によってどんなにちがうか、といったことから、能楽と芝居の関係についてや、西欧列国のなかにおける日本の位置づけにまで話が及ぶ。六尺、つまりおよそ180センチの小さな世界で考えたとは思えない、広範な視野をもちつづけていたようなのである。
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だが、病状がかんばしくないときには彼もつい取り乱して、次のような言葉を書き連ねることもあった。
《爰(ここ)に病人あり。体痛みかつ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執つてものを書く事は到底出来得べくもあらず。而して傍に看護の人なく談話の客なからんか。如何にして日を暮すべきか、如何にして日を暮すべきか。》(六月十九日)
《もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入つてやうやう減じ僅かに眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。》(六月二十日)
最後に2度ずつ繰り返される言葉は、手術直後のぼくの心をかすめた言葉でもある。しかし子規の場合には、およそ比較にならないほど深刻であったのはいうまでもない。それはまさしく、断末魔の叫びとでもいうほかないものだ。
そんな子規の苦痛をいささかでも減じ、彼の心に束の間の光明をもたらしたのは、美術であった。子規が稀代の美術通であったということを、ぼくはこの本を読むまで全然知らなかったのである。
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