てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

波の音の狭間に(1)

2009年02月12日 | てつりう文学館

田宮虎彦

 まだ福井にいた17歳のころ、大阪にある文学の教室に通信教育生として入学した。学費は安くなかったが、親がすべて出してくれた。こうなったからには意地でも文学で身を立てなければならない、などとぼくは考えていた。それがどんなに困難なことかも知らないで・・・。

 ほどなく、ワープロ打ちしたものを簡易輪転機で刷ったような粗末なテキストが送られてきた。小説の文体について、とか何とかいうタイトルで、主に戦後に書かれた名作のなかから特徴ある書き出しが集められてあった。ただ、そのなかにはぼくが読んだ覚えのある作品はほとんどなかった。小説といえば何よりストーリーが大切で、文体のもつ意味などというものに思いを致したことは、これまでただの一度もなかったのだ。

 『吾輩は猫である』や『雪国』、『走れメロス』の書き出しなら、誰でも知っている。それらは簡潔な言葉で書かれたわかりやすい導入部だ。だが、テキストに取り上げられていた田宮虎彦の『足摺岬』の書き出しは、あまりにも晦渋で、読みつづける気持ちを萎えさせるような重たさと暗さとをもってのしかかってくるのだった。

 《石礫のように檐(のき)をたたきつける烈しい横なぐりの雨脚の音が、やみ間もなく、毎日、熱にうかされた私の物憂い耳朶(じだ)を洗いつづけていた。病み疲れていたその私も、私がくるまり横たわっている薄い煎餅布団も、指でおせば濁った雨水がじとじとにじみ出そうなささくれだった畳も、すべてが今に白くふやけ、そのまま腐りはててしまいそうであった。》

 この文章の陰気さにもまして、その年の春に作者の田宮虎彦が飛び降り自殺を遂げていたことも、ぼくの心を重く押さえつけていた。わざわざ文学史をひもといてみなくても、自殺した作家なら指折り数えることができるが、最近では珍しいことだったので、そのニュースはぼくの脳裏にいつまでもこびりついていたのである。これから作家を目指そうという若者にとって、それはまことに幸先の悪い報せのように思われた。

                    ***

 翌年、NHKで放送されていた「テレビ文学館」という朗読番組のなかで、はじめて『足摺岬』の全篇に接することになった(読んでいたのは中尾彬である)。驚いたことに、それは自殺願望をいだいたひとりの学生の物語だった。彼は身のまわりのあらゆるものをたたき売って、自分の死に場所に思い定めた足摺岬までやって来るのだ。

 《私は死にたかった。死ぬ以外に自分を支えるものがなかった。だが、あの時、私はなぜ足摺岬などを死場所にえらんだのだろう。数十丈の断崖の下に逆巻く怒濤が白い飛沫をあげてうちよせ、投身者の姿を二度と海面に見せぬという、いつか誰かに聞いた言葉が、私の心のどこかにきざみこまれていたのだろうか。私は自分が黒潮にまきこまれ、どこか知らぬ海の涯(はて)に押し流されて行く姿を心にいだきうかべていたのであった。》

 この部分を聞いて、ぼくはいつか見た風景を思い出していた。福井の東尋坊と呼ばれる海岸の、垂直に切り立った絶壁である。名勝とされているが、そこが自殺の名所ともいわれていることを、子供のころからぼくは知っていた。誰かがそこから身を投げたとか、あるいは未遂に終わって保護されたというニュースは、いちいち新聞に載らないほどありふれた話であるかのように、福井の人たちは考えていたのである。番組のなかでは実際に足摺岬で撮影したらしい荒れ狂う波の映像が繰り返し流れ、ますます気分を曇らせた。小説を読みすすむということは(そのときは耳で聞いていたのであったが)これほどつらいことなのか、文学とはこんなに苦しいものなのか、とぼくは自分に問いかけずにはいられなかった。

 それというのも、そのころ自分の家にいたたまれないような気がしだして、遠いところでひとり暮らしをはじめることを本気で考えていたからかもしれない。将来の生活を支えてくれるはずの勉学をおろそかにして、文学だの音楽だのに夢中になっているぼくを理解してくれる人は誰もいなかった。ただ、ぼくは幸いなことに東尋坊へも足摺岬へも行こうとは思わず、大阪でほそぼそと働きながら生きていくことを選んだのだった。

 かくして、田宮の死から2年ほど経った4月のある日、ぼくは日本海の荒波の誘惑から逃げ出すように、大阪行きの特急雷鳥に乗り込んだ。たちまち眼のくらみそうな都会の生活に投げ込まれ、おしつぶされそうになりながらも心の充実を求めて忙しい日々を送るようになると、田宮虎彦の名を改めて思い起こすこともなく、『足摺岬』のなかに通奏低音のように流れる雨の音や波の轟きをも遠く忘れ去ってしまった。

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