てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

クロキョーさん、逝く

2009年06月04日 | その他の随想


 音楽評論家の黒田恭一さんの訃報を聞いたとたん、あの少し舌足らずな、しかし誠実さにみちあふれた声を思い出した。

 ぼくが子供のころから、ラジオやテレビなどで黒田さんには親しんできた。FM放送の「20世紀の名演奏」や、教育テレビで放送された過去の名演を特集した番組などの司会を務め、慣れないはずのバーチャルスタジオで歩きながら朴訥に語りかける姿が眼に残っている。といっても最近はクラシックを聴く機会も減っているので、“黒田節”を耳にすることもあまりなかったけれど・・・。

 クラシック音楽のファンや専門家というと、やたら難解な専門用語を駆使してうれしがっている人が少なくないが、そういった態度がクラシックを孤立させていることを、彼はよく知っていた。クラシックという未知の宝の山に人々を優しく導くことが、自分の任務だと思っていたのだろう。誰にでも通じる言葉で、わかりやすい解説を心がけていた。気に入らない演奏を容赦なく切って捨てる評論家が多いなかで、感情的になることなく冷静さを保ち、人を傷つけるような表現は絶対にしない人だった。ひとことでいえば、品格のある態度を貫いた。

 だからといって、変に高尚ぶったりすることもなかった。「ぼく」という一人称で綴られるその文章は、親戚のおじさんが語りかけてくれるようなあたたかみがあった。かくいうぼく自身が常に「ぼく」という一人称を使ってブログを書いているのも、黒田さんの影響が全然なかったわけではない。ついでにいうと、彼は『はじめてのクラシック』(講談社現代新書)という著書のなかで「きく」という動詞の表記を「聞く」にするか「聴く」にするか悩み、結局はどちらでもない「きく」に統一したと書いている。ぼくは絵を「みる」ときの表記を「観る」、それ以外は「見る」と使いわけることにしているが、最初は黒田さんにならってすべてを「みる」で統一しようかと考えたこともあるのである。

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 しかし温厚な黒田さんも、ある企画盤のCDに向かって厳しい批判をしたことがあった。もうずいぶん前に雑誌で読んだので詳しいことは覚えていないが、当時人気を集めていた「きんさんぎんさん」という長寿姉妹がいた。彼女たちをパーソナリティーのようにして、曲の合間にトークを挟むという内容で、クラシックの小品のアンソロジーが発売されたのである。それを聴いた黒田さんは、おこった。

 CDには、「きんさんぎんさん」にちなんでレハールのワルツ『金と銀』が収録されていた。その演奏が終わった後で、ふたりが「いい曲ねえ」「あたしたちの曲だね」などと語り合う声が収録されていたそうである。もちろん台本どおりにしゃべっているだけだが、黒田さんは一過性のブームに抱き合わせてクラシックを大衆に売り込もうという商業主義に強く反発したのだろう。やり方としてはてっとり早いかもしれないが、そうではなくて心から音楽に耳を傾け、理屈抜きで「ああ、音楽っていいなぁ」と思ってくれる人を増やすことが、クラシック音楽の裾野を広げることだと信じていた。

 ぼくが『はじめてのクラシック』を読んだのはもう何年も前のことだが、今改めて買ってみると、新書の帯に「『のだめカンタービレ』でクラシックにハマった人へ」と書かれている。この宣伝文句も、いわば「きんさんぎんさん」の例と同じで、黒田さんはあまり喜ばなかったのではないかと思う。

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 同書のなかで、黒田さんはクラシック音楽を聴きつづけることを旅にたとえ、こんなことを書いている。

 《もしかすると、ほかにもっともっと素敵な音楽があるかもしれないのに、旅をつづけず、わらじをぬいでしまえば、みられるはずの景観もみられないままである。それが、もったいない、とは思いませんか?》

 そういわれると、もったいない、と思えてきた。ぼくも運よく小学生のころにクラシックと出会い、途中までは素敵な旅をつづけてきたのだ。今からでも遅くはない、とにかく音楽に耳を傾ける機会を増やしたいと思う。ただ、これからは黒田さんに水先案内をしてもらえないのが残念ではあるけれど。

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 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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