〈あすを探る〉AKB的「劇場」を政治に、を評する(ナッキー)
朝日新聞の記事を引用して感想を。
濱野氏は、AKB選抜総選挙の熱気について語っているけど、
選挙に参加するには、お金で権利を買わなくてはなりません。
大正時代に、普通選挙法が導入される前には、一定額の税金を納めている人にしか選挙権がなかったので、それに近いのです。
普通選挙法前の選挙は、税金の額にかかわらず個人には一票だったのですが、AKB選抜総選挙は、投入した金額(大島優子的には愛の大きさ)と投票の権利が比例します。
選抜総選挙とは、ファンの数を競いつつ、タニマチの財力を競っている。
この事実は、ファンであれば、誰でも知っていますが、朝日新聞の読者は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。
濱野氏の文章を読んで、現実の政治も、AKBのようになるべきだと、短絡的に考える人が出るのではないか、心配になり、書きました。
濱野氏の、政治は素人が始め成長させていくべき、との論旨には賛同。しかし、それは、菅首相、野田首相がその一例であるよに、AKBの前の時代から、繰り返し実現されている。
選抜総選挙の翌日の朝刊で、社説でとりあげられるかもしれません。そこには、
ファンにとって楽しいイベントであるが、ファンの射幸心をあおり(大島優子的には、愛の大きさの競争をあおり)
という趣旨の一文が入ると予想。これがないと社説にならないから。
ナッキー
〈あすを探る〉AKB的「劇場」を政治に
■濱野智史(批評家)=メディア
総選挙の季節がやってきた。AKB48の選抜総選挙である。もはや日本で「総選挙」といえば、AKBのそれは無視できない規模にまで大きくなった。たかがアイドルのファン投票イベントではないかと、侮ってはいけない。そこには、いまこの長い政治低迷にあえぐ日本社会を突破するための、重要なヒントが隠されているように思われるからだ。
それはどういうことか。あの震災の日以来、政治家と民衆の信頼関係は決定的に絶たれてしまった。右も左も、メディアは政治家のリーダーシップ不在を叩(たた)いてきた。しかし、いざ橋下徹大阪市長のような強力なリーダーが登場すると、ポピュリズムだファシズムだなどと批判する。こうした不毛な議論が続くようでは、「どうせ誰が選ばれても変わらない」という政治へのシニシズムはますます強まるばかりだろう。
一方、AKBの総選挙はシニシズムからほど遠い。メンバーの側もファンの側も実に真剣にこのイベントに取り組んでいる。若者の政治的無関心が叫ばれて久しいが、果たして何がここまで彼/彼女たちを本気にさせているというのか。
その背景にあるのが、AKBの徹底的な「現場主義」である。よく知られるように、AKBは劇場でほぼ毎日公演を行っている。そしてCD発売のたびに握手会を行い、ファンとの対話の場が設けられる。そこで積み重ねられる無数のファンとメンバーの絆があるからこそ、AKBの総選挙は巨大な熱気を帯びる。
これはネットが普及したグローバル化時代特有の現象であると、筆者は考えている。いまやネットでたいがいの情報は検索できてしまう。郊外化とグローバル化のせいでどの街も同じ光景が広がっている。しかし、AKBは違う。劇場や握手会という「現場」に行かなければ、得られない経験がある。ネット時代だからこそ、リアルの「現場」での繋(つな)がりが価値を持つのだ。
近年のIT業界では「スモールスタート」という言葉が注目されている。小さな規模からサービスの開発を始め、ユーザーからの意見を聞きながら柔軟に開発を進めていく、というスタイルである。フェイスブックもツイッターも、はじめはごく小規模なサービスだった。ネット環境は作り手とユーザーの距離を縮め、「小さなことからコツコツと」の手法こそが強みを持つようになる。
AKBグループはまさにこのスモールスタートを地方で展開し続けてきた。実際、今回の総選挙でもSKE48(名古屋の栄が拠点)等の地方グループの躍進が目立っている。いまや名古屋だけでなく大阪、博多、ジャカルタにも劇場がある。「小さな現場」が次々と地域に展開されているからこそ、AKBの勢いは一過性のブームで終わらないのだ。
筆者も先日、HKT48(博多)の劇場を訪れる機会があった。狭い劇場だが、だからこそ舞台と観客の距離は近く、声援もダイレクトに届く。ステージ上の彼女たちはまだ幼いが、ファンからの声援を受けて学習し、成長していく。ファンはその成長を熱い眼差(まなざ)しで見守っていく。
いま日本の政治に求められているのは、まさにこの「劇場」のような場ではないだろうか。たとえ稚拙で未成熟であっても、それを頭ごなしに「批判」するのではなく、その成長を「見守る」こと。リアルの現場とネットの対話ツールを組み合わせることで、政治家と民衆の距離をより近づけ、小さなことからコツコツとともに考え、互いに成長できるような場をつくることはできないか。
震災後の日本で、そんな悠長なことをいっている場合ではないと思われるかもしれない。しかし、こうした長期的な信頼関係を政治家と民衆のあいだに取り戻さなければ、この国の未来はないだろう。AKB的スモールスタートの実践こそが、それを可能にするはずである。
◇
はまの・さとし 1980年生まれ。批評家。日本技芸リサーチャー。専門は情報社会論。著書に『アーキテクチャの生態系』
ホーム最新の朝刊一面最新のYou刊一面
AKBと関係のない話を一つ。
昨日の野田首相と小沢一郎の会談を、朝日新聞は、「自民失望」、日経新聞は、「野田首相、自民と連携へ」と報じている。
相撲にたとえると、一紙が、稀勢の里優勝争いから後退、一紙が、稀勢の里優勝に近づく、と報道するようなもの。
スポーツと異なり、政治は白黒がはっきりつかない。ナッキー
朝日新聞の記事を引用して感想を。
濱野氏は、AKB選抜総選挙の熱気について語っているけど、
選挙に参加するには、お金で権利を買わなくてはなりません。
大正時代に、普通選挙法が導入される前には、一定額の税金を納めている人にしか選挙権がなかったので、それに近いのです。
普通選挙法前の選挙は、税金の額にかかわらず個人には一票だったのですが、AKB選抜総選挙は、投入した金額(大島優子的には愛の大きさ)と投票の権利が比例します。
選抜総選挙とは、ファンの数を競いつつ、タニマチの財力を競っている。
この事実は、ファンであれば、誰でも知っていますが、朝日新聞の読者は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。
濱野氏の文章を読んで、現実の政治も、AKBのようになるべきだと、短絡的に考える人が出るのではないか、心配になり、書きました。
濱野氏の、政治は素人が始め成長させていくべき、との論旨には賛同。しかし、それは、菅首相、野田首相がその一例であるよに、AKBの前の時代から、繰り返し実現されている。
選抜総選挙の翌日の朝刊で、社説でとりあげられるかもしれません。そこには、
ファンにとって楽しいイベントであるが、ファンの射幸心をあおり(大島優子的には、愛の大きさの競争をあおり)
という趣旨の一文が入ると予想。これがないと社説にならないから。
ナッキー
〈あすを探る〉AKB的「劇場」を政治に
■濱野智史(批評家)=メディア
総選挙の季節がやってきた。AKB48の選抜総選挙である。もはや日本で「総選挙」といえば、AKBのそれは無視できない規模にまで大きくなった。たかがアイドルのファン投票イベントではないかと、侮ってはいけない。そこには、いまこの長い政治低迷にあえぐ日本社会を突破するための、重要なヒントが隠されているように思われるからだ。
それはどういうことか。あの震災の日以来、政治家と民衆の信頼関係は決定的に絶たれてしまった。右も左も、メディアは政治家のリーダーシップ不在を叩(たた)いてきた。しかし、いざ橋下徹大阪市長のような強力なリーダーが登場すると、ポピュリズムだファシズムだなどと批判する。こうした不毛な議論が続くようでは、「どうせ誰が選ばれても変わらない」という政治へのシニシズムはますます強まるばかりだろう。
一方、AKBの総選挙はシニシズムからほど遠い。メンバーの側もファンの側も実に真剣にこのイベントに取り組んでいる。若者の政治的無関心が叫ばれて久しいが、果たして何がここまで彼/彼女たちを本気にさせているというのか。
その背景にあるのが、AKBの徹底的な「現場主義」である。よく知られるように、AKBは劇場でほぼ毎日公演を行っている。そしてCD発売のたびに握手会を行い、ファンとの対話の場が設けられる。そこで積み重ねられる無数のファンとメンバーの絆があるからこそ、AKBの総選挙は巨大な熱気を帯びる。
これはネットが普及したグローバル化時代特有の現象であると、筆者は考えている。いまやネットでたいがいの情報は検索できてしまう。郊外化とグローバル化のせいでどの街も同じ光景が広がっている。しかし、AKBは違う。劇場や握手会という「現場」に行かなければ、得られない経験がある。ネット時代だからこそ、リアルの「現場」での繋(つな)がりが価値を持つのだ。
近年のIT業界では「スモールスタート」という言葉が注目されている。小さな規模からサービスの開発を始め、ユーザーからの意見を聞きながら柔軟に開発を進めていく、というスタイルである。フェイスブックもツイッターも、はじめはごく小規模なサービスだった。ネット環境は作り手とユーザーの距離を縮め、「小さなことからコツコツと」の手法こそが強みを持つようになる。
AKBグループはまさにこのスモールスタートを地方で展開し続けてきた。実際、今回の総選挙でもSKE48(名古屋の栄が拠点)等の地方グループの躍進が目立っている。いまや名古屋だけでなく大阪、博多、ジャカルタにも劇場がある。「小さな現場」が次々と地域に展開されているからこそ、AKBの勢いは一過性のブームで終わらないのだ。
筆者も先日、HKT48(博多)の劇場を訪れる機会があった。狭い劇場だが、だからこそ舞台と観客の距離は近く、声援もダイレクトに届く。ステージ上の彼女たちはまだ幼いが、ファンからの声援を受けて学習し、成長していく。ファンはその成長を熱い眼差(まなざ)しで見守っていく。
いま日本の政治に求められているのは、まさにこの「劇場」のような場ではないだろうか。たとえ稚拙で未成熟であっても、それを頭ごなしに「批判」するのではなく、その成長を「見守る」こと。リアルの現場とネットの対話ツールを組み合わせることで、政治家と民衆の距離をより近づけ、小さなことからコツコツとともに考え、互いに成長できるような場をつくることはできないか。
震災後の日本で、そんな悠長なことをいっている場合ではないと思われるかもしれない。しかし、こうした長期的な信頼関係を政治家と民衆のあいだに取り戻さなければ、この国の未来はないだろう。AKB的スモールスタートの実践こそが、それを可能にするはずである。
◇
はまの・さとし 1980年生まれ。批評家。日本技芸リサーチャー。専門は情報社会論。著書に『アーキテクチャの生態系』
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AKBと関係のない話を一つ。
昨日の野田首相と小沢一郎の会談を、朝日新聞は、「自民失望」、日経新聞は、「野田首相、自民と連携へ」と報じている。
相撲にたとえると、一紙が、稀勢の里優勝争いから後退、一紙が、稀勢の里優勝に近づく、と報道するようなもの。
スポーツと異なり、政治は白黒がはっきりつかない。ナッキー
自己の内容のない人間は、何事にも否定形と消去法を使って反応する。
この行いが、自己の意見の表明であるとの錯覚に陥っている。
だから、議論が不毛になる。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
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