北近江は、中山道から北国街道への分岐点に「小谷城(おだにじょう)」址がある。城主は、浅井長政(あざい ながまさ)と言う戦国武将。戦国時代から安土桃山時代にかけて北近江を所領とし、15歳の元服時に浅井家の3代目当主となった経歴があり、一昨年のNHK大河ドラマ「お江」浅井三姉妹の父である。下から小谷城址を見上げると、右から登って尾根伝いに左から下りて来れそうだ。登り口の長政の兜のモニュメントは2mほどあって特大クラス。
上の「番所跡」付近から、下の「虎御前山」を見下ろす。
小谷城へ上がる者あれば、最初の難関「番所」が待ち構えており、ここで侵入者を選別したのだろう。この付近からびわ湖方面を見下ろすと、目と鼻の先に「虎御前山」があり、「姉川の戦い」後の勝利者信長が、かかって来いと言わんばかりに長政を挑発する場所に陣を張ったと云われている。鉄塔の右側が信長で左側が家康、信長の右側が池田・羽柴・柴田・丹羽と言ったそうそうたるメンバーであったのだ。尚、明智は京都守護職も兼務していたことから、この地での陣跡は発見されていないと言うことだ。
更に遠くを眺めると‥‥左画像の右奥の山が「姉川の戦い」後に信長勢に寝返ったという阿閉定征(あつじさだまさ)の「山本山城」で、小谷城への兵糧援護はこの城から行っていたと云われている。その向こうはびわ湖で、やや左の霞む島が「竹生島」だが、中国からの有害物質PM2.5さえなかったら、去年撮った右画像くらいには見えるはずだ。
そして「竹生島」を望遠レンズで狙ったが霞んでいる。
もともと「長政」が北近江の戦国大名として名を馳せたのは、浅井の二代目「父・久政」を、当時の家臣が琵琶湖に浮かぶ上の「竹生島」に隠居させたことから始まる。家督を引継いだ「長政」は、15歳の若さで軍を率い信長の妹「お市」との政略結婚で出来た「織田浅井同盟」は、浅井家が最も繁栄を極めた時期であったが、その同盟に当初から反対していた家臣達が、都合良く隠居の父「久政」をかつぎ出した。このような家臣が勝手な行動に出る統率力が、もともとの一向一揆集団「浅井家の弱点」でもあるのだ。
番所の次には「御茶屋跡」がある‥‥‥。
「御馬屋跡」のお次は「馬洗池」と続くのだが、飲料水も大事な山城のことなので、馬を洗うだけのため池とは考え辛く、実は生活用水にしていたのではないかと考えられる。
この区切りの土手が、飲料水と生活用水の区分であると考えても良さそうだ。
本丸方向へと足を進めると「桜馬場跡」と「浅井家供養塔」があるが、いざ小谷の麓での合戦を想定すれば、攻撃側としては「馬出し」がスムーズに行かないばかりか、一列縦隊で困難を極めるものとなるだろう。後に秀吉が任されるこの「小谷城」だが早々と見限って、迅速に攻撃に移れる「長浜城」へ居城を移したのは誰もが知るところだ。
家臣の勝手な考えで担ぎ出された久政は、越前朝倉家に進撃する織田軍を挟み討ちするよう長政に提案し、その意見に押し切られた長政の決断で織田との同盟は解消されたと云う。久政の時代に裏切り者の首を晒したと伝わる「首据石」は、上部が平らになっている。
「黒金門跡」付近から見渡すと「姉川の戦い」時は、浅井の支城「横山城(左やや奥の山頂)」で、この城も信長軍団に包囲され、右側に伸びる龍が寝そべった姿からそう呼ばれた「龍ヶ崎」に信長の軍23000が本陣を張ったと云う。その手前のグリーンベルトのようなものが「姉川」で、左手前の「大依山」に浅井長政軍8000の陣、その右側のやや広いところに朝倉軍10000の陣があって、徳川6000の陣は朝倉に横槍を浴びせるために、姉川向こう岸右側の離れたところに兵が潜んだと云う。
この図解は大方の見解通りに、徳川が朝倉と対峙したようになっているが、信長軍が開戦当初押し込まれて信長本陣まで迫られた事実から、実は浅井・朝倉同盟軍で、信長を奇襲したと見られる。徳川はあくまでも別動隊で、虎視眈々と朝倉の側面を狙ったと思うのだが‥‥如何だろう? 今回は自分の知識を殴り書くように、キーボードを叩いたので重複していることや、辻褄が合わないところがあるかもしれないが、徐々に完成品に近づけて行きたい。湖岸から竹生島を眺める‥‥湖面が眩しい。
次回【後編】←※つつくと後編にリンクは、黒金門から「小谷城本丸」へと進入するので乞うご期待!
コミック本「信長協奏曲」や「信長のシェフ」は、幼稚な作りごとなどは書かれていないばかりか、各主人公の出来事を史実に沿って融合させて書かれている完成度に驚かされることがある。
上の「番所跡」付近から、下の「虎御前山」を見下ろす。
小谷城へ上がる者あれば、最初の難関「番所」が待ち構えており、ここで侵入者を選別したのだろう。この付近からびわ湖方面を見下ろすと、目と鼻の先に「虎御前山」があり、「姉川の戦い」後の勝利者信長が、かかって来いと言わんばかりに長政を挑発する場所に陣を張ったと云われている。鉄塔の右側が信長で左側が家康、信長の右側が池田・羽柴・柴田・丹羽と言ったそうそうたるメンバーであったのだ。尚、明智は京都守護職も兼務していたことから、この地での陣跡は発見されていないと言うことだ。
更に遠くを眺めると‥‥左画像の右奥の山が「姉川の戦い」後に信長勢に寝返ったという阿閉定征(あつじさだまさ)の「山本山城」で、小谷城への兵糧援護はこの城から行っていたと云われている。その向こうはびわ湖で、やや左の霞む島が「竹生島」だが、中国からの有害物質PM2.5さえなかったら、去年撮った右画像くらいには見えるはずだ。
そして「竹生島」を望遠レンズで狙ったが霞んでいる。
もともと「長政」が北近江の戦国大名として名を馳せたのは、浅井の二代目「父・久政」を、当時の家臣が琵琶湖に浮かぶ上の「竹生島」に隠居させたことから始まる。家督を引継いだ「長政」は、15歳の若さで軍を率い信長の妹「お市」との政略結婚で出来た「織田浅井同盟」は、浅井家が最も繁栄を極めた時期であったが、その同盟に当初から反対していた家臣達が、都合良く隠居の父「久政」をかつぎ出した。このような家臣が勝手な行動に出る統率力が、もともとの一向一揆集団「浅井家の弱点」でもあるのだ。
番所の次には「御茶屋跡」がある‥‥‥。
「御馬屋跡」のお次は「馬洗池」と続くのだが、飲料水も大事な山城のことなので、馬を洗うだけのため池とは考え辛く、実は生活用水にしていたのではないかと考えられる。
この区切りの土手が、飲料水と生活用水の区分であると考えても良さそうだ。
本丸方向へと足を進めると「桜馬場跡」と「浅井家供養塔」があるが、いざ小谷の麓での合戦を想定すれば、攻撃側としては「馬出し」がスムーズに行かないばかりか、一列縦隊で困難を極めるものとなるだろう。後に秀吉が任されるこの「小谷城」だが早々と見限って、迅速に攻撃に移れる「長浜城」へ居城を移したのは誰もが知るところだ。
家臣の勝手な考えで担ぎ出された久政は、越前朝倉家に進撃する織田軍を挟み討ちするよう長政に提案し、その意見に押し切られた長政の決断で織田との同盟は解消されたと云う。久政の時代に裏切り者の首を晒したと伝わる「首据石」は、上部が平らになっている。
「黒金門跡」付近から見渡すと「姉川の戦い」時は、浅井の支城「横山城(左やや奥の山頂)」で、この城も信長軍団に包囲され、右側に伸びる龍が寝そべった姿からそう呼ばれた「龍ヶ崎」に信長の軍23000が本陣を張ったと云う。その手前のグリーンベルトのようなものが「姉川」で、左手前の「大依山」に浅井長政軍8000の陣、その右側のやや広いところに朝倉軍10000の陣があって、徳川6000の陣は朝倉に横槍を浴びせるために、姉川向こう岸右側の離れたところに兵が潜んだと云う。
この図解は大方の見解通りに、徳川が朝倉と対峙したようになっているが、信長軍が開戦当初押し込まれて信長本陣まで迫られた事実から、実は浅井・朝倉同盟軍で、信長を奇襲したと見られる。徳川はあくまでも別動隊で、虎視眈々と朝倉の側面を狙ったと思うのだが‥‥如何だろう? 今回は自分の知識を殴り書くように、キーボードを叩いたので重複していることや、辻褄が合わないところがあるかもしれないが、徐々に完成品に近づけて行きたい。湖岸から竹生島を眺める‥‥湖面が眩しい。
次回【後編】←※つつくと後編にリンクは、黒金門から「小谷城本丸」へと進入するので乞うご期待!
‥‥‥<切り取り線>‥‥‥
コミック本「信長協奏曲」や「信長のシェフ」は、幼稚な作りごとなどは書かれていないばかりか、各主人公の出来事を史実に沿って融合させて書かれている完成度に驚かされることがある。
番所跡からの眺め、素晴らしい。
資料も揃えて頂いて勉強になります。
んじゃ、また^^
おはようです。(*⌒ー⌒*)ゞ
あさ早いですね?♪^^;
本当は、青々したびわ湖が視界いっぱい広がるんですが、
資料としてのコミックも、期待以上のの参考になります。
いつも(^_-)-☆ありがとうです。
とんでもないじじいですね。
浅井家は、今にして思えば自滅へまっしぐらに突進していった感が否めませんが、
当時は本気でやれると思っていたのでしょうね。
歴史の面白さですね。
こんな素晴らしい眺め、もっと優雅に眺められたらいいのになんて平和な今の時代に暮らす私としては思ってしまいますけどね^^
湖岸からの眺め最高に綺麗ですね。
豚肉、疲労解消には最強ですよね。
今食べなきゃですねー
ポチです。
信長のシェフは見てたので、何となく
分かるだすよ、29歳でお星になちゃったん
だすね~ いい眺めだすね
ぷっちんだす
豚肉が良いよ!肉が!!
こんばんは。(*⌒ー⌒*)ゞ
家康さんは、あまり人気がないですよね?
ガチで戦ってのものでは武田信玄に、
一度しか負けていない実力者でありながら、
画策するのでも有名だからでしょうね。
長政の計算ミスは信玄の死でしょう。
いつも(^_-)-☆ありがとうです。
>>tomatoさん
こんばんは。(*⌒ー⌒*)ゞ
見晴らしでいえば、こんなに開けて敵の攻撃が見えるところって、
ないでしょうが、それが逆に領地の民家に火を放たれても、
全部見えてしまうので、
きっと歯ぎしりをしながらの籠城だったと思います。
それとは逆に朝倉側へは山の尾根を通っての砦が幾重にも存在しました。
豚肉は、酷暑で疲れた身体のオーバーホールですよ。
応援(^_-)-☆ありがとうです。
こんばんは。(*⌒ー⌒*)ゞ
信長が肉食系男子なら、長政は草食系男子の図式?
信長のシェフは、ワシも愛読書ですが、
こちらは少々フィクションでおますが、
歴史に関しては史実をなぞってますね。
29歳で散る命と我が子供が5人・・・・・運命って残酷ですね?
応援ぷっちん(^_-)-☆ありがとうです。
>>まるおおちゃん
こんばんは。(*⌒ー⌒*)ゞ
ん。ん。
豚肉はビタミン豊富で、
今年の酷暑で、ばて続け疲れ切った身体を
回復させてくれますよ。
魚も良いし、羨ましいんですが・・・・・
いつも(^_-)-☆ありがとうです。
歴史のある景色は、気分がいいですねー。
私は、久々の旅行に新潟に行きまして、行く途中、長浜の賤ヶ岳も通りました。
冷しゃぶたちも、たまらなくうまそうですね。
ぽち。
こんばんは。(*⌒ー⌒*)
ここ、近江は歴史のある場所って言うか、
歴史上の表舞台に出てきた場所が非常に多いです。
賤ヶ岳に行って、丸岡城は行かなかったですか?
日本最古の城と言われていることだけありましたよ。
冷しゃぶ(^_-)-☆ぽち!ありがとうです。