創価学会の信仰に功徳はあるか?

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274.カルトっぽい言動パターン思考パターンとは?

2008年09月15日 21時20分21秒 | 創価学会
●思考パターンみたいなモノを紹介します。

 私自身の経験です。昨年のネット上のトラブルがあった頃の事です。何度もMC論などを相談した人がいます。
その際に私が良く口にしたり思ったりしたのは「私、そううそは見捨てられているのですか?」(主旨)「○○さんは見捨てられているのですか?」(主旨)という点です。もちろんその答えは「そんなことないよ」でしたが。
誰が誰からどの様に見捨てられたのかは聞かれてもこれ以上は書きません。

 現在の状況を考えれば私、そううそ視点からしても「見捨てられてはいなかった」というのが答えです。
 つまり私、そううそが「見捨てられているのでは?」と「必要以上に」思った点です。
「見捨てられているのでは?」と思う事は世間一般の人にも良くある事です。
「私、そううそは見捨てられているのですか?」(主旨)と自分の事を問うのはともかくとして 「必要以上に」 感じていたかもしれない事。それと「○○さんは見捨てられているのですか?」(主旨)と聞く事、これは私、そううそがいつの間にか他者を「見捨てられている」と思い込んだ事自体が問題点でしょうか?本人はそう思っていないかもしれない、本人に確かめたわけではないからです。


 「必要以上に感じる」思考パターン は学会の中で「必要以上に」悪影響されなかったか?
あるいは「必要以上に」強化されなかったか?ということです。


学会員時代、会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。こういった事を教え込まれていますから「見捨てない」という思考パターンが強化されていると私は思います。

学会などのカルト教団はよく「私はこうこうこういう体験談がある。だから大御本尊の功徳をしらない可哀想な人、おまえは愚か者」といって体験談を理由に自己正当化、教団正当化しますよね。
体験談の中には自分が「見捨てられなかった事、大切にされた事」もその正当化の一つかと。
(大雑把に言えば自分の人生経験人生体験からカルトをカルトとは思えず自己正当化してしまうのでしょうね。
「お題目には力がある」「御本尊には力がある」そう思ってしまうでしょう。)


人を 「見捨てない事、大切にする事」 は一般の人にも良い事です。もちろん学会の人にとってもそうでしょう。


過去記事に書きましたが荒らしに来た学会員であってもその人の幸福は幸福として私が認める事と似ていると私は考えています。今でもその考えは変わっていません。
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268.またまたまた、またもブログを振り返ってみると。。。。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
大きな世界、枠であるのが世間一般です。その大きな世界の中で幸不幸が起こる。
大きな世界に存在する小さな世界、小さな枠であるのが学会。小さな世界の中でしかない学会でも世間一般と同様に幸不幸が起こっているにすぎません。幸不幸が起こる。と受動的なイメージで書きましたが、人間社会の幸不幸は人間が作っている、でもいいでしょう。
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学会員であっても一般の人でも結婚や出産は古今東西、同じ様に誰にとってもかけがえのない幸福であるはずです。

「一般的にも良い」だから学会員のバリさんは学会思考から抜け出せない人がいると私は考えています。
自分が「見捨てられなかった事、大切にされた事」そうした経験、体験談を得ているので抜け出せない人がいるということです。
もう一度書きますが、人を「見捨てない事、大切にする事」は一般的にも良い事です。ではカルト思想と宗教思想の違いは何でしょうか?


●何処に問題点があるかを考える前に創価思考を再度考える。

会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。

 でもコレって学会という立場が条件、立場が前提条件なのです。一般の人であっても聖教新聞を取ってくれる人とか公明党に一票入れてくれる人とか未入信家族(学会員を家族に持つ立場)とかもそうでしょう。
カルトの言動は先の記事にも書いたとおり疑ってかかりましょう。

 創価学会の「大切に」とか「見捨てない。」というのは学会活動の中で教えられ行われます。人の為に祈る(人を呪う)勤行、唱題も場所が家の中と言うだけで学会活動でしょう?選挙、折伏、新聞啓蒙、家庭訪問、会合は場所が家の外と言うだけでやはりこれも学会活動でしょう。
対処方法としては唱題とか勤行、選挙活動なんですよね。病気の人であっても貧乏であっても人間関係であっても人生のトラブルや悩みはなんでもかんでも唱題、勤行、学会入信な訳です。(池田氏を師匠として師弟不二する修行も学会活動でしょう。師弟不二を目指しているわけですから。)過去記事にも書いてきたとおりケースバイケースに対処するのではなく一言で表現出来る 「学会活動」 という単語になるんですよね。


 つまり学会員は「学会活動」することが幸福に繋がる、ということです。そういう教えです。
ケースバイケースに対処するのではなく常にワンパターンです。


 ですから過去に自分の人生における幸福体験、あるいは「見捨てられなかった事、大切にされた事」を理由に唱題、勤行、学会入信を押しつけちゃうわけですね。
私も学会員時代に学会員から「大切にされた事」が有った事は過去のコメントや記事に書きました。
私が退会する動機の一つになったのは「見捨てられた事、大切にされなかった事」とも言えるでしょう。

○ちなみに。。。。

 私が退会を申し出た時に壮年部幹部、男子部幹部は「唱題で病気を治そう」とは言えなかったか?
それは普段から退会者、退転者の言動やケースバイケースな退会理由があった為、つまりは取り扱いに慣れすぎていたと私は想像します。普段会合で言っている様に「祈れ」「学会活動しろ」とは言えなかっただけかもしれません。私の病気の酷さもあったでしょうけど。想像でしか有りませんが、5,6人以上いて誰も言わないのは不思議な事です。

●普段から「学会活動」を他者へ押しつける習慣、自己正当化の習慣。

 普段から学会員は「学会活動」「学会精神」を他者へ押しつける習慣を繰り返します。
つまりは学会精神、学会活動という思考と言動を繰り返します。そうするとどういう事になるのでしょうか?

 創価学会員はカルトをカルトとは思えずに創価思考、学会精神に基づいて自分の言動を強化するだけでしょうね。
例えば学会員にとって「大切に」とか「見捨てない。」というのは良き学会精神なので疑う余地はないわけです。
「無疑曰信」(むぎわっしん)だとか「疑うな」と教えられます。
というわけで、理論や体験、教義、解釈、等々をごっちゃにしてしまうわけですね。

 他者に対しても常に同じワンパターンな思考パターンです。
つまり「学会活動」しないことには一般人(他者)は幸福になれない、と思っているのです。そういう思考パターンでしょう?
「学会活動」しなければならない。
「師弟不二」しなければならない。
「○○しなければならない。」って。

 自己正当化も同じです。カルトは自己正当化を習慣づけているのです。
その反対に宗教的精神は自分から進んで他者を肯定しに行くのです。自分を必要以上に肯定なんかしません。
どういう他者なのかは別記事とします。

 私の話に戻しましょう。もう一度書きますが、
学会員時代、会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。こういった事を教え込まれています。
学会員時代に「見捨てない」という創価思考パターンが強化されていると私は思います。
人を 「見捨てない事、大切にする事」 という点についても一般人の思考ではなく創価思考をしていると私は考えます。

「見捨てられている」自分が他者に感じる事。
見捨てられている人を助ける事。

これらは悪い事ではありません。一般の人にも普通にある事です。もちろん学会の人にとってもそうでしょう。
人を見捨てろ!、大切にするな!
とか
人を見捨てない事や大切にするのは駄目である。
とか
私、そううそが言っていないのが分かりますか?


 カルトに近い言動や思考は他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか見分けが付かない、という点でしょうか?安易にレッテル張りをする、安易に誹謗中傷してしまう、安易にカルト側から会話を打ち切ったり、これだけは言っておきますとか言って捨てゼリフになるのです。日蓮正宗系の場合怒りを伴う事が多いので肉体的に負担があるでしょう。

 宗教に近い言動や思考は他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか慎重に見極めようとする、慎重に対処する、という点でしょうか?常に見極めようとし続けるのです。常に慎重に対処し続けるのです。出来るだけ話し続けたり問いかけ続けたりするのです。○○をし続けるわけですがどちらかというと冷静であり怒りはなく、継続する事に苦痛は少ないのです。


毒矢の譬えなど過去記事に何度か書きましたが、経文解釈についても
「どこからどこまでが宗教思想であり、どこからがカルト教団に悪用されたカルト教団都合な思想なのか?」
ということです。

常にワンパターン、ワンケース、柔軟に対処出来ない思考、言動がカルトっぽいと言えそうです。
原始仏教や心理学、医学はケースバイケースに対処します。
ケースバイケースに対処する為にもよく話し合うって大事な事だと思います。

池田大作大先生様々は永遠の指導者なんですから国会証人喚問に出て話すべきだと思います。
永遠の指導者なんですから国会議員なんて簡単に指導出来るほどバカに見えるのでは?
権威権力にとりつかれたバカな国会議員を指導してやる為にぜひおいて下さい。
お偉い人と対話するのは大先生のお仕事でしょ。対話する事がカルトでない証明の第一歩です。
日蓮大聖人と同じく国家諌暁ですよ。かっくいー。

●何処に問題点があるのか?

いくつか問題点の例を挙げます。
例であって人の言動や態度にいつも下記全ての条件を満たしているわけではありません。


他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか見分けが付かない。
自分や他者の健全さと不健全さを見分けられない。
他者に「必要以上」の事をしようとする。
他者の言動、心理状態etcetcを勝手に思い込む
自分には出来ない事をしようとする、自分の等身大以上の事をする。
言動の際に考えてから判断しない。行動しない。
慎重さや謙虚な態度が足りない。


「必要」「不必要」というのは他の名詞にも置き換えられると思います。
学会批判で良くあげられるのか思考停止ですが、ちょうど逆に当たるでしょう?思考停止と上記の事はよく似ていると思います。
私そううそが個人的に考えてこんな所でしょうか?
あくまで個人的な考えですが、部分的に心理学の本やカウンセリングの本に当てはまる箇所があると思います。
もちろん、心理学やカウンセリングの本に比べれば項目数は全然足りていません。
項目数だけを考えても心理学が世界中の様々な人や物事に当てはまるのに比べて創価思想、日蓮思想なんて実に狭い範囲にしか通用しないと私は思います。僧侶や宗教者の人は余程しっかりしないとね。


日蓮正宗系のカルトな人、バリさんとか誹謗中傷の多い人は 「他者の言動を勝手に思い込む。」「他者を誹謗中傷したらどんなレスポンスが返ってくるか?分かって無い」というのが多いでしょう?

心理学の本は過去記事を参照して下さい。
231.MC論、AC(アダルトチルドレン)、カウンセリング系、心理学系などの本の紹介 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
私は西尾和美氏の本を紹介していますが、西尾和美氏が嫌ならいきなり買わなくてもいいのでamazonなどで皆さんの書評を見て手がかりとして気に入った本を見つけて下さい。

○補足

アンチ創価同士でも○○さんを見捨てた!酷い事を言った!etcetcネットバトルは今までもあったしこれからもあるでしょう。
同様に上記の事が当てはまると思います。
学会被害者をネット上で有る程度まで助ける事は「一般的に考えても良い」と思います。
しかしカルトと似た思考パターンになっていないかどうかはチェックする必要があると思います。

「会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。」
という事を言いながら、池田氏、学会が見捨ててダブルスタンダードなのは過去記事の通り。私も証人です。
姉歯氏、矢野氏、竹入氏、大森氏、退転者etcetc。

●ですから、、、、


学会員や池田氏の言動を見た時に「学会に見捨てられているのでは?」と思う事は当たっている可能性があるのです。
学会を離れて世間一般を見た時に「私は見捨てられているのでは?」と「必要以上に」思う事は当たっていない可能性があるのです。


 学会員であっても退会者(一般人)であっても人を見捨てない事、大切にする事は良い事です。普遍です。
でも学会には表裏があります。人を見捨てない事、大切にする事は良い事である。絶対である。、人を見捨てない事、大切にする事に絶対視しすぎる。この極端さがMCといえるでしょうか?「必要以上に」ということです。白黒2極論と似ていると私は考えます。

 世間一般を見た時にガッカリして学会などのカルトに戻らないで欲しいと私、そううそは考えます。
学会には部分的には確かに思いやりや情はあるのかもしれませんが、それは学会内部だけであって外部には通用しないし一般人から見たら異様なんですよ、って事です。思いやりや情を全否定しませんが、カルト性が見え隠れしていますよって事です。

人を見捨てない事、大切にする事を大事だと自覚出来る人、
人から見捨てられたり大切にされなかった経験のある人

特に後者は人の痛みや苦しみが分かるんじゃないでしょうか?だから後者の人は「人を見捨てなければ」素晴らしい人と言えるのかもしれません。何かの宗教者である必要もなければどこかの宗教教団の立場を必要としないのは272番記事の通りです。
272.信じた立場の違い、信じた内容の違い - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

どうして誹謗中傷が宗教者側(カルト側)から起こるのか?
学会や池田氏を否定されるとどうなるか?
というのがこれからの記事になります。

以上。

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3 コメント

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Unknown (そううそ)
2008-09-16 19:22:53
★追記

安易にレッテル張りをする、安易に誹謗中傷してしまう、安易にカルト側から会話を打ち切ったり、これだけは言っておきますとか言って捨てゼリフになるのです。日蓮正宗系の場合怒りを伴う事が多いので肉体的に負担があるでしょう。

常に見極めようとし続けるのです。常に慎重に対処し続けるのです。出来るだけ話し続けたり問いかけ続けたりするのです。○○をし続けるわけですがどちらかというと冷静であり怒りはなく、継続する事に苦痛は無いのです。

項目数だけを考えても心理学が世界中の様々な人や物事に当てはまるのに比べて創価思想、日蓮思想なんて実に狭い範囲にしか通用しないと私は思います。僧侶や宗教者の人は余程しっかりしないとね。

★誤記

学会批判で良くあげられるのか思考停止ですが、思考停止と上記の事はよく似ていると思います。


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お元気ですか? (真剣)
2008-09-16 23:58:02
ずいぶん長い書き込みですねぇ!

宗教はおとぎ話の大人版みたいなものじゃない?いつかは嘘でした!って思うじゃない。

子どもの頃鬼や河童、妖怪やお化け。宇宙人は大人でも興味があるしね。

サンタクロースは実は来ないんだと解ってもべつに親を恨まないし。
子どもの作り方、生まれ方なんて子どもにはわからないほうがいいんだけど、ある程度の歳で解ればいい。


だからあなたもそんな感じじゃないのかな。

そう思ったほうが気が楽になりますから。



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Unknown (そううそ)
2008-09-17 00:00:58
コメント有り難うございました。
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