創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

-1.Libraさんへの質問 : 釈迦仏法~空~法華経と天台宗~日蓮まで

2006年12月10日 15時34分32秒 | 創価学会
日蓮考察 より。
日蓮考察 71 名前:みれい 投稿日: 2006/01/26(木) 23:28:29より。

●天台・日蓮が中観派

私の理解

>>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
>本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。

私も疑問。
「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがさっぱり不明です。
Leoさんのコメントにある、日蓮の御書を読みましたが、それでも根拠が不明です。

「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

質問

三諦円融なので空=仮=中。上記の一念三千が=「空」(後述で質問)であり中でもあるので上記の文章が、「一念三千こそ仏になるべき道」=中観派ということ???

三諦円融とはお互いに否定しあい、肯定しあい、なおかつ集合円の中にそれぞれが含まれる。数学的には矛盾するが 空諦の中には中諦が含まれているが、中諦の中にも空諦が含まれているという思想。(だったかな?)

中観の「中」とは空仮「中」の三諦(くうけちゅうのさんたい)のことか?
そういえば空仮中の三諦は天台宗の摩訶止観等が言い出したのだろうか?

空 龍樹 更にたどれば無常、無我を説いた釈迦。
仮 ?
中 天台宗?
空仮中の三諦としてまとめたのが、天台宗?

●空は無常無我に限りなく近いので、煩悩即菩提から遠い?

私の理解

>あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

 実を言うと空仮中の三諦は内得信仰の時に3度ほど質問したが某君も部長も壮年部の人も誰も答えてくれなくて以後そのまま。結局、祈れば宿命転換(罪障消滅出来る)出来るという まじない を信じただけ。そもそも私自身、折伏を受けて「空」と言われた記憶がない。学会の書籍を読んで質問したはず。

 学会の詳細な仏教学書籍にたまに出てくるぐらい?新聞ではなかなかお目にかかれません。御書講義でも語られる事はありません。記憶にありません。そもそも、「空」について折伏などで一般の人とリアルで語られる事はまず無い。語るとすれば、他宗との折伏しかない。まじない信仰か釈迦仏教の正統派(五時八教)で説明する事が多い。

ちなみに「空」を説き出すと、無常、無我が出てくる事になり、どうしても時代的に原始仏教に近くなる。より釈迦から離れた時代の煩悩即菩提とは相反する。創価の選挙、ご供養には煩悩即菩提が適していて、「空」、無常、無我が出てくると都合が悪いと思われる。

質問

縁起、無常、無我は有る面において、無欲、という事から人の役に立つ、つまり万人ではないにしても人を幸福に導くが、「空」そのものを説いて何の役に立つのか?

空仮中の三諦はとある人間にとって物質的な環境(家、道路、国土、建物など)など、「仮」を肯定しているだけでは?
三諦説「空・仮・中」/北巳零総合研究所

中観派が仮と空のどちらも否定するし、どちらも肯定するということか?
中観ならば、中観派は現実的でないといけないのでは?
(目的としての人の幸福や行動する時の慈悲が重要になる。)

●空とまじない

私の理解

祈れば願いは必ず叶う。これは誘いやすいし入信しやすい。

信仰の入り口としての目的感が難しい。欲、願いがある人に無常、無我、空を説いて入信なんて一度も聞いた事がない。たいていは煩悩即菩提であり、「願いを叶えましょう」
法華経の「空」
日蓮考察 86 名前:Leo 投稿日: 2006/01/29(日) 15:48:53

質問

日蓮はどちらを強調していたのだろうか?

祈れば願いは必ず叶う。まじないなのか?
それとも法華経の「空」を重要視したのか?


法華経自身は「空」重視?まじない重視?


法華経に「空」(無常、無我)があるので釈迦の正統派に近いということか?
それとも釈迦の無常、無我(に近いもの?)を重要視したのか?

 単純に日蓮の「祈れば願いは必ず叶うよ。」という本当に祈りは叶うとは思っていなくても信徒には優しかった?ので思いやりとして言った?その「情を重視する。」ならば、やはり初期仏教を肯定せざるを得ない。絶対に祈りが叶う、創価に入信した人が必ず幸福になれるので有れば、話は別だが。

●一念三千と空は等しいのか?

私の理解

一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章) 読んでもよく分かりませんでした。そもそも自分の生命(一念)の中に一念三千がある。とだけ創価に教えられたためです。なおかつ空の説明はほとんどされない。 「宇宙生命論は仏法ではない。」は先(下記に示す)で否定されているので創価教学と矛盾してしまいます。

私なりに強引に解釈すると無我=空であり、自分を含めて回りもすべて「空」なので、全て等しく空。三諦円融なので、空=仮。全てのもの(「仮」)は一念三千(たくさん、ということ)という全てである。一念三千が自分の命?心?にあるとして、よって、一念三千=「空」。(必要十分条件の強引な証明と説明みたいになっちゃった。初めて一念三千と空を考えた気がする。。。)

仏教と批判的合理主義++タツノコさんとの対話++

質問

一念三千と空は等しいのか?
基本的に単語が違えば違う事を指していると思うが、それとも側面的な事なのだろうか?
一念三千が具体的説明だったので日蓮は素晴らしいと思った?

釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?もし気が付いていたとするならば、あまり役に立たない事を知っていたのでは?
友岡氏の書籍からの釈迦には現実的、つまり目の前の人を放っておかない。。。。ので「空」を述べなかったのではないだろうか?

こうした事を考えると経文は経文なので、学ぶべき所があるし、いくらでも新しい言葉や概念を言えるので、学問や信仰の拠り所にするのは構わないが、絶対視するのはもう疑問だ。法華経のみを最高視出来ない。

●仏教と普通の宇宙観

一念三千は天台大師の創説だが「人の平常持ち合わせている心に、三千という数に表現された全宇宙の事象が備わっている」

宇宙生命論でない普通の宇宙観は釈迦仏法として問題や矛盾はないのか?正当性があるのでしょうか?密教=宇宙=無量義経?

●宇宙生命論

宇宙生命論は仏教ではない

質問

 宇宙生命論は仏法ではないとして、仏法と宇宙生命論は矛盾しないのか?両立可能?仏教側から取り入れても良いのか?

歴史論は後述。結論の面から。(宇宙生命論の中に仏教論が含まれていると考えるべきか?誰も証明出来ないが。なお、宇宙>仏法の逆、宇宙<仏法は絶対に成り立たない。特に幸福論から。)ちなみに完全否定完全肯定ではない、日蓮の曼陀羅に大日如来がある事からも何処までが矛盾で何処までが両立なのか?
三徳を備える「お釈迦さま」がこの世の救済者

質問

 日蓮は、日蓮の曼陀羅に大日天王(如来?)がある事から諸天善神として取り入れて肯定している。釈迦や法華経を書いた人はどういう見解なのだろうか?

宇宙生命論の悪弊
密教の即身成仏は作り話(小川一乗)

あぁーやはり、宇宙云々は戸田氏の宇宙生命論を信じていたので自分が薄っぺらい事がよく分かる。質問だけだからな。w やはり書くとよく分かるな。自分のアホが。

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そううそさん、こんばんは。 (Leo)
2006-12-13 03:08:24
Libraさんの前座でちょこっと出てみます。

>私も疑問。
>「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがさっぱり不明です。
>Leoさんのコメントにある、日蓮の御書を読みましたが、それでも根拠が不明です。
>
>「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

(大乗仏教の八宗の祖といわれる)龍樹は『中論』を著し中観派の祖でもあります。
天台の仮・空・中の三諦は龍樹の『中論』の以下の部分から来てます。

「どのようなものであれ縁起なるものは、われわれはそれを空性と呼ぶ。それは仮説であり、また中道である。」
(中論)

天台の一念三千は三千法界の一切の現象を凡夫の一心に空・仮・中の三諦円融の観法をもって観心することだそうです。

釈尊(縁起)→龍樹(中観)→天台(一念三千)→伝教大師(日本天台)→日蓮(妙法)

のように思想が継承・発展されているのではないでしょうか。

>釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?もし気が付いていたとするならば、あまり役に立たない事を知っていたのでは?

初期仏教の経典で「空」が出てくるところはこのようなところです。
(空を観ずるのは自我に固執する見解をうち破るためです...)

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。」
(スッタニパータ)

>こうした事を考えると経文は経文なので、学ぶべき所があるし、いくらでも新しい言葉や概念を言えるので、学問や信仰の拠り所にするのは構わないが、絶対視するのはもう疑問だ。法華経のみを最高視出来ない。

私は(も)法華経経文から学ぶことはあっても絶対視はしないです
(学ばせていただいたことに感謝する気持ちはあります)。
Unknown (みれい)
2006-12-13 13:44:54
わお、ちょっと懐かしいものがっ
あらためて一緒にお勉強させていただこうと思います。

私が空を説明するのもおこがましいのですが、
空は、まずは縁起と捉え、縁起を消化すると無常、無我が捉えやすくなる気がします。
ただし学会で説く「縁起」は一般的な解釈とはちょっとちがうらしく。
チョンガーさんともお話したのですが、密教よりの解釈がしっくりくるようで。
曼荼羅、呪詛、祈祷の要素などはまさにそうですね。

空は、現実を曖昧にするものではなく(これだと、自分はからっぽの空、虚しいの空になっちゃいませんか。それは悪しき空と思います)、
すべてが関わり合っているということ。

例えば、時計に例えて、
時計の部品の一つ一つが関わり合って「時計」を成している。たった一つを部品も軽んじてはずせば、その時計は機能しない。
また、他の一つ一つ部品の働きによって、私という部品は時計の一つの機能を担うことが出来る。
両方あって空。

私は空=無欲とも思わないし、煩悩即菩提とも特に反していないと考えます。
(学会でこれをどう説明しているのかわかりませんが)
煩悩あってこそ菩提と考えます。

日蓮聖人は中観派というのは、私もピンとこなくて、Libraさんに説明いただくと、やはりとてもすばらしく再構築されて中観派に収まっているのだな、と思いました。
鎌倉の祖師達が学んだように大智度論まで遡り、近代仏教理解をみれば、Libraさんの解釈も違和感がなくなる、と考えています。

あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。
実に傲慢な学会員さんをみてると、この解釈がいったいどうなっているのだ?とおもいます。
Unknown (そううそ)
2006-12-13 18:43:04
こんばんは。Leo師匠(笑)

前後して申し訳ありませんが、歴史順に行きますね。私の記事が滅茶苦茶なんですけどね。(^_^;A

>初期仏教の経典で「空」が出てくるところはこのようなところです。
>(空を観ずるのは自我に固執する見解をうち破るためです...)

初期仏教の経典、スッタニパータ でも「空」があるんですね。目的は「自我をうち破るため」と。

>天台の仮・空・中の三諦は龍樹の(中略)それは仮説であり、また中道である。」

へぇ。龍樹仏教で空仮中が説かれていたんだ。じゃあ、天台の新概念としては一念三千だけ?空仮中三諦円融が言葉としてなかったかもしれませんが、明らかに議論され説かれたと思います。

>天台の一念三千は
>三千法界の一切の現象を凡夫の一心に空・仮・中の三諦円融の観法をもって観心することだそうです。

自分の周り(三千法界)にある全ての事象を自分の心に空・仮・中の三諦円融の法で見たり考えたり想像しろということ?

うーん?それは既に中論で説かれているのではないでしょうか?
当時も修行や議論が当然の上に中論が出てきたと思うのですけどね。。。。

そもそも、仮諦前提で、無常無我、つまり空が説かれているので仮諦も中諦も意味がない様に感じてしまいます。
もっというと無常、無我で十分の様な気がします。
何を知らなくて何を間違っているのでしょうか?>ALL

>私は(も)法華経経文から学ぶことはあっても絶対視はしないです

そもそも 人が無常無我、つまり空であり、空仮中三諦円融ならば、人から出てきた経文も空仮中三諦円融でないといけないと思います。少なくとも法華経にも間違いや正しい所はあるが他の経文も間違いや正しい所はある。お互い様。
Unknown (そううそ)
2006-12-13 19:05:32
こんばんは。みれい師匠。(笑)

>わお、ちょっと懐かしいものがっ
(^_^;A

>あらためて一緒にお勉強させていただこうと思います。
お願いします。

>空は、まずは縁起と捉え、縁起を消化すると無常、無我が捉えやすくなる気がします。

無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。
しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

>ただし学会で説く「縁起」は一般的な解釈とはちょっとちがうらしく。
>密教よりの解釈がしっくりくるようで。曼荼羅、呪詛、祈祷の要素など

お縋り信仰系の縁起だと思います。もっと俗物的な縁ですね。

>空は、現実を曖昧にするものではなく(これだと、自分はからっぽの空、虚しいの空になっちゃいませんか。それは悪しき空と思います)、すべてが関わり合っているということ。

先にも書いたのですが、そもそも、釈迦は世の中にある様々な物事である仮諦を前提にして無常無我(空諦)を説いていますから、縁起、つまり、全てが関わり合っているので、相手や自分に空っぽだとは思いません。空っぽじゃない(仮諦だ)から、むしろ修行して空っぽを求める必要性を説いたと思います。

釈迦は中諦を説いていなかったけど龍樹がといた、ということでしょうか?

>例えば、時計に例えて、(中略)機能を担うことが出来る。両方あって空。

全く同感。というかわかりやすいです。

>私は空=無欲とも思わないし、

無欲は無常無我の表れの一つでは?なので、空=無欲とも思わない、というのは良いと思います。

>(学会でこれをどう説明しているのかわかりませんが)
>煩悩即菩提とも特に反していないと考えます。

池田氏の勲章と数成果の信仰、選挙、ご供養、煩悩こそ全て。ですね。(大笑)

>Libraさんに説明いただく
Libra 師匠まだぁ?(n‘∀‘)η

>大智度論まで遡り、
あう、そこまで勉強が必要ですか。。。。
「大智度論」という単語自体何年ぶりに見るのだろうか。(^_^;A

>あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
この議論がリンク先にありましたね。

>見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。実に傲慢な学会員

何も言う事はないでしょう。むしろトップから下までこの精神を忘れているのが学会です。
Unknown (みれい)
2006-12-13 22:32:41
>こんばんは。みれい師匠。(笑)

こんばんは、そううそ師匠(笑)

いんや~、私こそ師匠でもなんでもないので、
隣に座って一緒にLeo師匠、Libra師匠の授業受けさせてください。

>無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。
しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

空の感じ方もそれぞれなのかもしれませんね。

>お縋り信仰系の縁起だと思います。もっと俗物的な縁ですね。

いわしの頭も信仰、みたいなイメージでしょうか。
仏教伝来以前の日本も、祈祷や呪詛は行われていますね。
むしろそういうのがメインの国だったようですね。
あと、仏教伝来後にも観音信仰(法華経の観世音菩薩普門品)がありますね?
わたしは、おすがり信仰も否定はしなくてもいいと思っています。
そのかわり、それが絶対の信仰だ、仏教の終着点だ、と言われても、納得はしませんけどね。
あくまで方便の範囲だと思っています。

あと、創価学会の「縁起」ですが、学会公式サイトでは梅原猛さんの仏教の本が紹介されていました。
梅原さんの本はまだほとんど読んだことはないですが、
ひょっとすると日本古来の信仰観に基づいた縁起観なのかな、とも思います。
学会は(昔はともかく今、)梅原さんの縁起観に近づけようとしているのかなと。こっそりと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B


>釈迦は中諦を説いていなかったけど龍樹がといた、ということでしょうか?

釈迦はそこまであれこれは話していないと思われます。
原始仏典などにあるとおりではと。
中観派は竜樹、三諦は天台の智者大師らしい。
一念三千という言い方は、各宗派共通ではないです。
摩訶止観の天台と日蓮系だけではと。
空に関しては、日蓮宗と浄土真宗以外は般若心経の空観になります。
(昔、般若心経を呪いのお経だと思っていたけど、ぜんぜん違ったwどこで覚えたんだ?)

竜樹に学ぶという時点で、すでに大乗カラーが入るわけで、
原点に戻った哲学的な仏教は、こちらのサイトがオススメです。
掲示板なども空についての議論が展開されています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/

>無欲は無常無我の表れの一つでは?なので、空=無欲とも思わない、というのは良いと思います。

それはどこの教えなのでしょうか?
無常無我=無欲は聞いたことがないです。

煩悩を私流に例えると、
植物の芽が伸びますね。
家庭菜園のトマトなんかは、右へ左へ芽が伸びますが、
脇の芽を摘むと、お日様に向かって上にまっすぐ伸びていきます。
煩悩は、伸びようとするエネルギーで、それが脇に伸びれば煩悩に振り回される状態、上に伸びれば菩提。
どちらも根源は同じものと考えます。
欲をなくす、のではなく、欲の方向付けが大事であると。
その方向付けが無我、伸びる時間を与えるのが無常。
お日様が法。法に暗かったり、法に背いたり、インチキな法に照らされれば、伸びる方向も誤ります。
そんなかんじでいかがでしょうか?
説明になっているだろうか(汗)
かくいう私はまだ芽が出たての「もやしっこ」でございます。

>大智度論まで遡り、
あう、そこまで勉強が必要ですか。。。。

うんにゃ、私もそこまで勉強はしておりませぬ(^^;)
そこまでいくと、さすがに独学ではどうにもならないと思っています。
ただし日蓮さんが学んだものを検証されている方々の意見はおおいに参考にしてます。
回答(その1) (Libra)
2006-12-14 02:14:41
1.チギと日蓮はともに中観派
 龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」
といいます。

 チギ(天台大師)は「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」とい
っていますから、当然、龍樹の説を支持しています(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html#2
 
 チギは、他の宗派を批判するときに、「龍樹に違う」という言い
かたをしています。ということは、自分は「龍樹に違」わないとい
う認識なのでしょう。実際、内容の面でも、チギは「縁生はすなわ
ち主なし」というように、龍樹と同じことをいっています。「主な
し」というのは「自性を有していない」ということです(以下を参
照)。

  一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

 いちおう、「自性」の説明もあげておきます(いちばん上が最も
簡単な説明で、一番下は専門的な説明)。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 チギは、『中論』をよりどころとして、円融三諦説を説いていま
す(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/123.html#2

 以上から、チギは中観派といってよいとおもいます。

 日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプ
ロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩
提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴ
ァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこ
までも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されて
います(以下を参照)。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」
というのも同じことではないでしょうか。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとお
もいます。遠いですか?

3.成仏かまじないか
 同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の
唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿
量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生
の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の
知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

  一大事因縁(『法華経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法
華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテ
ーマではないでしょう。それと、「陀羅尼品」というのは、「法華
経を受持する人は菩薩とかが守ってくれますよ」というお話なので、
宇宙生命との交流がどうとかいうお話とは全く関係がありません。

 日蓮の場合には、「じぶんは法華経をこれだけ受持してるのに、
なんで守られないのか」と悩みに悩んだ末、「天もすて給え諸難に
もあえ」と言い放っております。守ってもらいたいがために法華経
を受持してるわけじゃないんですね。

  ────────────────────────────
  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

  (「開目抄下」、全集、p. 232)
  ────────────────────────────

 「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)という発言もあります。
回答(その2) (Libra)
2006-12-14 02:15:55
4.一念三千と空は同じ
 一念三千というのは、一念を例にとって、空(無自性)を説明し
たものでしょう。ちなみに、『摩訶止觀』の別のところには、「一
念即空即仮即中」(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)
とあります。

  ────────────────────────────
   この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという
  問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としてい
  るので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その
  真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 87)
  ────────────────────────────

 一念には固有の本性のようなものはありません(無自性)。縁に
よって変化します。縁によっては仏にもなれます。ようするにそう
いうことです。わたしたちにも仏になるチャンスがありますよとい
うのが一念三千説の希望的な側面です。

 「わたしたちにも仏になるチャンスがありますよ」というだけで
は「理の一念三千」だと日蓮はいいます。どうしたら現実に仏にな
れるのかというところまで明かさないと「事の一念三千」ではない
ということでしょう。法華経に南無することによって仏になれるん
だから、「南無妙法蓮華経」が「事の一念三千」なんだというのが
日蓮の考えだとおもいます。

 ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといって
います。

  ────────────────────────────
  一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
  竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者の
  みこれをいだけり

  (「開目抄上」、全集、p. 189)
  ────────────────────────────
回答(その3) (Libra)
2006-12-14 02:17:05
5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
 仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。「万
人に共通する生命の基盤」とか、そういうことを言わないのが仏教
の特徴だとおもいます。たとえば、以下を参照。
  
  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

6.日蓮と大日如来
 「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでし
ょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

 大日如来にもいろんなのがいるけど、その親分は法華経の多宝如
来だと日蓮はいっています。で、その親分の多宝如来でさえも、寿
量品の教主釈尊の子分にすぎないといっています。

  ────────────────────────────
  大日如来〔中略〕は我等が本師教主釈尊の所従等なり。〔中略〕
  大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左
  右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、
  寿量品の教主釈尊の所従也。

  (「法華取要抄」、全集、p. 333)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

 寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になってい
ます。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙
生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点
で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。

  ────────────────────────────
  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法
  華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身仏のように
  理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この法身仏は無始無終、
  すなわち、過去も未来も永遠とされる)はまだ成立しておらず、
  そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、ある特定の
  時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の
  寿命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもし
  れない。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 224)
  ────────────────────────────

 そういうわけで、此土に有縁深厚である仏がおられるのは「五百
塵点の当初より以来」だというのが日蓮の認識です。

  ────────────────────────────
  寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁
  深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)
  ────────────────────────────

 「本有無作」という用語にひっかかる人は、以下のところでした
説明を参考にしてみてください(「2006年08月05日(土) 07:55」で
検索をかければ見つかります)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://freett.com/leo020503/nblog.html

 ちなみに、『法華経の智慧』には、以下のような記述があります。

  ────────────────────────────
  名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕
   本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセ
   ージが込められているのです。ここでは、このことを少し考
   えてみよう。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、
   p. 50)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大
   日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのよう
   な人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説き
   になったのか」(御書一三五五㌻、趣意)と破折されていま
   す。

  (同上、pp. 68-69)
  ────────────────────────────

 とりあえず、以上がわたしからの回答です。いちおう全部の質問
に回答したつもりですが、抜けている部分がありましたらご指摘く
ださい。
Unknown (そううそ)
2006-12-14 06:55:54
ちょっとここだけ。

>「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでしょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

あれ?本尊は天王で御書は如来では?
大日如来と大日天は別の存在 (Libra)
2006-12-16 13:13:35
 「本尊は天王で御書は如来」というのは誤りです。両者は別の存
在です。

 実際、日蓮は、曼荼羅において、「大日如来」と「大日天」を書
き分けています。以下を参照。

  平賀本土寺蔵の大曼荼羅
  http://www.lbis.jp/gohonzon/018.htm

 「大日如来は教主釈尊の子分」というのが日蓮の理解。教主釈尊
は修行して仏になっていますから、宇宙生命とかではありません。
このことはすでに書きました。
すいません返事が遅れます。 (そううそ)
2006-12-17 07:31:17
おはようございますです。
Libra師匠。

 ここ一週間ばかり、メールや私事が多く、ゆっくりと考える事が出来ませんでした。今日も予定があるので、申し訳ありませんが、明日以降になってしまうと思います。

 大日如来と大日天については日寛の御本尊には大日如来は無かった様な気がします。もしかして別の名前か、私が読めなかったのかもしれません。
 大日天はあったのは間違いないと記憶しているのですが、、、、。大日天「王」だったかとおもいますが、「王」ではなく梵字だったのかな。。?

御書を検索すると、大日如来は多数出てきますが、大日天は数件でしたね。本尊の相貌も御書を読む事は1,2度ありましたが、勉強することはありませんでした。 そういえば、大日如来について勉強する事も学会員時代は一度もないことでした。

>みれい師匠。

すいません。
同じく遅れます。
こちらも次回のコメントは遅れるとおもいます (Libra)
2006-12-17 11:38:04
 こちらこそ、スローペースでお願いします。

 日蓮の真蹟曼荼羅のうち、「大日如来」と書かれているものは2
幅くらいしかなかったとおもいます。つまり、「大日如来」という
文字がない曼荼羅のほうが圧倒的に多いということになります。

 日蓮は、法華経の多宝如来を「両部の大日如来を郎従等と定めた
る多宝仏」といっており、そこでは、多宝仏のことを「此の大日如
来は…」といっています。曼荼羅でも、大日如来の親分として多宝
如来を書いているのだとおもいます。

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────
Unknown (みれい)
2006-12-18 18:04:40
師匠じゃないってば~

意見はあっても教える所までは達していないので、
なにかとご教授いただければ幸いです。

急ぎませんのでごゆっくり。
Unknown (そううそ)
2006-12-20 22:47:58
明日からゆっくりできそう。。。かな?(笑)
Unknown (そううそ)
2006-12-28 12:08:40
ようやく復帰。読みまくって考えまくろう。
Unknown (そううそ)
2007-01-05 20:49:10
こんばんは>ALL

みれいさん
2006-12-13 22:32:41

>>無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。
>>しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

>空の感じ方もそれぞれなのかもしれませんね。

もしかして無常・無我を一言で表すと「空」という名詞なのかな?状態を示す動詞かな?

>わたしは、おすがり信仰も否定はしなくてもいいと思っています。そのかわり、それが絶対の信仰だ、仏教の終着点だ、と言われても、納得はしませんけどね。あくまで方便の範囲だと思っています。

私の中でも祈りとは元々、死者に対しての成仏を祈る行為だった様な気がします。
なので祈る事自体を完全否定は出来ません。

ただし、祈るという事をしないで成り立つ宗教(宗教ビジネス?)は無いと思います。
むずかしいですね。
我々が「こうだ!」と決めつけるのではなく、「亡くなった人が成仏して欲しい」などの人の思いやりは絶対に肯定しておきたい所です。これは創価アンチ創価をとわず。です。

>近づけようとしているのかなと。こっそりと。

いつもの手ですね。まぁ、仕方ない面もあるのでしょうが。

>釈迦はそこまであれこれは話していないと思われます。原始仏典などにあるとおり

なるほど。

>一念三千という言い方は、各宗派共通ではない
>空に関しては、日蓮宗と浄土真宗以外は般若心経の空観になります。

うーむ。仏教で空の解釈が違うのか。これは理解するのが大変そうですね。

>般若心経を呪いのお経
>ぜんぜん違った

by創価婦人部?(笑)
少なくとも私の仏教知識は全部創価から教えられています。

>掲示板なども空についての議論が展開されています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/

読みました。今後もチェックするかも。有り難うございます。助かります。

>それはどこの教えなのでしょうか?
>無常無我=無欲は聞いたことがないです。

やはり教えられたのは創価学会員か創価の書籍でしょう。あるいは創価仏教を前提にした私の勝手な解釈かもしれませんが。

煩悩=欲と捉えて 煩悩即菩提なので、欲即菩提ですかね?
菩提は無常、無我、縁起だと思います。

明確に無常無我=無欲で一致する事はないのかもしれませんが、(言葉遊びで?)結びつけるのは出来てしまいますね。
Unknown (そううそ)
2007-01-05 20:50:22
こんばんは>ALL

>Libraさん
2006-12-14 02:14:41

1.チギと日蓮はともに中観派
 龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」といいます。
(中略)
 日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

理解出来ました。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
>煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

よく考えると煩悩即菩提はまじないに近いと思います。自身の努力も必要でしょうがどうしても祈るという願うという行為に没頭しがちです。実際にそうでしたし。単純に煩悩即菩提を”強調する”ということは煩悩があっても良い、ということであり、まじないになりやすいと思います。ある人を

煩悩即菩提=煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセス にする為には、となる為には、

ということを””祈りではない””テーリーガーターの様な具体的、体験談が必要ではないでしょうか?祈る事と切り離してLibraさんが「2」の回答を書いていると思うのですが、

A.菩薩行としての具体的な利他の行動
B.御本尊に祈る行動

ABどちらか一方でしょうか?両方でしょうか?
どのように捉えていらっしゃいますか?(断定出来ないと思いますが。。。。?Libraさんがいつも、というかずっと以前から断定されないのを知りつつこうした問いで申し訳ありません。)

>生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
>『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
>遠いですか?

上記に書いた通り、祈りだけ、つまりまじないだけならば遠くなると思います。
テーリーガーターのような具体的行動であれば煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離は近いと思います。

Libraさんは「創価」と「三枝氏友岡氏」どちらよりの事として書かれているのでしょうか?「3.成仏かまじないか」の記述からしてやはり後者ですか?それとも両方なのでしょうか?

3.成仏かまじないか
>同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

>一大事因縁(『法華経』)
>『法華経』における縁起と空

>「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテーマではないでしょう。

先の記事で書いて頂いた、友岡氏の会合での発言ですね。確かに創価学会はまじないを肯定していて、一方で否定しています。
しかし、これで法華経自身にまで密教的な部分があると言う事なのですね。

”法華経の「陀羅尼品」はテーリーガーターなどの原始仏教に遠いのですね。”
Unknown (そううそ)
2007-01-05 20:56:18
「4.一念三千と空は同じ」は記事に。

5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
>仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。

そうですね。6になってしまいますが、6の日蓮と大日如来で
 ────────────────────────────
 寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になってい
ます。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙
生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点
で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。
  ────────────────────────────
とありますから、私も釈迦=宇宙生命(=仏)とは思えませんね。

 もし釈迦=宇宙生命ならば、地球に人間が誕生してから多くの人々を見捨てた、また今も見捨てているのが釈迦だと思います。釈迦が人間として生きている間だけ人を救っている事になります。宇宙生命ならば、宇宙生命の大本ならば、常に生まれていないといけないか、コントロール出来る存在でないといけないと思います。

 宇宙に仏教が含まれているのは事実だと思います。(宇宙>仏教)”原始”仏教が宇宙真理や宇宙”に含まれる”あるいは宇宙から”生まれる生命”を肯定すべきであって真理を説いているとは思えません。

>教主釈尊は宇宙生命とかではありません。

宇宙<仏教とすると、つまり釈迦=宇宙生命(=仏)とすると宇宙に邪宗教が生まれる事自体がおかしな事になります。やはり宇宙から銀河が生まれて太陽系が生まれて地球が生まれて生命が生まれて、釈迦が生まれた。。。。でいいのでしょう。

宇宙自体=生命という概念はもう分かりません。そうであるともそうで無いとも。。。データ不足。(笑)興味が無いというか、もうどうでもいいというか。。。。(笑)(^_^;A

宇宙には生命が含まれる、生命が生まれる、という限定的、部分的な肯定で良いと思います。
科学的にも宗教的にも。です。

理解出来た様な気がします。

6.日蓮と大日如来
>「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでしょう。

理解出来ました。有り難うございます。


蛇足

>Libaraさん、

─────
─────
で閉じられた引用はあのままで言いと思います。
 ですが、入力する文章は「改行」を入れて頂かなくとも大丈夫ですよ?入れると画面サイズやフォントの違う人が読めないと思います。少数派かもしれませんが。。。。
 今はモバイルもあり640×480のモバイルもあり携帯もあり、1024×768、1600×1200の解像度もあるのでNothingToYouの同様に、改行で折り返すのではなく、ユーザーの画面環境で折り返されればいいと思います。
 私もブログのフォーマットはゴチャゴチャした物は左によせてあるフォーマットしか使っていません。gooのブログは5000文字までOKです。私はテキストエディタのマクロで文字数を数えています。
教えて下さい。 (超迷い人)
2007-01-06 04:09:59
日蓮大聖人の教えは

「法華経+密教」と考えて宜しいんでしょうか?

本尊は『本門の教主釈尊』と御書にあるのですが、本門とわざわざ書いてるのでお釈迦様ではないと思います。
真言宗の本尊大日如来を越す究極の本尊「南無妙法蓮華経」としたのではないでしょうか?
純粋な仏法ではないと考えると選挙財務等を除けば創価の言ってる戸田先生の悟りや宇宙生命論は大聖人に対しては別に問題ない気がします?

特別な人本尊は無く。
御本尊に唱題する人それぞれが桜梅桃梨に花開かせるものだと。自分自身が人本尊となれる努力をするのではないでしょうか。物まねをしても、その人自身にはなれないものです。それぞれの理想に近付けるトレ-ニング法を大聖人は残してくれたのではないでしょうか。だから人本尊はないのです。

『日蓮顕密教』こう考えると自分では納得できるんですが、、、創価を脱会していろいろ調べるうちに現在こういう風に捉えておりますがどうなんでしょうか?
回答(2007.01.06-01) (Libra)
2007-01-06 09:35:59
 そううそさん、おはようございます。

 2.については、そううそさんの質問の文章を読解できず、質問の内容を把握できませんでした。もう一度、質問しなおして頂ければさいわいです。

 法華経の「陀羅尼品」は原始仏教からは遠いと思います。

 残された問題は、2.と「一念三千 及び 空 文底」ということでよろしいでしょうか。
回答(2007.01.06-02) (Libra)
2007-01-06 09:58:14
1.同じ事を異なる言葉で表現するということはありえる
 ある一つの事を言葉で表現しようとする場合であっても、それをなしうる言葉が常に一通りしかないということはないとおもいます。たとえば、「x-1=0」と「x=1」は表現は異なっていますが、別のことを表現しているわけではないとおもいます。ですから、「言葉が違う」からといって、その言葉が表現しようとしている事態(内容)に「違いがある」ということには必ずしもならないでしょう。

2.空と一念三千の関係
 一般論と具体論の関係です。「一切は空である」というのが一般論としての「空」。「一切」といっても漠然としているので「修行者の一瞬の心」に的をしぼって観るのが一念三千。

────────────────────
 この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)
────────────────────

────────────────────
一念三千説とは、我々の一瞬の心に三千世間〔中略〕として示される、生命体の取りうるあらゆる可能性、たとえば地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏となる可能性を備えるという思想である。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 106)
────────────────────

3.文底について
 「文の底にしづめたり」というのは、要するに、ドラマ的な表現の底に流れているテーマとして読み取れるということでしょう。作者のねらいといってもよいでしょう。

 たとえば、「諸教の統一・諸仏の統一」も『法華経』の「文の底にしづめ」られているとおもいます(以下の資料を参照)。

  『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/131.html

4.「ほとんど断言をされないLibraさん」?
 これはわたしの自己解釈と異なります。そううそさんの誤解ではないでしょうか。
Unknown (そううそ)
2007-01-06 13:44:17
こんにちは。

>超迷い人さん
2007-01-06 04:09:59

私が回答しても宜しいでしょうか?
というのは師匠のお三方がいらっしゃるのにアホな私が答えるのはちょっと恥ずかしい(^^;)のですが。w

どうしましょう????

創価教学ということであれば、教える事は出来ると思いますが、
Libraさんの教えて下さる教学は整理整頓の真っ最中なので上手く伝える自信がありません。

密教論については私の新記事質問が用意されていますし、そこで一緒に質問されては如何でしょうか?

どうでしょう?
創価教学であればすぐに回答可能です。
Libraさんからの講義が終われば違いが明確になるかと思いますが。。。。。

Unknown (そううそ)
2007-01-06 14:29:45
2007-01-06 09:35:59
>残された問題は、2.と「一念三千 及び 空 文底」ということでよろしいでしょうか。

はい。私がゴチャゴチャ書きすぎたかもしれません。ここまできたら分からない所があっても構わないのでせっかくですから一度「陀羅尼品」を読んでみます。

Unknown (超迷い人)
2007-01-06 14:56:37
そううそさん。
よろしくです!m(_)m
Unknown (そううそ)
2007-01-06 15:08:29
Libraさん
2007-01-06 09:58:14

1.同じ事を異なる言葉で表現するということはありえる

>「x-1=0」と「x=1」は別のことを表現しているわけではない

確かにそうですが、数学的には方程式、代入値と使い方が場合によって違います。

>「言葉が違う」からといって、その言葉が表現しようとしている事態(内容)に「違いがある」ということには必ずしもならない

おっしゃるとおりですが、記事にも書いた通り、「空」のメリットが見いだせません。
龍樹や法華経執筆当時の人たちは一念三千という言葉はなくても論じた可能性があると思いますが、どうなのでしょうか?

その一念三千という言葉なしに「龍樹の空」というものが時代を作り画期的であったはずなので、何らかのメリットがあったと思うのですが。

2.空と一念三千の関係

--------------------
 一般論と具体論の関係です。「一切は空である」というのが一般論としての「空」。「一切」といっても漠然としているので「修行者の一瞬の心」に的をしぼって観るのが一念三千。
────────────────────
 この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言っても
(中略)
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 106)
────────────────────
--------------------
そうですよね。おっしゃるとおりです。
全部、一念三千の事を言っているのであり、一念三千の解釈にぴったりであり「空」を言及している様に思えません。

 空、仮、中ってそれぞれ、同時期にワンセットで出てきたんでしたっけ?

3.文底について
>ドラマ的な表現の底に流れているテーマ
>作者のねらいといってもよいでしょう。
>「諸教の統一・諸仏の統一」も『法華経』の「文の底にしづめ」

法華経をトータルとしてのテーマなんて私には理解出来そうにありませんね。当時の法華経執筆者と同じ勉強をしていれば可能でしょうが。。。。。

4.「ほとんど断言をされないLibraさん」?

>これはわたしの自己解釈と異なります。そううそさんの誤解ではないでしょうか。

驚きました。創価教学の様に人格攻撃、罵倒、数信仰がないからでしょうか?
創価班で広宣部の配布する資料を読んだ事もあるので、Libraさんの講義をマイルドに感じるのかもしれません。

創価の書籍、創価以外の書籍を等しく扱われ、全て起承転結や理路整然と解説されているので、必ず、日顕宗攻撃の教学とは受ける印象が違うのかもしれません。先の記事にも書きましたが、法華経の何処を強調するのか?ということにも密接に関係があるのかもしれません。法華経の智慧の書籍が手元にないのですが、創価教学の強調とは違うのでしょう。

”そんなことはどうでもいいから”というところはめずらしくLibraさんが断言されているな、と思いましたのであくまで私の印象でしょう。

申し訳ありませんでした。

Libraさんの講義をまだまた理解していない証拠ですね。libraさんと対話していると難しい話なのですが、楽になれます。創価の人と話していると簡単な話をしているのにとても疲れます。少なくとも議論が集約されていくのでとても楽です。ホントに勉強になります。創価のバリ活は話が広がるので話しづらいです。
Unknown (そううそ)
2007-01-06 15:09:46
>よろしくです!m(_)m

え? どっち?
私が講義?それとも待ちます?

Unknown (超迷い人)
2007-01-06 15:19:10
そううそさんの講議をお願い致します。
Unknown (そううそ)
2007-01-06 16:04:23
>超迷い人さん

>日蓮大聖人の教えは「法華経+密教」と考えて宜しいんでしょうか?

私が14年間の中で学んだ教学と今日現在の創価学会の違いがあるかもしれませんが。

創価学会は 「日蓮が真言(密教)を破折した」 という立場解釈で良いと思います。

密教とは何か?ということを私は学んでいないのですが、創価学会の宇宙生命論は密教に限りなく近いと思います。 (Libraさんとの対話でこれも質問する予定です。
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85
法華経非仏説 覚え書きメモ )

「宇宙生命論」は「梵我一如」という概念で、非仏教のようですけどね。

>真言宗の本尊大日如来を越す究極の本尊

これは私にはよく分かりません。大日如来を諸天善神として描いていますが、「越えている」(超?)かどうかは分かりません。あくまでも大日如来は諸天善神の一つであり、本尊は南無妙法蓮華経であり、法華経の行者を守護する。という考え方なのでしょう。

>(宇宙生命論や密教が)純粋な仏法ではないと考えると創価の言ってる戸田先生の悟りや宇宙生命論は大聖人に対しては別に問題ない気がします?

これは私もLibaraさんに質問する予定です。上記のリンク先をお読み下さい。

「戸田先生の悟りや宇宙生命論は問題ない。」と捉えるのが創価教学であり戸田仏法、池田仏法、創価教学です。

私はつい先日、Libaraさんに教えて頂き、宇宙生命論を始めて否定出来たばかりです。

>特別な人本尊は無く。

?申し訳ありませんがよく分かりません。下記に続いているのかな?

>御本尊に唱題する人それぞれが桜梅桃梨に花開かせるものだと。

(勝手に改変しますね。)
>特別な人本尊は無く、御本尊に唱題する人それぞれが桜梅桃梨に花開かせるものだと。
>人本尊はないのです。

人本尊は開目抄などの御書にも書かれている事であり、日蓮も創価教学としても(否定でなく)肯定している箇所だと思います。

>自分自身が人本尊となれる努力をするのではないでしょうか。

自分の生命にも尊い本尊(南無妙法蓮華経)があり、既に人自体が人本尊という考え方です。当然、創価の場合は「創価学会だけに入信。大御本尊だけを拝む。」という条件付きの人本尊でしたが。宗門問題以降は大御本尊は曖昧になっていますね。

>それぞれの理想に近付けるトレ-ニング法を大聖人は残してくれたのではないでしょうか。だから人本尊はないのです。

人本尊がない、という考え方が成立するかどうかは”今の私には”わかりません。
創価学会員時代の私の教学でも人本尊は肯定される箇所でした。

「理想に近付けるトレ-ニング法を大聖人は残してくれた」というのは「人が幸福になる為」、と言う一般的な解釈であればYesでしょう。

実際に幸福になれるかどうかは、もう知りませんし、興味もありませんし、「唱題すれば必ず幸福になれる」と思いません。

>特別な人本尊

これはどういう事を指しているのかは質問の意味がよく分かりません。特別とは?特別な人本尊とは?御本尊の事でしょうか?

いかんな。回答になっていない所が多数ありますがこれでいいでしょうか?
Unknown (そううそ)
2007-01-06 16:16:10
創価学会は 「日蓮が真言(密教)を破折した」 という立場解釈で良いと思います。

とかいていますが、当然、創価の曼陀羅や考え方が密教をベースにしている箇所もあるのですが、他宗(真言)は破折する、というダブルスタンダードな立場が創価学会です。
回答(2007.01.06-03) (Libra)
2007-01-06 16:28:15
 「一念三千 及び 空 文底」についてはすでに回答しましたので、残りは、わたしが解読できなかった質問(2.)と「密教論」ですね。あるいは、2.はすでに終了?

 「密教論」については、今回、先回りしてコメントしておきたいとおもいますが、その前に、「空=縁起」について補足しておきましょう。

Ⅰ.空(=無自性)と縁起は同じ
 「空(=無自性)と縁起は同じである」ということは、先に示した「自性」についての3つの資料を読みさえすればお分かりになると思います。これらの資料が分かりにくいのであれば、以下の、佐倉さんの説明を読まれることをお勧めします(二章の前半部分だけでもよいでしょう)。

  空の思想(一章 自性論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

  空の思想(二章 縁起論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

Ⅱ.「密教論」について(先回りコメント)
 「もし一切が空であり、本性をもたず縁起しているならば、何ものか一者から一切が生ずるということ」などはありえません。しかし、密教では「一切万物の展開する根源である」ところの「絶対者」を妄想します(そして、それと自己との合一を妄想します)。この時点ですでに仏教(縁起説)ではなくなっています。「空を言説の及びえない、神秘的なもの、特殊な行法によって直接体験されるのみの深遠なる真理、と見なすことはむしろ我々には易しい」のですね。「その時、もはや言葉は及ばないのであるから「空」が何を意味していたのかは捨象されてしまう。それは空と呼ばれなくともよい。或いはそれが一切法の根源ともなれば、「空」と呼ぶことはむしろ躊躇され」ましょう(以下の資料を参照)。ようするに、無内容をありがたがるような、そんな宗教になってしまうわけです。

  タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
  http://fallibilism.web.fc2.com/022.html

 「龍樹の空性というのはそのようなことではないのです。私たちの存在、生滅変化している存在は、なにひとつ自性をもって生じたり、滅したりしているものではないということが空性ということであって、生じもしない滅しもしないような、なにかわけのわからない真実在があり、その基盤のうえに生滅変化する私たちの存在があるというようなことではないのです。」(以下の資料を参照)。

 「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/052.html

 無内容な「根源」を妄想し、それと自己との合一を妄想してしまうというのは宗教の典型的なパターンの一つともいえます。日本の新宗教もすべてこのパターンです(以下の資料を参照)。

  新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
  http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

 しかし、「根源的生命」などは妄想であり、作り話でしょう(以下の資料を参照)。少なくとも、仏教(縁起説)とは両立しません。矛盾します。

  密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

 だから、仏教(縁起説)は、「根源的生命」などを説かなかったのです(以下の資料を参照)。

  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html
Unknown (そううそ)
2007-01-06 16:44:08
すいません。

>質問(2.)と「密教論」ですね。あるいは、2.はすでに終了?

申し訳ありません。上記のコメントは誤記です。私の質問がいけなかったと思うのですが、「2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離」は時間を下さい。法華経を読んでみます。
やっと「空」が理解出来ました。 (そううそ)
2007-01-06 18:26:29
>以下の、佐倉さんの説明を読まれることをお勧め

  空の思想(一章 自性論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
  空の思想(二章 縁起論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

「空(=無自性)と縁起は同じである」という結論を理解出来ました。

私がピンと来たのは「空の思想(一章 自性論)http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html」こちらですが、よく分かりました。有り難うございます。m(_ _)m

無常=無我=縁起=無自性だけだったのですが、ようやく、無常=無我=縁起=無自性=空で理解出来ました。

今”初めて”龍樹の「空」の説明の文章をよんでその通りだと思いました。
確かに凄い視点というか考え方だ。「無常=無我=縁起=無自性」を裏付けもして強化もする概念です。凄い。

以下、駄文。

しかしこのHPずいぶん以前にアクセスした記憶があるのですが、空の思想は読まなかった気がします。情けなや。きっと空仮中の三諦が不明だったので読まずにとばしたんですね。情けない。

>先に示した「自性」についての3つの資料を読みさえすればお分かりになると思います。

こちらの解釈
『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/087.html
では、やはり、空の説明をされている様には感じませんでした。どちらかというと「空」ではなく、縁起=無自性(寄り?)のそのままの説明や解釈に思えます。まぁ一緒なのはやっと分かったのですが。。。。。(^_^;A
回答(2007.01.06-04) (Libra)
2007-01-06 18:27:41
1.縁起を空と言い換える必要性
 龍樹が縁起を空(無自性)と言い換えて、それを強調したのは、当時の一般的な仏教理解の誤りを的確に指摘して、批判するためだったとおもいます。

──────────────
アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず自性があり、〔中略〕自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められます。

(佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
──────────────

  「自性・無自性について」「2005年12月25日 01:32」
  http://freett.com/leo020503/bloglog3_001.html

2.円融三諦(縁起=空)を一念三千として展開する意義
 天台大師チギが円融三諦を一念三千として展開したのは、その方が具体的なイメージをつかみやすいので修行方法として有効だと考えたからです。自分の一瞬の心を例にとって観るわけですから、これ以上の具体論はないでしょう。
 一念三千説の付随的な効果としましては、より「深い宗教的な反省につなが」りやすいということがあるとおもいます。

──────────────
 十界のなかで人界は中間的な存在です。地獄界と仏界の中間にあるからです。その人界のなかに、他の九界が存在しているということは、他の九界の存在を架空の神話的な存在と見るのではなく、自己自身の心のあり方として見るということです。
 心はめまぐるしく変転しますが、自分の心のあり様はいったい十界のどの界に位置するのかを考えることは、深い宗教的な反省につながり、さらに最も尊い仏界を自己の心に実現する道に直結しているのではないでしょうか。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 221)
──────────────

3.チギにとっての「諸法の真実の様相(実相)」とは
 「諸法実相を把握することこそが成仏することである」というのがチギの考えです。諸法実相を把握するための実践修行が「止観」であり、その「正行」を解説する中で一念三千説は説かれています。

──────────────
諸法をどのように見るかということによって、衆生の十法界のあり方が規定されるという考え方は、実は後に述べるように、諸法の真実ありのままの様相、すなわち諸法実相を観察、把握することが仏道の究極の目的であるとする『法華経』の思想に強く動機づけられた智■〔豈+頁〕の思想の大きな特色である。智■〔豈+頁〕はこの諸法実相を究め尽くすことがとりもなおさず成仏することであると考え、本来言語表現を越える諸法実相をさまざまな仕方で表現しようと努力している。上に述べた中道もその一つであり、また、空、仮、中道の三者が一体となって円融しているとする三諦円融もそのような表現の一つである。そして、これから考察する一念三千説もこの諸法実相の内実を表現したものなのである。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 38)
──────────────

 チギにとって、諸法実相とは円融三諦です。この円融三諦は、内容的には縁起と等しいのです。このことは、以下の記事の中ですでに述べたとおりです。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html
回答(2007.01.06-05) (Libra)
2007-01-06 18:29:17
1.『法華経』は単純に楽しめばよいと思います
 『法華経』は演劇だと思って、まずは単純に楽しまれたらよいと思います。たとえば、『マトリックス』とかのSF映画をみるみたいに。すると、出てくる仏教用語とかにも自然と興味が出てきます。勉強は後からついてくるでしょう(私の体験談)。
 しかし、そもそも、みたくない映画を無理にみることはありません。ドキュメンタリー映画(初期経典)が好きな人はそっちをみればよいとおもいます。また、いったん『法華経』をみはじめたとしても、おもしろくなければ途中で退席すればよいとおもいます。実際、『法華経』では、本題に入る前に、いきなり五千人が退席します。その退席を釈尊は無言で許した後、彼らが去ったことは良かったことであると言います。

2.わたしはできるだけ断言し批判していきたい
 そううそさんにとっては、「断言しない」ということは褒め言葉のようですね。しかし、わたしにとってはそうではありません。ここでいう「断言する」とは、すなわち、自らの主張を「主張命題として明確に表明」するということです(以下の資料を参照)。

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

 もちろん、自らの主張が誤りであると分かれば、それを気づかせて下さった方に感謝しつつ、主張を改めます。その時、わたしは、真理に一歩近づいたことになります。

 また、「批判しない」ということも、わたしにとっては褒め言葉ではありません(もちろん、「批判」と「誹謗」は全く異なります)。

   日蓮と批判精神2
  http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/01199c7a03c95081f92aaf8198f36e25

──────────────
  どんな理論であれ、その理論がたしかに真であるということを確実に根拠づける(正当化する)ことなどは不可能だとわたしはおもいます。しかし、それでも、知識の探求には意義があるとおもいます。わたしたちは、だれひとりとして真理を所有することなどできませんが、自分たちが誤っている可能性が常にあるということを深く自覚しつつ、みんなで協力して、おたがいに理論を厳しく批判しあっていくことによって、無限に真理へ接近していくことができると信じるからです。

(「真理について」、
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html
──────────────

 スマナサーラ長老がおっしゃるように、「仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長する」ことができるのではないでしょうか。

──────────────
世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。
その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。
「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。
キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。
しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。

http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html
──────────────
Unknown (そううそ)
2007-01-06 18:34:07
>ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといっています。

質問
これは日蓮の宗教的な想像や賛嘆、思いこみ(宗教的な結果オーライなど)なのではないでしょうか?
龍樹は一念三千ではなく、「空」の法門を知っていたのでは?

 一念三千と言う理解ではなく、(一念に三千あると言う議論はしたと思いますが)ではなく「空」の法門という言葉と理解なのではないでしょうか?

一念三千という見方を龍樹はしたのでしょうか?

一念三千は日蓮宗であればどの宗派も肯定するでしょうが、文底は日蓮宗全体なのでしょうか?
Unknown (そううそ)
2007-01-06 19:14:10
深い議論の箇所は後にしてここだけ。

>「断言しない」ということは褒め言葉のようですね。

そうです。申し訳ありません。

 例えば、これは創価教学が縁起、空、無自性と言う事を学ばずに、事と理の一念三千だけを学んでいるからかもしれません。要は「創価教学の浅さ」ですね。日蓮原理主義、池田原理主義、創価組織やお金や票が大事原理主義とでも言うものでしょうか?

創価教学には文章量が少ないというか、学会公式のHPにはLibraさんのHPの1/100ぐらいの文章量しかないでしょう。

LibraさんのHPは膨大な量があるので「断言しない」と感じるのかもしれません。

>2.わたしはできるだけ断言し批判していきたい
>しかし、わたしにとってはそうではありません。ここでいう「断言する」とは、すなわち、自らの主張を「主張命題として明確に表明」するということです(以下の資料を参照)。

 よく考えれば、それはそうでしょうね。。。。というか当たり前だと思います。私にとってこの一年間というのは、ずっと創価の人とくだらない議論、マナーや人の不幸を肯定したり喜んだ入りしている創価学会員とネットで会話してきました。そこには慈悲も礼儀もあったモンじゃありません。常に罵倒です。御書を引用して罵倒です。私のブログが証拠です。

もちろん創価の人でも良い人、好かれる人いますし、ネットでもリアルでも会話を続けると思います。今までもそうだし今後もそうです。実際に会ってもいます。

 釈迦仏法や法華経で建設的な議論していると、どうしても仏法の慈悲に触れるので自然とLibaraさんの意見がマイルドに感じられるのかもしれません。

つまりLibraさんの言葉、つまりLibraさんの経文は「仏法の慈悲」を私に伝える事、伝わる事に成功してるのではないでしょうか?
伝える事の重大さは友岡氏の書籍の感想に書いた通りです。マイルドに感じられるのは成功なのでは?

断言するしない、伝える伝わらない、と言う問題はありますが、つまり、とある人がLibraさんの意見を「信じる」「信じる事が出来る(かも)」と言う点に到達出来るかが問題なのかもしれません。

まったく今日一日だけでもチャットの様な進行(笑)でレスポンスを頂く事にどの様に感謝していいのかわかりません。

本当に有り難うございます。
感謝感激です。
回答(2007.01.06-06) (Libra)
2007-01-06 19:51:06
1.龍樹の空の思想はチギの一念三千を含意する
 龍樹の空の思想は、理論としては、チギの一念三千を含意します。すでに説明しましたように、空と一念三千は、一般論と具体論の関係にあるからです。

 たとえば、「人間は必ず死ぬ」(一般論)は「ソクラテスは必ず死ぬ」(具体論)を含意します。「人間は必ず死ぬ」ということを知っている人は、「ソクラテスは必ず死ぬ」ということを知っていることになります。

 そういう意味では、龍樹は一念三千を知っていたといえるでしょう。龍樹は一念も空であることを知っていたわけですから。

2.日蓮の一念三千説に対する評価
 具体論として、一念を観察の対象とする修行方法をあみ出したのはたしかにチギの功績です。日蓮はこの功績を高く評価しており、龍樹とチギは「内証は同じ」だけど、説明はチギの方が優れていると理解しています。

──────────────
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)
──────────────

 学問は進化していくものですから、そういう意味では、日蓮の理解は一般論としては妥当だといえるでしょう。しかし、日蓮には行き過ぎた表現がみられます。たとえば、日蓮は、『中論』の三諦偈は「法華開会の三諦」を説いていないと言っています。

──────────────
竜樹菩薩の流天竺に七十家あり七十人ともに大論師なり、彼の七十家の人人は皆中論を本とす中論四巻二十七品の肝心は因縁所生法の四句の偈なり、此の四句の偈は華厳般若等の四教三諦の法門なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず。
 疑つて云く汝がごとくに料簡せる人ありや、答えて云く天台云く「中論を以て相比すること莫れ」又云く「天親竜樹内鑒冷然して外は時の宜きに適う」等云云

(「撰時抄」、全集、pp. 267-268)
──────────────

 『法華玄義』の「莫以中論相比」(大正蔵第33巻、p. 713c)という個所をこのような文脈で引用することが妥当といえるのか非常に疑問ですが、百歩譲って、そのことはなんとかこじつけることができたとしても、日蓮の主張はやはり行き過ぎでしょう。というのも、チギじしんが、一心三観(法華開会の三諦)は『中論』の三諦偈に説かれているとはっきり言っているからです。しかも、チギがそのことを明言しているのは、日蓮じしんが「一代聖教の肝心」と評価した『摩訶止観』においてであり、しかも、その中でも最も重要な第七正観章においてです。以下にその個所を菅野先生の現代語訳とともに引用しておきます。日蓮が『摩訶止観』を高く評価している部分もあわせて引用しておきましょう。

●『摩訶止観』の原文
──────────────
若一法一切法。即是因縁所生法。是為仮名仮観也。若一切法即一法。我説即是空空観也。若非一非一切者。即是中道観。一空一切空無仮中而不空。総空観也。一仮一切仮無空中而不仮。総仮観也。一中一切中無空仮而不中。総中観也。即中論所説不可思議一心三観。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 55b)
──────────────

●菅野先生の訓読
──────────────
一法一切法なるが若きは、即ち是れ「因縁所生の法、是れ仮名と為す」にして仮観なり。一切法即ち一法なるが若きは、「我れ即ち是れ空なりと説く」にして、空観なり。非一非一切の若きは、即ち是れ中道観なり。一空一切空にして、仮、中として空ならざる無きは、総空観なり。一仮一切仮にして、空、中として仮ならざる無きは、総仮観なり。一中一切中にして、空、仮として中ならざる無きは、総中観なり。即ち中論に説く所の不可思議の一心三観なり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 266)
────────────────

●菅野先生の現代語訳
────────────────
一法が一切法であるというのはとりもなおさず「因縁によって生じた法は仮名である」であり、仮観である。一切法はとりもなおさず一法であるというのは、「私はとりもなおさず空と説く」であり、空観である。一でもなく一切でもないというのは、とりもなおさず中道観である。一空は一切空であり、仮の中に空でないものは無いのは、総空観である。一仮は一切仮であり、空の中に仮でないものは無いのは、総仮観である。一中は一切中であり、空仮の中に中でないものはないのは、総中観である。(これらは)とりもなおさず『中論』に説く思議を越えた一心三観である。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 191)
────────────────

●日蓮の『摩訶止観』に対する評価
────────────────
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
────────────────
Unknown (そううそ)
2007-01-06 20:48:53
>龍樹は一念三千を知っていたといえる
>龍樹は一念も空であることを知っていたわけですから。

Philosophy of Emptiness 1 (Self-Existance)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、一方、思惟もまた自性が空である。(同上61注解)

もう「空」そのものに疑問はありませんが、補足として教えて下さい。Libraさんのご意見は上記の文章が近い内容ですが、どうでしょうか?
一念と思惟の違いだけなのですが。。。。。

さらに近い文章か、あるいは、「龍樹は一念も空であることを知っていた」文章をLibraさんはご存じでしょうか?
Unknown (超迷い人)
2007-01-06 20:58:15
そううそさんありがとうございました。

日蓮宗、日蓮正宗系は密教と名乗ってはいませんが、日蓮曼陀羅本尊、及び修行法から考えると正しく密教であると思う訳です。
 
>特別な人本尊が無い。
 それぞれの理想の自分自身が人本尊であり、
 万人の望む絶対神のような
 一人の人本尊はないと言う意味です。

お忙しいところお手数をおかけ致しました。
また勉強させて頂きます。
回答(2007.01.06-07) (Libra)
2007-01-06 21:44:54
 佐倉さんが引用されているように、龍樹は「ものはすべて自性が空である」と言っています。空でないなにものもありません。ものはすべて空(無自性)ですから、当然、「思惟」だろうと、「一念」だろうと、すべて空(無自性)です。このことを龍樹は知っていたでしょう。
Unknown (そううそ)
2007-01-06 22:54:29
2007-01-06 21:44:54
>「思惟」だろうと、「一念」だろうと、すべて空(無自性)です。

有り難うございます。理解出来ました。

限定的ですが、アビダルマを肯定してしまいます。ボソボソ。。。。。。
中観と唯識 (顕正居士)
2007-01-07 17:04:12
はじめまして。私の発言が引用されているのでちょっとコメントします。
インドの大乗仏教は哲学的には中観派と唯識派です。
中国仏教は哲学的には天台と華厳です。天台は中観系で華厳は唯識系です。
ただし羅什三蔵--天台宗は正規の中観系ではありません。
大智度論を竜樹の真撰とし、三論以上に重視します。四論宗といいます。
対して嘉祥吉蔵の三論宗はいちおう正規の中観系といえます。
なお正規の中観は純粋な批判哲学なので、積極的な立論というものはない。
それでインドでも後に中観派と唯識派は合併してしまいます。
だから天台宗が中観系というのは華厳宗と相対の上のことです。
なお禅も(中国、日本の)密教も哲学的には華厳宗が土台になっています。
対して浄土のほうはだいたい天台系です。
系統はそうですが、日本天台、日蓮は如来蔵系というのが内容は適切です。
読者サービス (Libra)
2007-01-07 20:21:01
 顕正居士さんの解説(今でも教科書にはそのように書いてあるのでしょうから「通説」といってもよいでしょう)のうち、わたしが賛成できない点を2つあげます。もっとも、わたしは、顕正居士さんと議論するつもりなんて全くありません(そんな力、わたしにはありませんから)。以下は、読者のみなさまへのサービスとして書きます。

1.三論宗は「正規の中観系」ではないとおもいます
 松本史朗先生や伊藤隆寿先生の議論に賛成します。わたしには、三論宗が「正規の中観系」だとはどうしてもおもえません(たしかに彼らの自己解釈はそうだったのでしょうが)。もっとも、松本先生はチギまで含めて「正規の中観系」ではないとお考えのようですが、チギは「正規の中観系」だとおもいます(そううそさんに対する回答の中ですでに説明したとおり)。

───────────────
結論より言えば、インド中観派の「空の思想」は、厳密な意味では、中国には正確に移入されなかったのである。換言すれば、中国系の仏教には、「空の思想」の正確な理解は存在しなかったということである。
 ナーガールジュナの『根本中頌』は、確かに青目の註釈を伴った形で、羅什によって、五世紀初頭に、『中論』として漢訳され、この『中論』と『百論』『十二門論』の思想を研究する人々が三論宗という有力な学派を形成し、彼等がいわば、中国における中観思想、「空の思想」の継承者となったのである。しかるに、彼等三論宗の人々の「空」の理解は、根本的な誤解を含んでおり、そのために、インド中観派の「空の思想」は、中国には正確に伝わらなかったのである。
 〔中略〕驚くべきことに、インド中観派の「空の思想」の継承者たるべき三論宗の大成者とされる吉蔵(五四九-六二三)でさえも、如来蔵思想を積極的に容認し、〔中略〕「有の思想」を説いたのである。

(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 412)
───────────────

  中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
  http://fallibilism.web.fc2.com/081.html

2.正規の中観にも主張はあります
 「正規の中観は〔中略〕積極的な立論というものはない」という発言にも違和感を感じました。たしかに『廻諍論』の第29詩節にはそんな感じのことが書いてありますが、この部分は、「正当化可能なものとしての主張などはわたしにはない」というように理解するしかないとおもいます。なぜなら、「ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれはいうのである。他による存在に実体はない。」(『廻諍論』第22詩節、梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 138-139)というように、龍樹は明確に《主張》しているからです。龍樹に主張があることはあまりにも明らかです。たしかに、龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかったとおもいますが、龍樹に主張がなかったというのは事実として誤りだとおもいます。

 龍樹に主張があったということはあまりにも明らかなので、それをあたりまえの前提として、「主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかった」という意味で、顕正居士さんが「正規の中観は〔中略〕積極的な立論というものはない」といわれたのでしたらその通りだとおもいます。
三論、四論 (顕正居士)
2007-01-07 23:51:03
Libraさん。ひさしぶりです。

1 について
月称釈は中国に伝わらなかったので、三論もインド中観派の正確な理解とはいえない。
しかしインドに引用が皆無な智論を三論以上に重視する四論は中国独自の学派です。

2 について
帰謬論証派が中観の正統とされていますので、この立場からは「一切の存在に実体が
ない」という主張もまた成立しません。
そううそさんへ (Libra)
2007-01-08 00:31:41
 だいたい、説明すべきことは説明したと思いますがいかがでしょうか。そううそさんも、もう一度、わたしのコメントを最初から読み直してみて下さい。前回読まれたときには理解できなかった個所も、今のそううそさんならきっと理解できるとおもいます。

 明日いっぱいは十分に時間をとるつもりでいますが、それ以降もずーっとここにかかりきりというわけにはいきません。明日、一段落すればよいなとおもっています。明日の段階でまだ大きな疑問が残るようでしたら、またいつかまとまった時間をとってお答えしたいとおもいます。

 もし顕正居士さんのコメントに興味がおありでしたら、別の記事にするなどして直接お聞き頂ければさいわいです(わたしはあまり興味がないので参加しません)。
Unknown (そううそ)
2007-01-08 00:32:49
>顕正居士さん

はじめまして。

>インドの大乗仏教は哲学的には中観派と唯識派です。
>中国仏教は哲学的には天台と華厳です。

創価教学の中で歴史的な観点から経文正当性(内容を含め)を学ぶ事は一切無いのでこれは私には分かりません。
創価教学は法華経仏説と法華経最第一なので、申し訳ない限りです。それだけ創価教学が薄いという事ですが。

>天台は中観系で華厳は唯識系です。

 で、この唯識なんですが、内得信仰時代に空が分からなかった私は一念三千の理解の為に九識論を学んだ覚えがあります。創価の九識論は阿摩羅(あまら)識(九識心王真如の都)から突然裏付けなく久遠仏、久遠生命と宇宙生命論に至るのですが。
九識論で一念三千を理解した覚えがあるのです。

 この九識論と唯識がどれだけ一致しているのか具体的には裏付けもなく、又、理解していないのですが、もし同等の「空」を指しているとすると、華厳は唯識系、つまり華厳は「空」重視なのでしょうか?

>ただし羅什三蔵--天台宗は正規の中観系ではありません。

すいません。今の所、Libraさんのご意見があるので、天台宗は正規の中観系だと思います。
すぐ上のLibraさんのコメントはまだよく理解していません。

 但し、折伏の際に私が用いていたのが、五時八教の説明の為に日蓮の遺文の一代五時図、一代五時鶏図、釈迦一代五時継図(などなど)なので、私自身、日蓮聖人と同等の天台宗は中観だと思っていると思います。正規、正統派なのかどうかはよく分かりません。先日Libraさんのおかげで「空」を理解したばかりのヒヨッコのくせにすいません。(^_^;A

ここの記事より。
>「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

ようやく空を理解したばかりなので自分が理解及び、考えていた中観派の概念が不足、及び中途半端でしたが。(笑)(^_^;Aとりあえず、日蓮は一念三千を重視しているのは顕正居士さんもご存じかと思います。

羅什三蔵が正規の中観系かどうなのかは私には不明です。
他の教典を翻訳しているからそういうこともあるかもしれない。。。ぐらいです。

>大智度論を竜樹の真撰とし、三論以上に重視します。四論宗といいます。

大智度論を含めた四論宗はさっぱりです。すいません。触れた事がありません。
今の状況では大智度論まではちょっと自身のキャパを越えています。

四論宗という言葉自体が日蓮の御書にあるかどうかも今まで知りませんでした。
検索すればありましたが。

三論宗は言葉としてはしっていますが、やはり創価教学の中では邪宗の一つで触れる事もありません。

ネットにトータルな読み物があればかなり後日になっても読む気はありますが。

>対して嘉祥吉蔵の三論宗はいちおう正規の中観系といえます。
>なお正規の中観は純粋な批判哲学なので、積極的な立論というものはない。

これも勉強不足で否定も肯定も出来ません。

>だから天台宗が中観系というのは華厳宗と相対の上のことです。

華厳経との対比というのは初耳です。他経は一切邪宗の創価だからあたりまえかもしれませんが。

>それでインドでも後に中観派と唯識派は合併してしまいます。
(中略)
>なお禅も(中国、日本の)密教も哲学的には華厳宗が土台になっています。

これも勉強不足で否定も肯定も出来ません。

>対して浄土のほうはだいたい天台系です。

やや曖昧な日本語なのでさっぱり分かりません。申し訳ありません。

>系統はそうですが、日本天台、日蓮は如来蔵系というのが内容は適切です。

如来蔵というのも初耳です。日蓮の御書にはわずか一カ所しかないみたいです。

もし議論が継続する様であれば、言って下さい。
私の都合上、申し訳ありませんが、別記事とさせて頂きたくお願いします。
m(_ _)m
Unknown (そううそ)
2007-01-08 01:03:32
>Libraさん

> だいたい、説明すべきことは説明したと思いますがいかがでしょうか。
>明日の段階でまだ大きな疑問

問題は件の「2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離」ですね。

>もう一度、わたしのコメントを最初から読み直してみて下さい。
はい。そうします。

>明日いっぱいは十分に時間をとるつもりでいますが、

ホントに申し訳ありませんというか有り難うございます。

>それ以降もずーっとここにかかりきりというわけにはいきません。

当然です。
本当に有り難く思います。こんなにスピーディに回答頂けるとは思いませんでした。

個人的控え (そううそ)
2007-01-08 20:54:21
仏教と批判的合理主義++「如来蔵思想批判」の批判的検討
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

4.中国仏教にも中観思想は存在した
2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離 (そううそ)
2007-01-08 22:45:08
Libraさんのコメント
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2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離

 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されています(以下を参照)。
  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」というのも同じことではないでしょうか。
  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとおもいます。遠いですか?
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そううその質問
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>煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

 よく考えると”創価学会の教える”煩悩即菩提はまじないに近いと思います。自身の努力も必要でしょうがどうしても祈るという願うという行為に没頭しがちです。実際に私がそうでしたし。単純に”創価学会の教える”煩悩即菩提を”強調する”ということは煩悩があっても良い、ということであり、まじないになりやすいと思います。もちろん、創価学会でもまじないだけではなく、「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」という解釈も指導もあります。両方あると思います。

ある人を煩悩即菩提=煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセス にする為には、となる為には、ということを””祈りではない””テーリーガーターの様な具体的、体験談が必要ではないでしょうか?

あくまでも議論する為に、祈る事と仏法教義解釈を切り離して(宗教行為として祈る事自体は否定しません)Libraさんが「2」の回答を書いていると思うのですが、

A.法華経”執筆者”は菩薩行としての具体的な利他の行動を重視する。
B.法華経”執筆者”は御本尊に祈る行動を重視する。

ABどちらか一方でしょうか?両方でしょうか?
どのように理解し、捉えていらっしゃいますか?

釈迦時代にはテーリーガーターの様な具体的、体験談が存在しますが、
法華経”執筆”時代にテーリーガーターの様な具体的、体験談が存在するのでしょうか?(経文内の比喩しかない?)

>生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
>『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
>遠いですか?

上記に書いた通り、法華経”執筆者”が、祈りだけ、つまりまじないだけ、という意図ならば、遠くなると思います。
テーリーガーターのような具体的行動であれば煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離は近いと思います。

法華経”執筆者”だけでなく、Libraさんご自身は「創価」と「三枝氏友岡氏」どちらよりの事として書かれているのでしょうか?「3.成仏かまじないか」の記述からしてやはり後者ですか?それとも両方なのでしょうか?
回答(2007.01.09-01) (Libra)
2007-01-09 01:20:57
1.『法華経』は菩薩行を重視します
 『法華経』は別名「教菩薩法」ですから菩薩行を重視します。ですから、A.です。しかし、信者獲得のために、「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことも書いてあります。このことを以下のように表現しました。

───────────────
 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてあるわけですが、それは法華経のメインテーマではないとおもいます。「陀羅尼品」は別にあってもなくてもいい章だとおもいます。

(「法華経非仏説 覚え書きメモ」、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85
───────────────

2.法華経には作者たちの体験および誓願が演劇的に表現されているとおもいます。

3.わたし自身は「お題目を唱えるだけで祈りが叶う」なんて、全くありえないと思っています。このことを以下のように表現しました。

───────────────
 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」なんて、ありえないでしょう。法華経の内容も無視して、意味も無視して、それをただくりかえし唱える(発音する)だけで何かが起こるなんてこと、ありえません。冷静に考えたらわかります。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

 お題目を唱えることによって苦しみが滅びるということがもしあるとすれば、それは、お題目に凝縮されている縁起の思想の力のなせるわざでしょう。

(同上)
───────────────
回答(2007.01.10-01) (Libra)
2007-01-10 19:21:38
【日蓮における一念三千の位置づけと「文底」】

 日蓮の主観においては、「一念三千の法門はチギによって発明されたものではなくて、釈尊が五百塵点劫の当初に証得したものである」ということになっています。「チギは一念三千の法門を妙法蓮華経の五字の中から取り出した」というのが日蓮の理解です。

────────────────────
寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
────────────────────

────────────────────
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年南北の十師智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深勝劣前後次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
────────────────────

 日蓮がこのように理解したのは、次の2つの命題を信じたからでしょう。

  A.釈尊が五百塵点劫の当初に証得した法門は仏教における最深の法門である。
  B.仏教における最深の法門は一念三千である。

 これら2つの命題は、(ア)釈尊を絶対視しつつ、(イ)現実の仏教史を発展史として捉える、以下の日蓮の考えに対応するとおもいます。

(ア)釈尊御領観
────────────────────
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり、大地虚空山海草木一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、〔中略〕又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし〔中略〕此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし、〔中略〕国主父母明師たる釈迦仏を捨て乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや

(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
────────────────────

(イ)発展史観
──────────────
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)
──────────────

 日蓮は、「もっともすぐれているのは釈尊である」という大前提の下に、インド・中国・日本の三国における現実の仏教史を発展史観でとらえたのでした。このような日蓮の視点に立って寿量品を読んでみますと、たしかに、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」ということになるとおもいます。

─────────────────────────────────
一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり

(「開目抄上」、全集、p. 189)
─────────────────────────────────

 ちなみに、《五百塵点劫より已来ずーっとこの娑婆世界で説法しつづけている釈尊》というのは、日蓮にとっては、まさに『法華経』そのものなのでした(以下の資料を参照)。

  日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
  http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
回答(2007.01.10-02) (Libra)
2007-01-10 19:22:35
【唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する】

 曼荼羅(御本尊)というのは、虚空会の儀式の表現です。

──────────────────────
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが

(「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
──────────────────────

──────────────────────
こくうえ【虚空会】 法華経説法の会座の一つ。法華経説法の場所(処)と会座を二処三会といい、二処とは霊鷲山と虚空、三会とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会をいう。すなわち法華経見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの十二品は虚空会、前後の十六品は霊鷲山会、合して三度の会座となる。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 457)
──────────────────────

 1.で書いたようなことをきちんと理解しておかないと、「曼荼羅に向って題目を唱える」ということの意味(虚空会の儀式への参加)も正しく理解できないとおもいます。

 曼荼羅に向って唱題するということは、虚空会の儀式に実際に参加して、釈尊に合掌し、五字につつまれている智慧(一念三千)を釈尊から授かるということなのです。

──────────────────────
 曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅本尊に向かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加して〔中略〕、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字というのは法華経のエッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳の二法が具足しているとされます)を授かるためです。
  
(「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html
──────────────────────

──────────────────────
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 254)
──────────────────────

──────────────────────
法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり

(「唱法華題目抄」、全集、p. 13)
──────────────────────

 そううそさんは、一念三千説が縁起説の発展形態であるということをすでにご理解なさいました。だとすれば、「妙法の二字に一念三千がおさまっている」という日蓮の主張の妥当性についても、少しくらいはお認めになられるのではないでしょうか。なぜなら、「妙法の二字には縁起説がおさまっている」といえるのですから(以下の資料を参照)。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html
回答(2007.01.10-03) (Libra)
2007-01-10 19:24:00
【現在の創価学会の教学に対する批判】

 池田名誉会長は、勤行の意義を「大宇宙と自分の生命の交流の儀式」などと説明されていますので、残念ながら、本日の回答1と2に書いたようなことは理解しておられないのだろうと思います。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/063.html

 ちなみに、曼荼羅が虚空会の儀式の表現であることは『大白蓮華』でも説明されていましたが、残念ながら、その説明も日蓮本仏論に毒されており、正確な説明にはなっていませんでした(以下を参照)。

  本尊観について
  http://freett.com/leo020503/note006.html
Unknown (そううそ)
2007-01-10 21:31:49
回答(2007.01.06-02) (Libra)
2007-01-06 09:58:14

3.文底について

私は文底という表現を日蓮がした事や法華経自身に文底という概念があるのであれば、かなり否定的です。
改めて記事にして質問するかもしれません。

回答(2007.01.06-03) (Libra)
2007-01-06 16:28:15

Ⅱ.「密教論」について(先回りコメント)

先回りされちゃった。(^_^;A(^_^;A(^_^;A
密教という物がどういう物か理解出来ました。

日蓮が、「密教は非仏説であり、なおかつ思想的にも全く正反対」と言う事を知らなかったと思いますが、どうお考えでしょうか?

回答(2007.01.06-04) (Libra)
2007-01-06 18:27:41
>1.縁起を空と言い換える必要性
>龍樹が縁起を空(無自性)と言い換え(中略)仏教理解の誤りを的確に指摘して、批判するため

歴史的経緯がよく分かりませんが、こうした事はあっても不思議ではないと思います。
但し、わかりにくい仏教になってしまったかも。無常無我などの言葉に比べると、「空」の直接のメリットは見いだしにくいです。

──────────────
アビダルマ論師
(佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」
──────────────

 私はアビダルマを限定的に肯定します。

 例えば、癌になった病気の人がいて、その癌を無常、無我、無自性だからといって放っておいたらその病人は死んでしまいます。癌が常に変化していく事。癌が常に大きくなろうとする事を認める事は出来ないと思います。例えば医学的に癌を徹底的に遺伝子レベルまで調べ、物理的か投薬かはともかくとして、治療する、完治するという変化(無常、無我、無自性、空)を求めてアビダルマや自性をとらえて ”人の幸福に役に立つ” ということは無意味ではないと思います。

個人的に円融三諦に反していないと思っています。


2.円融三諦(縁起=空)を一念三千として展開する意義

>円融三諦を一念三千として展開したのは、具体的なイメージをつかみやすい
>自分の一瞬の心を例にとって観るわけですから、これ以上の具体論はないでしょう。

同感です。

>修行方法として有効だと考えたからです。

YesともNoとも言えないです。。。。。。

1.釈迦の示した修行
2.天台の修行方法
3.日蓮の修行方法

これらは同じ物でしょうか?違うと思います。2と3は思想は限りなく近いと思いますが。やはり天台+密教=日蓮かな?

>一念三千説の付随的な効果としましては、より「深い宗教的な反省につなが」りやすいということがあるとおもいます。
──────────────
(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 221)
──────────────

大賛成です。常に自分がどういう自分なのか?と言う事を冷静に見つめる必要があります。
こうした事が出来れば、いや、出来ないから、創価のバリ活が簡単に暴言を吐き、また私も学会員時代に、仏法は絶対だからなどと、人生の選択を誤ったと思います。

ご存じないとは思いますが、師匠の
宇宙生命論の悪弊
http://freett.com/leo020503/note008.html
折伏は慈悲が根本
http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

こうしたご意見を、とあるブログが潰れる前にコピーペーストすれば良かったです。
下はずいぶん以前に読んでいたのに忘れていました。

3.チギにとっての「諸法の真実の様相(実相)」とは

朧気ながら理解したと思います。学会員時代と変わっていないかな????
ここはあまり考えた事がありません。

回答(2007.01.06-05) (Libra)
2007-01-06 18:29:17
>1.『法華経』は単純に楽しめばよい
>『法華経』は演劇だと思って、まずは単純に楽しまれたらよい

有り難うございます。

>五千人が退席
>釈尊は無言で許した後、彼らが去ったことは良かったことであると言います。

たぶん、釈迦は「いつでもいらっしゃい」だったと思いますが、どうでしょうか?
創価にもこうしたマイルドさがあれば、誰も退会時に内容証明郵便を送らなくても良いはずですが。(笑)

>スマナサーラ長老がおっしゃる

同感です。

回答(2007.01.06-06) (Libra)
2007-01-06 19:51:06
1.龍樹の空の思想はチギの一念三千を含意する

2.日蓮の一念三千説に対する評価

1と2共に理解できしました。
2は学会員時代にも読んでいましたが、Libraさんのおっしゃる、

>日蓮はこの功績を高く評価(中略)優れていると理解しています。

は明確になりました。

Unknown (そううそ)
2007-01-10 21:33:21
読者サービス (Libra)
2007-01-07 20:21:01

>1.三論宗は「正規の中観系」ではないとおもいます
>わたしには、三論宗が「正規の中観系」だとはどうしてもおもえません。
>インド中観派の「空の思想」は、厳密な意味では、中国には正確に移入されなかったのである。換言すれば、中国系の仏教には、「空の思想」の正確な理解は存在しなかったということである。

 日蓮は他宗の経文を取りあげて説明しますから三論宗の経文から空仮中の説明文があればもしかするとそう言えるのかもしれません。おそらく日蓮遺文にはなく他宗の説明で松本史朗先生のご意見が成り立つのでしょうけれど、私には残念ながら文献を読んでいないので何とも言えません。

 こうした解釈が出来るくらいなので、日蓮も密教寄りになったのかもしれませんね。

2.正規の中観にも主張はあります
>「正当化可能なものとしての主張などはわたしにはない」というように理解するしかない
>龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかった

「空」についてのメリット、功徳論の様な物が薄い?少ない?から「積極的に正当化」しなかったのかもしれませんね。
概念そのものに功徳や人の幸福がないと言う事です。

無常、無我、空、こうした事を知った上で、「さあ!どうしようか?どう行動しようか?」と言う事だと思います。個人的にですが、特に釈迦はそうだったと思います。

>龍樹に主張がなかったというのは事実として誤りだとおもいます。
>龍樹に主張があったということはあまりにも明らか

同感です。佐倉さんのHP文章の中論をよめば「そのものが主張」「そのものが説明」です。

回答(2007.01.09-01) (Libra)
2007-01-09 01:20:57

1.『法華経』は菩薩行を重視します
3.わたし自身は「お題目を唱えるだけで祈りが叶う」なんて、全くありえないと思っています。

よく理解出来ました。

2.法華経には作者たちの体験および誓願が演劇的に表現されているとおもいます。

残念ながらLibra師匠をもってしても断言が難しい箇所なんですね。
ただし、誓願という意味は創価でも教えられましたので、法華経信者が誓願するというのは理想的だとは思います。
テーリーガーターと同程度の具体的な体験であるならば良いと思うのですが。

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日蓮には行き過ぎた表現がみられます。たとえば、日蓮は、『中論』の三諦偈は「法華開会の三諦」を説いていないと言っています
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さて、この箇所ですが、libraさんがおっしゃりたい事はかろうじて理解出来ましたが、
日蓮が『中論』の三諦偈は「法華開会の三諦」を説いていない
という行です。(「撰時抄」、全集、pp. 267-268)
撰時抄は晩年に執筆されているので「中論の三諦偈」の理解はこれが最終結論だったのかもしれませんね。
日蓮がどうしてこういう結論に至ってしまったのか不思議ですね。

> 『法華玄義』の「莫以中論相比」(大正蔵第33巻、p. 713c)という個所をこのような文脈で引用することが妥当といえるのか非常に疑問

読んでいないので、これは私には何とも言えません。

>チギじしんが、一心三観(法華開会の三諦)は『中論』の三諦偈に説かれていると言っている
>チギがそのことを明言しているのは、日蓮じしんが「一代聖教の肝心」と評価した『摩訶止観』においてであり、しかも、その中でも最も重要な第七正観章においてです。

●菅野先生の訓読
(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 266)

●菅野先生の現代語訳
(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 191)

●日蓮の『摩訶止観』に対する評価
(「兄弟抄」、全集、p. 1087)

libraさんがおっしゃっている事はよく分かります。
やはり、日蓮が言う事が矛盾しますね。

密教のところで改めて質問すると思いますが、日蓮の読んだ経文の題名や種類は研究されているのでしょうか?

サンスクリットでこれ
漢文でこれ。
などなど。。
Unknown (そううそ)
2007-01-10 21:34:44
Libraさん

回答(2007.01.10-01)これ以降はまだ読んでいません。(^_^;A
補足します。 (そううそ)
2007-01-11 00:25:08
>日蓮が「密教は非仏説であり、なおかつ思想的にも全く正反対」と言う事を知らなかったと思いますが、どうお考えでしょうか?

補足しますが、

 日蓮の本尊を必要とする”宗教観”と釈迦の本尊は不要とも取れる?”宗教から限りなく遠い思想”と言う解釈を私がするので 「全く正反対。」 ということです。どこまでも自由なのが釈迦でどこまでも限定的、厳しいのか日蓮だと感じるのです。

ここは友岡氏の書籍を読んだ私なりの解釈になります。P78~P95あたり。
--------------
"友岡氏の書籍では釈迦は 祭壇や本尊、「戒壇などの壇など」?を否定している?この2つは日蓮に自覚はあったのか?無かったのか?許容したのか?"
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85
--------------

もちろん友岡氏は日蓮の本尊や題目を否定していません。あくまで私の感想としてなのですが、友岡氏の書籍を読み、またここ数日、法華経を読んでいるとどうしても

”どちらかというと本尊否定、題目否定”

と考えてしまいます。学会本部を見ても正宗を見てもどちらも ”自分自身の何かこだわる””何かの自利にこだわる”というのでしょうか? そもそも本尊に題目を唱える事自体が本尊への供養である。という学会精神?(経文にある?)と言う事をどこかで学んだ気がします。
回答(2007.01.11-01) (Libra)
2007-01-11 02:16:16
【文底について】
 文底については、昨日(←日付が変わってしまったので)の回答1をお読みください。しかし、その前に、一般論として以下の資料をまず読まれたほうがよいかもしれません。

  経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/084.html

【日蓮と密教】
 日蓮の時代には、天台宗はすでに密教化していました。日蓮はその密教化した天台宗から出発しています。したがって、日蓮には密教からの影響が確実にあります(ないほうがおかしいでしょう)。しかし、密教は、日蓮の中心思想として取り込まれているわけではありません。せいぜい形式面における影響だとおもいます。

 わたしは、日蓮の中心思想を支持しますが、日蓮の思想のすべてを支持するわけではありません(以下のところで表明したとおりです)。

  法華経について
  http://freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

 密教にかぎらず、日蓮の主張のうち、現代においてはもう通用しないような部分は、弟子の責任として、きちんと修正していく必要があるとおもいます。日蓮じしんが「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)といっています。

────────────────────
 もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。

(日蓮考察、http://freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
────────────────────

 あと、日蓮が読んだのは、ほとんど漢文の仏典だとおもいます。

【アビダルマについて】
 アビダルマにもいろんな内容のものがあるのでしょう(わたしは読んでいないのでよく知りません)。もちろん、円融三諦に反さない部分は肯定してもよいとおもいます。ちなみに、龍樹が批判している有部の考えについては、スマナサーラ長老も同じく批判的なようです。

──────────────────────────────
http://www.j-theravada.net/qa/qahp47.html

説一切有部ー
この方々が考えている「三世実有」論はPali聖典に全くも異質なものです。私さえもさっぱりその意味は解りません。Pali Abhidhammaでも諸々の法の本質、実質は何ですかと説明しますが、それは一つの法を別の法から区別して理解するための努力です。
しかし、全ての法は瞬間で消えて行くという立場ですので、三世実有思考とは関係がありません。(自性と言う言葉がAbhidhammaでは必ずも使います。乳にそれなりの特色があってチーズには乳にはない自分だけ持っている特色があります。それが「自性」ということです。ですから、自性は区別認識の働きです。それは三世実有だと言われると乳はチーズになれないのでは?と思ってしまいます。)
説一切有部との同じ点は「自性」(svabhava)と言う単語を使うとことです。異なる点はその自性は瞬間だけのことだと言うところです。
Pali仏教では三世実有論は邪険だ、正見ではありませんと詳しく論じてあります。
Abhidhammaの中にあるKathavatthuppakaranaと言うテキストの第五章-Sabbamatthikathaをお読みになってください。
──────────────────────────────
回答(2007.01.11-02) (Libra)
2007-01-11 02:17:38
【人の幸福とは】
 たとえば、物質的に満たされたときに感じる幸福とか、健康であることや健康になることに対して感じる幸福などもたしかに幸福といえるでしょう。しかし、実際には、これらは宗教でどうにかできるものではありません。諸天善神は物語の中に出てくる架空の存在であって、リアルに実在するわけではないのですから。また、初期経典にも、「ブッダが『超人的な力で病を治した』などとは書かれていない」のですから(以下の資料を参照)。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
 
 しかし、これらとは全く別種の幸福というものがあります。たとえば、「人類の運命や世界のなりゆきについて」、自分が「せめて石ころの一つでも貢献した」と思えるような時に人が感じる幸福です。

──────────────────────────────
 死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよいではないかという者もあるかもしれないが、それはあまりに見解のせまい、まったく現実的で、利己主義な考え方だとしなければなるまい。そんな考え方では、結局、真に生きるに値するような人生は送れるはずがないのである。けだしわたしどもには、みんな子供もあるし、隣人もあるし、同胞というものもある。わがなきあとには、そんなものはどうなってもよいという訳のものではあるまい。
 さらに、眼をあげていえば、わたしどもは、いかに微力であろうとも、なおかつ人類とか世界とかの運命と、まったく無関係ではないかもしれない。わたしは与謝野晶子さんの歌一首を感銘ふかく記憶しているのであるが、それはこうである。
  劫初より造りいとなむ殿堂に
  われも黄金の釘ひとつうつ
 人類がはじまってからこのかた、ずっと続けて造りいとなんできた殿堂とは、晶子さんの意味するところでは、たぶん、文学というものであろうかと思われる。その殿堂のすぐれた造営
のために、わたしもまた黄金の釘ひとつでも貢献したいという。それが晶子さんの願いというものであり、また意気ごみであったにちがいあるまい。
 そんな能力はわたしにはないけれども、なおかつ、わたしだって、人類の運命や世界のなりゆきについて、まったく無関心ではありえない。それをもまた「劫初より造りいとなむ殿堂」ということをうるならば、たとえ「黄金の釘」ではなくとも、せめて石ころの一つでも貢献したいものと思う。それが、この歌一首によせる私の感慨なのであり、この心あって人ははじめて、真に生きるに値する人生を見出だすことをうるであろうと思うのである。
 とするならば、わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまいと思えてならない。

(増谷文雄『業と宿業──新しい自己の発見のために』〔講談社現代新書244〕、講談社、1971年、pp. 74-75)
──────────────────────────────

 仏教を信仰することによって得られる幸福というのは、このような種類の幸福だろうとおもいます。物質的に満たされることとか、健康であること(健康になること)などを求めるのであれば、むしろ、宗教活動なんてやめておいたほうがよいとおもいます。牧口初代会長の以下のようなお考えも参考になるでしょう。

  英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/026.html

 また、日蓮も、「心の財をつませ給うべし」と言っています。

──────────────────────────────
蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし

(「崇峻天皇御書」、全集、p. 1173)
──────────────────────────────

【『法華経』にノンフィクション的な記述を求めるのはそもそも無理】
 『法華経』のようなファンタスティックなドラマの中に、『テーリーガーター』のようなノンフィクション系のものに見られる「具体的な体験談」の記述を求めるのはそもそも無理があります(断言します)。「具体的な体験談の記述がないものには価値がない」とお考えの方には、『法華経』は向かないでしょう(断言します)。そのような方には、ノンフィクション系のものをおすすめいたします(断言します)。

【日蓮の発展史観の行き過ぎ】
 日蓮が「三諦偈は法華開会の三諦を説いていない」と言っているのは、発展史観(昨日の回答1を参照)の行き過ぎだとおもいます。「龍樹の『中論』よりも、チギの『摩訶止観』のほうがすぐれている」という認識が、あのような表現になったのではないでしょうか。
回答(2007.01.11-03) (Libra)
2007-01-11 02:19:38
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(1/2)】
 日蓮の本尊(曼荼羅)について正しく理解すれば、これはお分かりになるでしょう。まず、昨日の回答2をお読みください。その後に、以下をお読み下さい。釈迦→『法華経』の作者→チギ→日蓮の順に発言等を引用しておきます。釈迦も、『法華経』の作者も、チギも、日蓮も、根本的には、法が本尊です。日蓮の場合、仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊です。

○釈迦の考え:『サンユッタ・ニカーヤ』第一集、第六篇、第一章、第二節
────────────────────────────
二 そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。──「他人を尊敬することなく、長上に柔順でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしは、いかなる〈道の人〉またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。

三 そのとき尊師は次のように思った、──「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.87-88)
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────────────────────────────
七 まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱したと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

八 むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

九 そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。

一〇 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向って合掌し、尊師に向って次のように言った、──

一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
────────────────────────────

○上記の第八に対する中村先生の訳注
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これは仏教の立場を示す非常に重要な文句である。〔中略〕この箇所ではダルマはブッダよりも上位に位置する最高原理と見なされている〔中略〕。仏教は本来ダルマに準拠する教えであり、ブッダを崇拝することは付随的に遅れて成立したという基本的性格がここにはっきりと示されている。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.339-340)
────────────────────────────
回答(2007.01.11-04) (Libra)
2007-01-11 02:20:24
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(2/2)】

○『法華経』の作者の考え:菅野先生の解説
────────────────────────────
 このように、釈尊の根本の悟りについて、原始経典には、ダンマを悟り、ダンマを尊敬することを明らかにしています。ダンマに正しいという意味の形容語を付けたものがサッダンマであり、正法と漢訳されます。
 『法華経』のサンスクリット語のタイトルはサッダルマプンダリーカ・スートラ〔中略〕といい、竺法護訳では「正法華経」、鳩摩羅什訳では「妙法蓮華経」といいます。釈尊の悟りの原点であるサッダンマをそのまま経典のタイトルに用いていることに気がつきます。名は体を表わすといいますが、タイトルはたいへん重要なものです。『法華経』という経典が釈尊のダンマの悟りを何よりも重視していることがわかります。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 18)
────────────────────────────

○『法華経』の作者の考え:「法師品」
────────────────────────────
また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)賛美するとしよう。〔一二〕
彼は私を賛美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は、前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。〔十三〕

(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)
────────────────────────────

○チギの『法華文句』
────────────────────────────
法是聖師能生能養能成能栄莫過於法。故人軽法重也。

〔法は是れ聖の師。能生・能養・能成・能栄、法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く法は重きなり。〕

(『法華文句』、大正蔵第34巻、p. 143c)
────────────────────────────

○日蓮の『法華文句』解釈
────────────────────────────
天台云く「人は軽く法は重きなり」〔中略〕、人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり

(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)
────────────────────────────

○日蓮の本尊観
────────────────────────────
 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、〔中略〕其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、〔中略〕、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)
────────────────────────────
Unknown (そううそ)
2007-01-11 23:53:43
文底に関してはLibraさんのいうことは理解は出来るのですが、やはり疑問です。ちょっと考えさせて下さい。
【日蓮における一念三千の位置づけと「文底」】 (そううそ)
2007-01-17 22:56:48
回答(2007.01.10-01) (Libra)
2007-01-10 19:21:38
【日蓮における一念三千の位置づけと「文底」】

日蓮の主観
「一念三千の法門はチギによって発明されたものではなくて、釈尊が五百塵点劫の当初に証得したものである」ということになっています。「チギは一念三千の法門を妙法蓮華経の五字の中から取り出した」というのが日蓮の理解です。

いよいよこのあたりから信じる信じないの言及になってしまいそうですね。

────────────────────
寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり
(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
────────────────────

質問1
「然我実成仏已来無量無辺、久遠若斯」は釈迦の言葉では無いと考えます。

この久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすいです。

宇宙は人間にはよく分からないけど遙か昔から続いていてこれからも永遠に続く。(非科学的です。)
仏法、つまり釈迦の命、宗教概念も凡人(凡夫)にはよく分からないけど遙か昔から続いていて永遠に続く。

仏法≠宇宙生命論ですから久遠も否定されるべきでありこの箇所は受け入れにくい箇所ではないでしょうか?
「然我実成仏已来無量無辺」は法華経筆者の信仰心及び、「信じたい気持ち」なのではないでしょうか?

質問2
縁起、無常、無我、空、一念三千これらが「同等の物」を指しているのは理解しますが、
言葉が違うのですから厳密には違うと考えます。

日蓮には 縁起、無常、無我という知識や言葉はあったようですが、釈迦仏法が縁起、無常、無我を重視したのを理解していたのでしょうか?

また、先のコメントにも書きましたが、
1.釈迦の修行方法
2.天台の修行方法
3.日蓮の修行方法 

日蓮の場合は 三大秘法である本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目ですから修行の仕方はコレでしょう。
1と2はどうなのでしょうか?

────────────────────
(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
────────────────────
これも上記の通り否定的に解釈されます。

────────────────────
 日蓮がこのように理解したのは、次の2つの命題を信じたから。
  A.釈尊が五百塵点劫の当初に証得した法門は仏教における最深の法門である。
  B.仏教における最深の法門は一念三千である。
 これら2つの命題は、(ア)釈尊を絶対視しつつ、(イ)現実の仏教史を発展史として捉える
────────────────────

日蓮がこのように考えたのは私も同意します。

(ア)釈尊を絶対視するのであれば、釈迦と言動を重視すべきでしょう。言葉と行動と言う意味で。
(イ)現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理でしょう。否定されるべきです。

(ア)釈尊御領観
────────────────────
(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
────────────────────
これを読めば、釈迦の弟子としての日蓮の立派な言葉だとは思いますが、

創価学会に悩むすべての人へ 釈迦を超えた、日蓮の仏教
http://blog.goo.ne.jp/kim_jung_nam/e/8d4458bf59655e77290ed27060fe4676
日蓮は色々間違えていますので、御本仏などではないし、釈迦を超えてはいないでしょう。

(イ)発展史観
──────────────
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり
(「報恩抄」、全集、p. 328)
──────────────
これも五時八教が崩れていますから無理でしょう。否定されるべきです。

>日蓮は、「もっともすぐれているのは釈尊である」という大前提の下に、インド・中国・日本の三国における現実の仏教史を発展史観でとらえたのでした。このような日蓮の視点に立って寿量品を読んでみますと、たしかに、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」ということになるとおもいます。

>《五百塵点劫より已来ずーっとこの娑婆世界で説法しつづけている釈尊》というのは、日蓮にとっては、まさに『法華経』そのもの

日蓮がこのように考えたのは自然な事だと思います。間違っているとは思いますが。
【唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する】 (そううそ)
2007-01-17 22:57:26
回答(2007.01.10-02) (Libra)
2007-01-10 19:22:35
【唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する】

>曼荼羅(御本尊)というのは、虚空会の儀式の表現です。
──────────────────────
(「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 457)
──────────────────────
>1.で書いたようなことをきちんと理解しておかないと、「曼荼羅に向って題目を唱える」ということの意味(虚空会の儀式への参加)も正しく理解できないとおもいます。

理屈はこの通りだと思いますが、つまり、日蓮自身に戸田城聖氏と同じ「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験があったということでしょうか?

虚空会の儀式そのものが人間革命の中で戸田氏の「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験として書かれているのですが。。。。

>虚空会の儀式に実際に参加して、

これは非現実的ですね。実際の現証が日蓮正宗と創価学会なのですから疑問としか言いようがありません。
やはりもうここまで来ると「信じる」「信じない」のお話になってしまうのでしょうか。。。。。。。

>釈尊に合掌し、五字につつまれている智慧(一念三千)を釈尊から授かる

Libraさんも法華経や題目について、如何に釈迦に近いか(蓮華など遠い部分もある)を説明されていますから、突然ここで唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かるというのは矛盾してしまいます。

──────────────────────
 曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。
(「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html
──────────────────────

こうした所がLibraさんの信仰なのですね。こうしたところは「人として良い事」なので私も否定出来ません。
ここでも同じ質問になってしまいますが、日蓮自身に戸田城聖氏と同じ「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験があったということでしょうか?

>「妙法の二字に一念三千がおさまっている」という日蓮の主張の妥当性についても、少しくらいはお認め

少しどころか妙法という「言葉」が出来た理由は100%妥当だと思います。
逆に蓮華はよく考えたら、華、つまり花の名前なので

日本で言うなら、オーム真理教が言い出せば、

南無真理桜花経、南無真理桜花法、南無真理菊花経 経でも法でも菊でも桜でもなんでもいいですが、これが宇宙の真理だとか釈迦が言ったとかは思えません。別に

南無縁起桜花経、南無縁起桜花法、南無縁起菊花経 縁起でも無常でもなんでもいいでしょう。
よく考えたら、妙法や正法というのは曖昧な言葉なんですね。

真理でオーム真理教を思い出して嫌悪感があるならば、真法でもいいとおもいませんか?(^_^;A

>「妙法の二字には縁起説がおさまっている」といえる

言えると思います。同感です。今の創価や正宗には一欠片もありませんが。
法華経には縁起が説かれているのは肯定します。

 仏教であるならば、密教的な本尊や唱題に意味があるとは思えません。
法華経非仏説というのはやはり大きな壁というか、日蓮仏法を肯定出来ないですね。

釈迦がサダルマプンダリーカ(妙法蓮華)と””言って””重視したなら良いのですが。
【現在の創価学会の教学に対する批判】 (そううそ)
2007-01-17 22:58:55
回答(2007.01.10-03) (Libra)
2007-01-10 19:24:00
【現在の創価学会の教学に対する批判】

>池田名誉会長は、勤行の意義を「大宇宙と自分の生命の交流の儀式」などと説明
>残念ながら、本日の回答1と2に書いたようなことは理解しておられない

論外ですね。もっと具体的にわかりやすく説明出来ないと駄目だと思います。
ネット上にも池田氏批判の中に宇宙生命論をあいまいに論じて逃げている、と書かれています。
くだらないのでリンクしませんが。

>説明も日蓮本仏論に毒されており、正確な説明にはなっていません

 私は日蓮本仏論も否定的です。但し、日蓮も釈迦も仏だと思って良いと思います。条件付きですが。プンニカーおばさんが仏なら創価のおばさんでも日蓮宗でも他の宗派の人でも「仏」だと思います。友岡氏の書籍を読んでから特にそう思います。

 本仏かどうかは知りませんし証明出来ません。しかし少なくとも日蓮の様に間違える御本仏なんていないでしょう。
原点の師匠、ぐらいですかね?もう、それも危うくて釈迦が師匠でないと駄目だと思いますが。
【文底について】 (そううそ)
2007-01-17 22:59:42
回答(2007.01.11-01) (Libra)
2007-01-11 02:16:16
【文底について】

>経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/084.html

誰でも成仏出来るという大乗仏教の否定ですね。
もう大乗仏教、と言う定義すら私は否定的です。大乗仏教が小乗仏教の否定しただけの単語でしょう。
この私の理解や考え方の上で文底=南無妙法蓮華経というのは否定的です。

ましてや仏教であるならば、密教的な本尊や唱題に意味があるとは思えません。

【日蓮と密教】
>日蓮の時代には、天台宗はすでに密教化していました。日蓮はその密教化した天台宗から出発しています。

なるほど。

>日蓮には密教からの影響が確実にあります

御本尊、唱題、戒壇がそうですね。

>密教は、日蓮の中心思想として取り込まれているわけではありません。せいぜい形式面における影響だとおもいます。

????
どういうことでしょうか?
三大秘法からして密教そのものでは?

>日蓮じしんが「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)

有名な御書ですね。(笑)ここを重視した創価の人を始めて見ました。(笑)
”そんなことはどうでもいいから”に続いて(大笑)。ヒットです。

よく考えたら漆(うるし)千杯にカニの足の御書なんですね。まぁ、創価の人は釈迦の言う事は聞けないでしょう。(大笑)

 友岡氏も書籍の中で「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」ではありませんが、「よく議論して”今までの方法や論理を捨てもいいから”最も適切な方法、高い教えで人を救って行きなさい」(主旨)とありますね。こうした所は日蓮はバランス感覚や立派な言葉だと思います。

>日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最も大きな課題

同感です。まだ、”課題”なのです。解決していません。なのに創価と正宗はなんと不誠実でいい加減なのでしょうかね?(笑)
私はもう宗教者でも仏法者でも日蓮の弟子でもないですけどね。
せいぜい、法華経を肯定出来るくらいです。当然、釈迦が前提です。

>あと、日蓮が読んだのは、ほとんど漢文の仏典だとおもいます。

そうですか。まとめている文献やネットはないのかな?

回答(2007.01.11-02) (Libra)
2007-01-11 02:17:38

【人の幸福とは】

>「人類の運命や世界のなりゆきについて」、自分が「せめて石ころの一つでも貢献した」と思えるような時に人が感じる幸福

そうかもしれませんね。Libraさんのおっしゃる事には同意し賛成しますが、難しい所ですね。

>「心の財をつませ給うべし」と言っています。

心の財ですか、、、ネットの創価を見る限りは唱題して不安感が無くなる程度の物でしょうね。

>【『法華経』にノンフィクション的な記述を求めるのはそもそも無理】

よく理解出来ました。
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊】 (そううそ)
2007-01-17 23:01:13
回答(2007.01.11-03) (Libra)
2007-01-11 02:19:38
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(1/2)】

>釈迦も、『法華経』の作者も、チギも、日蓮も、根本的には、法が本尊です。

仮に縁起の法が本尊だとしても、日蓮は三大秘法として新たに教義を作ってしまったのですから逸脱では?

>日蓮の場合、仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊です。

ここについては
>最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」

妙法=縁起とするのは良いと思いますが、

>仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊

これは仏教ではないと思います。

密教(における最深?)の法門である(一念三千がつつまれている?)「題目」が本尊

と言う事でしょうか?

○釈迦の考え:『サンユッタ・ニカーヤ』第一集、第六篇、第一章、第二節
────────────────────────────
(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.87-88)
(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
────────────────────────────

○上記の第八に対する中村先生の訳注
────────────────────────────
(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.339-340)
────────────────────────────

たしかにそうだと思います。(下記に続く)

回答(2007.01.11-04) (Libra)
2007-01-11 02:20:24

【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(2/2)】

○『法華経』の作者の考え:菅野先生の解説
────────────────────────────
タイトルはたいへん重要なものです。『法華経』という経典が釈尊のダンマの悟りを何よりも重視している
(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 18)
────────────────────────────

ここは同感です。

○『法華経』の作者の考え:「法師品」
────────────────────────────
(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)
────────────────────────────
○チギの『法華文句』
────────────────────────────
(『法華文句』、大正蔵第34巻、p. 143c)
────────────────────────────

○日蓮の『法華文句』解釈
────────────────────────────
(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)
────────────────────────────

たしかにそうですが、これも釈迦が”妙法蓮華”、特に蓮華に一切言及していないのですからおかしいでしょう。

無自性、空ならば蓮華にこだわる事がおかしいです。

経文自体に名前を付けては駄目とか、蓮華が尊くないとか尊いとかそういう事ではないでしょう。

御書や創価の書籍で、「蓮華を~名付く。」「~を蓮華と名付く。」としていますが、くだらないとしか思えなくなってきました。

「釈尊のダンマの悟り」を得られるならば現代人に合う他の教典でも良いでしょう。

○日蓮の本尊観
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 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、〔中略〕其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)
────────────────────────────

これは法華経仏説が前提なのではないでしょうか?

────────────────────────────
 答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、〔中略〕、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり
────────────────────────────

法華経を否定するわけではありませんが、この程度の文章であれば他の教典もいくらでも自画自賛していそうです。

>如来を出生する種なり
>此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり

法華経解釈として意見が分かれると思いますが、法華経は他の経文を否定していない、とする考え方もあるし、創価の法華経最第一、とする概念もあります。

フルナさんのおっしゃった、「法華経は神話的多仏信仰時代の仏教の救命ボートのようなもの」ガイドブック、入り口でもいいのではないでしょうか?

人の幸福感や人生を一つに定義出来ない(無常、空、無自性)のですから、法華経も現代では絶対視出来ないと思います。
法華経自体が釈迦の教えを含んでいる事やそのままの事が書かれている事は否定しません。
釈迦に原点回帰していると思います。

ですが、やはり経文を読んでいて、100%釈迦の教えではないでしょう。
矛盾を含まれている物の 題目を唱える事が尊いとは思えません。

釈迦を久遠仏としてしまう後付の概念もあるわけですから、それすら危険思想になる(場合もある)と思います。
回答(2007.01.18-01) (Libra)
2007-01-18 04:08:35
 やはり、わたしには、そううそさんを満足させるような説明はできないようです。今日の回答(これも、おそらく、そううそさんに響くことはないでしょう)を最後にさせて頂くことをどうかお許しください。

 そもそも、興味のない映画(『法華経』とか日蓮)を無理に観ようとする必要はありません。そううそさんは、わたしとちがって、初期経典だけでも立派にやっていけるのではないでしょうか。


【「我実成仏已来無量無辺」はフィクションの中に出てくるセリフです】
 『法華経』はフィクションですから、その中に出てくるセリフというのは、フィクションの中のキャラクターが発しているセリフであって、歴史上の釈尊(以下、「釈迦」と表記します)がその通りの発言をしたということではありません。わたしは、はじめから、『法華経』はフィクションだといっています。その上で、そこに表現されている思想の中身を問題にすべきだと主張しています(以下を参照)。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

 わたしは、寿量品の思想が釈迦の思想に反するとはおもいません。初期経典の記述の中から、寿量品の内容(永遠に説法し続ける釈尊)に相当するものを挙げるとするなら、以下の2つになるかとおもいます。

──────────────────
アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
──────────────────

──────────────────
また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである

(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
──────────────────

 たとえ釈尊の肉体が滅びても、その教えを弟子たちがしっかりと守り伝えていきさえすれば、釈尊が説いた教えはなくならないので、《法を見る者が見る釈尊》は生き続けます。これは、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのですが、そううそさんを含め、多くの人はこの説明に満足しないようです。たとえば、三枝先生の以下のようなご説明も、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのです。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 しかし、このようなことは、すでにご紹介した拙文の中で説明していることですから、このような説明は、決してそううそさんに響くことはないでしょう。

  法華経について
  http://freett.com/leo020503/bbslog3_002.html
回答(2007.01.18-02) (Libra)
2007-01-18 04:14:17
【縁起の法をさとり、それを衆生のために説き続ける存在──久遠仏】
 もし縁起の法が普遍的な真理であるとすれば、この宇宙で最初にそれを悟った知的生命体が、《地球にお生まれになったあの釈迦》であるという可能性は限りなく0に近いでしょう。そういう感覚は、おそらく釈迦にもあったんだろうとおもいます(以下の資料を参照)。

───────────────
一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
───────────────

 寿量品では、諸仏を統一するために、久遠仏という概念を提示します。これは、《縁起の法をさとり、衆生のためにそれを説く存在》の全体を一つの人格として表現したものということができるとおもいます。そして、その久遠仏を釈迦の人格で代表させようとするのが寿量品です。このような内容が釈迦の思想に反するとはわたしはおもいません。宇宙生命論を肯定することになるともおもいません。


【宇宙生命と久遠仏のちがい】
 久遠仏というのは、宇宙がはじまって、いくらか時が流れてから、ある時点で成仏しています。久遠仏の成仏よりも、宇宙の誕生が先です。ですから、論理的には、かならず宇宙生命論と矛盾します(このことはすでにご説明いたしましたので、この説明も、そううそさんに響くことはないでしょう)。戸田第二代会長のような宇宙生命論者は寿量品を理解されていないとおもいます。

 日蓮は「久遠仏が五百塵点劫の当初に証得した法門は一念三千である」と理解していますから、そこには具体的な内容がきちんとあります。戸田第二代会長は「空」も「一念三千」も理解されていないとおもいます(以下の資料を参照)。また、「虚空会の儀式」の意味も理解されていないとおもいます。宇宙生命論は、思想としては無内容だとおもいます。
  
  タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
  http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html

 したがいまして、「久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすい」ということは、論理的にはありえないとおもいます。
回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
 日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。

───────────────
人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか

(「開目抄」、全集、p. 208)
───────────────


【釈迦と天台の修行方法】
 釈迦は縁起の法を理解して、その思想に苦を滅する力があると信じたのでしょう。それで、人々にもすすめたのでしょう。釈迦が縁起の法を理解する以前に行っていた修行は、「集中して心を落ち着けて考える」というものだったのでしょうが、縁起の法を理解した後は、それが意味するところをもっと深く考えること、および、考えたことを人に話すことだったとおもいます。

 すでにご説明しましたように(これも伝わっていないようです)、天台の修行方法は「止観」であり、「一念三千」です。


6.現実の仏教史と五時八教
 「現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理」というのは、わたしには意味がわかりません。釈尊の縁起の思想は、『法華経』に空思想として継承されています。『法華経』の内容が初期経典に劣っているということはないでしょう。
 
 釈尊の縁起の思想を龍樹は空思想として発展させました。それをチギは一念三千という具体論に発展させました。五時八教が崩れようが崩れまいが、このように現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。
回答(2007.01.18-04) (Libra)
2007-01-18 04:22:50
【釈迦も日蓮も神ではない】
 釈迦も人間ですから色々間違えているでしょう。日蓮も同様です。


【「唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かる」???】
 わたしはそのようなことは言っていませんが(以下の資料を参照)、これも伝わっていないようです。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

 日蓮はたしかに「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし〔中略〕愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」といっています。日蓮の時代に、ふつうの庶民全員に仏教学を勉強しなさいなどというのは現実的ではなかったでしょう。それでも、日蓮は、「其の志あらん人は必ず習学して之〔一念三千〕を観ずべし」といっています。

────────────────────
常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

(「唱法華題目抄」、全集、p. 12)
────────────────────

 そもそも、唱題だけで智慧を授かれるというのであれば、『法華経』を毎日読んだり(勤行)、十如是の文を三転読誦したりする必要なんてないとおもいます。日蓮は「勤行なんてしなくてもいい」などといっているでしょうか。

────────────────────
さんてんどくじゅ【三転読誦】 法華経方便品第二の「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」([法]一五四㌻)の十如是の文を、三種の読み方の意義を踏まえて三遍読むこと。法華玄義巻二上([大正]三十三巻六九三㌻)には空転(是相如、是性如などと読むのは空の義)、仮転(如是相、如是性などと読むのは仮の義)、中転(相如是、性如是などと読むのは中の義)を表すとある。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 603)
────────────────────
回答(2007.01.18-05) (Libra)
2007-01-18 04:54:53
【曼荼羅本尊は虚空会の儀式】
 日蓮の曼荼羅が『法華経』(フィクション)に描かれている「虚空会の儀式」を表現したものであるということは、「信仰」ではなく「事実」です。これは、すでにお示しした日蓮の遺文からそういえるとおもいます(日蓮じしんは、「虚空会の儀式」をフィクションとはおもっていなかったでしょう)。

 一方、そこに描かれている「虚空会の儀式」(フィクション)にわたしが感動を覚えるのは、たしかにわたしの信仰です。わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと涙がでます。しかし、全く同じものを読んでも何も感じない人がいます。中村元先生は『般若心経』を毎日読誦されていたそうですが、わたしは『般若心経』に感動したことはありません(「四弘誓願」には感動しますが)。それと同じことでしょう。

────────────────────
東洋思想研究の世界的権威として知られた中村元博士は、仏陀の教えに深く帰依し、私生活において毎朝欠かさず「三帰依文」「般若心経」「四弘誓願」、浄土真宗で唱える「生活信条」を読誦し続けていたことが死後に明らかにされた。これが中村博士の「日課経」として印刷され、会葬者に配られた。遺言にしたがい、遺影を前にして参列者全員が声をそろえてこの「日課経」を唱えたとき、会葬者は中村博士の温もりのある息づかいに触れる思いを味わった。

(2001年3月15日付『中外日報』の社説)
────────────────────


【「密教的な本尊や唱題」???】
 「本尊」という用語を用いているだけで密教になるということはないでしょう。

──────────────────────
礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)
──────────────────────

 そううそさんに伝わらなかったことは申し訳なく思いますが、日蓮の本尊の内容についてはすでにご説明いたしました。本尊は三大秘法の一つですが、内容的には全く密教ではありません。

 題目の意味は『法華経』を読みさえすれば理解できます。それは、すなわち「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)において日蓮は題目の意味を理解しているだけのことですから、間違いではありません。題目は無内容ではありません。

 三転読誦により円融三諦(=縁起)を毎朝毎晩確認し、題目を唱えてくりかえし『法華経』の肝心(=一念三千=縁起)を復習するということが、なぜ「密教的」だということになるのでしょうか。そのようなことはわたしにはさっぱり理解ができません。想像するに、わたしは、密教の説明すらろくにできなかったということになるのでしょう。なんとも、なさけないかぎりです。

 以上で回答は終了です。

 結局、わたしは、ほとんど何もお伝えすることができなかったようです。伝わらなかった原因は、すべて、わたしの説明の悪さにあるとおもいます。申し訳ありませんでした。長時間お付き合い下さってありがとうございました。
Unknown (そううそ)
2007-01-19 22:38:00
大変、申し訳ありません。師匠。

日曜日まで返事が遅れます。m(_ _)m

一言だけ。
よく考えたら、密教、仏教(法華経)本尊は私が間違っていますね。申し訳ありません。これもきちんとお返事します。(密教と宇宙生命論とごっちゃになってます。m(_ _)m )

 いくつか聞きたい事もあるのですが、もう一つ教えて下さい。

 日蓮は御書の中で人と法論や対話の時に罵倒などしてはいけないと言っています。(NothingのBBSにもLibraさんの引用ご発言としてありますね。)

 法華経の中でも不軽菩薩の話以外に相手を罵倒してはいけないという記述はあるのでしょうか?
遅くなってすいません。 (そううそ)
2007-01-22 22:11:40
回答(2007.01.18-01) (Libra)
2007-01-18 04:08:35

>満足させるような説明

とんでもないです。誤解があるといけないのですが、コメントにお答え頂けなくても私もLibra師匠のサイトで勉強させて下さい。師匠のブログなどコメントさせて下さい。お願いします。

今回だけでも早朝にお返事頂くなど、本当に有り難うございます。m(_ _)m
どの様に感謝して良いのか分かりません。法華経をある程度よんだら、例の法華経入門は買って読んでみるつもりです。

>最後にさせて頂くことをどうかお許しください。

今後とも宜しくお願いします。m(_ _)m

【「我実成仏已来無量無辺」はフィクションの中に出てくるセリフです】
>『法華経』はフィクション
>その上で、そこに表現されている思想の中身を問題にすべき

法華経の良い所を認めて、他の教典の良い所も認めた方がいい気がします。
特に創価学会のMCが私としては原始仏教を学ぶ必要性も感じています。

>わたしは、寿量品の思想が釈迦の思想に反する

──────────────────
>法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである
(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
──────────────────

私も反していないと思います。法華経も釈迦の教えの一つだと思います。
法華経が全てだ、法華経が最も素晴らしい、とは思えませんが。

回答(2007.01.18-02) (Libra)
2007-01-18 04:14:17

【縁起の法をさとり、それを衆生のために説き続ける存在──久遠仏】

>そういう感覚は、おそらく釈迦にもあったんだろうとおもいます(以下の資料を参照)。
───────────────
>過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。
未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師
(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
───────────────

宗教界にありがちな釈迦だけが絶対!!池田氏が絶対!!日蓮が絶対!!ではないのですね。
こうした所も創価学会、日蓮正宗と大きく違う所です。


>久遠仏という概念
>その久遠仏を釈迦の人格で代表させようとする
>このような内容が釈迦の思想に反するとはわたしはおもいません。

つまり、法華経を説く人、あるいは仏法を説く人そのすべてが仏であり、久遠仏でしょうかね。。。。??

【宇宙生命と久遠仏のちがい】
>久遠仏というのは、宇宙がはじまって、いくらか時が流れてから、ある時点で成仏しています。久遠仏の成仏よりも、宇宙の誕生が先です。ですから、論理的には、かならず宇宙生命論と矛盾します。

>「久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすい」ということは、論理的にはありえない

誤解されやすい所ですね。又実際にそうした創価の教義があります。

誰も見たわけでもなく誰も証明出来ないので、「創価入信の幸福体験談で証明された事になっている。」ので学会員が信じているのでしょう。実際私がそうでしたし。

上記の矛盾点はよく覚えておきます。

>戸田第二代会長は「空」も「一念三千」も理解されていない
>「虚空会の儀式」の意味も理解されていないとおもいます。

ええっ!!!???驚きだ。。。。。
やはり宇宙生命論を説いているからですね。。。。。
両方肯定しているのかと思っていました。
題目や唱題が素晴らしいとは思えない。 (そううそ)
2007-01-22 22:14:35
回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
 日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。
───────────────
(「開目抄」、全集、p. 208)
───────────────

よく理解出来ました。

【釈迦と天台の修行方法】

>縁起の法が意味するところをもっと深く考えること、および、考えたことを人に話すことだったとおもいます。

なるほど。。理解出来ていないと思いますが、法華経や原始仏教で勉強したいと思います。

>すでにご説明しましたように(これも伝わっていないようです)

その様です。すいません。

>天台の修行方法は「止観」であり、「一念三千」です。

天台僧侶の修行が釈迦と違う事だけは理解出来ました。具体的方法は理解出来ません。
庶民がどうするべきなのかもよく分かりません。

6.現実の仏教史と五時八教
>『法華経』の内容が初期経典に劣っているということはないでしょう。

なるほど。私は対等に感じています。但し、人の幸福が結果として得られれば、です。
他の経文で人が幸福になるのであれば、法華経が”その人のとある場合”に限っては劣る場合があると思います。

>現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。

ここは同感です。

回答(2007.01.18-04) (Libra)
2007-01-18 04:22:50

【釈迦も日蓮も神ではない】

同感です。

【「唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かる」???】

>題目は呪文ではない

というのは理解出来ています。

>日蓮の時代に、ふつうの庶民全員に仏教学を勉強
>現実的ではなかった

同感です。

私の様に頭の悪い庶民は唱題するしかない、唱題だけすればいい、と創価には言うわけですが、鎌倉時代には文字の読める武士や商人には具体的な勉強方法があったのでしょうか?

>日蓮は、「其の志あらん人は必ず習学して之〔一念三千〕を観ずべし」といっています。

────────────────────
>常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。
(「唱法華題目抄」、全集、p. 12)
────────────────────

>日蓮は「勤行なんてしなくてもいい」などといっているでしょうか。

いえ、言っていません。つまり、漢文形式で読む事に無理があるのではないでしょうか?
現代人には読み下し分が良いのではないでしょうか?


回答(2007.01.18-05) (Libra)
2007-01-18 04:54:53

【曼荼羅本尊は虚空会の儀式】

>日蓮の曼荼羅が『法華経』(フィクション)に描かれている「虚空会の儀式」を表現したもので「事実」です。

>【「密教的な本尊や唱題」???】
>「本尊」という用語を用いているだけで密教になるということはないでしょう。

>なぜ「密教的」だということになるのでしょうか。

おっしゃる通りです。曼陀羅という形式で密教とごっちゃになってしまいました。

密教は宇宙を描いていますが、日蓮曼陀羅は法華経の”中身”を書いてます。宇宙生命論がなかなか頭から離れないようです。

>題目の意味は『法華経』を読みさえすれば理解できます。それは、すなわち「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)において日蓮は題目の意味を理解しているだけのことですから、間違いではありません。題目は無内容ではありません。

法華経を少しずつ読んでいるのですが、ここのところは最もチンプンカンプンです。

>「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)

ここはそうだと思いますが、前後が全く繋がりません。。。。
題目は無内容に感じてしまいます。。。記事にする予定ですが。。

>伝わらなかった原因は、すべて、わたしの説明の悪さ
>申し訳ありませんでした。

とんでもないです。最初に書いた通り、本当に感謝しています。

>長時間お付き合い下さってありがとうございました。

こちらこそ、お返事が遅れる事が多く申し訳ありませんでした。
コメント部分だけを記事にまとめても良いでしょうか? (そううそ)
2007-01-22 22:17:47
それとLibraさんにお願いがあるのですが、Libraさんのコメント部分だけを記事にまとめても良いでしょうか?
私自身、何度も読むと思いますので、許可を頂けると幸いです。
メモ (そううそ)
2007-01-30 19:31:22
私、創嘘の中では未確定だけど。。

-------------------
天台に「本尊」という認識は無い。
日蓮が「生命」を説いていないというのと同様、天台は本尊を説いていない。
-------------------

智、また、湛然の文献のなかでは「本尊」語の用法はありません。
本尊は密教の影響を受けた日本天台宗が用いるようになり、それを受けた日蓮が用いた概念です。ですから、「チギが法を本尊にした」という表現は成り立ちません。」
-------------------
そううそさんへ (Libra)
2007-01-30 20:31:03
 そううそさん、こんばんは。

 メールの返事はさきほど送信いたしました。

1.コメント部分のまとめ
 ここでのわたしのコメントは、以下にまとめておきました。

  日蓮思想の現代的意味
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

  日蓮思想の現代的意味Ⅱ
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-6.html


2.「本尊」=「崇拝対象」
 「本尊」という語は、たしかに、もともとは密教の経典に説かれたものですが、すでに、「諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いら」れており、定着しています。日蓮も「崇拝対象」という意味で使っているとおもいます。

───────────────
礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)
───────────────

 諸宗それぞれの崇拝対象(本尊)については、以下の資料で簡単に紹介されています(どの宗派でも「崇拝対象」という意味で「本尊」という語を使っています)。

  三原正資「妙宗本尊略弁考―日蓮宗の本尊は、 なぜ解りにくいか、 どうしたらよいか―」、
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_069.htm
  
 「チギは法を本尊にした」という表現がお気にめさないのであれば、「チギは法を崇拝対象にした」と読み替えて頂いても構いません(チギの文献を検索したところで、「崇拝対象」という語も出て来ないでしょうが)。釈迦も法を崇拝対象にしています。日蓮もまたしかり。
Unknown (そううそ)
2007-02-04 17:37:30

本尊論は未だに良く理解していません。もう少し時間を下さい。ようやく法華経をざっと読み終わりそうなので、本を購入出来そうです。
本尊論 補足メモ (そううそ)
2007-02-12 02:30:31
続・日蓮は広略を捨てて肝要を好む
http://fallibilism.web.fc2.com/z003.html

>>天親は羅什訳の妙法華をしらないから、御書によると「南無一乗妙典」となえたとあるのでしょう。

>そうではありません。「天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか」ということですから(「等」に注目!)、天親も天台と同様に「南無妙法蓮華経」と唱えたということです。しかし、天親が妙法華を知っているはずがありませんので、この場合には、「ナム・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」という“意味の”言葉を唱えたということでしょう。宗祖にとっては「南無妙法蓮華経」が何語で表現されているかということは問題ではなかったということです。内容(法体)が重要だということでしょう。
Unknown (そううそ)
2007-02-16 20:59:15
-------------------
>天台に「本尊」という認識が無かった。
>日蓮が「生命」を説いていない。
>天台は「本尊」を説いていない。

>「チギが法を本尊にした」という表現は成り立ちません。」
>「本尊」という語は、たしかに、もともとは密教の経典に説かれたもの
-------------------
 天台に「本尊」という認識が無かったということは、

法華経に説かれる法そのものが崇拝対象

であり、崇拝(拝む)対象として仏像や曼陀羅を作らなかった。「本尊は密教の影響を受けた日本天台宗が用いた」ので、日蓮はまたその影響を受けただけ。とすると、ここで新たな質問ですが、

 日蓮は(門下の弟子僧侶においても)むしろ本尊よりも法華経(の精神)を重視?
同じ弟子でも信徒は本尊でも許容したという事でしょうか?
法華経の一部でしかない本尊、あるいは一部だけな本尊でも信徒に持たせてあげたかったのでは?

ところで当時の和紙って現代で幾らぐらいの価値があるんでしょうね?>だれか。

>日蓮宗の本尊は、 なぜ解りにくいか、 どうしたらよいか―」、
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_069.htm

もっと分からなくなりました。(^_^;A

 まずは御書の偽書を頭の中から、排除する事や、仏教史を簡単にでも理解しない事には、創価教学が残っていて理解できないのかもしれません。リンク先以外にもいくつか読んでみましたが、少なくともリンク先はギブアップです。
形式と内容を区別すべき (Libra)
2007-02-17 00:40:04
 本尊について考えるさいには、まず、本尊の《形式》と《内容》を区別する必要があると思います。

 たとえば、曼荼羅を本尊とする場合でいいますと、実際に信仰の対象になるのは曼荼羅という形式によって表現されているところの中身(内容)であって、紙とかインク(あるいは墨)などではありません。

  日蓮(大聖人)も真っ青
  http://freett.com/leo020503/bloglog3_004.html

 三原正資氏の資料は、どの宗派でも「崇拝対象」という意味で「本尊」という語を使っているということを示すために引用しました。
Unknown (そううそ)
2007-02-17 01:16:06
ところで当時の和紙って現代で幾らぐらいの価値があるんでしょうね?>だれか。

このように書いたのは、今は書籍がありますが、当時は筆と墨しかありませんでした。つまり、法華経一品だけでも書き写すのは大変だったと思います。経文の文字は筆で書くとどう考えても活字よりは大きくなりそうですし、大変そうですね。

御書も法華経も実際に見た事もないので大きさもよく分かりません。日蓮の本尊ですら、インターネットでその大きさを知ったくらいですから。今も手元に残してある創価学会版の御書にも真筆写真がありますが、大きさはよく分かりませんね。

和紙が貴重品だったのは間違いないと思いますがどれくらい貴重だったのかはわからないので、質問文になりました。紙と墨に本尊の意義や意味があるとは思っていません。

でも学会員時代、猊下から紙と墨に本尊が頂ける場合があると聞いていたので宗門問題でそうしたことも無くなるんだろう、、と思いがっかりした覚えはあります。(笑)(^_^;)
>Libraさん (そううそ)
2007-02-19 23:19:30
>Libraさん
こんばんは

>>現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理

>五時八教が崩れようが崩れまいが、このように現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。

「現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理」は間違っていました。五時八教は間違っていますが、上記の現実の仏教史は考え直す事が出来るはずです。もう一度考え直します。

創価教学とごっちゃになって否定してしまいました。

 ただ、今のところ本尊論はLibraさんとは違う意見になってしまっているのと、私が密教をほとんど理解できていない。日蓮仏法や仏教がどのように密教の受け入れた(?)肯定した?のかもさっぱり理解できていないようです。
Unknown (そううそ)
2007-02-23 18:21:29
>五時八教は間違っていますが、上記の現実の仏教史は考え直す事

一念三千、法華経、文底、題目、本尊 の議論
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/02c65be0a900979851c506574dab380a

>「曼荼羅」は宗祖が命をかけて表現された「法華経の肝要(エスプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセンス中のエッセンスは「題目」。

Libraさんのご意見どおり、日蓮がおそらくこの様に考えたのは賛成します。

ですが、個人的に、文底論、題目論、はLibraさんと大きく考えが違ってしまいました。曼荼羅本尊論はちょっと違うかな?

 日蓮は法華経(=読む事が前提の唱題)=曼陀羅本尊という位置づけだったのではないかと感じています。信徒や門下に法華経を読ませるのに(日蓮は勤行をしなくても良いと入っていませんから。)必要な形式だったのかもしれませんね。

 文底を読みとってその文底から題目というのはやはり分かりませんでした。「人が題目を唱える事」は許容できますが、それが真理であるかどうかはやや疑問です。 許容できるというのは、南無阿弥陀仏と唱えたい人も肯定して南無妙法蓮華経と唱える人もどちらも肯定する立場です。経文と同じです。

 数々の経文を読んだ日蓮がいうのですから大乗経典の中で法華経が一番「縁起の法=妙法」そのままか一番近い(他の経文がわかりませんので。)のでしょう。http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html これは大賛成できるところです。

ただしサッダッンマは正法でも真法でもいいのでは?感じています。

Libraさんのおかげでかなり日蓮を肯定できるようになりました。有り難うございました。
Unknown (そううそ)
2008-01-27 14:13:32


宇宙生命論の悪弊
http://freett.com/leo020503/note008.html



宇宙生命論の悪弊(Leo)
http://fallibilism.web.fc2.com/note008.html

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日蓮思想の現代的意味 (仏教と批判的合理主義)
日蓮思想の現代的意味   そろそろ新しい記事を書かないとまずいなと思っているのですが、そううそさんのところでの回答がまだ終了していませんので、もうしばらくは無理のようです。そこで、そううそさんのご質