創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

-1.Libraさんへの質問 : 釈迦仏法~空~法華経と天台宗~日蓮まで

2006年12月10日 15時34分32秒 | 創価学会
日蓮考察 より。
日蓮考察 71 名前:みれい 投稿日: 2006/01/26(木) 23:28:29より。

●天台・日蓮が中観派

私の理解

>>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
>本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。

私も疑問。
「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがさっぱり不明です。
Leoさんのコメントにある、日蓮の御書を読みましたが、それでも根拠が不明です。

「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

質問

三諦円融なので空=仮=中。上記の一念三千が=「空」(後述で質問)であり中でもあるので上記の文章が、「一念三千こそ仏になるべき道」=中観派ということ???

三諦円融とはお互いに否定しあい、肯定しあい、なおかつ集合円の中にそれぞれが含まれる。数学的には矛盾するが 空諦の中には中諦が含まれているが、中諦の中にも空諦が含まれているという思想。(だったかな?)

中観の「中」とは空仮「中」の三諦(くうけちゅうのさんたい)のことか?
そういえば空仮中の三諦は天台宗の摩訶止観等が言い出したのだろうか?

空 龍樹 更にたどれば無常、無我を説いた釈迦。
仮 ?
中 天台宗?
空仮中の三諦としてまとめたのが、天台宗?

●空は無常無我に限りなく近いので、煩悩即菩提から遠い?

私の理解

>あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

 実を言うと空仮中の三諦は内得信仰の時に3度ほど質問したが某君も部長も壮年部の人も誰も答えてくれなくて以後そのまま。結局、祈れば宿命転換(罪障消滅出来る)出来るという まじない を信じただけ。そもそも私自身、折伏を受けて「空」と言われた記憶がない。学会の書籍を読んで質問したはず。

 学会の詳細な仏教学書籍にたまに出てくるぐらい?新聞ではなかなかお目にかかれません。御書講義でも語られる事はありません。記憶にありません。そもそも、「空」について折伏などで一般の人とリアルで語られる事はまず無い。語るとすれば、他宗との折伏しかない。まじない信仰か釈迦仏教の正統派(五時八教)で説明する事が多い。

ちなみに「空」を説き出すと、無常、無我が出てくる事になり、どうしても時代的に原始仏教に近くなる。より釈迦から離れた時代の煩悩即菩提とは相反する。創価の選挙、ご供養には煩悩即菩提が適していて、「空」、無常、無我が出てくると都合が悪いと思われる。

質問

縁起、無常、無我は有る面において、無欲、という事から人の役に立つ、つまり万人ではないにしても人を幸福に導くが、「空」そのものを説いて何の役に立つのか?

空仮中の三諦はとある人間にとって物質的な環境(家、道路、国土、建物など)など、「仮」を肯定しているだけでは?
三諦説「空・仮・中」/北巳零総合研究所

中観派が仮と空のどちらも否定するし、どちらも肯定するということか?
中観ならば、中観派は現実的でないといけないのでは?
(目的としての人の幸福や行動する時の慈悲が重要になる。)

●空とまじない

私の理解

祈れば願いは必ず叶う。これは誘いやすいし入信しやすい。

信仰の入り口としての目的感が難しい。欲、願いがある人に無常、無我、空を説いて入信なんて一度も聞いた事がない。たいていは煩悩即菩提であり、「願いを叶えましょう」
法華経の「空」
日蓮考察 86 名前:Leo 投稿日: 2006/01/29(日) 15:48:53

質問

日蓮はどちらを強調していたのだろうか?

祈れば願いは必ず叶う。まじないなのか?
それとも法華経の「空」を重要視したのか?


法華経自身は「空」重視?まじない重視?


法華経に「空」(無常、無我)があるので釈迦の正統派に近いということか?
それとも釈迦の無常、無我(に近いもの?)を重要視したのか?

 単純に日蓮の「祈れば願いは必ず叶うよ。」という本当に祈りは叶うとは思っていなくても信徒には優しかった?ので思いやりとして言った?その「情を重視する。」ならば、やはり初期仏教を肯定せざるを得ない。絶対に祈りが叶う、創価に入信した人が必ず幸福になれるので有れば、話は別だが。

●一念三千と空は等しいのか?

私の理解

一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章) 読んでもよく分かりませんでした。そもそも自分の生命(一念)の中に一念三千がある。とだけ創価に教えられたためです。なおかつ空の説明はほとんどされない。 「宇宙生命論は仏法ではない。」は先(下記に示す)で否定されているので創価教学と矛盾してしまいます。

私なりに強引に解釈すると無我=空であり、自分を含めて回りもすべて「空」なので、全て等しく空。三諦円融なので、空=仮。全てのもの(「仮」)は一念三千(たくさん、ということ)という全てである。一念三千が自分の命?心?にあるとして、よって、一念三千=「空」。(必要十分条件の強引な証明と説明みたいになっちゃった。初めて一念三千と空を考えた気がする。。。)

仏教と批判的合理主義++タツノコさんとの対話++

質問

一念三千と空は等しいのか?
基本的に単語が違えば違う事を指していると思うが、それとも側面的な事なのだろうか?
一念三千が具体的説明だったので日蓮は素晴らしいと思った?

釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?もし気が付いていたとするならば、あまり役に立たない事を知っていたのでは?
友岡氏の書籍からの釈迦には現実的、つまり目の前の人を放っておかない。。。。ので「空」を述べなかったのではないだろうか?

こうした事を考えると経文は経文なので、学ぶべき所があるし、いくらでも新しい言葉や概念を言えるので、学問や信仰の拠り所にするのは構わないが、絶対視するのはもう疑問だ。法華経のみを最高視出来ない。

●仏教と普通の宇宙観

一念三千は天台大師の創説だが「人の平常持ち合わせている心に、三千という数に表現された全宇宙の事象が備わっている」

宇宙生命論でない普通の宇宙観は釈迦仏法として問題や矛盾はないのか?正当性があるのでしょうか?密教=宇宙=無量義経?

●宇宙生命論

宇宙生命論は仏教ではない

質問

 宇宙生命論は仏法ではないとして、仏法と宇宙生命論は矛盾しないのか?両立可能?仏教側から取り入れても良いのか?

歴史論は後述。結論の面から。(宇宙生命論の中に仏教論が含まれていると考えるべきか?誰も証明出来ないが。なお、宇宙>仏法の逆、宇宙<仏法は絶対に成り立たない。特に幸福論から。)ちなみに完全否定完全肯定ではない、日蓮の曼陀羅に大日如来がある事からも何処までが矛盾で何処までが両立なのか?
三徳を備える「お釈迦さま」がこの世の救済者

質問

 日蓮は、日蓮の曼陀羅に大日天王(如来?)がある事から諸天善神として取り入れて肯定している。釈迦や法華経を書いた人はどういう見解なのだろうか?

宇宙生命論の悪弊
密教の即身成仏は作り話(小川一乗)

あぁーやはり、宇宙云々は戸田氏の宇宙生命論を信じていたので自分が薄っぺらい事がよく分かる。質問だけだからな。w やはり書くとよく分かるな。自分のアホが。

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そううそさん、こんばんは。 (Leo)
2006-12-13 03:08:24
Libraさんの前座でちょこっと出てみます。

>私も疑問。
>「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがさっぱり不明です。
>Leoさんのコメントにある、日蓮の御書を読みましたが、それでも根拠が不明です。
>
>「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

(大乗仏教の八宗の祖といわれる)龍樹は『中論』を著し中観派の祖でもあります。
天台の仮・空・中の三諦は龍樹の『中論』の以下の部分から来てます。

「どのようなものであれ縁起なるものは、われわれはそれを空性と呼ぶ。それは仮説であり、また中道である。」
(中論)

天台の一念三千は三千法界の一切の現象を凡夫の一心に空・仮・中の三諦円融の観法をもって観心することだそうです。

釈尊(縁起)→龍樹(中観)→天台(一念三千)→伝教大師(日本天台)→日蓮(妙法)

のように思想が継承・発展されているのではないでしょうか。

>釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?もし気が付いていたとするならば、あまり役に立たない事を知っていたのでは?

初期仏教の経典で「空」が出てくるところはこのようなところです。
(空を観ずるのは自我に固執する見解をうち破るためです...)

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。」
(スッタニパータ)

>こうした事を考えると経文は経文なので、学ぶべき所があるし、いくらでも新しい言葉や概念を言えるので、学問や信仰の拠り所にするのは構わないが、絶対視するのはもう疑問だ。法華経のみを最高視出来ない。

私は(も)法華経経文から学ぶことはあっても絶対視はしないです
(学ばせていただいたことに感謝する気持ちはあります)。
Unknown (みれい)
2006-12-13 13:44:54
わお、ちょっと懐かしいものがっ
あらためて一緒にお勉強させていただこうと思います。

私が空を説明するのもおこがましいのですが、
空は、まずは縁起と捉え、縁起を消化すると無常、無我が捉えやすくなる気がします。
ただし学会で説く「縁起」は一般的な解釈とはちょっとちがうらしく。
チョンガーさんともお話したのですが、密教よりの解釈がしっくりくるようで。
曼荼羅、呪詛、祈祷の要素などはまさにそうですね。

空は、現実を曖昧にするものではなく(これだと、自分はからっぽの空、虚しいの空になっちゃいませんか。それは悪しき空と思います)、
すべてが関わり合っているということ。

例えば、時計に例えて、
時計の部品の一つ一つが関わり合って「時計」を成している。たった一つを部品も軽んじてはずせば、その時計は機能しない。
また、他の一つ一つ部品の働きによって、私という部品は時計の一つの機能を担うことが出来る。
両方あって空。

私は空=無欲とも思わないし、煩悩即菩提とも特に反していないと考えます。
(学会でこれをどう説明しているのかわかりませんが)
煩悩あってこそ菩提と考えます。

日蓮聖人は中観派というのは、私もピンとこなくて、Libraさんに説明いただくと、やはりとてもすばらしく再構築されて中観派に収まっているのだな、と思いました。
鎌倉の祖師達が学んだように大智度論まで遡り、近代仏教理解をみれば、Libraさんの解釈も違和感がなくなる、と考えています。

あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。
実に傲慢な学会員さんをみてると、この解釈がいったいどうなっているのだ?とおもいます。
Unknown (そううそ)
2006-12-13 18:43:04
こんばんは。Leo師匠(笑)

前後して申し訳ありませんが、歴史順に行きますね。私の記事が滅茶苦茶なんですけどね。(^_^;A

>初期仏教の経典で「空」が出てくるところはこのようなところです。
>(空を観ずるのは自我に固執する見解をうち破るためです...)

初期仏教の経典、スッタニパータ でも「空」があるんですね。目的は「自我をうち破るため」と。

>天台の仮・空・中の三諦は龍樹の(中略)それは仮説であり、また中道である。」

へぇ。龍樹仏教で空仮中が説かれていたんだ。じゃあ、天台の新概念としては一念三千だけ?空仮中三諦円融が言葉としてなかったかもしれませんが、明らかに議論され説かれたと思います。

>天台の一念三千は
>三千法界の一切の現象を凡夫の一心に空・仮・中の三諦円融の観法をもって観心することだそうです。

自分の周り(三千法界)にある全ての事象を自分の心に空・仮・中の三諦円融の法で見たり考えたり想像しろということ?

うーん?それは既に中論で説かれているのではないでしょうか?
当時も修行や議論が当然の上に中論が出てきたと思うのですけどね。。。。

そもそも、仮諦前提で、無常無我、つまり空が説かれているので仮諦も中諦も意味がない様に感じてしまいます。
もっというと無常、無我で十分の様な気がします。
何を知らなくて何を間違っているのでしょうか?>ALL

>私は(も)法華経経文から学ぶことはあっても絶対視はしないです

そもそも 人が無常無我、つまり空であり、空仮中三諦円融ならば、人から出てきた経文も空仮中三諦円融でないといけないと思います。少なくとも法華経にも間違いや正しい所はあるが他の経文も間違いや正しい所はある。お互い様。
Unknown (そううそ)
2006-12-13 19:05:32
こんばんは。みれい師匠。(笑)

>わお、ちょっと懐かしいものがっ
(^_^;A

>あらためて一緒にお勉強させていただこうと思います。
お願いします。

>空は、まずは縁起と捉え、縁起を消化すると無常、無我が捉えやすくなる気がします。

無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。
しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

>ただし学会で説く「縁起」は一般的な解釈とはちょっとちがうらしく。
>密教よりの解釈がしっくりくるようで。曼荼羅、呪詛、祈祷の要素など

お縋り信仰系の縁起だと思います。もっと俗物的な縁ですね。

>空は、現実を曖昧にするものではなく(これだと、自分はからっぽの空、虚しいの空になっちゃいませんか。それは悪しき空と思います)、すべてが関わり合っているということ。

先にも書いたのですが、そもそも、釈迦は世の中にある様々な物事である仮諦を前提にして無常無我(空諦)を説いていますから、縁起、つまり、全てが関わり合っているので、相手や自分に空っぽだとは思いません。空っぽじゃない(仮諦だ)から、むしろ修行して空っぽを求める必要性を説いたと思います。

釈迦は中諦を説いていなかったけど龍樹がといた、ということでしょうか?

>例えば、時計に例えて、(中略)機能を担うことが出来る。両方あって空。

全く同感。というかわかりやすいです。

>私は空=無欲とも思わないし、

無欲は無常無我の表れの一つでは?なので、空=無欲とも思わない、というのは良いと思います。

>(学会でこれをどう説明しているのかわかりませんが)
>煩悩即菩提とも特に反していないと考えます。

池田氏の勲章と数成果の信仰、選挙、ご供養、煩悩こそ全て。ですね。(大笑)

>Libraさんに説明いただく
Libra 師匠まだぁ?(n‘∀‘)η

>大智度論まで遡り、
あう、そこまで勉強が必要ですか。。。。
「大智度論」という単語自体何年ぶりに見るのだろうか。(^_^;A

>あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
この議論がリンク先にありましたね。

>見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。実に傲慢な学会員

何も言う事はないでしょう。むしろトップから下までこの精神を忘れているのが学会です。
Unknown (みれい)
2006-12-13 22:32:41
>こんばんは。みれい師匠。(笑)

こんばんは、そううそ師匠(笑)

いんや~、私こそ師匠でもなんでもないので、
隣に座って一緒にLeo師匠、Libra師匠の授業受けさせてください。

>無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。
しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

空の感じ方もそれぞれなのかもしれませんね。

>お縋り信仰系の縁起だと思います。もっと俗物的な縁ですね。

いわしの頭も信仰、みたいなイメージでしょうか。
仏教伝来以前の日本も、祈祷や呪詛は行われていますね。
むしろそういうのがメインの国だったようですね。
あと、仏教伝来後にも観音信仰(法華経の観世音菩薩普門品)がありますね?
わたしは、おすがり信仰も否定はしなくてもいいと思っています。
そのかわり、それが絶対の信仰だ、仏教の終着点だ、と言われても、納得はしませんけどね。
あくまで方便の範囲だと思っています。

あと、創価学会の「縁起」ですが、学会公式サイトでは梅原猛さんの仏教の本が紹介されていました。
梅原さんの本はまだほとんど読んだことはないですが、
ひょっとすると日本古来の信仰観に基づいた縁起観なのかな、とも思います。
学会は(昔はともかく今、)梅原さんの縁起観に近づけようとしているのかなと。こっそりと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B


>釈迦は中諦を説いていなかったけど龍樹がといた、ということでしょうか?

釈迦はそこまであれこれは話していないと思われます。
原始仏典などにあるとおりではと。
中観派は竜樹、三諦は天台の智者大師らしい。
一念三千という言い方は、各宗派共通ではないです。
摩訶止観の天台と日蓮系だけではと。
空に関しては、日蓮宗と浄土真宗以外は般若心経の空観になります。
(昔、般若心経を呪いのお経だと思っていたけど、ぜんぜん違ったwどこで覚えたんだ?)

竜樹に学ぶという時点で、すでに大乗カラーが入るわけで、
原点に戻った哲学的な仏教は、こちらのサイトがオススメです。
掲示板なども空についての議論が展開されています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/

>無欲は無常無我の表れの一つでは?なので、空=無欲とも思わない、というのは良いと思います。

それはどこの教えなのでしょうか?
無常無我=無欲は聞いたことがないです。

煩悩を私流に例えると、
植物の芽が伸びますね。
家庭菜園のトマトなんかは、右へ左へ芽が伸びますが、
脇の芽を摘むと、お日様に向かって上にまっすぐ伸びていきます。
煩悩は、伸びようとするエネルギーで、それが脇に伸びれば煩悩に振り回される状態、上に伸びれば菩提。
どちらも根源は同じものと考えます。
欲をなくす、のではなく、欲の方向付けが大事であると。
その方向付けが無我、伸びる時間を与えるのが無常。
お日様が法。法に暗かったり、法に背いたり、インチキな法に照らされれば、伸びる方向も誤ります。
そんなかんじでいかがでしょうか?
説明になっているだろうか(汗)
かくいう私はまだ芽が出たての「もやしっこ」でございます。

>大智度論まで遡り、
あう、そこまで勉強が必要ですか。。。。

うんにゃ、私もそこまで勉強はしておりませぬ(^^;)
そこまでいくと、さすがに独学ではどうにもならないと思っています。
ただし日蓮さんが学んだものを検証されている方々の意見はおおいに参考にしてます。
回答(その1) (Libra)
2006-12-14 02:14:41
1.チギと日蓮はともに中観派
 龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」
といいます。

 チギ(天台大師)は「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」とい
っていますから、当然、龍樹の説を支持しています(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html#2
 
 チギは、他の宗派を批判するときに、「龍樹に違う」という言い
かたをしています。ということは、自分は「龍樹に違」わないとい
う認識なのでしょう。実際、内容の面でも、チギは「縁生はすなわ
ち主なし」というように、龍樹と同じことをいっています。「主な
し」というのは「自性を有していない」ということです(以下を参
照)。

  一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

 いちおう、「自性」の説明もあげておきます(いちばん上が最も
簡単な説明で、一番下は専門的な説明)。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 チギは、『中論』をよりどころとして、円融三諦説を説いていま
す(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/123.html#2

 以上から、チギは中観派といってよいとおもいます。

 日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプ
ロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩
提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴ
ァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこ
までも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されて
います(以下を参照)。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」
というのも同じことではないでしょうか。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとお
もいます。遠いですか?

3.成仏かまじないか
 同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の
唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿
量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生
の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の
知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

  一大事因縁(『法華経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法
華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテ
ーマではないでしょう。それと、「陀羅尼品」というのは、「法華
経を受持する人は菩薩とかが守ってくれますよ」というお話なので、
宇宙生命との交流がどうとかいうお話とは全く関係がありません。

 日蓮の場合には、「じぶんは法華経をこれだけ受持してるのに、
なんで守られないのか」と悩みに悩んだ末、「天もすて給え諸難に
もあえ」と言い放っております。守ってもらいたいがために法華経
を受持してるわけじゃないんですね。

  ────────────────────────────
  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

  (「開目抄下」、全集、p. 232)
  ────────────────────────────

 「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)という発言もあります。
回答(その2) (Libra)
2006-12-14 02:15:55
4.一念三千と空は同じ
 一念三千というのは、一念を例にとって、空(無自性)を説明し
たものでしょう。ちなみに、『摩訶止觀』の別のところには、「一
念即空即仮即中」(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)
とあります。

  ────────────────────────────
   この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという
  問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としてい
  るので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その
  真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 87)
  ────────────────────────────

 一念には固有の本性のようなものはありません(無自性)。縁に
よって変化します。縁によっては仏にもなれます。ようするにそう
いうことです。わたしたちにも仏になるチャンスがありますよとい
うのが一念三千説の希望的な側面です。

 「わたしたちにも仏になるチャンスがありますよ」というだけで
は「理の一念三千」だと日蓮はいいます。どうしたら現実に仏にな
れるのかというところまで明かさないと「事の一念三千」ではない
ということでしょう。法華経に南無することによって仏になれるん
だから、「南無妙法蓮華経」が「事の一念三千」なんだというのが
日蓮の考えだとおもいます。

 ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといって
います。

  ────────────────────────────
  一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
  竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者の
  みこれをいだけり

  (「開目抄上」、全集、p. 189)
  ────────────────────────────
回答(その3) (Libra)
2006-12-14 02:17:05
5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
 仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。「万
人に共通する生命の基盤」とか、そういうことを言わないのが仏教
の特徴だとおもいます。たとえば、以下を参照。
  
  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

6.日蓮と大日如来
 「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでし
ょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

 大日如来にもいろんなのがいるけど、その親分は法華経の多宝如
来だと日蓮はいっています。で、その親分の多宝如来でさえも、寿
量品の教主釈尊の子分にすぎないといっています。

  ────────────────────────────
  大日如来〔中略〕は我等が本師教主釈尊の所従等なり。〔中略〕
  大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左
  右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、
  寿量品の教主釈尊の所従也。

  (「法華取要抄」、全集、p. 333)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

 寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になってい
ます。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙
生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点
で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。

  ────────────────────────────
  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法
  華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身仏のように
  理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この法身仏は無始無終、
  すなわち、過去も未来も永遠とされる)はまだ成立しておらず、
  そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、ある特定の
  時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の
  寿命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもし
  れない。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 224)
  ────────────────────────────

 そういうわけで、此土に有縁深厚である仏がおられるのは「五百
塵点の当初より以来」だというのが日蓮の認識です。

  ────────────────────────────
  寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁
  深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)
  ────────────────────────────

 「本有無作」という用語にひっかかる人は、以下のところでした
説明を参考にしてみてください(「2006年08月05日(土) 07:55」で
検索をかければ見つかります)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://freett.com/leo020503/nblog.html

 ちなみに、『法華経の智慧』には、以下のような記述があります。

  ────────────────────────────
  名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕
   本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセ
   ージが込められているのです。ここでは、このことを少し考
   えてみよう。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、
   p. 50)
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  ────────────────────────────
  斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大
   日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのよう
   な人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説き
   になったのか」(御書一三五五㌻、趣意)と破折されていま
   す。

  (同上、pp. 68-69)
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 とりあえず、以上がわたしからの回答です。いちおう全部の質問
に回答したつもりですが、抜けている部分がありましたらご指摘く
ださい。
Unknown (そううそ)
2006-12-14 06:55:54
ちょっとここだけ。

>「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでしょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

あれ?本尊は天王で御書は如来では?
大日如来と大日天は別の存在 (Libra)
2006-12-16 13:13:35
 「本尊は天王で御書は如来」というのは誤りです。両者は別の存
在です。

 実際、日蓮は、曼荼羅において、「大日如来」と「大日天」を書
き分けています。以下を参照。

  平賀本土寺蔵の大曼荼羅
  http://www.lbis.jp/gohonzon/018.htm

 「大日如来は教主釈尊の子分」というのが日蓮の理解。教主釈尊
は修行して仏になっていますから、宇宙生命とかではありません。
このことはすでに書きました。

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