HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

哲学に経営はつかず。

2021-09-22 06:44:51 | Weblog
 満を持して大御所の登場である。日経新聞最終面の「私の履歴書」に9月からデザイナーの山本耀司さんが連載されている。耀司さんの自叙伝はこれまでいくつか読んだことがあるが、発刊やメディア掲載の度に新たな事柄を知ることができる。その意味で今回の連載も毎日、楽しく拝読している。

 振り返ると、耀司さんが自分のブランド「Y’s」を立ち上げた1972年は、ちょうど日本のファッションも注文服から既製服に軸が移った時期。筆者の母親もオートクチュール(高級注文服)の洋裁師だったから、当時の状況はよくわかる。70年頃までは地方のブティック(高級専門店)にも既製服は並んでいたがバリエーションは少なく、インポート主体の生地を選び、スタイルブックに載るデザインにそって誂える注文服が主流だった。

 注文できるのはお金持ちの中年女性など一部に限られた。そんな時代に「女性にもっと男らしい洋服を着せたい。働く女性が自分のお金で自分のために買う意地のある洋服を作ってみよう」(連載:12)との思いで登場したY’s。「最初から華やかなプリント生地は避け、くすんだ色のギャバジン(あや織りの服地)を使い、大きめの男っぽいコートを作った」(連載:13)のだから、多くの女性は着ることに二の足を踏んだと思う。

 だが、モードの新たな潮流は確実に「オートクチュールからプレタポルテ(既製服)へ」に移りつつあった。当時の既製服は若い女性向けでも、アーリーアメリカン調のプリント柄などスイートで可愛い感じばかり。ユーロテイストの斬新なデザインの服も出初めてはいたが、値段も高くメジャーにはなりにくかった。そんな状況下で、人とは違うお洒落を楽しみたい、男性の視線ではなく自分の感性で服を選びたい女性は確実に増えていた。

 「たまたま撥水(はっすい)性のあるスイス製の生地が手に入ったので色違いのレインコートばかりを並べた展示会を開いてみたら、予想以上に反響があり、初めてまとまった数の注文が入ったのだ」「1つのコンセプトを前面に打ち出した斬新な趣向が良かったのだろう。確かな手応えを感じる展示会になった」(連載:13)。既製服の時代に入ったとは言え、専門店のオーナーからすれば、自店の顔にすべきブランド既製服をいかに調達するか。それが大きな課題で、そんな渇望に応えたのがY’sだった。

 バイヤーは店を訪れるお客のウォンツを通し、時代にフィットした服を探した。「あなたの時代が来るわ」。このフレーズはまさに顧客の思いを代弁したもの。耀司さんも「地方専門店の女性バイヤーが耳元でこうつぶやいたのを覚えている」(連載:13)と、語るくらいY’s史に残るエポックだったと言える。その後の勢いは、他のデザイナーブランドと同じ。雑誌メディアが特集すれば、ブランド人気は日本中に広がる。

 「『流行通信」』などモード誌が特集を組み、話題がさらに話題を呼ぶ。売り上げ増加に伴い歌舞伎町の店は引き払い、会社を南青山、西麻布へと移転した」(連載:13)。ただ、耀司さんはY’sが右肩上がりに伸びても、「作りたい服を作る」というスタンスを変えなかった。そして「カラス族」という代名詞の通り、服作りには「黒の美学」を貫いた。

 それは自身が生まれて間もなく父親が戦死し、新宿・歌舞伎町で仕立て屋を営みながら自分を育ててくれた母親の影響がある。ある深夜、子供だった耀司さんがふと目を覚ますと、夜を徹して裁縫をする母親の指に「赤い血」が滲んでいた。鮮血のドス黒さが子供の目に焼き付き、デザイナーとして黒に執着する出発点になった。

 耀司さんにとって、黒は心の底から込み上げる魂の叫びなのだ。Y’sの誕生当時、ストリートにはパステルカラーなど明るい色が溢れていて、黒はタブーという暗黙のドレスコードがあった。そうした中、Y’sが打ち出した全身黒づくめのスタイルは、男性の視線など気にしない禁欲的でソリタリーな雰囲気を持ち、業界の常識を真っ向から否定するものだった。まさに反常識、反伝統に立て篭もる耀司さんの生き方そのもの。異端の美学とでも言おうか。


紆余曲折あった経営について何を語るか

 色だけではない。服作りの世界観を追求するために「こだわったのは素材の風合いである。生地を求めて全国を行脚した」(連載:14)と、一枚の布から創作された。





 「三河木綿(愛知県蒲郡市)、藍染め(岡山県倉敷市)、ニット(山形県寒河江市)、近江麻(滋賀県東近江市)。探せば、職人が伝統的な手法で丹念に織り上げた素晴らしい生地が各地にいくらでも眠っている。五感を研ぎ澄まし、色を見て、匂いを嗅ぎ、肌に乗せて感触を確かめる。素材への興味は尽きない」(連載:14)

 「本物を追い求めたらキリがない。だがどれほど手間や時間がかかっても、私の試みを面白がり、最後まで付き合ってくれる気骨の職人や経営者がいた。作り手と買い手の感性が響き合い、刺激し合う対等な関係が心地よかった」(連載:14)。ウールやコットンのギャバジン。生地にコシがあって、織った組織には変化が出る。筆者がY’sに魅せられたのも、職人が作り出す素材の風合いとデザインが見事に調和した点だ。

 もちろん、日経新聞の連載だから連載が佳境に入るにつれ、創業から50年も続くブランドがどんな経営観を持ち、どんな手法をとってきたかについても語ってほしいはず。Y’sは1981年にはパリコレクション、翌82年にはYohji Yamamotoをスタート。創業から10数年で、販路は欧米やアジア全域に広がり、「ワイズ」「ヨウジ・ヤマモト」「ワイズ・フォーメン」「ワイズ・ビス」の4社の総年商はざっと100億円に達した。

 耀司さんはそうした企業のデザイナーであり経営者でもあった。でも、業界では専ら社長と呼ばれた途端に嫌な顔をするとの評判だった。また、経営に関して本人が指示を出したり、財務に関わったりすることもほとんどなかった。もちろん、業務状況の報告は受けるし、戦略上重要な決定には立ち会うが、マネジメントに関しては暁星小学校からの友人である林五一氏とスタッフに任せていた。

 そんな企業が2009年10月、約60億円の負債を抱えて経営破綻し、耀司さんは代表取締役を辞任した。パリコレを終え帰国後の記者会見では、「私は、一種の裸の王様であり続けた」と、反省の弁を述べている。

 経営陣から悪化する経営状況が上がってこなかったことを表現したものだが、そもそも耀司さんが代表取締役という役職は登記簿上のもので、経営にはほとんどタッチしていなかった。むしろ、社内では耀司さん一人に経営責任を負わせることはできなかったはず。なぜなら、会社は山本耀司の美学と独創性のもとに結集した運命共同体のようなもので、スタッフはその共同体と共に生きていくことを覚悟した面々だったからだ。

 幸い、再建はスムーズに進んだ。投資会社インテグラルの支援を受けて2009年12月に新会社を設立。代表取締役社長は大塚昌平氏が務め、インテグラルから辺見芳弘氏が会長、山本礼二郎氏が取締役に就任した。耀司さんは引き続きヨウジヤマモト、Y-3など傘下ブランドの創作と監修を行うが、ワイズ・フォーメンはヨウジ・ヤマモト・オムに一本化。海外事業は仏、英、香港に集約し、それ以外の地域は卸で対応することになった。

 もちろん、生地メーカーや縫製事業者に迷惑をかけた点では、耀司さんがいちばん気に病んでいた。デザインに徹してきたとは言え、アパレルビジネスがリスキーであることは、ご本人が百も承知だったからだ。連載でも以下のように述懐している。「大量生産・消費が前提のプレタポルテはリスクも伴う。まだ売れるかどうか分からない段階で素材を仕入れ、コストや手間をかけて商品を生産する。先行投資が欠かせない。商品が売れ残ればそれが損失になり、状況次第では資金繰りが悪化しかねない。まさにギャンブルである」(連載:13)

 ともあれ、どんな企業にも紆余曲折はある。業績が好調な時もあれば、急降下する時もある。経営者は売上げが右肩上がりになるほど、マネジメントが追いつかないことに直面する。ただ、耀司さんはすでに代表権も経営権も持たないのだから、むしろ吹っ切れて柵もなくなり、命が続く限り作りたい服作りに専念していくと思う。

 日経新聞はビジネスを意識した報道を行うとは言え、それを十分にわかっているはずだ。耀司さんにとって市場が思考のダイレクトな対象にはならないことも。あるのは時代の空気をどう読み、それを布でどう表現するか。

 海外メディアに「あなたはクリエーターですか」と問われると、耀司さんは「いいえ、単なる洋服屋です」と答える。その背景には、洋の東西を超えた普遍的な服を作り続けるという意思が垣間見える。哲学の前に経営という文字はなく、数字はあくまで結果論。今後の連載でも何を語るのか。興味はつきない。
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