教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

研究会の効果、専門外の勉強

2005年06月09日 16時22分57秒 | Weblog
 昨日書き忘れたこと。
 昨日、佐野先生の特研発表・博士論文二次審査を聴いたことを記事にした。佐野先生の論文の内容は、私の研究とはかなり離れたところにある。しかし、興味深く聴けたし、つっこんだ(と思う)質問もした(特研で、だが)。これは、実は前から時々紹介している教育史研究会で勉強したことが生きているのだと思う。研究会では、日本教育史に限らず、西洋教育史や教育哲学で最近問題にされているテーマを取り上げている。その中で、以前、植民地民衆の国民化について触れたことがあった。この時の知識が生きており、その知識に照らし合わせて佐野先生の研究に対する質問が現れたのであろう。
 実は、先日の全国地方教育史学会でも同じような現象があった。個人発表者の中に、実業学校の設立について地元産業と関連させて述べた方がいらっしゃった。私は実業学校の専門家でも何でもないが、以前教育史研究会で産業界と学校との関連を重視する研究を取り上げたことがあり、それに照らし合わせて質問が現れた。
 学会や授業にて、質疑応答・討議の時間が何も質問のないまま進むことがある。もちろん、発表の内容がまずく、質問のしようがない時もある。しかし、質疑応答・討議ができないという問題は聴衆の問題でもあるのではないか。聴衆が発表のテーマについて何の知識も無いとき、何の知見もないとき、質疑応答・討議の時間は静寂の時間になるのではないか。質疑応答・討議は、学問の発展のために重要な時間である。質問をするのは、発表を聴いた者としての義務かもしれない。もちろん発表の内容に基づいた質問でなくてはならないけれど。
 昨日は、教育学を学ぶ者・教育学の発展に少しでも貢献しようとする者として、自分の専門のみに拘泥していてはいけないな、と再確認した日でもあった。私の場合、専門外の勉強はあまりやりたくないので、教育史研究会の参加のために勉強しなくてはならない、という一定の拘束が利いている。専門外の学術内容が、自分の研究の内容に反映されることもあることだし、ぜひ続けていきたいものだ。
 戦前の帝国大学では、教育学が文学部に設置され、哲学や心理学、社会学などと並んでおり、教育学を志向する学生もこれら専門外の単位を取らなくてはならなかった。このことが、今の私の心にひっかかるのは、上記のようなことに関心をもってきたからかもしれない。
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2 コメント

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そうだよ! (休呆)
2005-06-10 15:23:51
 研究会のような学会ほどのプレッシャーもないところならば院生なら発言できるはず。ゼミというのはあたりまえだけど、そういうところで発言できない人が多い。

 知識も知見もないから質問ができないというものでもない。ない知識、知見をそれなりにつけるためにも何か口に上すべきなのだ。拝聴しているだけで研究能力が上がるはずがない。「ハイ、チョーですか」レベルの聞き役にしかなれない。研究者は聞き役ではなく語り役なのだ。てゆうか語るための脚本家なのだ。

 それにしても佐野さんは広大で学位を取るのか。知らなかった。白石さんはいい体験したねぇ。

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極めて遅いコメント (白石)
2005-06-13 15:15:33
>知識も知見もないから質問ができないというものでもない。

 本文にはまったく逆のことを書きましたが、ある意味そうかも。

 ない知識・知見を口に出すことで、「ああ、この程度の知識では通用しないのか」とか、「ああ、浅はかな知見であった」とか、自己確認することもある。逆に、発表者や聴衆も、「ああ、そういう考え方もあるか」と確認することもある。何か意見(異見)を発言することは、お互いに益するところはあるだろう。



>研究者は聞き役ではなく語り役なのだ。てゆうか語るための脚本家なのだ。

 実に深いお言葉。
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