小春日和かと思いきや、やったら寒くなったこの数日、皆様いかがおすごしでしょうか。
今日は『日本教育史研究』投稿の〆切日なので、ついに論文を投函してきました。英文題目は昨晩考えた題目で、自分でGOサインを出しました(笑)。論文は消印有効ですが、いちおう速達で出しましたところ、簡易書留と合わせて1,110円もかかりましたよ~。
さて、一つ論文が終わったのでやれやれと思いきや、実は18日の佐藤先生退官記念行事で発表しなくてはなりません。発表テーマは、博士論文の構想です。昨年7月の一次審査会から教育史学会・中国四国教育学会・日本教育史研究会と学会投稿してきましたので、その成果を踏まえてOBたちの前で発表します。いちおう、博論のことは常に考えてきたので、なんとなくイメージは出来上がっております。発表レジュメや投稿論文にそれぞれその一部を反映させてきたので、それらを組み合わせれば簡単にできるだろうと軽く思っていました。うーん、そんなに甘くはないなあ(笑)。組み合わせるだけでは、分量が膨大になってしまって冗長かつ雑多な内容になってしまうのです。ちょっと難儀なことになっておりまするよ。
まあ、ちょっと風邪気味&両肩の調子もよろしくないので、早めに帰りまする。
ところで、昨日の『毎日新聞』で、国立歴史民俗博物館主催で「弥生の始まりと東アジア」というテーマのフォーラムが開かれたという記事を読みました。なんでも、国立歴史民俗博物館の研究を基にした弥生時代の開始時期を従来紀元前5世紀頃としていたものをさらに500年ほど遡らせようという説を出発点として弥生時代を考えようというフォーラムだそうで、炭素の分析を使った科学的証拠から導いたもののようです。その説の導き方等を疑問視して反論している学者も少なくないそうで、すぐには通説にはなりそうにないようですが、興味をもって読ませてもらいました。まあ、分析方法など詳しいことは私にはよくわかりませんが、私がこの話にくいついたのは、「~時代」という時期区分がいつからいつまでか、という論争に単に興味がわいたからです。日本史の新しい同校に対する興味でもありますが。
最近科学史の本などをかじっていると、日本における近代科学の思想的概念的受け皿は17・18世紀からすでに芽生えていたんだ、という主張にぶつかりました。日本教育史でも、寺子屋や藩校などの発達が近代学校制度の準備をしたということはあるような気がします(これ、誰が言ってたんだっけ?)。そう考えると、我々がよく使う「近代日本教育史」ってなんだろうと考えてしまいます。常識的には、江戸時代=近世、明治時代以降=近代、と考えられていると思いますが、上記のように分析・評価の視点が違えば時代区分も変わってくるので、そのような常識はあまりに短絡的な評価だということになるでしょう。時代区分と歴史的評価は一心同体であって、時代区分が変われば歴史の評価は変わり、歴史の評価が変われば時代区分も変わります。時代区分をする意味をあえて言えば、区分することによって、ある特定の歴史認識を形成する、もしくは形成するための枠組みを作ることと言えるでしょうか。だから、いつから弥生時代が始まるかという問題は、日本史の根本的な問題になるわけです。
そういえば以前、ある学会に投稿した際、題目に「明治中期」という言葉を使いました。結果掲載されてませんので、今宙に浮いている論文ですけど。ともかく、問題はこの「明治中期」という言葉。正直言いますと、あまり深く考えて設定した言葉ではありませんでした。単に明治期45年間を三等分して、だいたい明治15年くらいから明治30年くらいまでを指していただけで、私の研究対象としていた大日本教育会の活動時期とちょうど一致したので用いた、という短絡的なネーミングでした。もう少し事実関係の解明を深めれば、面白い歴史的意義も出てくるような気もしていますが、今のところたいした根拠もないので、ここでは「明治中期」にはこだわりません。ともかく、自分のものさしで安易に時期区分するのは、歴史研究の姿勢としてよろしくない、ということが言いたいわけです。
ただ、時代区分=評価ですから、誰かが設定した時代・時期区分に、何の疑問・批判もなしに乗っかるのもおもろしくないですね。
今日の記事は、なんだか散漫とした文章だなあ。
今日は『日本教育史研究』投稿の〆切日なので、ついに論文を投函してきました。英文題目は昨晩考えた題目で、自分でGOサインを出しました(笑)。論文は消印有効ですが、いちおう速達で出しましたところ、簡易書留と合わせて1,110円もかかりましたよ~。
さて、一つ論文が終わったのでやれやれと思いきや、実は18日の佐藤先生退官記念行事で発表しなくてはなりません。発表テーマは、博士論文の構想です。昨年7月の一次審査会から教育史学会・中国四国教育学会・日本教育史研究会と学会投稿してきましたので、その成果を踏まえてOBたちの前で発表します。いちおう、博論のことは常に考えてきたので、なんとなくイメージは出来上がっております。発表レジュメや投稿論文にそれぞれその一部を反映させてきたので、それらを組み合わせれば簡単にできるだろうと軽く思っていました。うーん、そんなに甘くはないなあ(笑)。組み合わせるだけでは、分量が膨大になってしまって冗長かつ雑多な内容になってしまうのです。ちょっと難儀なことになっておりまするよ。
まあ、ちょっと風邪気味&両肩の調子もよろしくないので、早めに帰りまする。
ところで、昨日の『毎日新聞』で、国立歴史民俗博物館主催で「弥生の始まりと東アジア」というテーマのフォーラムが開かれたという記事を読みました。なんでも、国立歴史民俗博物館の研究を基にした弥生時代の開始時期を従来紀元前5世紀頃としていたものをさらに500年ほど遡らせようという説を出発点として弥生時代を考えようというフォーラムだそうで、炭素の分析を使った科学的証拠から導いたもののようです。その説の導き方等を疑問視して反論している学者も少なくないそうで、すぐには通説にはなりそうにないようですが、興味をもって読ませてもらいました。まあ、分析方法など詳しいことは私にはよくわかりませんが、私がこの話にくいついたのは、「~時代」という時期区分がいつからいつまでか、という論争に単に興味がわいたからです。日本史の新しい同校に対する興味でもありますが。
最近科学史の本などをかじっていると、日本における近代科学の思想的概念的受け皿は17・18世紀からすでに芽生えていたんだ、という主張にぶつかりました。日本教育史でも、寺子屋や藩校などの発達が近代学校制度の準備をしたということはあるような気がします(これ、誰が言ってたんだっけ?)。そう考えると、我々がよく使う「近代日本教育史」ってなんだろうと考えてしまいます。常識的には、江戸時代=近世、明治時代以降=近代、と考えられていると思いますが、上記のように分析・評価の視点が違えば時代区分も変わってくるので、そのような常識はあまりに短絡的な評価だということになるでしょう。時代区分と歴史的評価は一心同体であって、時代区分が変われば歴史の評価は変わり、歴史の評価が変われば時代区分も変わります。時代区分をする意味をあえて言えば、区分することによって、ある特定の歴史認識を形成する、もしくは形成するための枠組みを作ることと言えるでしょうか。だから、いつから弥生時代が始まるかという問題は、日本史の根本的な問題になるわけです。
そういえば以前、ある学会に投稿した際、題目に「明治中期」という言葉を使いました。結果掲載されてませんので、今宙に浮いている論文ですけど。ともかく、問題はこの「明治中期」という言葉。正直言いますと、あまり深く考えて設定した言葉ではありませんでした。単に明治期45年間を三等分して、だいたい明治15年くらいから明治30年くらいまでを指していただけで、私の研究対象としていた大日本教育会の活動時期とちょうど一致したので用いた、という短絡的なネーミングでした。もう少し事実関係の解明を深めれば、面白い歴史的意義も出てくるような気もしていますが、今のところたいした根拠もないので、ここでは「明治中期」にはこだわりません。ともかく、自分のものさしで安易に時期区分するのは、歴史研究の姿勢としてよろしくない、ということが言いたいわけです。
ただ、時代区分=評価ですから、誰かが設定した時代・時期区分に、何の疑問・批判もなしに乗っかるのもおもろしくないですね。
今日の記事は、なんだか散漫とした文章だなあ。
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