教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

研究の楽しさ

2010年05月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 来週5月22日・23日、九州大学にて全国地方教育史学会が開かれます。この学会は私が大変お世話になった学会で、最初のレフェリー論文を機関誌に掲載していただいた縁のあるところです。この数年、直前に腰を痛めたり、参加費用不足に陥ったりしたため、大会に参加できずじまいでした。今の職場に着任して2年目になったし、九州福岡での開催なので、今年はようやく参加できそうだなと思っていました。そして、参加するなら発表したいネタがあったので、久しぶりに参加・発表のエントリーしています。
 発表するのは、明治30年代初頭の鳥取県倉吉にいた小学校教員が抱いていた問題関心についてです。地方に住んでいた一教員の頭の中を明らかにした教員史研究は、個人思想の研究でない限りあまりないと思うので、それなりにオリジナリティはあるのではないかと思います。ましてや、鳥取県倉吉に在職していた教員の問題関心についてはまったく研究されていないので、「地方教育史」の学会である当学会で発表するのにまあまあ適当なのではないかと思っています。明治教員史研究の課題のひとつが、明治期に生きていた教員の実態を再構成することにあるとすれば、これは意義ある研究だと思います。
 地元に『東伯之教育』という倉吉在職の小学校教員が編集した雑誌が残っていまして、それを使っての研究です。今回で全部使い切ってやろうと思っていたのですが、調べるとどうも興味深い研究問題がゴロゴロしていましたので、今回では使い切れそうにありません。もう一回くらい別の学会で研究発表をすることにしました。なかなか面白い史料です。
 それにしても、研究というのは、完成しかかった時が一番楽しいです。研究をしている間は何でこんな苦しいことを続けているのか、と思うことが多いですが、あるとき突然テンションがあがる瞬間があります。それは、それまで見えていなかったものが見えてきたとき。このときのうれしさといったら、何ものにも代えがたいものです。完成してしまえば、しばらく眺めて満足感には浸りますが、たいてい次の研究に関心がもう移っています。完成した論文は、もちろん努力の結晶として大事なものですけどね。研究をすれば、次すべきことが見えてくる。次の研究にとりかかり、そして次のすべきことが見えてくる。この繰り返しです。
 なぜそんな繰り返しを続けようと思うのか。ある意味、「無間地獄」です(笑)。やってもやっても終わりがないのですから。それでも続けるのは、やはり、完成しかかったときのうれしさ、これをまた味わいたいからというのは理由のひとつだと思います。それは知的快楽であり、知的欲望の実現であり、知的探求の意欲の始まりです。自分ではない誰かのため、社会のため、国のため。それも理由のひとつですが、それだけで苦しい研究を続けられるほど人間は強くないのではないかと思います。「研究が楽しい」。そういう個人的な楽しみがなくては、研究って続けられないのではないでしょうか。
 …ぁ、また睡眠時間を削ってしまった…もう寝ます。では。
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