教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

開発主義・文検・伝統音楽2

2006年01月09日 23時09分51秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起き(笑)は、昨日と同じくらいでした。やっぱりまだ二度寝の習慣が抜けきれなくて、時間を無駄にしています。先日、新成人を対象に行った「時」に関する調査で、一番もったいないとおもう時間は「寝過ぎたとき」だそうで。もっと有意義に時間を使えるようにしないとなぁ。
 今日も登校して勉強しましたが、先に今年一年の簡単なスケジュールを立てた後、勉強(読書)。今日は昨日の続きです。
 
 まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』の第四章「『開発主義』教授理論の特質」を読みました。これは、開発主義教授法書の代表著作である若林虎三郎・白井毅『改正教授術』(1883年)を分析してその教育実践の質を明らかにし、さらには当時の視学官の言葉を借りて開発主義教授法の普及における問題点も指摘した研究です。
 『改正教授術』は、形式陶冶的目標(表現力など)を教授の目的として掲げ、従来の知識伝達→暗記を目的とした教授形式を否定し、教師自らが実践の目的・過程・方法を構成的に把握する教授形式を提示した、意味ある教授法書でした。しかし、①全教科にわたって実物の提示と問答という教授定式が成立し、②その教授定式が教授目的・内容と背離し、③観察方法の形式化、④所与の事典的・概説的知識の伝達方式への「開発」の限定、⑤小学校教則綱領の規定による教授内容の体系の消失、という問題がありました。要するに、ペスタロッチーやジョホノットの教授法を形骸化してしまったという問題を有したのです。また、普及の過程で、開発主義教授法の形式的な受容や伝達・普及方法などにより、さらに形式化が進んでしまったという、踏んだり蹴ったりの状況を生んでしまったようです。このような開発主義教授法は批判の対象となり、明治二十年代にかけて、次第に公定の教授内容の効果的伝達・注入を目的として、より効率的な伝達の方式としてヘルバルト主義教授法にとってかわられることになりました。
 
 お次は、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』の第二章「『教育科』『教育ノ大意』の試験問題」を読みました。本章は、教育科・「教育ノ大意」が求めた教育学的教養の性格、すなわち当時の中等教員に求められた教職教養の性格を明らかにすることが目的です。本章は、二節にわかれていてそれぞれ筆者が違います。
 第二章第一節の西山薫「専門的学識を問う『教育科』」は、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)の教育科(師範学校教育科教員の検定試験)の試験問題と模範解答(受験参考書による)を分析した研究です。第二章第二節の岩田康之「教職教養としての『教育ノ大意』」は、明治40(1907)年以降、教育科志願者ならびに小学校本科正教員免許取得者等以外の「文検」志願者に課せられた科目である、「教育ノ大意」の試験問題と模範解答(受験参考書による)を分析した研究です。教育科の試験問題は、教育実践との関わりの中で論じさせたり、諸科学や社会事象と関係させて教育学の学問的位置づけを行わせたりするなど、教育学の専門的知識を構造的に把握させるものでした。その試験問題は例えば、「疲労の性質を生理的心理的に説明し教育上の注意に及べ」(昭和4(1929)年教育科予備試験)や「教育上に於ける勤労思想の発達を述べよ」(同年教育科本試験)などです。特に心理学関係の問題など、今の私には絶対答えられませんぞ。
 「教育ノ大意」の試験問題は、心理学・論理学といった基本的知識を説明させる性格が強く、学校教育の基本部分を尋ねるものが多く、他の社会現象との関連や教育の本質を構造的に尋ねることはほとんどなかったそうです。問題は例えば、「教科及び教材の統合とは何ぞや」(昭和4年教育大意第50回予備試験)や「左の意義を説明せよ イ.観念連合、ロ.概念の内包、ハ.形式的陶冶」(同年教育大意第51回予備試験)などでした。このような問題に対して、受験参考書等では、当時の教育現実と社会体制の動きや教育学の研究動向に敏感に反応しながら、模範解答が作成されていたことが明らかにされました。
 当時の教育学は、大学・師範学校などで講壇化されていました。その上に、「文検」の試験問題を受けて作成された受験参考書などによって、同質の教育学知識を持った教員を再生産していたと考えることもできましょう。「文検」めぐる世界を「文検世界」というそうですが、文検世界では、新しい教育学研究の成果を一般化・教科書化しながら、学問の通常科学的発展のために必要な後進者を再生産していったと考えられそうです。中等教員が教育を分析する切り口(すなわち教育学研究の視点)なんかも、そこで定型化されたのでしょう。そこで再生産された「教育学者」は、どんな性質を持ったのでしょうか。興味深いところです。
 
 最後に、昨日の続きの通り、小泉文夫『日本の音』の続きⅡ「日本の音-伝統音楽への入門」のうちの、「正月の芸能と民族音楽」「雅楽」「仏教音楽」の三節を読みました。「正月の芸能と民族音楽」では、民族芸能の基本的意義が述べられています。民俗芸能自体は楽しいものではないかもしれないけれども、それが意味するものは、人間の生活の中にある「生きていることのよろこび」というものを味わうための文化や娯楽であって、自分たちが体験し、自分たちの生活をその中に反映させることができるものであるとしています。そして、民俗芸能は芸術音楽のように固定した形がなく、自分たちの好みによって発展させ、創造的に形を変えることが許されているものであるとしています。雅楽も仏教音楽も、歴史的経緯や担い手が違いますが(雅楽は宮廷人、仏教音楽は僧侶、民俗芸能は民衆)、やはり歴史的には変化をしてきた音楽だといいます。つまり、伝統芸能は昔とまったく同じ形で保存しなくてはならない、というような思想・行為そのものには学問的・芸術的意義はありますが、絶対的真理のようなものではないですし、また現実にはあり得ないことというようにも考えられます。
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