本日5月16日読了。
形式(文体)と内容(物語)の結びつきて、ホンマに大事やと気づかされた。
「この物語はこの文体でしか語れない」「この物語を語ろうとすると、どうしてもこの文体になる」
…そういう、文体と物語の結びつきの必然性があればあるほど、作品の文学としての価値は高まる。
あるいは、この必然性は、「まず文体があって、その文体が物語を作り出す」ところまで行く可能性さえある。
この本、文体が、なんというか、ジャーナリスト文体なんよね。
描写が情緒的で、比喩も陳腐(失礼!)。
話がドキュフィクションやから、文体が詰め寄って物語(が基づく事実)を捻じ曲げることができず、両者が拮抗する緊張感がない。
すでに「ある」物語を滞りなく語っていくだけ。
読むとたしかに感動するが、その感動はおおかた事実に接したことにより引き起こされたのであって、「文学」に心を鷲掴みにされたからではない。
その証拠に、巻末の10分の1、ディータとの交流など、著者が直接体験したことを語るくだりに入ると、文章が俄然よくなる。
形式と内容がピッタリ合って、「そう、これこれ!」と膝を打ちたくなるくらい。
そして、このパートこそが、そこに至る9割のドキュフィクション部分を遡って支えているんじゃないか、とさえ思える。
つまり、
Dita Krausさん、まだ生きたはる。ということは、この話は同時代の話にほかならず、彼女の生を通じて「今」は「あの時」までずーっと繋がっているんだ、ということ。
この事実がドキュフィクションを逆照射すんのよね。
僕は、1997年夏、フランス入りする前の東欧旅行で、アウシュヴィッツ=ビルケナウを訪れている。
自分の個人的な記憶を介して、1944年のその地まで一気に行けるような、そういう眩暈も覚える。
また著者がディータとともに訪ねた、プラハのカフカの家にも、その夏、僕は行った。
最後のパートを読むまで、この物語が、ユダヤ人というだけではなく、チェコという国、プラハという街の受難でもあることに、あまり気が回っていなかった。
オーストリア・ハンガリー帝国、ナチ、ソビエト…そこで生きていたカフカ、そしてクンデラ。
ほとんど最後のページで、カフカの末の妹が、ディータもいたチェコ北部のゲットー「テレジーン」からアウシュヴィッツに送られ、ガス室で殺されたことが書かれる。
ドキュフィクション中に、アウシュヴィッツからベルゲンベルゼンへ、ディータと同じ道程を辿り、そこで病死したアンネ・フランクについての記述も。
イスラエルのディータの本棚に並ぶクンデラの著書。
僕が読んだ『冗談』。
時空を超えて幾つもの地理的場所や誰彼の個人史・内面史がつながり、接続点がそこここでポッと発光しているイメージ。
そもそもこの作品は、自分にとっての前作
『Terre ceinte』から「図書館」つながりで、手に取ったのだった。
それは僕が、
福田和夫の「効率的」読書に対するアンチで、「もうダラダラと、「あ」と思いついたら何も考えず次へ行く」という読書スタイルを密かに確立しようとしている、その流れの真っただ中で。
たとえば『存在の耐えられない軽さ』(クンデラ)のテレーザが読んでいたという、ただそれだけの理由でトルストイ『アンナ・カレーニナ』を読み始める。
そして、「ああ、この箇所を読んだとき、彼女はどう思ったのだろう?」と問うて気づく、「なんも思うはずないやん、そもそも彼女自身、作中人物なんやから」と。
それらすべての発光点のネットワーク。
その意味で、読書は必ず、世界とつながる個人的体験であり、逆に、そういう個人的体験の(ひとつの)メタファーが読書なのかもしれない。