フランス剣道&子育て日記

当地で再開した剣道、40を過ぎて授かった三人の子供。外国暮らしの悲喜コモゴモを、まあボチボチ書いていきます~。

ファドの夕べ!

2022-05-22 17:08:15 | Weblog


5月21日土曜日、ポルトガル・レストラン「ブラゼイロ」ファドの夕べに、家族で行きました。



レストランの入り口で。



セッティング。



後ろのがメイン、タカミネのエレガット。
むっちゃ改造してあるみたい。
コントロールパネルのあったところをサイドホールにしてる?





始まるまで、お外でブラブラ。









アペリティフのサングリア。

おっと、トモちゃん!真似だけよ。











前菜。





メイン、スペアリブと鶏モモのグリル。
このレストランは基本、炭火焼きの店なん。



塩ダラのムニエル。



鶏半羽のグリル。









ジャン=リュックさんも歌います!





タラを片付ける。



ロザさん、モグモグ・ダンス!



ちょっとスパニッシュ!



ダンス!出雲&ロザ!!



ダンス!学&ロザ!



デザート。







DJアルミンド(ロザさんの義兄)登場!



零時すぎ、お店を後に。








『アウシュヴィッツの図書係』(2012年)

2022-05-16 22:15:29 | Weblog
本日5月16日読了。



形式(文体)と内容(物語)の結びつきて、ホンマに大事やと気づかされた。

「この物語はこの文体でしか語れない」「この物語を語ろうとすると、どうしてもこの文体になる」
…そういう、文体と物語の結びつきの必然性があればあるほど、作品の文学としての価値は高まる。
あるいは、この必然性は、「まず文体があって、その文体が物語を作り出す」ところまで行く可能性さえある。

この本、文体が、なんというか、ジャーナリスト文体なんよね。
描写が情緒的で、比喩も陳腐(失礼!)。

話がドキュフィクションやから、文体が詰め寄って物語(が基づく事実)を捻じ曲げることができず、両者が拮抗する緊張感がない。
すでに「ある」物語を滞りなく語っていくだけ。

読むとたしかに感動するが、その感動はおおかた事実に接したことにより引き起こされたのであって、「文学」に心を鷲掴みにされたからではない。

その証拠に、巻末の10分の1、ディータとの交流など、著者が直接体験したことを語るくだりに入ると、文章が俄然よくなる。
形式と内容がピッタリ合って、「そう、これこれ!」と膝を打ちたくなるくらい。

そして、このパートこそが、そこに至る9割のドキュフィクション部分を遡って支えているんじゃないか、とさえ思える。

つまり、Dita Krausさん、まだ生きたはる。ということは、この話は同時代の話にほかならず、彼女の生を通じて「今」は「あの時」までずーっと繋がっているんだ、ということ。
この事実がドキュフィクションを逆照射すんのよね。

僕は、1997年夏、フランス入りする前の東欧旅行で、アウシュヴィッツ=ビルケナウを訪れている。
自分の個人的な記憶を介して、1944年のその地まで一気に行けるような、そういう眩暈も覚える。

また著者がディータとともに訪ねた、プラハのカフカの家にも、その夏、僕は行った。

最後のパートを読むまで、この物語が、ユダヤ人というだけではなく、チェコという国、プラハという街の受難でもあることに、あまり気が回っていなかった。
オーストリア・ハンガリー帝国、ナチ、ソビエト…そこで生きていたカフカ、そしてクンデラ。

ほとんど最後のページで、カフカの末の妹が、ディータもいたチェコ北部のゲットー「テレジーン」からアウシュヴィッツに送られ、ガス室で殺されたことが書かれる。
ドキュフィクション中に、アウシュヴィッツからベルゲンベルゼンへ、ディータと同じ道程を辿り、そこで病死したアンネ・フランクについての記述も。

イスラエルのディータの本棚に並ぶクンデラの著書。

僕が読んだ『冗談』。

時空を超えて幾つもの地理的場所や誰彼の個人史・内面史がつながり、接続点がそこここでポッと発光しているイメージ。

そもそもこの作品は、自分にとっての前作『Terre ceinte』から「図書館」つながりで、手に取ったのだった。

それは僕が、福田和夫の「効率的」読書に対するアンチで、「もうダラダラと、「あ」と思いついたら何も考えず次へ行く」という読書スタイルを密かに確立しようとしている、その流れの真っただ中で。

たとえば『存在の耐えられない軽さ』(クンデラ)のテレーザが読んでいたという、ただそれだけの理由でトルストイ『アンナ・カレーニナ』を読み始める。
そして、「ああ、この箇所を読んだとき、彼女はどう思ったのだろう?」と問うて気づく、「なんも思うはずないやん、そもそも彼女自身、作中人物なんやから」と。

それらすべての発光点のネットワーク。
その意味で、読書は必ず、世界とつながる個人的体験であり、逆に、そういう個人的体験の(ひとつの)メタファーが読書なのかもしれない。







『ファイヤーフォックス』(1982年)

2022-05-16 21:41:56 | Weblog


予告通り(!)、土曜の夜、一勢&巴と鑑賞。

いや、暗いわ。

淡々と始まり、淡々と進み、淡々と終わる。

ええ映画なんか、悪い映画なんか、正直わからん。
最後まで、脱落せんと見れたんは確か。

ちょっとレビュー探すか。

うーん、そうやったんか…
なんか納得↓

映画『ファイヤーフォックス』ネタバレ・あらすじ・感想。クリント・イーストウッドがソンドラ・ロック(愛人)とマギー・ジョンソン(妻)の板挟み状態で製作した映画。

「クリント・イーストウッド製作・監督・主演作品です。
プライベートで大変な時期に作った映画です。
クリント・イーストウッド覇気がありません。
設定も脚本もいまひとつです。」

覇気がない…たしかにその通り!

「星2つです
迷えるクリント・イーストウッドがいます
プライベートな問題が山積み
正妻マギー・ジョンソンとはどうなる、、、
愛人ソンドラ・ロックとの愛の行方は、、、」

高評価もあり↓

映画の感想-『ファイヤーフォックス』-120727。

「古いけど、おもしろい。
話がわかりやすくすっきりしていて、
最後まで楽しめるように工夫されている。
具体的には、2時間の映画の前半と後半で
テイストをみごとに変えている。
しかも、すごくその切り替えが自然なのだ。
ひとつの映画のなかでテイストを変えるやりかたは
他の映画でも、なくはないとおもうが、たいていは
中途半端に2本の映画を観たような感じがするというか
ちぐはぐで、おもしろくなかったりするものだ。
でも、本作では、テイストが途中で変わっても
おもしろさは失速しない。むしろ加速する。」

映画は見て楽しめるし、他人の感想を聞いても楽しめるナ!

薪置き場を蔦で覆う計画、進行ちう!

2022-05-10 18:07:39 | Weblog
薪置き場を蔦で覆う計画より一年ちょっと、問題なく進行中です!



この一年まったく世話せんかったんで、
地べたに這うとるやつとか、隙間から中に入り込んだやつとか、
ちゃんと壁に沿わせた。

新芽にたかるアブラムシに石鹸水かけて駆除。



ジャナも手伝ってくれる…彼女なりの仕方で。

うーん、空が青い。

洗濯もんもアッというまに乾く。

午後、暑うなる前に、庭仕事・・・完璧ちゃう?