ユーラシア大陸横断中の女子バックパッカー「なぜ旅をするのか」について語る その2

2017年01月24日 | 海外旅行

 前回(→こちら)の続き。

 「なんで、将来のアテもないのに、そんなことしてるんですか?」



 パリで出会った日本人旅行者ショウコちゃんは、同じくそこで仲良くなった旅行者ヨリコちゃんにそう尋ねた。

 この質問に、場の空気が一瞬固まった。

 問いの中身は、なんとなくわかる。ショウコちゃんの言葉を補足すると、こういうことになろう。

 「(もうすぐ30近くて、独身女で、食えるあてもないカメラマンとかやって、それユーラシア横断とか)なんでそんなことしてるんですか?」



 ここにひとつフォローしておくと、ショウコちゃんには悪気というものはなかった。

 彼女の口調に、誰かをやりこめるとか、揶揄するとか、そういった響きは基本的にはなかった。

 まだ20歳のショウコちゃんは、ただただごく自然に、世間的に見て不安定な生き方をしているヨリコちゃんに、素直に思ったことをぶつけただけなのである。

 だが、これは取りようによっては、きびしいというか、ちょっとばかし誤解をされるようなニュアンスを感じる人も、いるかもしれない言葉である。

 人によっては、傷ついてしまうかもしれない。

 旅という非現実を生きている人間に、リアルという冷や水を浴びせかける行為だからだ。

 ここにもうひとつ考察すると、ショウコちゃんに悪気は「基本的には」なかったと思うが、そこになんらかの

 

 「ちょっとした負の感情」

 

 これはあったのかもしれない。

 まじめな学生さんであるショウコちゃんにとって、「世間の」を気にせず自由に生きている(少なくともそう見える)ヨリコちゃんは

 

 「いい年して、ようやるぜ」

 

 という気持ちとともに、どこか

 

 「うらやましい」

 

 という感情も生むのでは。

 これは私自身、ヨリコちゃんほどわかりやすい形ではないけど、わりと日本人的

 

 「和の精神という名の同調圧力



 にとらわれないタイプなので、似たようなことを言われることもある。

 だから、優越半分、羨望半分の



 「ええよなあ。なんにもしばられんと、楽そうに生きて」



 みたいな言葉にこめられたものには、多少敏感なのである。

 それを、ここで出すかあ。せっかく、みんなで楽しく観光してるのに。

 ちょっとまずいかなあ、フォローしたほうがええんやろか。

 なんて、お節介なことを考えていたのだが、ここでの答えがふるっていた。

 ヨリコちゃんは動じることなく笑みを浮かべると、ビシッとウィンストン・チャーチルばりのVサインを決めて、



 「そんなの、楽しいからに決まってるじゃん!



 その瞬間、頭のうしろあたりでスコーンという乾いた音が聞こえたような気がした。

 楽しいからに決まっている。

 こらまた、なんと明快なお答えであろうか。

 そしてまた、これ以上ないくらいに、わかりやすく「正しい」回答である。

 なるほど、そうなのだろう。

 ショウコちゃんは

 「なんで?」

 という素朴な疑問を無邪気にぶつけてきたのだが、ヨリコちゃんからすると、その

 

 「《なんで?》という疑問こそが《なんで?》」

 

 だったのかもしれない。

 だって、楽しいからに決まってるから。

 結局のところ、人が他人から「なんで?」と首をかしげられる生き方や行動をする理由は、これしかないのだ。

 楽しいからに決まってる。それがすべて。たったひとつの冴えたやりかた。

 『ローラーガールズダイアリー』のドリュー・バリモア姐さんや、『桐島部活やめるってよ』の野球部キャプテンみたいに。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 あとは聞いたほうが、「陰であきれる」なり「自分もやってみる」なり、礼儀の範囲内で(「目の前で否定する」「説教する」のような迷惑なことはしないように)好きなリアクションを選べばいい。

 ショウコちゃんは鳩が豆鉄砲でも食らったような顔で、そのまま「はあ」と黙りこんでしまった。

 私が目をやると、ヨリコちゃんは「決まったね」とでもいいたげに、こちらに小さくウインクしてきた。

 ヨリコちゃんは、次の日の朝食の席へとあらわれなかった。

 なんでも、朝一番の列車で、ドイツのケルンへと旅立っていったらしい。

 それは残念だ。出発するなら、その前に言っておいてくれればいいのにとは思うが、その薄情さがバックパッカーらしいといえばらしく、そのらしさが、私は好きだ。

 それに、黙って行ってくれてよかったかもしれない。

 もし事前に聞いていたら、トチくるって、万難排してケルン行きの切符を取り、後を追いかけていたかもしれない。

 いや、もしかしたら、そうすべきだったのかも。

 能天気な私は日ごろから人生に後悔とかを、あまりしない方だが、このときだけは、ちょっぴり悔いを残したかもしれない。

 それくらいに、その振る舞いはあざやかだった。

 だからシャンゼリゼ大通りと言えば思い出すのは、オシャレなカフェでも粋なパリジェンヌでもなく、彼女のさわやかな笑い声だ。

 地域民族時代性別を問わず、あまねく存在し、いつでもどこでも不思議そうに

 

 「なぜ?」

 

 そう問われ続けているであろう、世界中の「ヨリコちゃんたち」に心からのエールを送りたい。





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