続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『自分のほうへ向かう犬』

2018-01-09 06:49:56 | カフカ覚書

 『自分のほうへ向かう犬』

 自分と犬との距離を測る・・・自分のほうへ向かって来る犬との時空は、取るに足らない瞬時だという感想を持ち、その空間を質量に変換しようなどとはあまり考えない。
 それは常に人間が主体で、犬は従うものという観念から来ているのかもしれない。

 自分に対峙する犬の存在を同等に考えれば、厳密に測れる時空の重さというものがあるはずで、それは犬との距離(空間)にも同じことが言える。
 自分の視界、見通せるものとの距離を見えないものであるゆえに(無)という感覚を抱いているが確実に(有る)ものとして物量に置換するという実験的な作品。

 作品は角柱の上に頭部を見せているが、身体は角柱のなかに在り、角柱には傷や凹みなどが付随している。要するに平板ではない複合的な抵抗が自分と犬との間に存在しているということである。

 見えないもの(空気)に抵抗を感じていないが、逆に言えば、生物(とりわけ動物)は、それだけのエネルギーを有しているということである。
 作品における空気抵抗(距離)の物量化(質的変換)は、衝撃であり、生命の基本を問い直すものである。


(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)


『丘の幻惑』(『春と修羅』より)③

2018-01-09 06:25:42 | 宮沢賢治

 野はらのはてはシベリアの天末
 土耳古玉製玲瓏のつぎ目も光り
     (お日さまは
      そらの遠くで白い火を
      どしどしお焚きまさいます)

 笹の雪が
 燃え落ちる 燃え落ちる


☆野は(相当する /野はらのはては)→総て套(被われている)也。

 天罰の図りごとは、字により、個(一つ一つ)の玉(美しい、優れている)精(こころ)が、霊(死者の魂)の糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)を黙って考え、化(教え導く)のと同じであると吐く。
 過(あやまち)を憤(いきどおる)些々(ほんの小さな)説(ものがたり)である。
 捻(ひねって)絡(つなぎ)念(考え)を絡(むすびつけている)。


『城』2858。

2018-01-09 06:17:31 | カフカ覚書

「いったい、あなたは」と、イェレミーアスは言った。わたしがそんんことをちょっとでもこわがっているとおもっているんですか」
「おもっているだろうね。たしかい、きみは、いくらかはこわがっている。そして、きみが利口であれば、ひどくこわがっているにちがいないさ。


☆「本当ですか」イェレミーアスは言った。
 「わたしがそれを少しでも恐怖に感じているとでも?」「わたしはそう思う」と、Kは言った。「きみは確かに少しばかり恐怖に感じているが、死は恐怖(畏敬)である。