天まで続くかと錯覚させる上り坂を、ハア、ハアと息も絶え絶えに見上げながら、カメは一瞬意識が遠のいていくのを感じた。
同時に村を出発したウサギはとっくにその姿も形も影も耳も尻尾も見えない。
何て足の速い奴なんだ、そう心の中で呟きながらカメはこんな無謀な賭けに乗ってしまった自らの無謀さを呪った。
そもそもの始まりは一週間ほど前のことだった。酒場で一人ちびちびと飲んでいたカメに酔っ払ったウサギが絡んできたのだ。
「それにしてもカメって奴は」
そこで一旦ウサギはぐっと杯をあおった。
「何てノロマな生き物なんだろうねぇ」
そう言うとポンポンとウサギはカメの甲羅を叩いた。
「もしオイラがこんなノロマに生まれてたら、きっと悲しくって死んでしまうよ。その点カメは偉いよねぇ」
同じく酒場で飲んでいたサルがウサギの悪酔いを諌めようとした。
「止めなよ、ウサギさん。カメさんにそんな失礼なことをいうもんじゃないよ」
「何だって?失礼なこと?オイラはカメさんのことを褒めてんだよ。なぁ、カメさん」
普段であればこんな酔っ払いの戯言など耳を貸さなかっただろう。だがこのときのカメはウサギに負けず劣らず酔っていた。気も大きくなっていた。そのせいで、つい売り言葉に買い言葉でこう答えてしまった。
「そんなことないよ」
サルに手を引かれ、その場を立ち去ろうとしたウサギはぼそぼそとしゃべるカメの言葉をその大きな耳でしっかりと捉えた。
「何か言ったかい、カメさん」
「そんなことないって言ったのさ」
「そんなことないってどういう意味だい」
「カメだって、その気になればウサギと同じぐらい速く走れる、ってことだよ」
カメの言葉にウサギは腹を抱えて笑い出した。
「聞いたかい、サルさん。カメはその気になればウサギと同じぐらい速く走れるんだってさ!」
一しきり笑ってから、ウサギはカメに向かってこう言った。
「じゃあ、カメさん、オイラと一つ競走をしようじゃないか。山一つ向こうの大岩までだ。どうだい?」
「ああ、いいとも」
いつにも増して困ったような顔をしたサルを尻目に、カメとウサギはこうして世にも珍妙な競走をすることになったのだった。
炎天下の山道でカメは意識が朦朧となっていた。顔は汗なのか、涙なのか、グシャグシャに濡れていて、心臓は今にも口から飛び出さんとばかりにバクバクと鼓動し、四本の脚が絡まってしまうのではないかと思うぐらい歩きは覚束なかった。
このときのカメは競走以前にすでにまともに歩ける状態ですらなかった。だが、カメには棄権出来ない理由があった。
いつの間にかこの競走にお互いの全財産を賭けることになっていたのだ。
酔いが覚めてカメは顔が青くなったが、取り決め書にあるサインは見慣れた彼自身のものだった。
地道に生きることが彼の信条であったが、同時に一度決めた約束事はどんなことがあっても決して違えぬ、というのもまた彼の信条であった。それは彼の誇りでもあった。
今彼に出来ることはどれほど苦しくても一歩一歩前に進むことしかなかった。
ようやく山の頂上にある一本杉が見え始めたときカメは気づいた。近づくにつれ、いよいよはっきりとなっていく。何と驚いたことに勝負の最中であるにも関わらず、ウサギがさも気持ちよさそうに杉の木の下で眠り込んでいたのだ。
カメは無性に腹が立って、「馬鹿野郎!!」と叫ぼうとした。
しかしそこでカメははっとなった。
これはもしかしたら、願ってもないチャンスなのではないか?
今ここでウサギを起こしてしまえば、いうまでもなくカメは自ら勝利を放棄することになる。
それよりもこのままウサギになど構わず先を急ぐべきなのではないか。それが賢明というものではないか。
そう考えて一歩踏み出そうとして、別の声が頭に響く。
ここでウサギを起こさずに先に行くのは卑怯者のすることだ。勝っても負けても正々堂々と勝負は行うべきだ。
相反する二つの声にカメはひどく混乱した。
混乱し、悩んで、考えて、そして一つの決断を下した。
カメは再び歩き出した。ウサギを起こすことなく。
勝負というものは非情である。相手を見くびって、油断をしてしまう方が悪いのだ。ウサギを起こさなくてもそれは決して卑怯ではない。
そう自分を無理やり納得させカメは先を急いだ。
このような選択をしてしまった以上、いよいよ負けるわけにはいかない。死んでも勝たなければならない。
カメは一歩一歩確実に進んでいった。歩みが鈍い分休むわけにはいかない。地面がぐらぐらと揺れ、今にも気を失いそうになる。しっかりしろ。気を失うなら大岩についてからだ。頑張れ。今は死ぬ気で頑張れ。
坂がようやく緩やかになってカメはほっとなった。ここまで来れば大岩はもうすぐだ。幸い後ろを振り返ってもウサギがやってくる気配はない。
大岩が見えてきてカメの顔に笑みが浮かんだ。この競走の審判をすることになったサルが大岩に腰掛け、カメに向かって手を振っている。
そしてカメは最後の力を振り絞って大岩に触れた。
勝った。勝ったんだ。カメの目から喜びの余り涙が溢れ出した。
そのとき大岩からサルがひょいと降りてきて、勝利の余韻に浸るカメに言った。
「やぁ、遅かったね、カメさん。先についたウサギさんが心配して迎えに行ったんだけど、途中で会わなかったかい?」
同時に村を出発したウサギはとっくにその姿も形も影も耳も尻尾も見えない。
何て足の速い奴なんだ、そう心の中で呟きながらカメはこんな無謀な賭けに乗ってしまった自らの無謀さを呪った。
そもそもの始まりは一週間ほど前のことだった。酒場で一人ちびちびと飲んでいたカメに酔っ払ったウサギが絡んできたのだ。
「それにしてもカメって奴は」
そこで一旦ウサギはぐっと杯をあおった。
「何てノロマな生き物なんだろうねぇ」
そう言うとポンポンとウサギはカメの甲羅を叩いた。
「もしオイラがこんなノロマに生まれてたら、きっと悲しくって死んでしまうよ。その点カメは偉いよねぇ」
同じく酒場で飲んでいたサルがウサギの悪酔いを諌めようとした。
「止めなよ、ウサギさん。カメさんにそんな失礼なことをいうもんじゃないよ」
「何だって?失礼なこと?オイラはカメさんのことを褒めてんだよ。なぁ、カメさん」
普段であればこんな酔っ払いの戯言など耳を貸さなかっただろう。だがこのときのカメはウサギに負けず劣らず酔っていた。気も大きくなっていた。そのせいで、つい売り言葉に買い言葉でこう答えてしまった。
「そんなことないよ」
サルに手を引かれ、その場を立ち去ろうとしたウサギはぼそぼそとしゃべるカメの言葉をその大きな耳でしっかりと捉えた。
「何か言ったかい、カメさん」
「そんなことないって言ったのさ」
「そんなことないってどういう意味だい」
「カメだって、その気になればウサギと同じぐらい速く走れる、ってことだよ」
カメの言葉にウサギは腹を抱えて笑い出した。
「聞いたかい、サルさん。カメはその気になればウサギと同じぐらい速く走れるんだってさ!」
一しきり笑ってから、ウサギはカメに向かってこう言った。
「じゃあ、カメさん、オイラと一つ競走をしようじゃないか。山一つ向こうの大岩までだ。どうだい?」
「ああ、いいとも」
いつにも増して困ったような顔をしたサルを尻目に、カメとウサギはこうして世にも珍妙な競走をすることになったのだった。
炎天下の山道でカメは意識が朦朧となっていた。顔は汗なのか、涙なのか、グシャグシャに濡れていて、心臓は今にも口から飛び出さんとばかりにバクバクと鼓動し、四本の脚が絡まってしまうのではないかと思うぐらい歩きは覚束なかった。
このときのカメは競走以前にすでにまともに歩ける状態ですらなかった。だが、カメには棄権出来ない理由があった。
いつの間にかこの競走にお互いの全財産を賭けることになっていたのだ。
酔いが覚めてカメは顔が青くなったが、取り決め書にあるサインは見慣れた彼自身のものだった。
地道に生きることが彼の信条であったが、同時に一度決めた約束事はどんなことがあっても決して違えぬ、というのもまた彼の信条であった。それは彼の誇りでもあった。
今彼に出来ることはどれほど苦しくても一歩一歩前に進むことしかなかった。
ようやく山の頂上にある一本杉が見え始めたときカメは気づいた。近づくにつれ、いよいよはっきりとなっていく。何と驚いたことに勝負の最中であるにも関わらず、ウサギがさも気持ちよさそうに杉の木の下で眠り込んでいたのだ。
カメは無性に腹が立って、「馬鹿野郎!!」と叫ぼうとした。
しかしそこでカメははっとなった。
これはもしかしたら、願ってもないチャンスなのではないか?
今ここでウサギを起こしてしまえば、いうまでもなくカメは自ら勝利を放棄することになる。
それよりもこのままウサギになど構わず先を急ぐべきなのではないか。それが賢明というものではないか。
そう考えて一歩踏み出そうとして、別の声が頭に響く。
ここでウサギを起こさずに先に行くのは卑怯者のすることだ。勝っても負けても正々堂々と勝負は行うべきだ。
相反する二つの声にカメはひどく混乱した。
混乱し、悩んで、考えて、そして一つの決断を下した。
カメは再び歩き出した。ウサギを起こすことなく。
勝負というものは非情である。相手を見くびって、油断をしてしまう方が悪いのだ。ウサギを起こさなくてもそれは決して卑怯ではない。
そう自分を無理やり納得させカメは先を急いだ。
このような選択をしてしまった以上、いよいよ負けるわけにはいかない。死んでも勝たなければならない。
カメは一歩一歩確実に進んでいった。歩みが鈍い分休むわけにはいかない。地面がぐらぐらと揺れ、今にも気を失いそうになる。しっかりしろ。気を失うなら大岩についてからだ。頑張れ。今は死ぬ気で頑張れ。
坂がようやく緩やかになってカメはほっとなった。ここまで来れば大岩はもうすぐだ。幸い後ろを振り返ってもウサギがやってくる気配はない。
大岩が見えてきてカメの顔に笑みが浮かんだ。この競走の審判をすることになったサルが大岩に腰掛け、カメに向かって手を振っている。
そしてカメは最後の力を振り絞って大岩に触れた。
勝った。勝ったんだ。カメの目から喜びの余り涙が溢れ出した。
そのとき大岩からサルがひょいと降りてきて、勝利の余韻に浸るカメに言った。
「やぁ、遅かったね、カメさん。先についたウサギさんが心配して迎えに行ったんだけど、途中で会わなかったかい?」
このお話は言うまでもなく昔話の『ウサギとカメ』を題材にしています。
元となった昔話は皆さんもご存知ですよね。
ウサギとカメが競走をすることになり、絶対的に優位であったウサギが勝負の途中で昼寝をしてしまったためにカメに負けた、というのが筋書きです。
そこから教訓が得られるとすれば「勝負の最中には決して油断はしてはいけない」というようなものだと思います。
しかし、自分は昔から疑問だったんですよね。
たまたまウサギが油断したからカメは勝負に勝ったけれど、カメが絶対的に不利だったのは間違いないんですよね。
ではなぜカメはそのような不利な勝負を受けることになったのか。
また、昼寝をしていたウサギを起こさなかったカメの行為はスポーツマンシップに則ったものといえるのか。
この二つの疑問に応えるという意味でショートショート『ウサギとカメ、そしてサル』は書きました。
このショートショートが面白かったという方はこちらもお読み下さい。
http://www.h5.dion.ne.jp/~yaneura/sin1.htm
タイトルは『シンデレラは眠れない』、こちらもまたお伽噺である『シンデレラ』を題材にした、『シンデレラ』で自分が感じた疑問に応える意味で書いたお話です。
ショートショートは
いくつか読んだ気もしますが
解釈の仕方が絶妙で面白いです。
サルのキャラクタがまざったことで
もう少しふくらみを持たせることができれば
さらにいいかも?
思いつきませんが・・・
カメさんの勘違いの葛藤、シンデレラの幸せへの思い違いは共通してるように思えます。
今私が置かれてる状況って他人が見れば「あらま不幸な」と思うかも知れませんが、実は「幸せすぎるから」こんな風になるのかなぁと思うことがあります。
これでもか、これでもか!って色んなことがあるけど、でもずっと幸せを感じてます。
私が幸せを感じなければ他人が思うような「あらま幸せね~」って状態に追い込まれるのかも知れないですね(笑)
>かおすさん
>解釈の仕方が絶妙で面白いです。
そういってもらえるとアップした甲斐がありました。
サルのキャラクター、、、あんまり深くは考えてないんですけど、とりあえず、競走の審判を任せられる以上は信用できる性格なのかなぁと思います。
>マリーコさん
どちらも読んでもらえたんですね。感謝感謝。
シンデレラの方はちょっとダークすぎたかもしれませんね。
>これでもか、これでもか!って色んなことがあるけど、でもずっと幸せを感じてます。
そうですねぇ、マリーコさんの置かれている状況って客観的に見たら「不幸」なのかもしれませんが、当のマリーコさんがそう感じていないのであれば他人がとやかくいうことではないですよね。
なんてことをいい年をして結婚をしていない、それどころか彼女すらいない、さらに友人も一人もいないという客観的に考えて「不幸」な自分がいうのもなんですが。汗。
なんかずるがしこく信用できないイメージなので
裏がありそうな気がして・・・
もともとの話も審判ってサルでしたっけ??
どうも狐のようですね。
狐の方がしっくりきませんか?
この話だったら。
童話やイソップ物語は色々な解釈ができると思います。でもせぷさんの発想、面白くて大好きです。
『シンデレラは眠れない』も読ませていただきました。私はバッドエンドも結構好きなのでどちらのお話も良かったです。
しかしカメは人間味(?)があっていいですよね。
意地を張って勝負をしようとするのも、いつのまにか全財産を賭けてしまうことも…。
途中まで読んでいて、「あれ、これ私の知ってる昔話とあまり変わらない?」と思ったのですが、最後のどんでん返しがありましたね。最後のどんでん返しがすごく好きなので、嬉しかったです!
>かおすさん
えぇっ、元々のお話にも審判役がいたのですか!?
今の今までまーったく知りませんでしたよ。
その審判役が狐なんですか?
自分が審判役にサルを選んだのに特別な意図はないのですが、サルと狐、どちらかというと狡賢いイメージがあるのは狐のような気がします。
でも、そういったふうにいろいろ考察してみるのも面白いですよね!
>rinさん
喜んでもらえたようで何よりです。
ショートショートの新作書下ろしをrinさんにプレゼントするという約束を反故にするつもりはないのですが、一向に何もアイディアが思い浮かばないので、過去作でしばし我慢してください。
>意地を張って勝負をしようとするのも、いつのまにか全財産を賭けてしまうことも…。
そこらへんは自分の性格が反映されているのかもしれません。
ろくに実力もないくせに妙に負けず嫌いなところとか。笑。
>途中まで読んでいて、「あれ、これ私の知ってる昔話とあまり変わらない?」と思ったのですが、最後のどんでん返しがありましたね。
えぇ、こういった昔話のパロディは改変がなるべく少ない方がいいと思っています。
最小の改変で、最大の効果を、といったところでしょうか。
ps.コメントをいただけるのはものすごく嬉しいんですけど、あんまり夜遅くまでパソコンをしていちゃダメですよ?翌日の授業に響きませんか?
高校生の頃、あまりの豪快な居眠りぶりから「睡眠学習の鬼」と呼ばれた自分からの忠言です。笑。
いや、別に「願望」を抱くことが無意味って言ってるわけじゃなくて、あくまで自身の立場に見合ったスタンスで頑張ればいいじゃん、ってこと。
シンデレラも迫害がツライなら何としてでも自立して頑張るくらいの根性があっても良かったんじゃない?と思うし、ハナから勝てないことがわかっていて挑んだカメも、「プライドを賭けて」までは共感できたものの、財産まで賭けるのは愚か。それは勇気とは言えないですよ、負けてトーゼン。逆にここで勝ってしまったら世の中なんか間違ってると思うし。
・・・って、なにホンキ語りしてるんだ?自分。(^^;
そうですそうです、さすがは小夏さん、読解力が並みでないですね。
シンデレラでいえば、義母たちにいじめられるのが耐えられないのであれば家を抜け出して一人で生きていけばいいのだし、カメはそもそもこんな無謀な勝負は受けるべきではないのです。
カメとウサギの勝負に財産を賭けるようにしたのは、純粋にプライドだけの勝負であればカメはウサギを起こしたに違いないと思うからです。
これからもホンキ語りの感想をよろしくお願いしますね♪