「ふるさとの話」 平成29年7月号

2019年11月30日 | ふるさとあれこれ
日がまだ明けやらぬ朝6時のころ、まわりは真っ暗、頬が痛いほどの冷気の道を歩きます。

東の稜線は真っ赤です。どす黒いほどに真っ赤です。

そのうちゆっくりと東の峰々に明りが広がり、暗闇をサア~と消して朝の清々しい平野を
見せてくれます。

日高中央浄化センターの一角は、濛々と真っ白な蒸気が立っています。まるで、草津温泉
の濛々なる湯気を見るようです。

歩を西に向け帰り道、西の山が真っ白になっていることに気付きます。妙見山、蘇武岳の
頂上三分の一くらいを境に、白い峰々がきれいです。

朝日に照らされた、初雪のふるさとの山は清々しくてきれいです。




ふるさとの話㉚7月号

クイズを持ってご来店のUさんが「田中河内介と縁がある、井東医院の赤ひげ先生知っ
てる」とお話しです。
今月は日高町八代の井東医院のこと、井東勇医師の素晴らしいお話です。
ヒントも隠れています。

赤ひげ先生・井東勇医師
八代川が流れる村の畑で「わあー、じいちゃんがマムシに噛まれた~」、「お~い、井
東先生を呼んできて~」と大騒ぎです。
村のお医者さん井東勇先生はすぐに駆けつけテキパキと治療です。

愛馬に乗ってカサノフタ峠を越え、奈佐村へ往診です。
坂道では重たかろうと愛馬から下りて、優しく人参を食べさせ先生は歩きます。馬にも
人にも優しい井東先生です。
 
「ありがとうございました」と手を合わすおばあちゃんに「薬代はいつでもよろしいで
すよ」と受け取りません。
診察に来た患者さんにも「診断料は100円です」とまるでタダのような金額、そんな
安い料金も請求することもなく、持って行けば受け取り、払えない人はそのままとなり
ます。

「先生ありがとうございました」と手を合わせながら、採れた野菜やお米になることも
あります。
「あれっ、薬袋にアメが入ってる」「お使いの駄賃だよ。なめると風邪をひかんよ」、
奥さんのやさしいまなざしと、村人の明るい声が響きます。

村人たちから「神さまのような先生だ」と、心から親しまれた八代の井東医院の日常で
す。

村人へのご恩返し 
神様のような先生は、ずっと昔にご恩になった温かい村の人たちを思い出し、そのご恩に
報いようと、村のお医者さんとして一生懸命つとめました。

お父さんが亡くなった時、残された井東少年は17歳でした。もともと村の医院とはいえ
貧しかった井東家です。
村人は「医学の勉強をして来て下さい。そして村に帰って医院を継いで下さい」と、乏し
い財布の中から学資を出し合い勇少年を送り出したのです。 

金沢の医学専門校で勉強を続け、八代村の人たちのご恩に報いるため、お医者になってふ
るさとに帰ってきました。
「先生お帰りなさい。お待ちしていました。お帰りいなさい」と、村人の喜びはひとしお
でした。
かの有名な日高町史にも偉人として記されている、井東医院の井東勇医師のお話です。

井東医院の歴史
約200年前、初代井東元龍氏が文化年間(1810)京都から八代に移住して医院を開
業します。
天保年間(1840)に香住村の医師小森家から養子を迎えています。二代目井東元龍証
翁と言います。

明治天皇を五歳まで養育した田中河内介綏猷(やすみち)の弟なのです。
井東勇医師の祖父にあたります。 

その子逸太郎が一四歳の時、明治四年父元龍証翁が亡くなっています。
その時も村民がこぞって学資を援助し、逸太郎に医学の修業をさせています。

逸太郎は明治八年八代村で三代目井東医院を開業します。
井東勇の父にあたります。 父逸太郎は五二歳の若さで、一七歳の勇を残して亡くなりま
す。

一七歳の勇少年は村人からの篤い篤い援助を受けて、医学の学び舎へ進みます。
大正五年金沢医学専門学校(金沢医大)を卒業し、大正七年に八代、奈佐両村民に乞われて
帰村、「井東仙境医院」を八代村に開業します。

医は仁術なり
井東勇医師は、「医は仁術なり」をそのままに実践する村のお医者さま、大正、昭和の「赤
ひげ先生」として生涯を村の医療活動にあたられました。

少年の頃、父逸太郎からよく聞いた田中河内介のこと、国のため人のために尽くした勤皇の
志士河内介のことを誇りにしていました。
その影響でしょうか、長男を綏猷(やすみち)と名付け、地域の医療活動の中にも、人のた
め国のためにに尽くす献身の一生だったのです。
 
収入は少なく、経済的には苦しい医院経営で家族の協力が欠かせません。
体力が衰えた老年には、医院の入口に「私を困らせないで下さい」と貼り紙、それでも来る
人を拒まず診療に当たられたと言われます。

村人に慕われ慕われ続けた85年の生涯、昭和五十一年に亡くなられると同時に、井東医院
は160余年の歴史を閉じます。

喫茶カフェ「赤ひげか行庵」 
国からは勲五等双光旭日章が授けられ、村人からは頌徳碑(しょうとくひ 徳を褒めたたえ
て感謝すること)が建立され残されています。

閉院になってから40年経った井東医院の跡地には、「赤ひげか行庵」と名付けて地域の誰
もが憩い集う「喫茶カフェ」が出来ています。
井東勇先生の残した多くの遺品とこころざしに囲まれて、あたたかい村の交流の場がにぎわ
っています。

(か行庵の資料を参考に書きました)



「ふるさとの話」 平成29年6月号

2019年11月29日 | ふるさとあれこれ
寒くなりました。
昨日も今日もエアコン工事です。暑さ寒さを、こうも感じるエアコン工事です。

本当に寒くなりました。

昨日は午後です。
工事が完了してさあ試運転のころです。晴れ渡った午後の空に、昼間の温かさが吸い込まれ
ていくようです。放射冷却というやつでしょうか、午後も4時を過ぎるころに急に気温が下
がります。

真冬じゃないかというほどに、寒さが身に沁みますね。

今日は午前です。
11時、日差しが細間に差し込みます。天気は快晴ヒンヤリ陽気です。
「さあ、工事完了したよ。ガス漏れ検査をするから暖房試運転してよ」と合図です。

暖房運転したとたん、「うひゃ~。室外機からの排気風がムチャククチャ寒いがな~。細間
に寒い風がグルグル回って、立っておれないくらいに寒いがな」と息子が叫びます。

室外機の前は十分間隔ありますが、細間の物置に置いたエアコン室外機からの排気風が寒過
ぎます。
暖房しっかり運転ですから、外に吐き出す風は猛烈に寒いのです。

あれだけ暑かって苦しんだ夏のエアコン工事からたった3か月ほど、
今度は、寒過ぎて敵わぬ暖房運転の排気風に震えます。




ふるさとの話㉙6月号

豊岡市香住に「勤皇の志士田中河内介公生誕之地」の標識です。
明治天皇が最も慕われた男と言われる田中河内介のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

悲しみの明治天皇
王政復古なった明治2年のことです。
明治天皇は薩摩・長州の「維新の元勲」たちを集めて宴を開いていました。
明治天皇18歳の時、宴には三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ほ
か、明治維新の立役者がずらりと並びます。

控えには岡藩の小河一敏(おごうかずとし)もいました。
明治天皇は一同に問いかけます。
「寺田屋騒動から早8年になるな。それにしても田中河内介の消息は一つも聞かぬ、彼
はどうなったか誰か知らぬか」と問われます。

その場に居並ぶ重臣たちは、誰一人として答えられず頭を下げて静まりかえります。
不機嫌になった天皇は、
「我を育ててくれた河内介はどこで生きているのか、元気にしているのか」と重ねて問
い詰めます。
 
同志として河内介の最期を知っている小河一敏が進み出て「ここにおられる薩摩の大久
保(利通)様らが指図して、河内介親子一行を薩摩に護送しました。
親子は船中で薩摩の者に刺殺され、非業の死を遂げたと聞き存じています」と答えたの
です。

座は白け、キーンと凍りついたその場で大久保利通や西郷隆盛らは、赤面して顔を上げ
ることもできません。
天皇は悲しみをこらえながら退出したと言われています。
 
明治天皇が「河内介爺(じい)」と呼んで、最も親しく慕っていた田中河内介の死を知
った時の話です。

勤皇の志士・河内介誕生
明治維新まで53年の頃です。
文化12年(1815)出石郡香住村の医師小森家に、二男・賢二郎として生まれています。
秀才だった賢二郎は医者にはならず、出石藩で儒学、武芸に励みます。
 
20歳で京に出て私塾・小森塾を開きます。
25歳のとき、公家中山忠能(ただやす)に仕えることになります。中山家の家臣・田中近
江介の娘と結婚して、田中姓と河内介を名乗るようになります。
 
嘉永5年(1852)に、中山忠能の娘・中山慶子が孝明天皇の子・祐宮を生みます。後の明
治天皇です。
中山家に特別に作った御産殿で、祐宮を養育する大役を任されます。
 
当時は天皇家と言えども、生まれてくる子供が無事に大きくなることはとても大変なこと
でした。宮中にお帰りになるまでの5年間、中山邸で「河内介じい」と慕われて育てます。

祐宮(明治天皇)にとって河内介は心にしっかり刻んだ、育ての親だったのです。
田中河内介はその後、尊王倒幕の実践に突き進んでいきます。バリバリの勤皇の志士とな
ります。

播磨灘に死す
文久2年(1862)、明治維新まであと6年の頃のことです。
田中河内介は薩摩の同志と計らい、九条尚忠と所司代酒井忠義を討つ挙に出ます。伏見寺田
屋の変と言われる騒動です。
 
薩摩藩の意思不統一で計画は未遂に終わり、河内介らは投降します。
薩摩藩が身柄を引き取り、大阪から鹿児島に護送するという名目で船に乗せられてしまいま
す。
播磨灘で同乗していた息子・田中瑳摩介(18歳)共々惨殺され海に投げ捨てられてしまいま
す。

二人の遺体は小豆島・福田の浜に漂着し、村民によって篤く葬られて今に至っています。
 
薩摩藩と計った尊王攘夷の計画は、卑怯にも薩摩の寝返りと、その上惨殺という酷い仕打ち
にあって48歳の田中河内介は葬られてしまいました。
また、三方村栗山出身の甥・千葉郁太郎も別の船で護送され、九州日向沖で斬殺、近くの金
ヶ浜に漂着したと言われています。

同じく、三方村知見出身の河内介の隠れ後継者とも言われる谷垣平一郎は、難を逃れて但馬
に帰り、その後は中山忠能家との政治的つながりを持って、河内介の志をつないでいきまし
た。
 
明治の20年代になって、小豆島の河内介の所在が分かり、後に維新の烈士として親子は正四
位、正五位と最高の贈位を受けて、靖国神社に合祀されています。

     ながらへて かわらぬ月を 見るよりも
            死してはらわん世々のうき雲 辞世の句

(出石明治館や、その他資料を参考に)



「ふるさとの話」 平成29年5月号(後編)

2019年11月28日 | ふるさとあれこれ
ほんの時々ある話です。いや、滅多にないけどほんの時々ある話です。
電話で、「電気屋さんは修理頼めますか」、『はい、どのようなことでしょうか?』。

「洗濯機が傷んだんですが、なんぼくらいで直してもらえるでしょうか」、『えっ、
え~。いくら位かかるかと言われても、傷んだ洗濯機見なけりゃ直るかどうか、どれ
位かかるか判断できませんが』。

エアコンの工事に出かけようかという時に、尋ねるばかりの電話です。

「来てもらって、修理代高くつくからもういいと言った時にも、お金がいるんですか」、
『遠方に訪ねるにも時間を割かねばなりません。悪いところを見つけるためには点検
する技術が必要です。なので、直さなかった場合でも出張料と点検料はお願いしていま
す』。

電話のかかりから「お金が要りますか?、いりますか」を問うばかりです。

『あの、どんな具合に調子が悪いのかも、お急ぎなのかも聞いていませんし。お買いに
なられたところにお尋ねになってはいかがでしょうか』、
「いえ、大型量販店で買ったのです。引っ越してきました。ブログでアトムさんを見つ
けました。急ぎません」。

『当店、売り出し後の忙しさで、訪問させてもらうの2日後の30日になりますがいかが
でしょうか。それに、出張料とか点検料のいることご了解できますでしょうか』、

「見てもらうだけでいいです。買うのは他で買います。やっぱり出張料がいりますか。
点検料いりますか。2日先ですか」と未練たっぷりお金要るかと問いますね。

『申し訳ありません。お急ぎのようですから、ほかのお店を当たってもらえませんか。
ほんと、エアコン工事に行かなければなりません。申し訳ありません』、『お買いにな
られた大型量販店の豊岡の方に聞いてもらえませんか』と謝りますね。

時間がありません。雨があがっている間に、エアコン工事を急がなければなりません。




ふるさとの話㉘5月号(後編)

今から百年ほど昔のふるさとの話です。
今回は前編の続きで、藤本俊郎村長と幻に消えた西気鉄道のその後の運命です。
そして江原出石間を走った出石軽便鉄道の話(後編)です。
クイズのヒントも隠れています。

西気鉄道と村長の運命

日高小学校での起工式に先立つこと半年前の、大正8年(1919)6月には、請願し
ていた出石軽便鉄道の免許が国から下ります。
西気鉄道の工事がスタートしたことと併せて、発起人代表だった藤本俊郎村長の得意は、
想像に余りがあるものでした。
 
しかし、丹後山田と出石、豊岡を結ぶ山豊線計画を流産させたことで、猛烈に陳情して
いた神美村の平尾令太郎らの勢力と、大きな敵対関係になります。
その確執は、後々の腹背を敵に囲まれる四面楚歌の元となるのでした。
 
西気鉄道の敷設工事は着々と進んで行くように見えましたが、伊府を過ぎ野村あたりま
で来ますと、墓地の移転交渉が進まず工事が中断します。
庄境、頃垣へと続くあたりは、用地の買収や軌道や並行しての電柱の工事も少しずつ進
んでいましたが、少なからず暗雲も立ち込めてまいります。
 
当時の景気の後退と、政局の影響です。
ローカル線の採算の難しさに輪をかけ、大口出資予定の鈴木商店の倒産、相次ぐ敵対勢
力からの株主辞退や離反する者が続出します。
工事が進捗せず、再三の竣工延期申請を出す羽目となります。
 
大正15年、とうとう西気鉄道を夢見た但馬軽便鉄道株式会社は倒産し、藤本俊郎は破
産してしまいます。
地域住民の希望を大きくふくらませた西気鉄道の軌道には、一度の汽笛の声も聞くこと
なく夢は空しく消えたのです。

県議を任期半ばで辞任して、家も私財もすべて失った藤本俊郎は、西気鉄道倒産の大正
15年、ふるさとを去った東京の地で悲しくも七十才の生涯を閉じています。

出石軽便鉄道の完成 
西気鉄道の起工式に遅れること半年、大正9年6月、出石軽便鉄道の建設が始まります。
出石は室埴村弘原から、小坂村、中筋村の山裾を走って、国府村上郷に至ります。

円山川に橋を架け、日高村鶴岡から江原駅に至る11km余りの鉄路です。
資金難で工事中断や、菅谷川や円山川の橋梁工事もなかなかの難工事、それでも九年の
歳月をかけて昭和4年(1929)に出石軽便鉄道は完成しました。
 
7月の開通式は、出石城稲荷台で盛大に行われました。
町中が万国旗で飾られ、大名行列、花火打ち上げ、祝賀飛行で賑わう中を第一号の始発
列車が弘原の出石駅から華やかに発車します。

明治の頃より、鉄道の通らない町として取り残された無念さを、一気に払拭する待望の
鉄道がついたのです。地元の人たちからは「軽便(けいべん)」の愛称で呼ばれていま
した。
しかし、出石軽便鉄道も前途は苦難の道のりでした。

苦難十五年の軽便鉄道
最初に使用された汽車は、船舶用の35人乗りの気道車で、故障が多く貨車が引けない。
次に代えた中古の蒸気機関車は、欠陥で使えない。三度目は中古のガソリンカーで、何
と時速20kmで馬力が小さく、雪の狭間峠では「若い者は下りて押してくれ」という
ありさまでした。二
  
年でガソリンカーをやめて蒸気機関車にして頑張ります。
ところが利用者です。乗客は初午の日以外はとても少なく、平均5~6名くらいにすぎ
ず会社の営業内容は火の車だったのです。
あの手この手で沿線住民へ利用を促すも、ずっと赤字続きのこの鉄道は「シャッキン・
シャッキン(借金)」と音(ね)あげて走っているとまで言われていました。

更に、昭和9年(1934)の室戸台風で鶴岡鉄橋が流されます。
復旧工事の資金の都合がつかないため、青年団や消防団の奉仕人夫で復旧させたという、
涙ぐましい努力で鉄道を守り続けます。
 
しかし、昭和17年にまたも水害で橋が流されそのままに、昭和18年(1943)、
戦争のためレールをはがして供出させられることになり、とうとう昭和19年1月、出
石軽便鉄道は営業停止になってしまいます。

哀れレールは積み出しの港で終戦を迎え、出石軽便鉄道のさびしい十五年間を象徴して
いるようでした。

(日高、出石町史など参考に書きました)   
                    

「ふるさとの話」 平成29年5月号(前編)

2019年11月27日 | ふるさとあれこれ
ラジオで聞きました。
「小説の最高傑作はやっぱり短編だね。無駄をそぎ落とし、そぎ落とした名文で成る作品
は短編小説だね」と話が続いていました。

日本には和歌、短歌、俳句なんて超々短文の名作があります。
すべての無駄をそぎ落として表現するからこそ名文が生まれるのです。

「小説の神様」と呼ばれた文豪・志賀直哉の作品は、長編小説といわれるものは「暗夜行路」
のみ、ものすごい数の作品は短編ばかりです。

城崎温泉・三木屋で書き上げた「城崎にて」だって本当に短編です。

素人の書くブログでも思います。
だらだらとした長い文章でなく、短く短く無駄をそぎ落とし、言葉に磨きをかけたようなも
のは書けないものだろうかといつも思います。

無理ですね。素人ほど余計な言葉を書き過ぎますね。




ふるさとの話㉗5月号(前編)

今から百年ほど昔のふるさとの話です。
旧日高村長だった藤本俊郎を知っていますか。日高を横断する西気鉄道計画があったこと
を知っていますか。
今月は、夢を追いかけた一代の風雲児・藤本俊郎と、幻に消えた西気鉄道の話(前編)で
す。
クイズのヒントも隠れています。

但馬の十字路・日高
今年3月25日、北近畿豊岡自動車道が日高町まで開通しました。地元の住民にとってはとて
もうれしい喜びの日です。
春の晴天の下、日高神鍋高原インターチェンジには、にぎやかに開通を祝う人の波が続きま
した。
 
道路でも鉄道でも同じです。町に新しい道路が完成したり、鉄道路線が計画されたりして町
の交通事情が一変するようになると、その喜びひとしおです。

西気鉄道の起工式
今から98年前のことです。
大正8年(1919)11月、城崎郡日高村で鉄道敷設工事の起工式がありました。但馬軽便鉄道
(西気鉄道)の起工式なのです。
 
「第一期工事の起工式は、日高小学校々庭で盛大に挙行されたが、各種の催し物で賑わい、
町中が喜びに沸き返り、日高村はじまって以来の盛況であったという」、
「藤本俊郎村長の壮大な夢・・・日高町史に残る一代の風雲児に鶴岡出身の藤本俊郎がある。
彼の構想は雄大で大風呂敷であったが、全財産を擲(なげう)って当たれば必ず成功すると
いう信念で数々の事業に挑戦した」((日高町史より)
 
彼の特筆する事業が、丹後山田(野田川)から出石、日高を経て鳥取(若桜)に抜ける、但
馬の東西を横断する幹線鉄道の建設、西気鉄道計画だったのです。

日高村長・藤本俊郎 
藤本俊郎は明治4年(1871)日高村鶴岡の大地主の家に生まれています。
風姿堂々として、その頭の中には強烈な事業欲と満々たる自信に満ちた、壮大な夢を持ち合
わせる性格でした。

大正元年(1912)41歳の若さで第13代日高村長に就任し、大正11年までの10年間日高村長
として活躍しました。
政治的手腕は高く、阿瀬川発電創設、道路網の整備、中但病院新設、但馬新報社、鶴岡橋、
林業試験場、蚕業試験場、放牧場、日高燐寸、日高劇場と、数々のアイデアと実行力でこと
を進めていきました。
 
最大の懸案が、今も同じ但馬の十字路を自認する日高のリーダーとして、但馬を東から西に
横断する幹線鉄道(西気鉄道)の建設だったのです。

但馬軽便鉄道 
明治時代、大阪、舞鶴、鳥取、島根を結ぶ鉄道の路線誘致合戦は激烈なものでした。
明治42年に山陰線が豊岡まで開通し江原駅が完成します。福知山を経由する現在のルートで
す。

舞鶴、山田(野田川)、出石、日高、若桜ルートは計画から退けられます。
藤本はそれでも出石、日高の路線に執念を燃やしました。
 
三方村庄境に耐火煉瓦用の鉱石を産出する、品川白煉瓦株式会社の鉱山がありました。
大商社である神戸の鈴木商店(現在の双日)が鉱石搬出のための鉄道敷設を計画していました
が、米騒動で焼き討ちにあった鈴木商店は計画を断念、大正8年に鉄道建設権を但馬軽便鉄道
を設立していた藤本俊郎に譲渡しているのです。           

第一期工事始まる
大正8年、日高小学校での盛大な起工式の後、いよいよ西気鉄道の工事が始まります。
江原駅西側のプラットホームを起点駅にして、線路敷の工事が進みます。
 
稲葉川沿いに久斗の弁天池をまたぎ、久田谷から伊府の通称庵山まで田圃を一直線に、野村、
庄境、十戸、頃垣までが一期工事です。
着々と進む工事は、誰の目にも西気鉄道の明るい前途が洋々と横たわっているように映ってい
ました。
  
さらに山宮、栃本、太田を経て、トンネルを抜いて射添村(村岡)へ、トンネルが不可能な時は
万劫から山を越す路線です。氷ノ山を越すという鳥取までの道のりは壮大なものでした。
そんな夢のような西気鉄道の建設が始まりました。

西気鉄道と藤本村長の運命
西気鉄道計画は無事に完成するでしょうか。藤本村長のその後はどうなったのでしょうか。
この続きは、次号後編(感謝祭直前の5月中旬お届け)にて、出石軽便鉄道の話と一緒に書いて
みます。

(日高町史などを参考に書きました)
                                                           




「ふるさとの話」 平成29年4月号

2019年11月26日 | ふるさとあれこれ
「いちねんせいなのに、よくがんばってるね(^_^)」と書いたプリントを、ケンち
ゃんは見せます。
「あと5角形、6角形・・・2まい色がみをかさねて、電気にかざして考えよう(^_^)」
と書いてありました。

ケンちゃんが見せるプリントは、校長先生からの算数の問題・図形の宿題なのです。

Q.2枚の折り紙を重ねて、重なった部分で図形を作ります。下の7つの図形は作る
ことできるかな?。作れたら答えを図形で書いてみよう。と質問です。

二つの正方形をずらして重ね、重なった形が小さい正方形です。答えは正方形と、回
答例が載っています。そしてあと6つの重なる重ね方を問うているのです。

1.長方形、2.直角二等辺三角形、3.五角形、4.六角形、5.七角形、
6.八角形です。

ふ~ん、小学1年生の問題に直角二等辺三角形ですか、大人がやってもスッと一発で
はできません。難しいです。
府中小学校の校長先生は、なかなか粋なプリントを渡すものです。

ケンちゃんに聞くと「いや、したい人だけしたらいいんだよと言って、校長室の前で
先生からもらった」と言います。
ケンちゃんは、何回も紙に書いてやっていました。

金曜日に提出した、長方形と直角二等辺三角形と八角形の答えに、校長先生は二重丸
書いて「すごい(^_^)あと3つ!!うらでいいよ!!」と書いてあります。

月曜日に提出した七角形に四重丸して「よし(^_^)あと5角形、6角形 いちねんせ
いなのに、よくがんばってるね(^_^)」です。

今晩です。
ケンちゃんは、光に色紙をかざしながら考えていました。「できたできた。できたで
~」と叫びます。そして、鉛筆で五角形と六角形に重ねた図形の答えを書いています。

「明日は校長先生に見せるんだ」と言いながら、何かコメントも書いています。
五角形の答えに、
「じぶんでかんがえました。四かっけいから、ひゅいとうごかしたらできました」と
書いています。

ケンちゃんのじいちゃんでもなかなか難しい五角形、六角形をついに完成して絵に描い
ていましたね。
感心感心ケンちゃんはなかなかやるもんです。校長先生も嬉しかろうね~。




ふるさとの話㉖四月号

先月号の但馬弁の答えです。
何百何千もある懐かしいふるさとの方言、但馬弁のほんの一部です。
今月は、ちょっと楽しく昔懐かしい但馬弁の一言です。
クイズのヒントも隠れています。

弁当忘れても・・・
うらにし(晩秋のころ北西の風)
うらにしの季節だな~あ。傘忘れるなよ。
ええもん(お菓子)
かあちゃん、なんぞええもん買ってえ~。
にどいも(じゃがいも)
にどいもや、でゃぁーこん収穫したで。
とっちんば(いなご)
あぜ道でとっちんばをようけ捕まえた。
ばんがた(夕方)
ばんがたになってさむ((寒)~なってきた。
ばんげ(夜)
ばんげに、よりや~(寄合)にいかんならん。
もんずき(おむつ)
川いとで、もんずき洗ってくるわな~あ。
りこもん(利口な子)
留守番しとったんか、りこもんだな。
わがめ(自分)
わがめの車、え~の買ったんだにゃ~きゃ。
おしべり(ゴザ、上敷き)
花見に、おしべり持っていけ~よ。
ばんし(見張り)
ハエがたからんや~に、ばんししといて。
ぼいやこ(鬼ごっこ)
ぼいやこせ~へんか。
みんなずれ(みんな)
同級生のみんなずれ~に会いました。
きんのう(昨日)
きんのうも今日も、雪がよう降るな~あ。
きび(トウモロコシ)
きびがようけでけた、焼いて食わ~や。

ながたん打って・・・
ながたん(包丁)
ながたん打って、嫁さん帰っちゃった。
すくも(もみ殻)
すくもで炊いたご飯はおいしいわ~。
かどっこ(角)
かどっこを曲がってめ(見)~る家だがな。
うちげ(私の家)
いっぺんうちげにもき(来)んせ~な。
こって(オスの牛)
おんなめじゃあなかったわ。こってだわ。
だんじぃ(イタドリ 植物)
鉄道の脇にようけだんじぃ生えとったで。
ふご(わらで編んだ入れ物)
ふごに入れて、冷めんようにしとか~で。
えぼ(竿や棒の先)
えぼの方を持ち上げてくれ~や。
かみげ(髪の毛)
かみげが伸びたんで、散髪行ってくるわ。
がんど(大きなノコギリ)
このがんどはよ~切れるで。
ふたかわめ(二重まぶた)
ふたかわめは、がっせ~かわいいな~。
へこきむし(カメムシ)
今年は、ようけへこきむしがおるな~あ。
あだ(地べた 床の上)
大事なもんだで、あだに置かんといてな。
あてもん(当てもの クジ)
初午のあてもん、かすしか当たれへん。

あぶにゃあ~、あは~たれ・・・
ふまいつぎ(踏み台)
用心してな、ふまいつぎあぶにゃあで~。
なつべる(片付ける)
どこになつべたんか知らんか~。
しょうはいめし(炊き込みご飯)
しょうはいめしは、うみゃあ~な~。
こどもえらぁ(子供たち)
まあじき、こどもえらぁが来るで。
あい(魚のアユ)
土居の大川であい釣りが始まったで~。
かんとだき(おでん)
今夜さぶいで、かんとだきにしょうかな。
おどろ(小枝 たきぎ)
山にようおどろを採りに行ったな~。
おとんぼ(末っ子)
七人兄弟のおとんぼが末雄って言うの。
おかいさん(おかゆ)
腹がいてゃ~から、おかいさんたのむわ。
ありこ(蟻 アリ)
庭にようけこと、ありこさんがおるで~。
あはたれ(馬鹿もの)
迷惑かけて、あはたれしとったらあかん。
いちんちはさみ(一日おき)
定年退職で、いちんちはさみに出てるの。
がっこういき(生徒 学生)
もうがっこういきになっとんさるの。
かみいさん(美容師)
かみいさんでパーマ当ててかわいげ~に。

(但馬方言辞典を参考に書きました)   
                                                        



「ふるさとの話」 平成29年3月号

2019年11月25日 | ふるさとあれこれ
答えは、 キ タ ア カ リ  しかないと解けたんだけれど、5文字のヒントの意味が、
さっぱり分からんかったわ。

売り出し号のクイズは、ほとんどの回答者が不満でした。

毎月届けるクロスワードパズル、答えの5文字にもヒントを付けています。
11月売り出し号には、「5文字のヒントは、鳥越さん、鶴巻さん自慢の・・・・・!!」
と書いていました。
これがムチャクチャ分からんかったのです。

「香住の梨にこんな銘柄あったかな?」なんて言う回答者もおられました。
「鳥越さんて、アナウンサーの自慢にキタアカリとどんな関係かな?」とか、
「問題作った大植さんは、頭おかしいんちゃうか?」というコメントもありました。

余計なヒントを付けたばかりに散々でした。

『記念品差し上げますチラシに書いてあるでしょ。知床のジャガイモ農家の鳥越さん
鶴巻さんですよ』と説明します。

ほとんどみんな、いや全員です。
「DMが届いたら真っ先にクロスワードのチラシしか見らんわな。ほかのチラシなんか
全然見れへんもん」とおっしゃいますね。

そりゃあ~仕方ありません。
買うものないお方に、買ってよのチラシなんか入ってていても、手にすることも目にす
ることもないようですね。

「このパズルが一番楽しみなんだわ~。ほかのチラシなんか見るきゃあな」とおっしゃ
るお方ばかりです。




ふるさとの話㉕三月号

最近、ネットの世界でキャラクターに「なんだいや~」とか「ばんなりましたな~あ」、
「あっきゃあへんがな」なんてしゃべらせるキャラクタースタンプが流行っています。
今月は、ちょっと楽しく昔懐かしい但馬弁のお話しです。
クイズのヒントも隠れています。

但馬弁のあいさつ言葉
「よう来んさりました」の看板を宿南の国道沿いで見かけます。
ふるさとの言葉、但馬弁のあいさつ言葉はとてもやさしい響きのものが多いのです。 

子供のころ、もう六十年くらい前、近所にテレビを見せてもらうため、「へぇ~」と挨
拶して「おっちゃんテレビ見して~な」と言ったものです。
「ようきなった。まあ、見たらええがな」とやさしく見せてもらいました。

そのころの大人が話す但馬弁のあいさつ言葉を書いてみます。
「あんな~あ」「おいでんせ~、おかえりんせ~、おしまいんせ~」「おんなるかえ、
でとんなる」「ごめんせえ、ごめんなはれ、かえら~か」、「しゃ~れへん、そうだ
ら~」「ばんげになりましたな~あ」「へえあんた」「べっちょね~、みてみんしゃあ」、
「ようきんさった」「ようすか~あえ」「あっきゃあへん、どないですぃな」「どない
なあんばいだぇ」「すんまへんな~あ」、どれも昔懐かしいあいさつ言葉です。

ひだか訛(なま)り
ここに「日高辞典」という本があります。
ふるさとの言葉「ひだか訛(なま)り」はひだか生まれの証しですと書き出して、「選
りすぐりひだか方言集」が載っています。十の「ひだか訛り」を読んでみます。

いかめえ~(どえれ~いかめえ~な~)
おしまぃんさったかえ(仕事ようけでけて、おしまぃんさったかえ~)
おっとろっしゃ(今日の大雪はなんちゅうおっとろっしゃ)
こうじゃあげ~(この子はこうじゃあげ~だなあ~)
さあ~で(さあ~での服で行か~で)
~さる(まんだ来んさらんかえ)
だんにゃあで(汚してもだんにゃあで)
じゃあに(じゃあに食べんされ)
~なった(言いなった)
はしかいい(あの人ははしかいいな~)

ひだか人二人の会話
さらに、ひだか人の昼下がり二人の男女の会話が載っています。
A子さん「おうがんさったかえ~。へぇ雨降りなりまして」、
S夫さん「うっとうしいですな~。なにしとりんさんでぇ?」、
「うんやりくんやりしとりまんだがな~。おたくさんは甘藍(カンラン)出しでしたか?
えれぇねですな~。まぁ、お金も入りますがな、楽しみですんだ」、
「朝もはようから起きて出荷しとりますんだがぁな、なんぼひゃ~るんだか、出してみん
にゃあわかりませんがぁ。これもな、じゃあに出さんにゃあ、畑やなんか荒さんやぁに、も~りしとりますんだが」、
「ほんで山宮にしても、最高年齢の甘藍つくりのおじいちゃんで、わきゃ~人そこのけの
働きができますんだがな。そうだしけぇ楽しんどります」、
「まんだまんだ元気に、まあちぃとまがんばっちゃらんにゃあな、わきゃ~もんは食って
いけれへんしけぇ」、
「くたびれださんように、ほんぜりほんぜり」、
「ええ、おおきに、おおきに」、
日高のお年寄りの二人の会話、懐かしい昔の訛りの言葉も何とか意味分かります。

但馬弁の言葉いろいろ
但馬弁の名詞もいくつかを書き出してみます。もちろん全部分かりますね。

 「うらにし」「ええもん」「にどいも」「とっちんば」「ばんがた」「ばんげ」、
 「もんづき」「りこもん」「わがめ」「ながたん」「ばんし」「ぼいやこ」、
 「みんなずれぇ」「きんのう」「きび」「おしべり」「すくも」「かどっこ」、
 「うちげ」「こって」「だんじぃ」「ふご」「えぼ」「かみげ」「がんど」、
 「ふたかわめ」「へこきむし」「あだ」「あてもん」「ふまいつぎ」「なつべる」、
 「しょうはいめし」「こどもえらぁ」「あい」「かんとだき」「おどろ」、
 「おとんぼ」「おかいさん」「ありこ」「あはたれ」「いちんちはさみ」、
 「がっこういき」「かみいさん」です。

意味分かりますか。答えは来月号にて。

(日高辞典を参考に書きました)  
                                                         





「ふるさとの話」 平成29年2月号

2019年11月24日 | ふるさとあれこれ
ケンちゃんは駄菓子屋さんを任されて「どれでも10円ですよ。おまけも付けます。3個
買ったら1個おまけつけます。買ってください。1個10円の駄菓子屋さんです」と、声
をからして張り切っています。

ケンちゃんの仕事は駄菓子屋さんだけではありません。合間を縫って、ラグビーボール
のゲームも忙しいです。
さらに、アトムの三角クジも担当していて「特等の特選和牛当たりましたよ~」と、
お客様とのツーショットにも写らねばなりません。

一日中、クルクル・クルクル店の中を歩き回って大忙しです。

お客さまのKさんは、
「三代目のケンちゃん、よ~くお手伝いできるね。アトム電器は三代目がおって安心だ
ね。この先何十年と安心だわ。羨ましいね~」とベタ褒めなのです。

そこにアトム本部から届きます。
アトム設立30周年の、心ばかりの記念品のカタログです。
アトム加盟店全店に、感謝の気持ちの記念品を届けますの案内です。

アトムの沿革に、1989年(平成元年)にアトム設立と出ています。
当店は、1990年(平成2年)に現在の店舗に移転オープンしました。

オープンセールで、お客さまから「この店には男の子が二人、二人ともよ~くお手伝いで
きるね。二代目がおって安心だね。この先何十年と安心だわ」と褒められました。

二人の男の子のうちの一人が、小学2年生です。ケンちゃんと同じ年頃だったのです。
小学2年の男の子はケンちゃんのお父さん、今の店の代表なのです。

アトム本部も30年、50年とずっと先まで元気に発展でしょう。
当店も、30年先にはケンちゃんが店の代表になって、ケンちゃんの子が男の子で、ケン
ちゃんそっくりに、売り出しの日には「はい、駄菓子10円買ってください。おまけしと
きますよ」と頑張っているでしょうね。30年先の夢の話です。

もちろん、私じいちゃんは100歳とっくに超えて、あの世の世界から下界の街の電気屋
眺めて、ニコッと笑っているでしょう。





ふるさとの話㉔二月号

元旦に出石神社へ初詣に行きました。おおぜいの参拝者です。
石の鳥居をくぐり両側が灯ろうの参道に並んで進みます。まわりの会話や神社の案内から、
出石神社の由来などを知ることが出来ました。
今月は出石神社のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

沖野忠雄先生の石碑
参拝の列はゆっくりと進みます。若い女性が連れの男性に話します。
「大きな石碑に沖野忠雄先生って書いてあるけれど誰なの?知ってる?」と尋ねます。

男性の説明が聞こえます。
「沖野忠雄先生って、豊岡出身のとっても偉い人物なの。明治のころ内務省の土木技師とし
てとても活躍したんだよ」、

「当時の日本の治水や港湾の大きな工事は、沖野忠雄が工事責任者として関わったのです。
日本の治水港湾工事の神様と言われた人です」、「特に、新淀川の改修工事や大阪築港事業
の功績は絶大なもので、今でも、大阪市民からは新淀川の父として讃えられているほど」、

「各地に碑や銅像が立ってるの。但馬開発の始祖といわれる天日槍命(あめのひぼこのみこ
と)が祀られている出石神社にふさわしい石碑なんです」と話です。

但馬国一宮 
境内を本殿に向かって進みます。大きな木の鳥居に「一宮」の額が掲げられています。
出石神社は昔から「いっきゅうさん」と親しまれてきました。

全国の神社は一の宮二の宮と格付けされました。
出石神社は但馬第一の霊社として、但馬国一宮とされています。
朝来市の粟鹿神社が但馬国二宮、養父市の養父神社が但馬国三宮と呼ばれています。

「日本紀略」によると、『出石大社には烏鵲(カササギ)が集まり、国内第一霊社の神威を
畏れて烏(からす)雀(スズメ)蚊(カ)虻(アブ)も入らない領域だった』と記されてい
ます。

木の鳥居を過ぎると朱の神門が建っています。
神門の脇にとても大きな柱の残片が置いてあります。その昔もっともっと大きくそびえてい
た、出石神社の参道入り口の旧鳥居の残片なのです。

出石神社本殿
朱の神門を過ぎると本殿です。
幾多の時代を経て建ち続ける本殿は、大正年間に再建された銅板葺の屋根の三間社流造のと
ても立派なものです。

創建した時期は不明ですが「一宮縁起」によると、祖神の天日槍命(あめのひぼこのみこと)
を谿羽道命(たにはみちのみこと)と多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)らが祀
ったのが始まりとされています。

アメノヒボコ
本殿で参拝をすませてお守りを求めに並びます。並んだ列で話が聞こえます。
「出石神社のアメノヒボコってどんな人」と聞こえます。

近くのおじさんが説明します。
「アメノヒボコは新羅の王子さんだったの。昔々、日本に渡来して各地を転々としたあと但
馬にたどり着いたようだね」、「ドロドロの沼のような入江湖だった但馬地方を、瀬戸の岩
戸ってところを切り開いて農業のできる土地に開拓したそうだよ」、

「アメノヒボコが持ってきた八つの宝は、珠2貫、比礼(ひれ)4枚(比礼とは両肩からか
ける布で、波振る比礼、波切る比礼、風振る比礼、風切る比礼の4種の布)、奥津鏡(おき
つかがみ)辺津鏡(へつかがみ)の鏡2枚の八種の宝」これを「玉津宝(たまつたから)と
言って、八種神宝(やぐさのかんだから)として祀ってあるんだよ」と聞こえてきました。

菓子の神様の田道間守
神社の説明のパンフレットに載っています。
「出石神社を創建した多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)は天日槍命のひ孫にな
ります。
アメノヒボコは但馬国の前津耳の娘の痲拕能烏(またのお)と結婚します。代々多遅麻(た
じま)姓が続き、ひ孫が多遅麻比那良岐命で玄孫(やしゃご)が多遅麻毛理です。

多遅麻毛理はあの菓子の神様の田道間守(たじまもり)です。
さらに代々続いて仲哀天皇の皇后である神功皇后へとアメノヒビコの子孫は天皇家に結ばれ
ていきました」と。

初詣の今日は、出石神社のいろいろなことがよく分かる一日でした。

(出石神社のパンフレットを参考に)  
                                                         


「ふるさとの話」 平成29年1月号

2019年11月23日 | ふるさとあれこれ
感謝祭一日目を終えて強く感銘いたします。
ご来店いただいたご家族は、70世帯に迫る多さです。

そのお客さま、誰もかれもニコニコ笑顔でご来場されます。
記念品引換券の名前を記したコメント欄には、店への激励、感謝の気持ちが綴ってありま
す。

「すぐ来ていただくアトムのお店には感謝しています。毎年こんなに賑やかで楽しい売り
出し、ありがとうございます。一人住まいの者にとって、町の電気屋さんはなくてはなら
ない大切なお店です」と、皆さん感謝の気持ちがあふれています。

アトムの社長会で、売り出しの様子を発表するアトムのお店は「アトムの大感謝祭のにぎ
わいは、どこの町でも評判になるほどです。本部への結果報告、どんな工夫して喜んでも
らえる案内状配りましたか。どんな楽しいおもてなししましたか。お客さまの喜ぶ姿こん
な様子でしたよが大事なんです。売上げ報告よりもこれが大事ですよ教えられた本部の言
う事よく分かりました」といつも聞きます。

今日の一日、朝から夕まで感謝の笑顔があふれます。
商談はぼちぼち、おもてなしばかりの一日でした。




ふるさとの話㉓一月号

先月号で蓼川井堰(たでかわいせき)を書きました。立派な改修碑が完成しました。
今月はタデの茂る氾濫原だったために蓼川(たでかわ)と呼ばれた頃、但馬の国司として
この地に赴任していた源頼光(みなもとのよりみつ)のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
 
蓼川(たでかわ)の由来
日高町土居の道路沿いに立派な石碑が建ちました。「コウノトリも憩う 蓼川堰改修碑」
です。
円山川の水をせき止めたコンクリートの段々を流れ落ちる水は、白いしぶきがとてもきれ
いです。

井堰は、対岸の上郷の広い河川敷に伸びています。
ずっと昔、このあたりは気多川(けたがわ)と呼ばれていました。うねうねと流れる川は、
たびたびの洪水で川の両岸は湿原の広がる氾濫原(はんらんげん)でした。

氾濫原の河川には、染料の原料になるタデ(蓼)がとてもたくさん自生していました。
タデを刈り取る農民が、朝早くから小舟を出して精を出しています。
上郷から府市場にかけての円山川の川原にはタデが群生し、いつのころからか「蓼川(た
でかわ)」と呼ばれていきます。

金葉和歌集(きんようわかしゅう)
「朝まだき空櫓(からろ)の音の聞こゆるは、蓼刈る舟の過ぐるなりけり」という和歌が
詠まれています。
但馬守・源頼光(みなもとのよりみつ)が、任地の上郷の館で詠んだものと言われています。

平安時代の武将源頼光は、今から千年ほど昔の長保二年(1000)とも、寛弘四年(1007)
とも言われるころ、任地に住み実務に当たる受領地(ずりょう)国司として、但馬の国・
上郷に館を構えます。

「朝まだき・・・・」と詠んだ和歌は、「金葉和歌集」に頼光と夫人「相模(さがみ)母」
の二人で詠った連歌と言われています。

「金葉和歌集」によれば、【源頼光が但馬守にてのぼりける時、館の前にけた川といふ川あ
り、かみより船のくだりけるを蔀(しとみ)あくる侍(さぶらひ)してとはせければ、蓼
(たで)と申すものをかりてまかるなりといふを聞きて口すさびにいひける。】と出てきま
す。

頼光が、「たでかる船のすぐるなりけり」と下の句を詠み、頼光の妻が、「あさまだき、
からろの音のきこゆるは」と上の句を続けた連歌なのです。

源頼光が但馬・国府の館から、朝もやにけぶる気多川を眺め、暁のしじまの中に、蓼を積ん
だ船の櫓(ろ)の音を聞いた様子が手に取るように分かります。

源満仲、源頼光親子  
源頼光は、天歴二年(948)に源満仲(みなもとのみつなか)の子として誕生しています。
父親の満仲が初めて武士団を形成し、摂津国多田(川西市多田)の地を相続します。そのた
め多田満仲(ただまんじゅう)とも呼ばれていました。

父も息子の頼光も、なかなかのやり手です。
時の権力者、関白・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)に臣従して次々と官職を得ていき、財
力も蓄えていきます。

頼光は、備前、美濃、但馬、伊予、摂津の国司を歴任して活躍したのです。
但馬守の任から離れて約十年後のことです。寛仁元年(1018)大江山の夷賊(いぞく)追放
の勅命を朝廷より賜ります。
京の都で狼藉(ろうぜき)をはたらく鬼たち、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の討伐
です。おとぎ草子で有名な、大江山の鬼退治の話です。

頼光は、坂田金時(さかたのきんとき)や渡辺綱(わたなべのつな)らを家来に、大江山の
鬼退治をしたり、土蜘蛛退治などもする勇ましい武将でした。

日高とのいろいろな縁
日高町の神鍋(太田)には、「満仲(まんじゅう)さん」と呼ばれる碑があります。
摂津多田庄の多田満仲は、但馬とは全く関係がなかったのですが、多田(ただ)と太田(た
だ)と音が相通じ、武士団の頭領としての強い満仲に憧れ、昔の人は碑を作って祀ったもの
と考えられます。

上郷の曹洞宗・頼光寺(らいこうじ)は、源頼光の館の跡に建ったと言われていますが、頼
光寺の名の由来は仏の世界の「来迎(らいごう)」からではないかとも推測されています。
そんな源頼光に縁のある日高町、蓼川の郷が現在の蓼川堰の辺りです。

(日高町史、地名大辞典などを参考に)                                                           

                 

「ふるさとの話」 平成28年12月号

2019年11月22日 | ふるさとあれこれ
大感謝祭の準備をしながら思います。

ジャガイモを差し上げます。只では差し上げません。今年は、ジャガイモ重さゲームを
楽しんでいただいて、ジャガイモと一緒に豪華賞品も持って帰っていただきます。
重さをは計ってピッタリ賞、惜しいで賞、残念賞と豪華な景品を当店自腹で付けちゃう
のです。

もう一つ、ラグビーボールでピン倒しゲーム。
コロコロ横に転がって3回投げても倒せません。これもストライク賞が付いてます。

もう一つは、アトム本部から「クイズを解いて三角くじ」で、豪華賞品もれなくもらっち
ゃおう。本当に豪華な牛肉にアイスクリームにおいしいお米が当たるのです。

もう一つは、クロスワードにも賞品バッチリ付いてます。

それから、ケンちゃんは「駄菓子屋さん」を開店して、ちびっこへ懐かしい駄菓子を「は
いどうぞ、一つ10円ですよ、10円ですよ」と売りますね。とってもにぎわい予想です。

店内では、クリスマス用の貝殻アクセサリー作りの材料用意して、奥さん方を待ちますね。

もちろん、調理器具の実演も兼ねて、飲み物食べ物の接待盛りだくさんいっぱいなのです。

それから、今年の焼き芋は久美浜から取り寄せた美味しい三銘柄、石焼き芋を目の前で作っ
て三つの食べ比べをしていただきます。テントの下でユックリと。

客さまをお迎えしておもてなしの数々は、十種を超える花盛りです。

準備をしながら思います。
アトムの売り出しって、ほとんどおもてなしばかりで日が暮れますね。

先日の社長会でほんの少し触れました。
「物、集まらざるは恥なり、集めて己のものとするも、又恥なり」のページの説明で、

『あのね、儲けさせてもらったことに感謝すればいいの。感謝感謝、感謝の気持ちを持てば
いいの。そうするとね、自然に何かお返ししようかなと言う気になるわな。したらいいのお
返しを。自分ちの出来る範囲のことで良いから、お返ししたらいいの。言葉でもよいし、感
謝のお買い上げ記念品でも良いし、笑顔だってなんだってよいの、なんだって。・・・・・』
と読み上げたことを思います。

アトムの売り出しは、ものを売り出す売り出しではなかったのです。日頃のご贔屓に感謝感
謝をする大感謝祭でした。読んで字のごとく感謝感謝の大感謝祭だったのです。




ふるさとの話㉒十二月号

日高町土居の円山川道路沿いに、立派な記念碑が建ちました。
『コウノトリも憩う 蓼川堰改修碑』です。
今月は、円山川の水しぶきがきれいな蓼川堰(たでかわいせき)と、国府平野をうるおす
蓼川水路(たでかわすいろ)の話です。
クイズのヒントも隠れています。

明治の蓼川堰
明治三年、まだ久美浜県といっていた時代です。
円山川をせき止めて右岸の耕地に水を引こうと考えられました。
上郷村と、対岸の松岡村を結ぶ「蓼川堰(たでかわいせき)」です。

重機もセメントもない明治の始めです。粘土に小石を入れ、切り石を据えていく難工事で
した。 適度な曲線を描く井堰は、水圧に耐え、ナマズ口や舟通しもある立派な堰が完成
します。

右岸の中筋村にひかれた長さ約4㎞の新川用水路は、中郷から清冷寺までの耕地を潤いま
した。

長大な蓼川水路
明治九年、左岸の国府村から八條村まで用水路を引くことが計画されます。
土居から小尾崎までの長大な「蓼川水路」です。

土居、府中新から池上、上佐野を通過し、九日市から小尾崎、大磯までが明治十一年に完
成します。
さらに明治十七年に宮島まで延長されました。
土居から出発した総延長約一〇㎞の蓼川水路は、高生(たこう)田圃をはじめ広大な農地
を潤しました。

気城新渠之碑
旧国府村役場跡地に蓼川水路完成の記念碑が建っています。
大きな石碑には気多郡と城崎郡の名を冠して「気城新渠之碑」と漢文で刻まれています。 

【氣多城崎在但馬中央地平肥有圓山・・
 此の工事たる、年を経ること九年、通過する村数は二十六、その間物議百出、事まさに
敗れんとすることしばしばにして、父老も郡長も、苦心焦思、百万説諭、漸く完成に到
る。渠の長さは一万八千間、灌漑する所は四百余町、是に於いて水田大いに開け、稲が
豊かに穣り、早ばつの憂いは二度となくなったのである。明治三十九年八月建】 

記念碑には完成の喜びが刻まれています。

昭和の大改修工事
もちろん水路は土の素掘りです。私の子供のころ、土のままの水路には水草が繁茂し、フナ
やナマズがたくさん棲んでいました。
その後、70年近くの歳月で蓼川水路も老朽します。
昭和29年にコンクリート仕上げの大改修工事がなされます。
堀地区の道路沿いに「蓼川水路改修碑」が建っています。

【蓼川水路は明治九年起工以来、遂年延長し、明治十七年土居より宮島、中陰に至る水路を
完成せるも、年月の経過に伴い荒廃甚だしく、・・・・、有志相諮り陳情の結果、昭和二
十四年四月、県営工事として幅員二・二米、深さ0・七米の水路コンクリート舗装に着手、
昭和二十九年三月、土居より一日市に至る幹線水路一万米を完成す。 昭和三十三年十月】
と改修の喜びが記されています。

平成の蓼川堰全面改修
明治3年から約140年、いくどとなく補修もされましたが傷みはひどく、平成20年に全面的
な取り換え工事です。
近畿地方随一の規模を誇る井堰が、平成26年に完成します。
道路沿いに建った蓼川堰改修記念碑には、建立趣意の言葉が刻まれています。

【江戸末期、円山右岸は、農業用水や生活用水の確保に困難を期していた。このため、引野
の赤木秀襄氏が円山川の松岡を井堰の適地と定め、中筋村先人の尽力により明治三年に井
堰が建設され、右岸へ待望の水が流された。その後、国府村、八条村の要請により、明治
十四年に左岸に分水され、以来、両岸の下流域一帯は、農業や生活に豊かな恵みを受けて
いる。この蓼川堰は、長年補修を重ねてきたが、老朽化が進み崩壊する恐れがあることか
ら、組合員の熱意と関係機関のご理解ご支援により、全面魚道を備える井堰として改修さ
れた。この度、コウノトリの郷で生き物と共生する蓼川堰が完成したことを記念して、こ
こに碑を建立する。平成二十八年十二月建立】
 
(日高町史、蓼川土地改良区の資料より) 

「ふるさとの話」 平成28年11月号

2019年11月21日 | ふるさとあれこれ
こんどの土日は大感謝祭です。
ジャガイモの準備は出来たかな。おもてなしの準備は出来たかな。直前ハガキは今日届い
たかなと思いつつ、店のまわりのノボリも立て替えますね。

その時です。
リ~~と電話が鳴ります。「売り出しに行きたいけれど、私は車乗れないの。連れのA
さんに乗せてもらおうと頼んだのよ」とTさんからです。

『ありがとう。去年と同じですね。連れのAさんと一緒においでよ』と返事をします。
「それが、Aさんは案内状が来てないから行けないわ~とおっしゃるのです。アトムさん
はAさんちには出してないの」と言われますね。

滅多にないことですが、連れの友達のお方が当店のお客さまでなかったり、長らく何年も
お取引がなくって今年は案内状を送ってないこともあります。

Tさんにご来店していただくために、
『分かりました。明日でもAさんちを訪ねてお願いしておきますから』と伝えます。

「感謝祭に送迎してもらえないかな~」と言われるよりも良いです。明日は案内状を持って、Aさんちを訪
ねて頼んでみます。




ふるさとの話㉑ 十一月号

昔の国府では、自分で自分をほめることを「手辺(てへん)座だ~」と言ったそうです。
今月のふるさとの話は、今から百年前、大正の手辺(てへん)村、現在の日高町府市場
のにぎわっていた頃の話です。
クイズのヒントも隠れています。

「匂うふるさと」
一冊の本があります。
母と同級生だった菅村駅一さんが書いた「匂うふるさと」という本です。

母に贈られた本です。
本には、菅村さんの生まれ育った大正の昔、懐かしい「手辺村」のようすです。
 
水生城を陥落させ但馬守護となった羽柴秀吉の弟、秀長が、国府の地で追鳥狩に興じてい
た時「あれは何者の居ぞ」と、自らの「手」で「辺り」を指さします。
そこから「手辺(てへん)」と名が付きました。

「国府市場(こうのいちば)」や「手辺市(てへんいち)」が開かれたこの地域は、江戸
のころ府市場、府中新はもちろん堀村までを手辺と呼んでいました。

大正のころの手辺村には商店が建ち並び、それは賑わった通りでした。
夏冬の大売り出しには、道路の両側に他町村からの露店が並び、押すな押すなの人の波、
国府の人たちは何でもそろう手辺の店を利用していました。

手辺村の商店
村の入り口から商店が並びます。
人力車の「口入れ屋」、長吉さんの散髪屋は「床長(とこちょう)」、おトミさんの「髪
結い屋」、中島の「木賃宿」、よろず屋の「田結庄商店」、松原芳造さんの魚屋「魚芳
(うおよし)」が並びます。

戸田の「下駄屋」、菅村の「生糸屋」、西田の食堂「辰巳亭」、その隣は「しっかい屋
(和服生地の洗い張り)」、大阪から来た「洋服屋」、神代印の「肥料店」、酒場「一二三屋
(ひふみや)」、間貸しの「宿舎」、小田垣の「米屋」が続きます。

酒とたばこ屋の「竹馬(たけば)商店」、荒物の「谷原商店」、江原と豊岡に自転車店を
出した「中島豆腐屋」、藤原春二郎さんの魚屋「魚春(うおはる)」、ようかん製造販売
の「伊佐屋(いざや)菓子店」と何でもそろう店々が続きます。

さらに、保田要三郎さんの散髪屋「床要(とこよう)」、村尾老夫婦の作る「しん粉屋」、
戸木の「こうもり傘の修繕屋」、なぜか風呂屋と呼んでいた「上村散髪店」、田舎では珍
しい本格的な製造菓子店の「八代(やしろ)菓子店」です。

今井さん夫婦は「米屋」と「宮大工」、永柳(えいりゅう)さんの「竹かご屋」、葛原
(くずはら)さんの「こうり編み(柳行李の入れ物)」と製造販売も盛んでした。
 
ちきり屋と呼んだ「小林種物店」、カイコの産卵は菅村の「種蚕屋」、魚屋の「明石屋」、
芸者さんがいた「花屋」、義太夫節が聞こえる「ちくぜん」、いづしごう屋が屋号の橋本の
「造り酒屋」、腕のいい甚助さんは「指し物師」、青ノリせんべいの「戸田菓子店」、
染物屋の「半七ごう屋」はいつの間にか「宮下呉服店」になっていました。
 
たばこ屋の「本国眼」は国眼家の本家、隣に府中郵便局です。
戸田いそさんの「駄菓子屋」、田結庄の装具屋は「下丹後屋」、天野の「石碑屋」、宮田
の「宮田製めん屋」、役場を退職後に開業した戸田さんの「ホシの薬屋」、春吉じいさん
の「太田垣げた屋」、魚屋だった竹森清太郎の店が「牛肉屋」になりました。

手辺村の最後は、屋号がうらまちごう屋の「中島染め物屋」です。

府中新の商店
さらに、同じ手辺と呼んでいた府中新村には、府中銀行までの街道に「時計屋」、「新聞屋」、
「肥料店」、「陶器店」、「雑貨屋」、「薬品店」、「農具屋」、「豆腐屋」、「げた屋」、
「銭湯」、「食堂」、「大工」、「しっかい屋」、「車夫」、「髪結い」、「漆師」、
「傘ちょうちん屋」、「おけ屋」が続き、堀村の村役場や登記所まで商店がありました。

大正時代の国府の中心地「手辺」の一大商店街でした。

手辺座
昔の数え歌に、「七つとせ なんでもまねする 手辺村 城下のまねして 町造り 町づく
り」という歌がありました。
三味線の音が聞こえてくる花屋もありました。「手辺座」という芝居の一座もありました。

手辺座は、但馬の村々を興行してまわり、とても人気がありました。
 
一座は大変な評判で、つい評判に乗って自分の芝居を楽屋からほめます。
それがまた思わぬ人気で観客から「手辺座、手辺座」の声です。
それ以来、自分で自分をほめることを、但馬では「手辺(てへん)座だ~」と言うように
なったそうです。

(菅村駅一さんの著作からまるまる写しで書きました) 


「ふるさとの話」 平成28年10月号

2019年11月20日 | ふるさとあれこれ
この頃、お客さまの口ぐせが気になります。
当店にものを頼んだり、仕事を依頼する時にこうおっしゃるのです。

「忙しいしとんさるのに、すみませんな~あ。この店はとてもはやって、忙しそうじゃ
ないの」、
「うちの用事いつ頼んだらえ~か、遠慮しますや~な」と言って、そろっと注文されま
すね。

良いことなのか悪いことなのか。店の評判というものは、口伝えに広がるものです。
そして、人は物を買うのは「よう繁盛して忙しそうな」ところから買いたくなるそうです。

なにも、忙しいから仕事を断ったり、行くの遅かったりしたことは一度もありません。
なのに、「この店は売れてる~、忙しそうだ~」とこんな評判広がっています。

こんな時、お客さまにはこう言いますね。

『どんな小さなご用でも、修理でも聞いたらすぐ行くでしょ。忙し過ぎるからすぐ行くこ
とにしてるんですよ』、
『ちっと後(あと)になんて言ってたら山ほど用事が溜まって、どのお客さまにも全部遅
くになっちゃうの』、

『あなたのお家はラッキーよ。忙し過ぎる店ほどすぐに来てくれるんよ』と伝えます。

それで皆さんは「この店大繁盛で忙しいだな~」と感じられたのかな。
その通りです。忙しい店ほどそうなんですよ。




ふるさとの話⑳ 10月号

町や村や、田や畑に林にも山にも、小字(こあざ)で表す地名が付いています。
みんなが住む集落(行政区)にも地名が付いています。今月は、ふるさと但馬の長~い地名、
短い地名の話です。
クイズのヒントも隠れています。


小字、大字(行政区)の名前
昔々から土地には小字(こあざ)で表す名前が付いています。
例えば日高町池上では、角良、西猪爪、東猪爪、久保田、栗田、赤ヤケ等々の名前があり
ます。

いくつかの小字をまとめて行政区があります。
ふるさと但馬の行政区は約700地区あります。小字(こあざ)で表す名は2万ヶ所以上
にもなるのです。

現在の行政区の名前です。
比較的新しい「虹の街(日高)」や「秋葉台(和田山)」などは、少ししゃれた名前です。
昭和になって、区画の整理などでできた行政区の名は、吉祥名を使うことがあり「寿町、
幸町、栄町、弥栄町(豊岡)」などがあります。

地名の字数
長~い地名、短い地名を調べてみました。
700地区の名前は「池上」とか「府市場」というふうに、漢字で2文字か3文字のところ
がほとんどです。
全体の90%は2~3文字の名前です。
 
さて、長~い地名ってどんなものでしょう。
4文字の地名は、豊岡市に小田井町、千代田町、出合市場の3ヶ所です。
朝来市には伊由市場、多々良木、矢名瀬町、弥生が丘の4ヶ所があります。

養父市、香美町、新温泉町には4文字地名はありません。
但馬全体でも7地区しかないのです。
 
5文字になりますと3ヶ所しかありません。
豊岡市の九日市上町、九日市中町、九日市下町の3地区のみなのです。

字数の多い地区名って案外少ないのです。
ただ、読み名の字数が「ここのかいちかみのちょう」と12字で読むところは、兵庫県の中
でも豊岡市の九日市の上中下の3地区くらい、ちょっと珍しいぐらいに長~い読み名の地名
なのです。

漢字一文字地名
漢字一文字の地名です。
旧豊岡市には、庄(しょう)滝(たき)辻(つじ)伏(ふし)森(もり)の5地区です。
旧日高町には、芝(しば)谷(たに)殿(との)中(なか)野(の)堀(ほり)の6地区。
旧城崎町には結(むすぶ)の1地区。旧竹野町には段(だん)轟(とどろき)椒(はじかみ)
林(はやし)の4地区。旧出石町には嶋(しま)柳(やなぎ)の2地区。旧但東町には畑
(はた)後(うしろ)の2地区です。

360地区ある豊岡市には一文字地名が19ヶ所あります。
 
さて、朝来市には、澤(さわ)柴(しば)森(もり)岡(おか)殿(との)中(なか)宮
(みや)の7地区あります。
養父市には、畑(はた)森(もり)中(なか)筏(いかだ)轟(とどろき)の5地区。
香美町には。境(さかえ)畑(はた)藤(ふじ)森(もり)鎧(よろい)境(さかい)原
(はら)宿(やど)の8地区あるのです。
最後に新温泉町には、前(まえ)湯(ゆ)境(さかい)の3地区があります。
     
読みが一番短い一文字は、日高町の「野(の)」と温泉町の「湯(ゆ)」の2ヶ所だけな
のです。

一文字地名の由来
一文字地区の名前の由来です。
「森」、「林」、「芝」と、自然の風景を表したものや、地形をあらわしたものが多いで
すね。
「うっそうとした森だった(香住区森)」、「山に木が繁茂していた(竹野町林)」、
「古くから一帯が芝生だった(日高町芝)」、「往古、当地が原野だった(日高町野)」と、
自然の風景からの名前を付けています。
 
また、「樋爪荘の中心だった(豊岡市庄)」、「気多、美含道の三叉路から(豊岡市辻)」
とか、「小沼の滝に由来(豊岡市滝)」、「堀や池があった(日高町堀)」、「緩やかな
傾斜地で石段が多かった(竹野町段)」、「入江湖の出島だった(出石町嶋)」のように、
地形から名付けたりしました。   
 
「共同作業の結(ゆい)から(城崎町結)」とか、「ヒノキを搬出した(大屋町筏)」や、
「機織が盛んだった。紙すきが盛んだった(養父市畑、香住区畑)」など、仕事・作業から
付けた名前もあります。
 
一文字地名には、それなりの名前の由来がありますね。

(地名大辞典や、日高町史などを参考に書きました) 

「ふるさとの話」 平成28年9月号

2019年11月19日 | ふるさとあれこれ
『奥さんこんにちわ~』と声をかけて訪ねます。
『奥さんね、奥さんのお名前を教えてください』と尋ねます。

『今日はね、ご主人亡くなられてから数か月の間は、そのままのお名前でお便り届けてま
したが、今度の売り出し直前ハガキの分から宛名替えたいと思います』、

『奥さんのお名前で出させてもらってもよろしいでしょうか』と、丁寧にあいさつしてお
名前を教えてもらいます。

当店の場合、
ご主人が亡くなられたからといって、早速次のお便りから宛名を、ご主人から奥さんや息
子さんの名前に替えるということいたしません。

何かご主人にご主人にと出していたお便りを、亡くなったからといって手の平返したよう
にすぐ別のお名前にするのって、とても寂しい気がいたします。

郵便配達する人には迷惑でしょうが、3か月ほどはそのままにして差し上げたいのです。

直前ハガキを出す日が迫ります。
Tさん、Yさん、Hさんちの奥さんを3軒も今日は訪ねて、

『すみませんでした。ご主人のお名前で出して失礼しました。次からは奥さんのお名前で出
させてもらって差し支えないでしょうか』と丁寧にていねいに尋ねます。




ふるさとの話⑲ 9月号

今から二千年ほど昔、垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代です。
ふるさと豊岡にある出石神社、三宅の中嶋神社、下宮の久々比(くくひ)神社は、垂仁天
皇と深い関わりがあります。
今月は垂仁天皇の時代のふるさとの話です。
クイズのヒントも隠れています。

垂仁天皇と出石神社
初代神武天皇から数えて約六百年後は、第十一代垂仁(すいにん)天皇の時代です。
垂仁天皇は在位期間が99年、年齢が138歳(日本書紀)と伝えられる不思議な存在、、まだ
神話の世界に近い時代の天皇でした。

ふるさと但馬とのつながりは色々とあります。

垂仁3年のころ、新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)が来朝して天皇に神宝を奉じていま
す。
天日槍(あめのひぼこ)は但馬開拓の祖にして、出石神社の祭神でもあります。

丹後の元伊勢神宮
最初の皇后・狭穂姫命との間の子が、誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)です。
皇后の兄が謀反を起こし皇后は兄に従って焼死しています。

次に迎えた皇后や妃は、丹波、丹後の有力者の系譜から多く、北近畿の三丹地方とつながり
の強い天皇でした。
最初の皇后・狭穂姫命が亡くなってから10年後の垂仁15年、丹波道主王の女たちを次々に後
宮に入れます。

一番姉の日葉酢媛命を皇后とします。
皇后との間に皇女・倭姫命がいます。 倭姫命は垂仁25年、天照大神の祭祀をつとめる初代
斎宮に任じられます。
丹後にあった神社を伊勢の国に移し、天照大神の神魂を鎮座します。

伊勢神宮の始まりなのです。
そのため、丹後の神社は元伊勢神宮と呼ばれ、伊勢神宮のふるさとといわれています。

コウノトリと久々比神社
その頃の話です。
垂仁23年の冬、30歳になってもあまり言葉を発しない誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)と
天皇は宮殿の前に立ちます。

目の前を鵠(くくい)が大空を鳴きながら飛んでいきます。
その時、皇子が「これは何という名の鳥だ」とお問いになったのです。
まるで赤ん坊のような小さな泣き声しか出なかった皇子が、人並みの言葉をお話になられ天皇
は大変に喜ばれます。

家来の者に「誰かあの鳥を捕まえ献上しなさい」とおっしゃいました。
天湯河板拳(あめのゆかわのたな)という者が「私が必ず捕えて献上します」と申し出て、こ
の大鳥が飛びゆく国々を追って行きます。

但馬の国、豊岡の下宮で捕えたと言われます。
 
この大きな鳥、鵠(くくい)はコウノトリの古称なのです。
下宮は昔より鵠(くくい)村と言われ、たくさんのコウノトリがいました。この地に、木の神
「久々遅命(くくのちのみこと)」や天湯河板拳(あめのゆかわのたな)を祀る、久々比(く
くひ)神社ができました。

田道間守と中嶋神社
次は、菓子の神様と言われる田道間守(たじまもり)を祀る、三宅の中嶋神社の話です。
     
垂仁90年2月、垂仁天皇は常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を探してくるように、
天日槍の玄孫の田道間守に命じます。

10年の歳月を苦労して非時香菓を探し日本に帰ってきます。
世は、垂仁天皇の子、景行天皇の時代になっていました。景行元年3月、田道間守は非時香菓
8竿8枝持って、垂仁天皇が眠る陵(みささぎ)の前にぬかずきます。
    
常世国から帰ってきたが遅かった。
天皇は田道間守の帰りを待たずに一年前すでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵の前
で自殺してしまいます。

奈良市尼辻にある「宝来山古墳」が垂仁天皇陵です。
古墳の濠の中に小さな島があります。田道間守の墓と伝えられます。
濠の中にある島から、田道間守を祀る神社も「中嶋神社」と呼ばれているのです。
 
(中嶋神社、久々比神社の歴史や、地名大辞典を参考にして書きました) 

「ふるさとの話」 平成28年8月号

2019年11月18日 | ふるさとあれこれ
「暗い中歩いてて、クマに襲われたらどうするの」と家内が心配します。

日高町だって、先日三方地区の山手の方では「クマが出没してます。注意して下さい」の防
災無線もありました。

国府だって何年か前に、円山川の浅瀬を渡って来たであろうクマが出没したこともあり
ました。早朝の暗闇を歩くって心配ですね。

今朝のウォーキングは、熊には襲われませんでしたがムチャクチャ強風に襲われました。
ものすごい南風(みなみかぜ)です。

府市場の神社に向かっての南向きの一本道、あまりに強い南風で、体を前方に傾けても
全く倒れません。
歩を進めるにも一苦労です。

ああ、今から20年位前のことかな、大型店が出店し大判のチラシがバンバン入ったころ
の感じです。
町の電気屋さんは、今朝の向かい風に体を傾けて歩くような気持でした。

神社でUターンして帰り道、背に強風を受けますね。
地に足をしっかりつけて歩まないと、前に倒されそうな強風です。軽々と足が進みます。

つい先日、ふるさと但馬のある量販店が閉店撤退したと聞きます。
ぽつんぽつんと、同じような話を聞きます。

帰り道は、なにやら強風背に受けて足も軽やか、元気な町の電気屋さんがしっかり頑張ら
なきゃあならんな~と、そんな気持ちになりました。




ふるさとの話⑱ 8月号

4月のことです。
豊岡市民会館でNHKの公開収録「民謡魂・ふるさとの唄」がありました。
オープニングの舞台は、民謡・そうだろ節と神鍋民謡保存会の皆さんの華やかな踊りでスター
トしました。
今月は民謡「そうだろ節」のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

そうだろ節
日高町は神鍋高原一帯で、古くから歌い続けられている民謡に、♪そうだろ そうだろ 
そうだろや♪でおなじみの「そうだろ節」があります。

ほとんどの民謡は、その土地や生活の情景を唄います。
そうだろ節は少し違います。唄い始められたいきさつや、祝い歌ということで神鍋の情景や
生活を表す固有のものは、歌詞の中に入っていません。

但馬國気多郡栗栖野村百姓・吉兵衛
今から329年前の貞享(じょうきょう)四年に栗栖野村百姓、訴訟人吉兵衛を代表とする関
係者一同で、江戸奉行所に訴えを起こしています。

「恐れ乍ら書付を以て御訴訟申し上げ奉り候但馬國の内、小出備前守様御領分気多郡栗栖野
村と申す所の百姓共にて御座候。
恐れ乍ら御訴訟申し上げ候意趣が、同郡小出大隅守様御領分太田村・東河内村此両村と、
志わが野と申す草野への出入り仕り候故、御訴訟申し上げ候御事。・・・・・」と書き出し
た訴状で江戸まで直訴です。
 
作物を作る堆肥や、牛馬の飼料としての草原の価値は高く、山野の利用権のもめ事は頻繁で
した。
西気の栗栖野、太田、東河内、山田、万場、名色六ケ村が絡む「志わが野」の利用権紛争の
直訴が此の訴状です。

直訴から44年後
村の境界のもめ事や、神鍋を中心とした山林の所有権の争いが絶えず、流血の騒ぎさえしば
しばありました。
貞享、元禄、宝永、正徳、享保(きょうほう)と年代が変わっても、領主や代官所さらに江
戸奉行所への紛争、出訴、裁定が続きます。
 
再三にわたる実地検分の結果、百姓吉兵衛が直訴してから44年後の享保十五年、ようやく地
域の確定をみ、長い間の紛争も円満解決するに至りました。

神奈岐山(かむなぎさん)
山の境界争いでは村人も解決に悩みます。直訴とともに村での相談は続きました。
ある時は、「神奈岐山(かむなぎさん)」の神にお伺いを立てたといいます。

そうすると山の神から「村人仲よく大声で歌え」とのご神託があったと言われます。
そして、紛争解決の祝宴の席でだれ歌うともなく歌い出されたのが「そうだろ節」だと伝えら
れています。
その後めでたい歌として、結婚式や新築棟上げなどのお酒の席ではかならずといってよいほど
歌われてきました。

そうだろ節

  そうだろ そうだろ そうだろや
めでためでたの 若松さまよナ
  そうだろ そうだろ そうだろや
 枝も栄えるナ~エ 葉もしげるナ
  オ~サ そうだろ そうだろ

これの館は めでたい館ナ
 鶴がご門にナ~エ 巣をかけるナ

鶴がご門に 巣をかけよなればナ
   亀はお庭でナ~エ 舞を舞うナ

亀はお庭で 何というて舞うたナ
 お家ご繁昌とナ~エ いうて舞うたナ

お前見込んで さす盃をナ
 受けてこぼすなナ~エ 露ほどもナ

さした盃 中見て飲みゃれナ
 中にゃ鶴亀ナ~エ 五葉の松ナ

旦那大黒 お家は恵比寿ナ
 座る嫁ごはナ~エ 福の神ナ

お前百まで わしゃ九十九までナ
 共に白髪のナ~エ 生えるまでナ

岩に松さえ 生えるじゃないかナ
 添うに添われぬナ~エ ことはないナ

聞いてお帰り 荷物にゃならぬナ
 神鍋生まれのナ~エ そうだろ節をナ
  オ~サ そうだろ そうだろ
   そうだろ そうだろ そうだろや
 
(地元の方に聞いたり、「栗栖野村史誌」を参考にして書きました) 

「ふるさとの話」 平成28年7月号

2019年11月17日 | ふるさとあれこれ
今日は、石田梅岩の「都鄙問答」を読み返します。
なぜかって、昨日投稿しました平成28年6月号の「ふるさとの話・府中小学校」の
中で見つけたのです。

【明治三年に明倫舎が誕生する以前は、ふるさと但馬には、出石藩の弘道館、京極
藩の稽古堂、村岡藩の明倫館、生野代官所の導生堂や、石田梅岩の教えの石門心学
や、池田草庵の青谿書院などがありました】と書きました。

石田梅岩の石門心学を教える塾があったと書いています。

商人に伝える言葉としてとても有名な梅岩の言葉は、
「二重の利を取り、甘き毒を喰(くら)ひ、自死するやうなこと多かるべし」、
「実の商人は、先(さき)も立、我(われ)も立つことを思うなり」です。

この言葉が載っている「都鄙問答」を読み返したということです。

あっ、「都鄙」って「とひ」と読むそうです。
国語辞典を引きますと、ひ【鄙】いなか(田舎)と出ています。都鄙(とひ)とは、
都会と田舎と言う意味だそうです。

ここからの話が面白いのです。

門弟5人と城崎温泉に籠って、石田梅岩の修養書を合宿編集したそうです。
門弟たちは、田舎から上京して連れ立って但馬の名湯・城崎温泉を訪ね、問答を重ね
たのです。

門人の発案で、都会と田舎、どんな土地の者でもどんな身分の者でも問答をしようと
言う気持ちから、「都鄙問答(とひもんどう)」いう書名になりました。

城崎温泉で問答編纂された、とても有名な「都鄙問答(とひもんどう)」を読んで学
びます。




ふるさとの話㊸ 7月号

道の駅ようか但馬蔵(たじまのくら)で「やぶの本」というパンフレットを見ました。
養父のちょっと自慢ばなしとして「朝倉山椒」と、「やぶ医者の語源は養父」の記事が載
っていました。
今月は八鹿町の「養父医者」の話です。
クイズのヒントも隠れています。

子供のころ、大人から聞いたことがあります。
「へたくそなお医者さんのことを、やぶ医者っていうね。やぶ医者って八鹿の昔のお医者
さんのことだってね」、「やぶ医者ってのは本当はすごい名医のことを言うそうだね」と
話していることを聞きました。

やぶ医者の語源 
「やぶの本」という観光パンフレットにはこう載っています。
見出しに、やぶ医者の語源は「養父医者」と書いて、「やぶ医者」のモデルは、5代将軍
綱吉に仕えた、養父出身の医師長嶋的庵の一族だと伝えられています。
         
語源も「もともと養父にいる名医のことで、下手な医者という意味ではない」と松尾芭蕉
の門人が編纂した「風俗文選」には記されています。

江戸に出た長嶋徳元
寛永14年(1638)のころです。
今から380年前のことです。但州養父郡九鹿村から長嶋徳元という医師が、祐伯と立庵の
人の息子と一緒に、一家あげて江戸に出向きました。

天下の大老酒井忠清の知遇を得て、徳元と長男祐伯は武蔵金沢(横浜)に居を構え、新田
開発などをします。
荘子から由来する、泥の中で生きることを善しとした亀の「泥亀(でいき)」を号とした
祐伯の家系は、泥亀長嶋家として近郷に知られる素封家としての道を歩みます。

医道を進む長嶋立庵
次男立庵は、典薬頭半井家の後押しで医道によって幕府に仕えることとなります。
半井家の系字である「瑞」を得て立庵は瑞得と名乗り延宝8年(1680)に将軍綱吉にお目
見えします。

2年後、200俵10人扶持の旗本となり、綱吉の脈を診る奥医師に上りつめます。
立庵には丈庵、的庵(てきあん)の息子がいたが、早世した丈庵に代わって九鹿村の医師・
湯浅元友に養育されていた的庵が、江戸に呼び寄せられます。

名医としての名声は、徳元の孫に当たる的庵の時代にますます広がり、江戸の町は養父出身
の医者を「養父医者」としてとても評判となります。

但馬国の養父に住んでいました湯浅元友も評判の医師だったようです。
多くの医者の卵が弟子となり的庵一族は広がります。

名医のブランドがヘボ医者に 
そのうち「自分は養父医者の弟子だ」などと口先だけの者が表れるようになります。
「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ下手な医者を意味するよう
になっていきます。

名医のブランドだった「養父医者」は、いつしかヘボ医者の「やぶ医者」に変わっていきま
す。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉の門弟・森川許六(もりかわきょろく)の俳文集に、「薮医者ノ
解」という一節があります。
 『世に薮(やぶ)醫者と號するは。本(もと)名醫の稿なり・・・但(たん)州養父(やぶ)
  といふところに隠れて。治療をほどこし。死を起(をこ)し生に回(かえ)すものすくな
  からず。されば其の風をしたひ。其業を習う輩。津々浦々にはびこり。やぶとだにいへば。
  病家も信をまし。薬力も飛ぶがごとく・・・』と出ています。

長嶋家のその後
的庵の後は秀明、秀房、秀等、秀門と医者の家として代々続きました。
しかし江戸の町にも、八鹿の町にはもちろん跡はほとんど見当たりません。
 
八鹿町九鹿の禅寺・龍蔵寺の裏山に、的庵に命じられて子である長嶋秀明が建立したといわれる、
養父母の湯浅元友の墓があります。
ふるさと但馬に残る唯一の「養父医者・長嶋家」にかかわる跡と言われています。
 
長男・祐伯を祖とする泥亀永島家は、幕末、明治、平成の世まで続き、十六代永島家(途中で長
嶋から改名)当主、永島加年男氏(故人)が編纂した「泥亀(でいき)永島家の歴史」が、昨年
月遺稿集として出版されました(八鹿公民館所蔵)。但馬九鹿村から江戸に出た長嶋徳元一家の
詳しい話が載っています。

(養父市ホームページや「泥亀永島家の歴史」を参考にして書きました) 

「ふるさとの話」 平成28年6月号

2019年11月16日 | ふるさとあれこれ
今日は当店の定休日です。
「えっ、今日は土曜日ですよ、土曜が定休日ですか?」って声が聞こえてくるようですが、
街の電気屋当店は、第三土曜日を定休日にしているのです。

平成31年になってから、毎日曜日の定休日(祝日は休まない)に加えて、月に一日、第三
土曜日を定休日にしているのです。(ちゃんとお客さまには告知しています)

理由は色々ありますが、月に一回くらい土日の二連休があってもいいんじゃないかと、エイ
ヤっとユックリ休んでいます。

町の小さな電気屋が、月に一度とはいえ土曜日を休んじゃうなんて、ちょっと変わっている
でしょう。

アトムの本部で聞きました。
「請求書を受け取ったら、どんなところでも即日に支払い済ますって話。社長会で聞いたみ
んなはビックリしてましたよ」、
「そんな即日払いの店がアトムの中にあるんですね。変わった店があるもんですね」という
話です。

仕事をしてもらったら、設備屋さんだろうがクロス屋さんだろうが即日払い、アトムだって役
所から来たものだって、請求来たら即日払い。それが感謝の気持ちという話です。

町の小さな電気屋が、感謝の気持ちを即日払いにするなんて、ちょっと変わっているでしょ
う。

「こんな電気屋さんのチラシ、レベルが高過ぎ~。こんなこと書いてるチラシ見たことない
わ~。レベル高過ぎというか、変わっとるというか。真似できんわ~」という反応を聞きま
した。

「ふるさとの話」をチラシに載せたり、クロスワードパズルを載せたりしているチラシは、ほ
とんど見たことがないし、商売とかけ離れ過ぎてて変わっているなとビックリなのです。

町の小さな電気屋が、ない知恵絞って話やパズルを書くなんて、ちょっと変わっているでしょ
う。

三つの話はたしかに変わっています。
でも、どれもちゃんと考えた上に真面目にやってます。どれも、商売繁盛に大いに役立つ結果
が出ています。

それにしても、小さな街の電気屋さんとしてはちょっと変わった話です。




ふるさとの話⑯ 6月号

府中小学校の学校だよりは「明倫」と名付けられています。
府中新村(国府)に設けられた明治初年の学校「明倫舎(めいりんしゃ)」からとった
名前です。

今月はふるさとの小学校の話です。
クイズのヒントも隠れています。

府中小学校の校歌 
豊岡小学校の学校だよりは「ゆうあい」、出石の弘道小学校は「ひびき」、日高小学校は
「ひだか」です。
ひらがなのやさしい言葉に比べ、府中小学校の学校だよりの「明倫」はなかなか意味深い
言葉です。

当店は府中校区にあります。店の前は「国府地区公民館」、その向こうは「こくふこども園」
と「府中小学校」です。府中小学校は創立142年を数えるとても歴史ある小学校です。

府中小学校の校歌は三番まであります。
歌詞の先頭に「明倫」の言葉が出てきます。 

 三 求めて集う 明倫の 
   心にかよう 校風は   
   自主 敬愛と 協同の   
   ああこの道を ふみしめて   
   香りも高き せんだんの   
   希望に生きる 双葉こそ
   府中 府中 府中小学校

孟子の言葉、明倫 
「孟子」の「滕文公章」に明倫の語が出てまいります。
その中には「皆所以明人倫也、人倫明於上、」と、「人倫」と言う言葉で人の道を明らかに
しなさいと教えています。

「倫(りん)」とは「人のふみ行うべき道」と云う意味、「明倫」とは「人のふみ行うべき
道を明らかにする」ことです。
「明人倫也」の語から、明治初めに「明倫舎」と名付けられた学校が出来ました。

明治三年に明倫舎誕生
江戸時代には藩士の子弟が学ぶ「藩学」、庶民教育の「郷学」「寺小屋」「私塾」「心学舎」
等々がありました。
出石藩の弘道館、京極藩の稽古堂、村岡藩の明倫館、生野代官所の導生堂や、石田梅岩の教え
の石門心学や、池田草庵の青谿書院などです。
 
国府村には藩学はもちろん、郷学も学舎として名の知れた私塾もありません。
土居と上郷にわずかな寺小屋があったくらいでした。
 
明治に入ってからです。そのころの国府村は久美浜県でした。久美浜県知事・伊王野次郎左衛
門の勧めで、府中組内の村民有志が相謀りて組合組織で学舎を作ろうと考えました。

府中新村の村長だった長沢実二郎所有の家屋を借り受けて、明治三年(一八七〇)に開創され
ました。(国府村史より・・資料によっては明治元年)

学校としては全国的にも早い設立です。名付けて「明倫舎」の始まりです。
月に数回、出石藩の儒者を招いて漢籍の講義、素読、習字を教えました。

明治七年に府中小学校
明治五年の学制発布により、尋常小学校に引き継がれるまで学んだ生徒は男44人、女6人、府
中組内の子弟に教育の道を開いたと言われます。

豊岡には明治6年2月17日、出石は明治6年3月17日、日高は明治6年5月1日に、それぞ
れお寺などの家屋を借りて尋常小学校の開設です。
 
国府村には、明治7年7月15日に明倫舎の跡を校舎にして「府中尋常小学校」が誕生します。
現在も創立記念日は7月15日、教室二つ体育室二つに、先生2名生徒は男39名女9名の小学校が
誕生しました。

平成まで142年明倫舎の跡で誕生して7年の歳月、明治14年7月には現在地の野々庄村に校舎新
築します。
7月14日、男64人女24人の開校式です。
   
明治39年には、学校正門前に日露戦役凱旋記念碑が立ちました。
その頃には児童数288名にふくらんでいます。

さらに昭和14年の頃には児童数539名と大きく成長します。
その後、昭和16年には府中国民学校、昭和22年には国府村立府中小学校 昭和30年には日高
町立府中小学校、そして平成17年に豊岡市立府中小学校と名前が変遷して今に至っているのです。

(国府村史、日高町史や学校のホームページを参考にして書きました)