11月のこのごろは、スタートの時刻は真っ暗なのです。
でも、10分も歩くころ東の空から明るさが広がります。
朝のウォーキングは5時55分出発です。学校の外灯・LEDが輝いています。
「おや、今朝も早いな~」職員室に明かりです。
府中小学校の先生はとても早い出勤なのです。
春も夏も秋も、6時過ぎには出会います。寒くなった11月だって同じです。
日も明けていない真っ暗闇に、職員室の灯がともります。
ふるさとの話 ⑤ 7月号
今月は、日高町日置にありますJR「江原駅」の名前に由来する、ちょっと不思議ないい
話です。
クイズのヒントも隠れています。
七月十日に開業
明治42年7月10日、山陰本線は豊岡まで開通しました。
和田山でも八鹿でも豊岡でも、駅の名前は通常その土地の名前を付けています。
江原駅は不思議です。
日高村なのに、日置にあるのに、駅名は隣の「江原」の地名です。
近鉄「針中野駅」の話
大阪市東住吉区に近鉄「針中野(はりなかの)駅」があります。
大正のころ「中野鍼灸院」を営む中野さんが用地を寄付して駅がめでたく開業したそうです。
鍼灸(針)の中野さんから「針中野駅」と命名され、その後周辺の地名も針中野一丁目~
三丁目となりました。
感謝を込めた個人名の付いた駅の話です。
明治時代の鉄道建設
山陰線の京都ー園部間と、福知山線の大阪ー福知山間が、明治32年に相次いで開通します。
海軍の要港舞鶴とは、福知山と園部から綾部を経由して明治37年に開通しています。
後年、舞鶴から出石、豊岡へ抜けるコース豊岡線は実現することは出来ませんでした。
(のちに出石軽便鉄道が開通します。昭和4年から昭和19年まで江原ー出石間で運行しました)
山陽線の神戸姫路間が、明治22年に開通したあと、播但線は生野が明治28年、和田山が明
治39年に開通しています。
いよいよ日高村、国府村、八条村、豊岡町へと、線路が伸びてまいります。
八鹿ー豊岡間にもう一つ駅設置
和田山ー八鹿間が明治41年7月1日に開通します。
豊岡までの中間に、もう一つ駅を設けることになります。八鹿ー豊岡間の中間駅の候補地
です。
八鹿、豊岡間の距離は約17㎞、中間地点は国府村の松岡から土居にかけてのあたりです。
ここは八代(やしろ)谷、西気(にしのげ)谷に通じ、円山川に架橋すれば出石に通じる、
交通の要衝として最適の候補地でした。
ところが、地元の反対でこの案はお流れとなります。
地元の猛反対
第二案は、同じく国府村の府市場、府中新あたり、第三案は、日高村の現町道、江原ー東構
線の南側です。
どちらも住民の大反対で決まりません。
反対の理由は全国どこも同じことでした。
住民が夜逃げする。泥棒の侵入する足場になる。煤煙で桑の木が、牛が、農作物が被害受
ける。青年が堕落するというようなものでした。
田口幹太郎氏が土地提供
この情勢を深く憂えたのが、江原の田口幹太郎氏でした。
田口氏の所有する隣の地、日置一帯の田圃を駅用地に提供する。駅前の県道用地も寄付をす
ると申し出られたのです。
その他の地主も、駅前の造成に土地の寄付、大字江原村においては造成費を拠出、寄付して
これを援助しました。
新設駅の設置場所は大字「日置」であるが、駅の名前は隣の大字「江原」からとって「江原
駅」と命名されたのです。
日置は日高村の呼び名の元となった日置(ひおき)郷、高生(たこう)郷の由緒ある地名で
す。
江原は昔よりとても善き土地という意味の、善原(エバラ)より名が由来しています。
駅の名前は大いに貢献した「江原」に軍配が上がります。
「江原駅」は今もそのまま
明治42年7月10日、八鹿ー豊岡間が、同9月5日、豊岡ー城崎間がめでたく開通しまし
た。「江原駅」は田口幹太郎氏の絶大な貢献により、106年前の7月10日に開業するこ
とが出来たのです。
敬意を込めて「田口江原駅」でもよかったのでしょうが、当時も今もJRでは人の名前は駅
には付けないそうです。
その後、大正7年に駅名を「日高」とする請願が、鉄道院総裁や兵庫県知事など関係当局へ
繰り返しされたが、国鉄はあっさり却下、大字「江原」の絶大な貢献に敬意をもって、
「江原駅」の名称は守られているのです。(日高町史などを参考に書きました)
今月は、日高町日置にあるのに、隣の大字「江原」の名が付いた、「江原駅」のお話でした。
でも、10分も歩くころ東の空から明るさが広がります。
朝のウォーキングは5時55分出発です。学校の外灯・LEDが輝いています。
「おや、今朝も早いな~」職員室に明かりです。
府中小学校の先生はとても早い出勤なのです。
春も夏も秋も、6時過ぎには出会います。寒くなった11月だって同じです。
日も明けていない真っ暗闇に、職員室の灯がともります。
ふるさとの話 ⑤ 7月号
今月は、日高町日置にありますJR「江原駅」の名前に由来する、ちょっと不思議ないい
話です。
クイズのヒントも隠れています。
七月十日に開業
明治42年7月10日、山陰本線は豊岡まで開通しました。
和田山でも八鹿でも豊岡でも、駅の名前は通常その土地の名前を付けています。
江原駅は不思議です。
日高村なのに、日置にあるのに、駅名は隣の「江原」の地名です。
近鉄「針中野駅」の話
大阪市東住吉区に近鉄「針中野(はりなかの)駅」があります。
大正のころ「中野鍼灸院」を営む中野さんが用地を寄付して駅がめでたく開業したそうです。
鍼灸(針)の中野さんから「針中野駅」と命名され、その後周辺の地名も針中野一丁目~
三丁目となりました。
感謝を込めた個人名の付いた駅の話です。
明治時代の鉄道建設
山陰線の京都ー園部間と、福知山線の大阪ー福知山間が、明治32年に相次いで開通します。
海軍の要港舞鶴とは、福知山と園部から綾部を経由して明治37年に開通しています。
後年、舞鶴から出石、豊岡へ抜けるコース豊岡線は実現することは出来ませんでした。
(のちに出石軽便鉄道が開通します。昭和4年から昭和19年まで江原ー出石間で運行しました)
山陽線の神戸姫路間が、明治22年に開通したあと、播但線は生野が明治28年、和田山が明
治39年に開通しています。
いよいよ日高村、国府村、八条村、豊岡町へと、線路が伸びてまいります。
八鹿ー豊岡間にもう一つ駅設置
和田山ー八鹿間が明治41年7月1日に開通します。
豊岡までの中間に、もう一つ駅を設けることになります。八鹿ー豊岡間の中間駅の候補地
です。
八鹿、豊岡間の距離は約17㎞、中間地点は国府村の松岡から土居にかけてのあたりです。
ここは八代(やしろ)谷、西気(にしのげ)谷に通じ、円山川に架橋すれば出石に通じる、
交通の要衝として最適の候補地でした。
ところが、地元の反対でこの案はお流れとなります。
地元の猛反対
第二案は、同じく国府村の府市場、府中新あたり、第三案は、日高村の現町道、江原ー東構
線の南側です。
どちらも住民の大反対で決まりません。
反対の理由は全国どこも同じことでした。
住民が夜逃げする。泥棒の侵入する足場になる。煤煙で桑の木が、牛が、農作物が被害受
ける。青年が堕落するというようなものでした。
田口幹太郎氏が土地提供
この情勢を深く憂えたのが、江原の田口幹太郎氏でした。
田口氏の所有する隣の地、日置一帯の田圃を駅用地に提供する。駅前の県道用地も寄付をす
ると申し出られたのです。
その他の地主も、駅前の造成に土地の寄付、大字江原村においては造成費を拠出、寄付して
これを援助しました。
新設駅の設置場所は大字「日置」であるが、駅の名前は隣の大字「江原」からとって「江原
駅」と命名されたのです。
日置は日高村の呼び名の元となった日置(ひおき)郷、高生(たこう)郷の由緒ある地名で
す。
江原は昔よりとても善き土地という意味の、善原(エバラ)より名が由来しています。
駅の名前は大いに貢献した「江原」に軍配が上がります。
「江原駅」は今もそのまま
明治42年7月10日、八鹿ー豊岡間が、同9月5日、豊岡ー城崎間がめでたく開通しまし
た。「江原駅」は田口幹太郎氏の絶大な貢献により、106年前の7月10日に開業するこ
とが出来たのです。
敬意を込めて「田口江原駅」でもよかったのでしょうが、当時も今もJRでは人の名前は駅
には付けないそうです。
その後、大正7年に駅名を「日高」とする請願が、鉄道院総裁や兵庫県知事など関係当局へ
繰り返しされたが、国鉄はあっさり却下、大字「江原」の絶大な貢献に敬意をもって、
「江原駅」の名称は守られているのです。(日高町史などを参考に書きました)
今月は、日高町日置にあるのに、隣の大字「江原」の名が付いた、「江原駅」のお話でした。