「ふるさとの話」 平成27年7月号

2019年11月05日 | ふるさとあれこれ
11月のこのごろは、スタートの時刻は真っ暗なのです。
でも、10分も歩くころ東の空から明るさが広がります。

朝のウォーキングは5時55分出発です。学校の外灯・LEDが輝いています。

「おや、今朝も早いな~」職員室に明かりです。
府中小学校の先生はとても早い出勤なのです。

春も夏も秋も、6時過ぎには出会います。寒くなった11月だって同じです。
日も明けていない真っ暗闇に、職員室の灯がともります。




ふるさとの話 ⑤ 7月号

今月は、日高町日置にありますJR「江原駅」の名前に由来する、ちょっと不思議ないい
話です。
クイズのヒントも隠れています。 

七月十日に開業
明治42年7月10日、山陰本線は豊岡まで開通しました。
和田山でも八鹿でも豊岡でも、駅の名前は通常その土地の名前を付けています。
           
江原駅は不思議です。

日高村なのに、日置にあるのに、駅名は隣の「江原」の地名です。

近鉄「針中野駅」の話

大阪市東住吉区に近鉄「針中野(はりなかの)駅」があります。
大正のころ「中野鍼灸院」を営む中野さんが用地を寄付して駅がめでたく開業したそうです。
 
鍼灸(針)の中野さんから「針中野駅」と命名され、その後周辺の地名も針中野一丁目~
三丁目となりました。
感謝を込めた個人名の付いた駅の話です。

明治時代の鉄道建設
山陰線の京都ー園部間と、福知山線の大阪ー福知山間が、明治32年に相次いで開通します。
海軍の要港舞鶴とは、福知山と園部から綾部を経由して明治37年に開通しています。

後年、舞鶴から出石、豊岡へ抜けるコース豊岡線は実現することは出来ませんでした。
(のちに出石軽便鉄道が開通します。昭和4年から昭和19年まで江原ー出石間で運行しました)

山陽線の神戸姫路間が、明治22年に開通したあと、播但線は生野が明治28年、和田山が明
治39年に開通しています。
いよいよ日高村、国府村、八条村、豊岡町へと、線路が伸びてまいります。

八鹿ー豊岡間にもう一つ駅設置
和田山ー八鹿間が明治41年7月1日に開通します。
豊岡までの中間に、もう一つ駅を設けることになります。八鹿ー豊岡間の中間駅の候補地
です。
 
八鹿、豊岡間の距離は約17㎞、中間地点は国府村の松岡から土居にかけてのあたりです。
ここは八代(やしろ)谷、西気(にしのげ)谷に通じ、円山川に架橋すれば出石に通じる、
交通の要衝として最適の候補地でした。

ところが、地元の反対でこの案はお流れとなります。

地元の猛反対
第二案は、同じく国府村の府市場、府中新あたり、第三案は、日高村の現町道、江原ー東構
線の南側です。
どちらも住民の大反対で決まりません。
 
反対の理由は全国どこも同じことでした。
住民が夜逃げする。泥棒の侵入する足場になる。煤煙で桑の木が、牛が、農作物が被害受
ける。青年が堕落するというようなものでした。

田口幹太郎氏が土地提供
この情勢を深く憂えたのが、江原の田口幹太郎氏でした。
田口氏の所有する隣の地、日置一帯の田圃を駅用地に提供する。駅前の県道用地も寄付をす
ると申し出られたのです。
その他の地主も、駅前の造成に土地の寄付、大字江原村においては造成費を拠出、寄付して
これを援助しました。
 
新設駅の設置場所は大字「日置」であるが、駅の名前は隣の大字「江原」からとって「江原
駅」と命名されたのです。

日置は日高村の呼び名の元となった日置(ひおき)郷、高生(たこう)郷の由緒ある地名で
す。
江原は昔よりとても善き土地という意味の、善原(エバラ)より名が由来しています。
駅の名前は大いに貢献した「江原」に軍配が上がります。

「江原駅」は今もそのまま
明治42年7月10日、八鹿ー豊岡間が、同9月5日、豊岡ー城崎間がめでたく開通しまし
た。「江原駅」は田口幹太郎氏の絶大な貢献により、106年前の7月10日に開業するこ
とが出来たのです。
 
敬意を込めて「田口江原駅」でもよかったのでしょうが、当時も今もJRでは人の名前は駅
には付けないそうです。
 
その後、大正7年に駅名を「日高」とする請願が、鉄道院総裁や兵庫県知事など関係当局へ
繰り返しされたが、国鉄はあっさり却下、大字「江原」の絶大な貢献に敬意をもって、
「江原駅」の名称は守られているのです。(日高町史などを参考に書きました)

今月は、日高町日置にあるのに、隣の大字「江原」の名が付いた、「江原駅」のお話でした。